真理の花、空想の蝶
本能は、欲望を静かに燻らせる炉である。
理性は、その煙の奥に潜む真実を見定めるための、澄んだ眼差しである。
生のために知るのではなく、知るために生きる。
いや、むしろ———知ることそのものが、生きるという営みに他ならなかった者たちがいた。
彼らは、幾度となく己が思索と探究を研ぎ澄まし、千変万化の刃となる言葉と概念を磨き続けた。
その果てに在ったもの。
それこそが、古今を通じてなお色褪せぬ、人という存在に与えられし普遍の力。
———“智”。
彼らはそれを、そう呼んだ。
「広がる雲は王衣の如く、侍らせる空は雄大なる
風に金緑の髪を遊ばせながら、少女はひとときの沈黙と共に、静かにカップを唇に寄せた。
花の香気を湛えた、透き通るような紅。
その静謐な液面に、唇が触れるたび、かすかな波紋が広がる。
まるで万象を魅了するその唇が、紅茶にさえも恋を語りかけるかのように。
ただ、そこに在るだけで———世界は塗り替えられる。
凡百の風景は彼女を中心に再編され、比類なき絶景として立ち上がる。
その事実ひとつをとっても、彼女がこの世に生まれ落ちた理由として、過不足なき証明となろう。
“智”と並び、人が古来より追い求めてやまぬ至高の命題。
———すなわち、美。
それを、言葉ではなく、体温と呼吸の中で体現するようにして、彼女はその場に確かな「価値」をもたらしていた。
「見える、見えるぞ! 此方を…否吾輩を覗く巨神の姿が! 黄金の瞳にで世界を照らしその眼差しにて時を進める支配者の姿が! 己の目に映らぬ物は何人もありはしないという観測者の姿が! であるならば神も見逃すであろう地の底に眠るは博愛の神も嫌悪せし天敵、唯一魔王の他に神の言葉を以て反逆者と定められた大魔、即ち龍に違いない!! 見える見えるぞ! 吾輩にはその深淵にて虎視眈々と目を光らせる者の姿が見えているぞォ!!!」
智と美。
才色兼備という称賛さえ鼻で笑い飛ばす、余り在る恩寵を永きに渡り奮い続ける少女———名を《賢者》メアリス・テア・ウェリタヴェーレ。
暗黒を切り開いた英雄が一人である。
そんな彼女の目の前には———
「美しい、美しい! 実に美しい!! ああこれぞ
———変態が居た。
意味があるのかないのか判然としない昂揚を、ほとんど奇声と呼んで差し支えない音に変えて叫びつつ、筆を振るうその男の姿は、到底正気のそれとは思えなかった。
そして恐らく———その印象は、おおむね正しいと、メアリスは冷ややかに俯瞰していた。
今しがたまで理性と気品を湛えていた彼女の眼差しは、どこか腐ったように沈み、よく整った顔立ちもまた、まるで感情という名の仮面を剥がされたかのように興醒めきっていた。
「……もう少し、静かに描けないものかね」
小一時間ばかり、己に忍耐を課していたメアリスだったが、ついに堪えきれず、ぽつりと不満を漏らす。
奇人、変人であることは予測の範囲だったが———まさか、ここまで“奇怪な変態”だとは、想像の埒外である。
出会って間もない人物が、筆片手に永遠と発狂している光景など、まともな精神の者ならば、眺めているだけで精神に翳が差すというものだ。
そしてその混沌の中心、己が世界に陶酔しきった“稀代の芸術家”にして“美の探究者”を自称する男———グレッド・レイズドロール・エスタロッサは、傍らから届いたその声に、ようやく現世へと意識を引き戻されたかのように、ゆっくりと振り返った。
「———おっと失敬、これは失敬。ふーむやはり熱が籠ると周りが見えなくなってしまう…吾輩二度目の反省である。しかし許せ賢者。
「それはとても素晴らしい事だ。どうぞじっくりと時間をかけてもらって大変結構。だが私は筆を動かすのか口を動かすのかどちらかに絞れないのかと聞いているんだよ」
会話が噛み合っていないことなど、この際どうでもよかった。
むしろ本音を言えば———できることなら黙って手を動かしてほしいと、そう切に願っている。
この男、いったい何に憑かれているのか。
———いや、ひょっとすると、美という名の悪魔にでも取り憑かれているのかもしれない。
だとすれば、実に厄介な話だ。
あいにく、彼女は悪魔祓いを専門としてはいない。
それに、もしこれが生まれついての性質だというのならば———哀れなことに、もはや“彼自身”を祓うほか、救いの術は残されていないのだろう。
救済か、断罪か。
その境界線すら曖昧なまま、彼は今日も筆を走らせ、叫び、己の狂気と美とを一心に燃やしている。
「残念無念誠に申し訳ないが吾輩の叫びは魂の叫び。肉体も声も魂も全てを用いてこの
「このやりとりも三回目だね。それは風流じゃなくてただの奇行だ。風情は十人十色であることは認めるが、だからこそ君以外の九人には配慮したまえ。侍女達が怯えて近寄らなくなってしまっているじゃないか」
目配せる先には変態の狂気に当てられ、盆を両の手に持ったまま固まっている侍女の姿がある。
己の役割を果たすべく踏み入ろうとするも、まるで見えない壁でもあるかのようにその一歩が出ない様子が遠目からでも確認できる。
見上げた志だと称賛すべきか、それとも同情すべきか。
否、やはり控えめに言って不憫であった。
「…ふむ、どうやら吾輩の美しい姿を敬遠してしまっているらしい。しかしそれも仕方のないことである。熱意を持って取り組む姿勢は時に鬼神にも見紛う気迫を纏うもの。美には狂気が伴うもの。狂気こそが吾輩にこの世ならざる美を魅せるのである。嗚呼、美とは時に罪にさえなり得るとは…うーむ」
だが、聞く耳など最初から持ち合わせていなかったのだろう。
男は曖昧な理論を捲し立てたかと思うと、再び己の内なる世界へと没入していった。
まるで現実との境界など初めからなかったかのように———音もなく、違和の中へと沈んでいく。
或いは、こうした出来事が積み重ねられ、常態となり、ついにはこの“化け物”を育て上げたのかもしれない。
狂気とは、積層の果てに生まれる病であり、また、磨かれた個性という名の獣でもあるのだから。
メアリスの記憶にも、奇天烈としか形容し難い人物たちが幾人かいた。
“頭を冷やす”と称して自らの身体から血を抜く者。
“意識の整理”のために、目玉を口の中で転がす癖を持つ者。
———それらに比べれば、まだ理屈の片鱗が見えるというだけ、いくらか救いがあるのかもしれない。
このままでは、その異様な光景が後々まで尾を引く傷になりかねない。
そう危惧したメアリスが、ようやく本気で動こうと腰を上げかけた、その刹那。
彼はふいに、ひとつ深い息を吐くと、まるで終章の一節を記す詩人のように、最後の一筆を静かにキャンバスへと落とした。
「……漸く完成かい?」
まるで残心。
得物を振り抜いた剣士のように、静かにその場に立つ彼の姿は、先ほどまでの彼とはまるで別人のように映った。
沈黙の時間は、ほんの数秒に過ぎなかった。
だが、その短い沈黙に何かが宿っていたようにも思えた。
やがて彼は、描き上げたらしい一枚を手に取り、無言のままメアリスのもとへと歩み寄る。
「……同じ景色を描いてばかりのように見えるが」
そう言ったメアリスの視線は、彼の足元に落ちていた。
床に散らばる幾枚もの絵。
窓外の風景をなぞったかのような写実画もあれば、筆致も色彩も混沌とした抽象画、さらには明らかに現実には存在しない魔物や人影が描き込まれたものまである。
いずれも一見すればまるで別の世界を描いているかのように見えるが、彼はそれらすべてを———同じ窓から見える景色として描いていたのだ。
「……これが、君にはこの景色が、こう見えているのかい?」
そのうちの一枚を手に取り、光に透かすように掲げる。
そこに侮蔑や嘲笑の色はなかった。ただ、純粋な「不思議」が胸に芽生えていた。
魔術に関しては、それなりの心得があると自負している。
だが芸術となると、途端に門外漢だ。
けれども———己の知識欲というものは、どうやら魔術の系統にのみ向けられるものではなかったらしい。
目の前にあるものが、何故だか、否応なく興味を引いたのだ。
彼女が問いかけると、彼は特に気を害するでもなく、穏やかに答えを返した。
「この世の全てには“色”がある」
彼は言葉の背後にある意図を読み取ろうとするメアリスの視線を受け流しながら、静かに一枚の絵を差し出す。
それは、すでに彼の中で完結した世界だった。
「……」
何と呼ぶべきだろうか。
それはあまりにも———あまりにも不調和で、なおかつ、抗いがたく美しかった。
まるで「違和感」という語そのものに、かりそめの命が宿ったかのような、奇妙な情景。
一本の草は、右方から吹きすさぶ風に身を折っていた。
だがそのすぐ隣の草は、まるで別の法則に従っているかのように、逆巻く風に煽られていた。
空は二重の貌を持つ。穏やかにたゆたう白雲の裏側で、黒雷の雲がうねり、電光の鎖を孕んだそれは、まるで空全体を呑み込まんとする海のように、どこまでも不穏だった。
———そして、その光景すべてを俯瞰するかのように、天のただ中に燦然と輝く、一つの黄金の眼。
それは人智の及ばぬ高みから、世界をただ見つめていた。無言のまま、全てを看破するかのように。
果たして、これが彼の言う「刹那の美」なのか。
それとも、彼にとってこの世のすべては、ただ芸術の誘因に過ぎぬということなのか。
「芸術に知識は不要だ。芸術とは貴公らの求める世界の真理とは程遠い、個の
彼の言葉には、確かに熱が宿っていた。
それは炎のような激情ではなく、熾火のように内に潜む、決して手放せぬ何かを抱え込むような、静かで確かな熱量。
言葉のひとつひとつが、譲れぬ理念を抱きしめる掌の圧のように、こちらへと滲み出ていた。
そのとき、ふと悟ったのだ。
彼の口から語られる「美」とは———それは、自らが命を懸けて求める「智」と、何ら隔てのないものなのだと。
「———貴公らが真理の中に咲く花を探し求めている時、吾輩は空想を舞う蝶を眺めているのである」
燃え立つ意志の温度は、道を異にしても、等しく魂を焦がすのだ。
———————
—————
———
「付き合っていただいたこと誠に感謝する。吾輩、感無量である」
「気にしないでくれたまえ。私から申し出たことだしね」
庭先のテーブルを挟み、ひとつ深く息を吐く。
グレッドの「好きにすると良いのである」との放言に続き、四散した絵の数々は、怯えた様子の侍女たちによって慎重に回収されていった。
つくづく、哀れなことだ。
この場にいる全員が、誰かの狂気に巻き込まれたという一点で、等しく不憫である。
「この手に収まる感覚。可憐、純潔、柔らかな丸みを全面に推しつつも損なわれない機能美。美しい、実に美しい。まるで傾国の姫の如く、それこそ惚れてしまうほどに。うむ、素晴らしい、美しい」
向かいの席には、満足のいく“美”を描ききった達成感に包まれたのか、先ほどまでの狂騒が嘘のように静まり返ったグレッドが、威風堂々と鎮座していた。
ただし、その落ち着きには———言葉にしがたい種類の熱が、微かに残響している。
それは火ではない。氷でもない。ただ、内側から微かに燻るような、奇妙な熱量。言うなれば、燃え残った詩人の魂の残滓である。
とはいえ、その姿は到底正常とは呼び難い。
皿のように目を見開いたまま、何かを念じるようにぶつぶつと呟きつつ、ティーカップの中をねっとりと覗き込んでいる。
それも、まるで液面の奥に異界でも広がっているかのような執着ぶりで、舐めるような視線を一ミリたりとも逸らそうとしない。
———心底、不審である。
だが、相手は幸いにも無機物だ。
人に向けられていないだけ、まだ救いはある。
……もう、何も言うまい。
メアリスは小さくため息を吐く。
その表情には、諦念とも達観ともつかぬ、奇妙に落ち着いた憐れみが漂っていた。
やがて、一頻りカップを鑑賞し終えたグレッドは、陶酔の余韻を纏ったまま、それを静かに小皿に戻した。
そして、唐突に、視線を彼女へと向ける。
「ところで貴公、吾輩に聞きたいことがあるのだろう」
その一言に、メアリスはわずかに眉を上げた。
驚愕というほどではない。けれど、予想よりも一歩深く踏み込まれたことに対する、静かな驚きが確かにあった。
同時に、それがこの男にとっては、自然な帰結であったのだろうとも感じられた。
問いの中に混じる確信———まるでこちらの思考の縁を撫でるような声色。
この奇妙な芸術家は、意外にも、人の思考の綻びを見抜く術を心得ているのかもしれない。
しばしメアリスは言葉を選びかけ、口を閉じたまま黙考に耽る。
その沈黙を、グレッドは遮らない。ただ、正面に座したまま、微動だにせず彼女を見つめていた。
その瞳には感情の色がない。
熱も冷たさもない。ただ、不可解な透明がそこにある。
読めないのではない。読む意味があるのかどうかすら判然としない———そんな空虚な混沌が、彼という人間を形作っている。
好奇か、無関心か、それとも何かしらの芸術的選別か———測りかねるままに、ただ異様な静けさが流れる。
「……そうだね」
とはいえである。
この男の前では、下手な駆け引きも慎重な選別も、さして意味を持たぬ気がした。
どこか焦点のずれた世界で生きるこの人物に対して、常識的な応対を重ねたところで、返ってくるのは常識の範疇にはない言葉ばかりだろう。
ならばきっと、この勘繰りは徒労に終わる。
そう思えたのは諦めではなく、依然とした余裕と、ごく僅かな好奇の芽が心に宿っていたからかもしれない。
「“開闢の門”という組織を知っているかい?」
単刀直入。
切り出すメアリスの双眸が虹を射抜く。
問いかけの直後、紅い水面が揺れた。
閑散とした空気の中、庭を吹き抜ける風の音が遠のいて行く。
そして———
「知らん」
呼吸をするように一言、彼はそれだけを言った。
躊躇いも飾り気もなく、そこにはやはり、漂白とした表情があった。
「そうかい」
だが、この答えには、メアリスも大きな意味を求めていない。
ただ一点、どうしても見逃せない物を彼が持っていた。
それだけである。
「だが随分と荘厳な響きだ。詳しく伺っても良いかね」
何処かに彼の興味を引き寄せるような要素があったのだろうか。彼は背もたれに預けていた身体を起こし、身を乗り出す。
「なんてことはない。以前王都を襲った連中だよ。かなり手を焼いてね」
そのような言葉では到底言い表せない惨劇であったが、今ここで推して語ることではないだろう。
あるいは“熱”を込めて声を荒げれば、彼も耳を傾けるのだろうか。
隔絶した世界観を持つこと男があの惨劇を目の当たりにしたのならば、一言目には一体何を溢すのか。
理屈もなく、言葉にもならぬ小さな好奇が、ふと脳裏を過ぎる。
「ふむ、なるほど。では貴公のその身体も、その者たちとの邂逅によって“得た”ということか」
だがそんな興味も、彼の言葉によって霧散する。
彼女は一瞬、彼の言わんとすることが理解できなかった。
「……してやられたと言うべきだが、まあ間違いではないかな」
自嘲めいた笑みが、唇の端にだけかすかに浮かぶ。
彼女の言葉にはどこか突き放した響きがあったが、それは感情を封じる術を心得た者の声音だった。
誇りの代償、あるいは油断という愚かしさに与えられた正当な報い———メアリスにとって、コレは久方ぶりの敗北、その証である。
彼女は視線をカップに落とし、残り少ない紅茶の波紋を眺めた。
そこに浮かぶものは何もない。
ただ、鍛え上げた魔術の上で胡座を組んでいた自身の慢心と油断だけが波紋の奥に薄く揺れている。
グレッドの言う「得たもの」という言い回しは、どうにも奇妙な表現であった。
皮膚の裂け目さえも、魂の形に含まれるべきだと言わんばかりの、あまりに“芸術的”な感性。
到底受け入れがたい解釈であるはずなのに、不思議と完全には否定できなかったのは、言葉そのものに宿る力か、あるいは彼という存在の気配のせいか。
静寂が、再び二人の間に落ちる。
だがそれは重苦しい沈黙ではなかった。小鳥の囀りも場違いに思えないのがその証左か。
メアリスがカップを静かにソーサーへ戻すと、淡く陶器の鳴る音が空気を震わせた。
ふと、グレッドが顔を上げる。
「たとえば———」
そうして、何の前触れもなく、彼は“語る”。
「———崩れかけた彫像のひび割れにこそ真の輪郭を見ることがある。整わぬ形、均されぬ色、醜を冠せられたものたちは、常に世界の周縁に追いやられながらも、そこでなお声なき叫びを放ち続けている。それは完全そのものよりもなお真摯な叫びだ。欠けているからこそ見える全体がある。歪であるがゆえに、そこには秩序を越えた律動が生まれる。人はしばしば“整わぬもの”を恐れ、“調和なきもの”に顔を背ける。だが自然は決して完全を求めて姿を整えたりはしない。朽ちた肉、崩れた壁、呻くような色彩の奔流にさえ、この世界の深奥が顔を覗かせることがある。完全こそが常に清らかであるとは限らず、また不完全と呼ばれるものが卑小であるとも限らない。あらゆる形は存在の証であり、あらゆる形にはそれをこの世に留めんとする力がある。“冒涜”も“不完全”も、所詮は知性が見出す虚構の瑕疵だ。己の求める所に“美”が存在しないなど何ら不思議なことではない。それを見出す目を持つ者だけがようやく気づくのである。醜悪と揶揄されど、この世において究極的に“醜悪”なものなど存在しない、と」
長々と語り、調子を整えるように短い息を吐く。
藪から棒に口を開いた彼は、金緑をその瞳に映しながら、つまり———と、最後にこう言った。
「———貴公は尚も、美しい」
相変わらずな公然とした態度から発せられる、銅像を小突いたときにも似た硬質な声音が庭に響く。
そういうことではない、そういう話ではない。
そんな言葉も、返答も、ポカンとしたまま咀嚼しきれていない彼女からは返ってこなかった。
ともすれば、それは彼なりの擁護あったのだろうか。
ならば少しズレているその感性と導き出された結論のは、この短い時間で感じた彼らしさでもあり、正解なのかもしれない。
「つい先ほど、出会って間もない友人から口説かれたばかりなんだが……まあ、ありがとう」
暫しの間を置いて、軽い冗談と礼を述べる。
苦笑が混じっているのは、仕方ないと割り切って欲しい。
会話の悉くがうまく噛み合わないというのに、まるで波で押し流されるように進行して行くのだから無理もないだろう。
しかしながら他の狂人とは良くも悪くも、一味も二味も違うと感じさせられるのは男の異常か個性か、その両方か。
この独自の世界観という名の荒波に、自身はもう少しばかり晒されるのだろう、と。
得も言われぬ予感がしたことは確かだった。
「“
「また随分と古い言葉だね。火の都ロメネス辺りだったか」
「うむ。人は、自然と異なり、自ら美しく在ろうとする意志を持つ者である。生のためでも、死のためでもない。遍く万象に身を窶し、その存在すら表現と成し得る。己を影にも光に変えることができるのである。だがそのためには一つ、ただ一つ、たった一つ。この瞬間、この在り方において、自らが世界で最も美しいのだという確信を持たねばならない。それこそが人が人であるという、最も高貴な証明なのだから」
それは神や精霊にも通ずる、世界を外から眺める超常者の如く。何人も踏み入ること許さぬ、確固たる思想の領域。
ある司祭は神の教え———聖書を一片の傷も許されない要塞と表現したという。
彼の不可侵を思わせる絶対的な世界観の断片が、その台詞からは垣間見えた。
やはり探究者———もとい、変人とはかくも生き様が似通うものなのかと、納得ともまた違う、腑に落ちる感覚を覚える。
同時に、彼女は周囲から見れば自身も彼のような、それこそ嵐の如く千早振る姿に映っているのだろうか、と。
そんな微かな警鐘が脳内で鳴り響いた気がした。
「そうか、そうか……君は、そう捉えるか」
「当然である」
あまりに堂々とした彼の前、メアリスの心中では沸々と疑念が湧いては溶けていく。
けれども、そこに答えは一つとしてない。
賢者などと称えられるものが聞いて呆れると、そう自虐するも、その
メアリスはどこか遠くを見る目で、ぼんやりとグレッドを眺めた。
「吾輩からも良いかね」
「答えられる範囲なら」
ならば問題ない、と彼は続ける。
「———アリア・アルブレイズ。彼女の持つあの“白”こそが《勇者》が《勇者》たる所以か」
メアリスはその問いに、ただ一度、瞬きをした。
それは、疑問というには整然が過ぎていた。
空気の継ぎ目のように自然体で平坦な声色には、しかし純粋な興味だけが静かに煮立っている。
凪に混じる微風を聞き分けるように、その言葉の輪郭を確かめる。
慎重とは違う、ごく冷静な一拍の間。
余裕はある———問いの裏に害意がないことは、とうに感じ取っている。
それでも、彼がそれを口にすることの意味を、一度だけ胸の奥でなぞる。
「君の言う“白”が何を指すのかは分からないが……」
一呼吸を置いて、彼女はゆっくりと視線を逸らさずに、整えた答えを返す。
「魔力のことを言っているのならば正しく。《
それは彼が望んだ言葉だったのか、察するにはあまりに機微に乏しい。
景色一つで感情が剥き出しになるというのに、こういう部分はどうにも人間味が感じられず、チグハグだ。
間も無く、途端に彼の眼に怪しい光を灯る。
「勇者の魔力……かの高名なる英血の具現であるな。確かに、この眼に映った色は目を細めてしまいたくなるほどに美しかった。まるで彼女の正義を賛美しているかのように」
「どうだろうか。あの魔力自体には…それこそ
「あの子、とは…最初の《勇者》か。かつての旅、救世の英雄譚、貴公の記憶に映る景色、さぞかし美しいのだろう。是非ともこの手で描きたいものだ。かつて厄災により人類が混沌の渦に呑まれんとする中、さながら神の慈悲を体現するが如く人界へと舞い降りた救世主。天より溢れし恵みの雫。砂漠に顔を出す希望の新芽。誰も彼もがかの英雄に光を見出した。この人々が織りなす黎明と開闢の物語、神の五指と、全人類による世界の再誕。まるで御伽、まるで夢幻…! しかし、否だからこそ…! この一連の美しい歴史は尊く、美しく美しい! 世界の記憶を本にできるならば、吾輩は世界が終わるその時までこの物語から目を離すことはできないだろう!! 嗚呼美しい、実に美———!!」
「分かった、分かったからもう少し静かにしたまえ」
庭が開くて助かった。
友人が褒められて悪い気はしないが、己の熱意を天に座す神に届けんとするように吼えるのはやめてほしい。
彼の情熱に晒されながら、メアリスは額に手を当てる。
その声には、軽い呆れと、ほんの少しの慣れ———あるいは諦観というべきか———が滲んでいた。
グレッドは最後の一節を、もはや言葉というより詩句のように唱えると、椅子の背にゆっくりと体を預けた。
そうして、まるで何事もなかったのように襟元に手をやり、シャツの皺を整える。
「もう、良いかな」
「うむ、大変満足したのである」
どこか満足げな表情が、そこにあった。
彼はテーブルの上に置かれたカップを取り上げる。
まだ温もりの残る紅茶を一口啜ると、深く息を吐く。
「それはよかった」
風は、未だ澄んでいる。
次第に独壇場によって生まれた熱狂が覚め、再び場の空気が整う。
「質疑の応酬となってすまないが、私からも最後に一つ、良いかな?」
「構わん」
それを見計らったメアリスは、改まった様子で再度、切り出した。
「では遠慮なく」
ゆっくりと、丁寧に、しかし俄かに。努めて冷静に。
「君の持っているソレは———一体何かな」
そう、問うた。
彼女は彼が此処にやってきた時、彼をその目に収めた時から、とある一点においてどうしようもなく無視できないことがあった。
それこそが、彼が“持っていた物”の正体だった。
「ふむ、奇遇であるな。実は吾輩もコレに関して、貴公には用があった」
彼女の放つ気配は、一転して、一つ間違えば威嚇と受け取られてもおかしくはなかった。
まるで、テーブルの下で刃を研ぐ音が聞こえてくるような、張り詰めた沈黙。
しかしそれを、彼はものともせず、寧ろその空気すらも好機とばかりに、持参した荷をさらりと引き寄せた。
「武器屋の店頭に飾られていたのだ。店主に尋ねたところ、これは英雄の宝具であると、誇らしげに嘯いていた。貴公らのことも、その折に聞いた。そしてこの、美しき庭園の存在までも……」
静かに紡がれる言葉の陰で、彼女の視線はふたつに割れていた。
耳は男の語りを捉えつつも、意識の核心は既に彼の手元———解かれ始めた荷物へと深く沈んでいた。
数は、少ない。
仕事道具と見受けられるキャンバススタンド、絵筆、絵具———どれも彼に相応しい、控えめで穏やかな品ばかり。
だがその中に一つ、明らかに異彩を放つ何かがあった。
やがて、その色と輪郭が明瞭に浮き上がる。
それはまるで、誰の手も触れぬうちから、自らの存在を告げているかのようだった。
見覚えはある。
否、それ以上に、記憶の奥深くにまで痕を残す、決して忘れられぬ輪郭。
賢者の眼が、引き寄せられる。
思考よりも先に、意志よりも鋭く。
「賢者」
ソレは男が先ほど熱を込めて語った、“色”を、まさしくそのままに写し取っている。
ソレは、人類の栄光の軌跡を、沈黙のうちに纏っていた。
光沢は語らず、ただ在ることで、かつての偉業の記録を照らしていた。
「貴公にはこれが———」
そこに在るのは、名のもとに歴史を繋ぎ、意味のもとに力を帯びた宝。
「———何に見える」
唯一絶対の宝剣———《
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