……はっ？

　リタって私の名前なんだけど、なんで名前の頭に所有格がついとるんだ？

　頭の中に、疑問符が大量に浮かぶ。

　陽キャ代表な主人公の変貌と謎の発言に、言葉を失っている私に向かって、ジークは大股で近付いてきた。

　私と再会し、少しだけ表情が本来の主人公寄りに戻ってきたためか、お客さんたちも、一年前に活躍していた勇者であると気付いたみたい。

　同じテーブルにいる者同士で、

「あれ、ジークフリートじゃないか？」

「話聞かなくなったから、死んだと思ってたぞ？　以前は本当に魔王を倒すんじゃないかと噂されるほど、快進撃を続けていたのに……」

　と、ジークを見ながらコソコソと話している。けど皆お酒が入っているせいで、全然声が潜められて無くて、筒抜けなんだけど。

　でもジークは周囲の反応には目もくれず、真っ直ぐ私の元に向かってくると、お酒のジョッキを持っている私の手首を掴んだ。勢いよく掴まれたせいでジョッキのお酒が零れ、私たちの手にかかってしまった。

「ひっ……」

　咄嗟に文句が口から飛び出しそうになったけれど、目の下にクマが滲み、すっかり爽やかさを喪失してしまった顔がすぐ傍にあったため、短い悲鳴が洩れ出てしまう。

　だけど、ジークは私を掴んだまま離してくれなかった。

　恐怖で滲みだした汗が背中を滑っていく。だけど声が震えないようにグッとお腹に力を込めると、動揺を悟られないように平然を装った。

「あ、あの手を離して頂けませんか？」

　返答はなく、代わりに彼に掴まれた私の手首がギュッと絞まった。

　こちらを見下ろす彼の瞳から、絶対離さん、という強い意志が伝わってくる。

　こんな顔グラ、あった？　

　魔王と対峙したときですら、真剣でありながらも、どこか希望や余裕を感じさせる明るさがあったというのに、今の彼はどうだろう。

　まるで、この手を離すくらいなら世界を敵に回してもいい、とでも言わんばかりの気迫だ。

　どこをどうとってもこのジーク、おかしい。

　本能が告げている。

　こいつは、やべーぞ、と――

　もしかして、今になって私に襲撃された報復に来た……とか？

　それならなおさらヤバい。

　

　膨らんでいく恐怖を隠しながら、私は大きく息を吐き出した。さも、酔っ払いの相手は慣れてますよ感を出しながら、苦笑いの仮面を被る。

「そうですか。とりあえず手に持っているお酒だけは給仕したいので、そのままテーブルまで付いて来て貰えます？」

　そう言って歩き出すと、私の指示通りジークもついてきた。もちろん、私の手を掴んだままだ。爆速する心音が、手首から伝わっていなければいいけれど。

　ジークを連れてお客さんのテーブルにやってくると、いつものように笑顔で注文されたジョッキを置いた。

　テーブルにいるのは常連さんたちだ。

　いつもなら私を見ると、

「リタちゃんは働き者だなー」

「いい男、いないのか？　そろそろ結婚しないといき遅れるよー」

「俺なんてどーよ、ガハハハッ！」

と、ジェンダーもくそもない声かけをしてくれるんだけど、今日の彼らは、ヒィッを声をあげて腰を浮かし、そのうちの一人にいたっては、椅子を引きすぎた拍子にひっくり返ってしまった。

　一体何をそんなに恐れているのかと振り返ると、テーブル客たちをものすごい形相で睨みつけるジークが顔があって、洩れそうになった悲鳴を何とか飲み込んだ。

　親でも殺されたんかと言いたくなるほど、とっても怖い！

　それ、魔王とか仲間の敵とかに向ける表情じゃない⁉

　街の労働者相手にしていい表情じゃないよっ‼　

　勇者様から発される容赦ない殺気に、賑わっていた酒場が静かになった。と同時に、大きな足音が私たちの方に近寄ってきた。

　店内の異常を感じ取ったこの酒場の店主――アボットさんだ。

　アボットさんは体が大きく腕っ節も強い、この街でも一目置かれている男性だ。

　店主の隣には、フライパンを握った女将ローズさんもいる。彼女も、愛用のフライパン戦技で酔っ払いたちを調理してしまうほど強い。

　血気盛んで喧嘩っぱやい酔っ払い客たちがいる中でも、店の治安が保たれているのは、彼らのお陰だと言えよう。

　フライパンの縁を左手の平に当てながら、ローズさんがジークの前に一歩進み出た。

「その子はうちの従業員でお触りは厳禁だ。溜まってんならそういう店にいきな、ゆうしゃさま」

　ローズさんがジークを睨みながら、フライパンを出口に向けた。アボットさんも上腕二頭筋を膨らませながら、ジークに出て行けと言葉なく訴える。

　普通の人なら二人の闘志に圧され、ヘラヘラ謝罪するか、捨て台詞を吐いて去って行くんだけど、ジークは二人を一瞥すると、まるで挑発するかのように私の手首を握り直した。

　アボットさんたちの眉間に深い皺が寄り、場の空気が冷たくなる。

　駄目だ。

　このままじゃ、戦いになっちゃう！

　私はアボットさんたちとジークの間に割って入った。

　

「あ、あの、違うんです！　こ、この人、私の知り合いなんです！」

　なんかジークが「……知り合い？」と不満そうに呟き、背中から発される重苦しいオーラを更に重苦しくなった気がしたけれど、気付かなかったことにする。

　いや、言えんでしょ？

　殺そうとしてた相手です、だなんて！

　ローズさんの表情が、訝しげに歪む。

「本当かい、リタちゃん？　この男に何かされて、本当のことが言えないんじゃ……」

「逆なんですっ！　わ、私……この人に迷惑をかけてしまったのに逃げちゃって……」

「そうなのかい？　リタちゃんがねぇ……」

　殺気立っていたローズさんの表情が、ジークと私への憐れみへと変わった。アボットさんの上腕二頭筋の膨らみもなくなる。二人から闘気が消え、私はホッと胸を撫で下ろした。

　アボットさんたちには本当にお世話になった。

　身寄りのない私を雇い、娘のように気にかけてくれた彼らに、私情に巻き込みたくはない。

　アボットさんたちはとっても強いけれど、ジークはもっともっと強い戦士だ。もし戦闘になったとき、負けてしまうのは間違いなくアボットさんたちだから。

　私はジークと話したいからと言って、今日はあがらせて貰った。

　ちなみに、腰のエプロンと三角巾をとって店の裏口から出るまで、ジークは私の手首を掴んだままだった。

「もうそろそろ、手を離して貰えませんか？　今までの行動を見て、私が逃げないと分かって貰えたと思うんですけど」

　店を出て改めてお願いしてみたけど、ジークは返答しなかった。ただ、私の発言に疑心を抱いているのが明らかに分かる表情をしている。

　ジーク……あなた、そんな疑い深い子じゃなかったでしょうよ……逆に人を信じすぎて、親友から少しは人を疑えと怒られていたくらいだったのに……

「もし私が本当に逃げ出すつもりなら、アボットさんたちを止めずに騒ぎを起こして逃げていますよ。これでも……あなたには悪いことをしたと思ってます」

　はぁっと大きく吐き出した息に言葉を乗せると、ジークがようやく口を開いた。その声は僅かに震え、掠れていた。

「……本当に、思っているのか？　僕に悪いことをしたと」

「はい、何も知らなかったとはいえ、あんな酷いことを……」

　勘違いで命を狙うなんて、迷惑なんてもんじゃない。

　それを私は、適当な謝罪の言葉だけを彼に残し、逃げ出したのだ。私に生きる希望を持たせるために襲撃を受けてくれていたジークが、怒って追いかけてきても仕方ない気もする。

　何故かジークの視線が緩んだ。ほうっと息を吐き出した唇が、それはそれは嬉しそうに上を向く。

「そう……か。僕のことを忘れたわけではなかったんだね？」

「え？　あ、はい、忘れたことはありませんでしたけど」

　この世界の主人公だし、殺そうとした相手だし。

　むしろどうしたんだろうと心配してましたけど？

　ジークがますます嬉しそうに目を細めた。とっても格好いい笑顔なのに、そこはかとなく闇を感じさせるのは、やはり向けられた金色の瞳からハイライトが消えているせいだろうか。

　でも疑問は、彼の手が私の手首を放したことで消え去った。

　私は大声をあげ、ジークの後ろを指差した。

「あ、あれは何⁉」

「えっ？」

　ジークが振り返った瞬間、私は全力で走った。

　彼に悪いことをしたのは分かってる。

　分かってるんだけど……でもやっぱり死ぬのは嫌だ！　

　大人しく町娘Aを真っ当しますから、見逃してー！

　と思った瞬間、私は首の後ろに強い衝撃を受けた。頭がぐらりと揺れ、目の前の景色が歪む。

　……一体何が起こったの？

　何かにぶつかった？

　それとも、誰か、が――

　両膝から力が抜けて地面に倒れる寸前、何かが私を抱きしめた。

　遠ざかる意識の中、

「また僕から逃げようとするんだ。なら……もう二度と逃げられないようにしないとね」

　どこか楽しそうに呟くジークの声が聞こえた気がした。