4.そして運命は寂滅する
私が『神様』ではないとようやく悟ったのは、中学一年の秋だった。
それまでも予兆はあった。中学に上がるとクラスは倍に増えた。人口は小学校三校分。そしてその中には中学受験に落ちた奴から地頭のいい奴まで、私の上はいくらでもいた。勉強も運動も身長も、母数が増えれば増えるほど、私はより平均的な人間になっていった。
一方の内海は小綺麗になった。小学六年生の途中で母親がどこかに消えて、小学校の校区で言うと隣に住んでいる祖父に引き取られたのが大きかった。お風呂にちゃんと入るようになって、新しい服と靴を買ってもらっていた。勉強も家で出来るようになったおかげか、授業にもついていけると言った。
青い体操着で隠していた白くてカリッと痩せた脚が、真っ黒いスカートから伸びて目を惹く。内海は「鶏ガラみたいで恥ずかしい」と言ってたけど、中高生の女子にとって痩せていることはステータスのひとつ。そして小学校の時は気付かなかったけど、背を丸めていない内海は意外と背が高かった。そんな感じでドブネズミからお姫様3くらいには進化していたと思う。
そういえば「告白された」と相談されたことも何度かあったな。私はといえば委員会でペアの男子と甘い雰囲気になることすらなく、見聞きしたありきたりなアドバイスを投げるしかなかったけど。
内海と私は別クラス。D組とA組、端と端。入学当初は内海が私のクラスに来て一緒に昼食をとるのが習慣だったけど、部活も始まって本格的な中学生活が始まる頃には内海は来なくなった。私は陸上部で内海はテニス部だった。同じクラスのイケイケな子にゴリ押しされたらしい。内海がいるからとクラス内の子と大して会話していなかったせいで、私は早々に孤立した。
クラスには小学校時代に仲の良かった子たちもいたけど、知らない人の方が多い状況。既に出来上がったグループに途中参加するほどの度胸がなくて、果ては中庭でぼっち飯。
中間テストが終わったくらいには私の自尊心はボロボロになった。お母さんからの「勉強しろ」コールは以前よりも激しさを増して、結果の残せない自分自身にイライラすることもあった。小テストの結果でさえ、お母さんの機嫌を左右するには充分だった。
「私ってほんとうすごいの?」「私って井の中の蛙なんじゃない?」一度失った自信は簡単には取り戻せなかった。確かだった足元が液状化して飲み込まれるような感覚。
それでも運動は辛うじて上の方で、陸上部ではなんとかいい成績を残せそうだった。
それなのに。秋の運動会。
あの日は朝からお腹が痛かった。休みたかったけど、お母さんの「ワガママ言っちゃだめよ」の一言で行くしかなくなった。早朝からめかし込んだお母さんはまるで十代の少女が初デートに行くようなテンションで、お父さんに「この服はどう? 変かしら」なんて聞いていた。たかだか娘の運動会だっていうのに。
富国強兵名残の行進、整列、選手宣誓と校長の無価値な演説。お腹に響く声援。自分もそれに乗じなければならないのが苦痛で仕方がない。運動会ってこんな拷問みたいな日だったっけ? 一年前までは自分だけのショーと言わんばかりの楽しさだったのに。
出場種目がムカデ競争だけだったおかげで、午前中はなんとか乗り越えられた。教室に戻る途中、これまでに感じたことのない、ドロリと何かが出る感覚がして、一瞬で血の気が引いた。股から何かが漏れている。
「比山さん、顔色悪くない?」とクラスメイトに言われて、適当な相槌を打ってから和式しかないトイレへと逃げ込んだ。意識が股の間に集中してしまっていて、なにを言ったかは覚えてない。尿じゃないと直感しつつ、尿であってほしいと願う。どっちでもないのが一番いい。
柄付きのパンツの内側の、真っ白なはずのそこは赤と乾いた黒で斑に染め直されている。生理だとは分かっていたけど、全部が初めてで混乱しながら涙が出た。しゃがみ込んだお尻の真下に鮮血がボタボタと落ちていくのが見えて、それが尚更嗚咽を誘う。
今だからこそ分かるけど、私は生理がやや重めだ。だけど周期は安定していて、生理が始まる前日に痛み止めを飲んでおけば二日目だってへっちゃら。量だって多い昼用があれば問題ない。我ながらお手本のような生理だ。
だけどそんなこと中学一年生の私は知る由もない。頭の中はあまりにも突然で理不尽な痛みと午後からのことでいっぱいになって、保健体育の授業内容を思い出すこともなかった。そもそも平均化された一般論を想起したところで何の役にも立たなかっただろう。
午後からは各学年特有の種目がメインとなる。二年生の先輩がソーラン節を踊るのだと、上級生の彼氏を持つ子が頬を染めてはしゃいでいた。一年生はといえば、そういったクラス一丸! みたいなのとは少し違って、ただのクラス対抗四百mリレー走。立候補するまでもなく私はアンカーに抜擢された。体力測定で好成績だったのを皆どこからか知っていたし、クラスで陸上部に所属していたのが私だけだったので、当然の流れと言われればそう。
それなのに。お母さんの期待感を充足させられる折角の機会なのに。当日になって、こんな。
こんなこと言えない。今更「生理になったからやっぱりアンカーやめます」なんて。それに教室に戻る前、お母さんが大声で「午後も頑張ってね!」と言った。私がアンカーであることはもちろん知っている。
下腹部が締め付けるように痛む。ここに子宮があったんだ。正面から見たミジンコみたいな情けない臓器が。
カラカラとトイレットペーパーを勢いよく回す。そこは何度拭いても真っ赤だった。諦めてパンツにトイレットペーパーを巻き付けた。何重にも何重にも巻いた。シングルのトイレットペーパーにこれほど不安感を覚えたのはこの時だけだった。
これ以上出たら今度はハーフパンツにまでつく。紺色とはいえ、それだけは避けたい。玄関にある鏡で、不自然に膨らんでしまってないかを確認する。鏡に映った自分の顔色は面白いくらい真っ青だった。ホラー番組に出てくる幽霊みたい。と吐き捨てるように笑ってから教室へ戻った。
午後。教頭先生の全体アナウンスで私たちは再び運動場へと戻る。
昼食を食べれば気分は幾分かマシになった。痛みと血の出る感覚にいちいち心を乱されたけど、運動場へ戻る前に再びパンツにトイレットペーパーを巻き直して平静を保つよう努めた。その間、生理が始まったことについては誰にも相談することができずにいた。
午後からは一年、二年、そして三年の順に種目が展開される。私は四百mリレー走に出場するため、同じくリレーに選ばれたクラスメイト三人と入場口へと向かっていた。
突然。両肩を軽く叩かれた。子供が徒に親の肩を叩くような、そんな感じの衝撃。わけも分からずに伸びた手の方を向けば、内海が立っていた。その時伸ばしていた長い髪にハチマキを編み込んでいた。これもテニス部の誰かがやったことなのだろう。いや、それより。
「サプラーイズ!」
内海? 内海がどうしてここに。出場選手以外は各学年のテントで応援するはずだ。
「背が高いってだけでアンカーにされちゃってさ」
行進が始まるまでの間、内海はいやに嬉しそうに語った。比山には負けないぞ~、とか。そんなことどうでもよかった。耳のそばの血管が爆音で響いてそれどころじゃなかった。
「内海、はさ」
「ん? なに?」
内海は生理になったらどうするの? って、聞こうとしてやめた。
私が内海に弱みを見せることで、内海の神様じゃなくなっちゃったら、どうしよう。
そうだ。神様は生理になんてならない。体調も悪くなったりしない。常に上で何かを指し示さなきゃいけないんだ。
「なんでもない! それよか、運痴の内海チャンがどれだけ走れるのか見物だよねぇ」
「ウンチっていうのやめてよ~!」
大丈夫。隠せてる。内海なんて勝負の対象にもならない。
私が勝って当然なんだから。
リレーも終盤になり、第三走者が全員スタート地点から離れたのを合図に、私たちはトラックに並んだ。
D組はトップを独走している。まず第一走者のスタートダッシュが良かった。そこから掴んだ運気を離すまいと、二、三走者も続いて一位のまま走り続けていた。一方A組は三位。
向かいの観客席に座っているクラスメイトたちからの視線が圧い。普通、諦めムードに入るところだと思うのだけど、クラスにたった一人の陸上部員という存在に絶対的な期待を寄せていると言わんばかりの目。プレッシャーが重たくて目を逸らした。他クラスでは別の陸上部員も複数出場していたというのに。
現在の順位の順で並ぶ。三位が不利なのは理解しているが、クラスメイトからの期待と内海を煽った手前、二位くらいにはならないと面目丸つぶれだ。
いきなり脚を動かすのは筋肉に良くないから、ステップを踏むように左右の脚を交互に上げる。いつも走る前にやっているルーティンだからか、生理とリレーでそわついていた筋肉も少しばかり落ち着いた。
内海に最後のバトンが渡って走り出したのを見届けると同時に、私と二位のB組のアンカーにもバトンが届いた。
B組の子はバトンの受け取りミスがあったらしいと、実況役の放送委員の声が聞こえた。だったらあとは内海だけだ。
楽勝。と心の中で笑った途端、目の前が一瞬真っ暗になった。自分が走っているのか眠っているのか判別がつかなくなる。右足が地面を蹴った勢いで股から勢いよく血が噴き出す感覚があった。本当に一瞬だけだったそれに、私の心はとんでもなく乱されていた。
大丈夫。一位になるのは必然だ。
違う。本調子なら内海なんてもう追い抜いている。
焼ける喉とちっぽけなプライドだけが私の正気を保たせている。下半身が今どうなっているのか気になって仕方がない。
最後のストレートゾーンでようやく内海の隣に並んだ。内海はより大きく脚を広げた。負けないと言ったのは本気だったみたいだ。
追い抜かしたい。一番でありたい。内海にだけは負けたくない。私もより強く地面を蹴った。
ゴールラインには私の脚の方が速く着いた。ゴールテープが身体に巻き付いて、実況の「A組がまさかの逆転一位―!」という音割れ絶叫が響く。スピーカーからの音より本人の声のほうがよく聞こえた。その途端、脚の力が抜けて、私は推進力を保ったまま激しく横転した。何が起こったのか分からなかった。顎と右肘と右膝の側面が痛む。
「比山! 大丈夫!?」
続いてゴールした二位が駆け寄ってきて、それからあっという間に先生たちに取り囲まれる。ガタイの良い体育教師に抱え上げられ、保健室へと運ばれようとした時。
「うわ、なにあれ」
誰かの嘲笑ともとれる声が聞こえて、下を見た。
血の滲んだトイレットペーパーが落ちており、ハーフパンツの隙間からは赤い液体が伝っていた。
ああ、これ、「経血」って言うんだったなあ。
閉会式より前、私のスクールバックを持った内海が保健室にやってきた。
私はといえば、ナプキンと替えの下着をもらって、「終わるまで寝てていいからね」とベッドで寝かされていた。担任からは「体調が悪いなら最初から言いなさい」とキツめに言われた。私を保健室まで運んでくれた男性の体育教師は気まずそうな顔をして横で縮こまっていた。先生たちは状況確認と私の怪我の処置を済ませると早々に運動場へ戻っていって、薄暗い保健室にひとり取り残された。
「体調どう?」
「まあ……ぼちぼちかな」
子宮と転んで擦れた傷が痛むけど、先ほどまでの焦燥感はなく、ずいぶんと落ち着いていた。 外からは三年のよさこい踊りの音源と歓声が聞こえる。そこから隔離されたのが気持ちの落ち着きに繋がっていたように思う。
「比山はやっぱすごいね」
天井をぼーっと見つめながら「んー」と返事にもならない音を出した。
「うちのクラスの吉沢さんも言ってたよ。三位だったのにすごい追い上げだったって」
吉沢さんは私と同じ陸上部員だ。部活の成績は良い方で、入部当初から期待のホープと言われている。私が一方的にライバル視していたせいで、部活以外でまともに話す機会はほとんどなかった。
他にも色々話していたけれど、内海は生理について触れてこなかった。保健室に運ばれている途中の私と教師陣の会話を、聞いていなかったわけでもあるまいに。それに中学生にもなって、生理を知らないわけがないだろう。
内海なりの配慮だったのか、知らなかった風にして話されるのは忸怩たるものがある。
天井のひじきみたいな模様を数えながら、ただ漠然と「私はあとどれくらいで内海に『すごい』って言ってもらえなくなるんだろう」と、考えていた。
その日から、一番にならなきゃいけないという闘争心のようなものが、すっぽり抜け落ちてしまった。諦念ともまた違う。燃え尽き症候群という言葉が適当だと思う。
そして自分が何かを成し遂げることが、急に怖くなった。成果と恥を同時に知らしめたあの日を思い出すと血の気が引いた。抜け毛の散らばった床を裸足で歩かなければならないときの嫌悪感とも似ている。
それ以来、学校で内海と話すことはほとんどなくなった。
幸いにも3年間同じクラスになることはなかった。たまに様子を探りに行けばいつも誰かと話していて、寂しくなると同時に少し安心した。内海が私を求めることはなくて、あの目に神様じゃない私が映ることはないんだって。所詮は鏡像でしかなかったんだって。
理想と惰性をギャップで煮詰めた煮凝りみたいな生活が中学時代だった。
私たちは玄関に立つ。
古い家特有の格子状の引き戸を閉めると、外の湿った臭いは鳴りを潜めて、代わりに強烈な臭いがした。
腐ったチーズみたいな臭いの後に、甘ったるいような、雨が降る前の海みたいな臭いがした。いや違う。私はこれを覚えている。死んだ人の臭いだ。
思い出した。内海のおじいちゃんの葬式で漂っていた臭い。清潔な白い棺桶とは違う。真夏の高湿度で、それは悪臭と言って差し支えないほど強くなっていた。
「おじゃましま~す……」クセで挨拶をしてしまったけど、死体のある家には不釣り合いかもしれないと口に出してから気が付く。この場合は「ご愁傷様です」とか? 経験なんて大してないもんだから、弔事のマナーや挨拶なんかはよくわからない。
「ない……」
「なにが?」
「お母さん……」
内海が指を指した方向に目を向けても、何もない。キッチンへ向かう廊下が一本通っているだけ。
いや、何もないと言うのは語弊がある。玄関から先へ立ち入らせる気のないゴミが、足の踏み場もないほどに散らばっている。一昨日までの私の部屋なんて比にならないくらいのゴミの山。ジュースのペットボトルや酒の空き缶がゴミ袋に入っていない状態で異臭を放っている分、こちらの方がより悪質だ。
玄関口ですら水道料金やガス代金、督促状などの郵便物が散乱している。おじいちゃんが生きていた頃は紙紐でまとめられた新聞紙の束が玄関の隅にひっそりとあっただけなのに、約一年でこの変わりよう。内海の母親がこの家に襲来したことの恐ろしさがよくわかる。
「ほら、ここ」
内海は躊躇いもなく廊下へと足を踏み入れた。彼女なりの通路があるのだろうか。標高の高いゴミ山は左右に寄っていて、全体より少し低い場所を内海はヒョイヒョイと通り抜けていった。なんだか獣道みたいだ。正直、何が落ちているのかも分からないのに、靴を脱いで入るのすら嫌悪感がある。
廊下のすぐ手前で、内海はもう一度足元を指さした。首を左に傾けると、右側の壁の奥に階段が見える。ゴミだらけで何も見えないので、私も意を決して土足で乗り込んだ。変なものを踏むよりは遥かにマシだろう。内海の指した方向、階段の最下段には黒く細長いシミが染み込んでいる。焼肉でアミに付いた焦げみたいな色。
「階段から突き落として殺したってこと?」
うなずみ。彼女の発言を思い出す。
『脚が変な方に向いてて』『急に聞こえなくなっちゃって……』そして消えた死体。
「井戸に投げ込んだりした?」
「うちに井戸ないよ」
状況を整理すると、死んだと思っていたけど死体が消えている。ここから考えられるのは、二つ。誰かが別の場所へ運んだか、実は生きていて命からがら逃げ出したかだ。
「親戚って近くにいるんだっけ?」
「いないよ」
「じゃあお母さんの彼氏とかは?」
「さあ。いつも違う人連れてきてたから、誰が誰かわかんない」
つまりは異変を察知して死体を持ち帰る奇特な人間はいないということだ。
「じゃあ、生きてるんじゃないかな。内海のお母さん」
「生きてる……のかな」
「生きてたらさ、ごめんなさーいって謝っちゃおうよ。それで喧嘩両成敗ってことでさ」
「そうなるかな」
「内海のお母さんが内海にやってきた事ってさ、人づてに聞いてるだけでも、殺されてもしかたないなって思うよ。客観的に見て。……いざとなったら私がなんとかするからさ」
信じてよ。私のこと。
あまり気の乗らなさそうな内海の手を握る。誓いをたてるように。
「とりあえず家の中探して、いなさそうなら外探そう。あの人のスマホとかあったら何か手がかりが掴めるかも」
「うん……」
「じゃあ、とりあえずは一階からかな。手分けして探そう」
間取りはなんとなく覚えていて、私が台所と隣接する居間、内海がお風呂場などの水回りと応接室、内海の母親の部屋などを探すこととなった。階段を中心として、家の左側・右側をそれぞれ探す。内海の負担がやや多いけど、左側はプライベートな空間が多いので致し方ない。
台所への引き戸を開ける。洗い物は流石にしているようで水回りは物が少なかったが、それ以外は廊下と大して変わらない。食べ物系のゴミは台所であるこちらの方が多いように感じる。
テーブルは特にひどい。食品の袋だけでなく、食べ終わったあとのお皿がゴミの上に堆く積まれている。食事を摂るために無理やり寄せたのか、左側が少し盛り上がっている。コバエが飛び回っているのが薄暗い中でも分かって、入るのをためらってしまう。より詳細に調べようとドアのすぐそばにあるスイッチを押したけど点かない。電気まで止まってるの?
少しでも足場になりそうなゴミを選んで跳ねたりすると、お皿か何か、時折ガラス製の何かの砕ける音がする。靴を脱いでいたら怪我をしていたかもしれない。
内海の母親が外に出た可能性は低いだろう。内海の話を聞いている分には脚が骨折している。そして階段下の黒いシミ。
孤独死のあった部屋で、周りに死を悟られることなく時間が経過した結果、死体が溶けてシミを作ることは知識として知っている。階段の黒いシミも同じ類いなんだろう。範囲はそれほど広くなかったから、骨折した脚が壊死した、とか。
もしそうなるまであそこに留まっていたとするなら、まともには歩けないだろう。それに、外で発見なんてされようものなら、娘の内海に誰かから連絡が来ているはずだ。それがないということは、内海の母親はこの家の中にいる。生死は問わない。
手の届く範囲で探してみる。テーブルの下、戸棚の中。床のゴミに埋まってないかも確かめてみた。
気分は連続殺人鬼だ。ネズミの隠れ家まで隅々探して、恐怖で逃げ惑う主人公に恐怖を与えていくスラッシャー映画の悪役。……ゴキブリの死骸があった戸棚はすぐに閉めた。
シンク下も一応確認してみる。まな板、しょうゆや料理酒などの調味料類、スライサ-、よくわかんない物体が漬かった瓶などなど。左奥に続くガス台下の収納スペースにはフライパンなどが重なっているのが見える。人間がいないのは確実だったので扉を閉めた。
続いて居間へと移動する。台所とはガラス戸で仕切られているだけだ。
ガタガラと立て付けの悪い戸を、力を込めて思いっきり引いた。こちらも台所と同じように薄暗い。閉め切った障子の奥には庭に続く窓があって、かつては縁側のようになっていた。内海の家を訪ねる時は、決まっておじいちゃんが窓を開けたそこに座って新聞を読んでいたのだ。
内海のおじいちゃんと、内海が大事にしてきた家。
内海の母親はどうしてこんなにもこの家を荒らしてしまったのだろう。どうして内海に酷く当たるんだろう。母親の顔を思い出す。
初めて会ったのは、内海が学校を休んでプリントを届けに行った日だった。ドタドタと足音を鳴らしながらドアを開けたあの人は、歌舞伎の化粧みたいに吊り上がった目で私を睨みつけて、目が合った瞬間に私のことを怒鳴りつけた。「うるせーんだよ」とかなんとか、そんなことをいくつか言って、私の手元にあったプリントを奪うようにしてドアを閉めた。小学生にして大人に、しかも初対面の人間に出会い頭に怒られたのはあれが初めてのことだった。それからも、私が内海の母親の顔を見る時はいつだって不機嫌だった。二年の時に出回ったあの動画でも怒ってたしな。
あの人は内海のことが嫌いなんだろうか。内海が一体何をしたっていうんだろう。『親心』っていうやつは私には分からない。わからない事を追及するのは無駄なので深くは考えないことにした。
一通り開けて散策して、居間にもいないであろうと結論づける。異臭が酷いので呼吸は極力したくなかったけど、動き回っていたのもあり息苦しくて、一旦深呼吸をする。うん、三角コーナーに吐しゃ物をブチ込んだ臭い。
ガタン、と音がした。内海が何かを落としたんだろうか。私の担当エリアは終わったから、内海の方を手伝いに行こう。そう振り返ったら、声が聞こえた。耳をすませてようやく聞こえるほど、限りなく小さかった。次いで女の声が聞こえた。多分、内海の母親だ。あっちにいたんだ。
忍び足で片っ端から覗いていく。洗面所、浴室、トイレ、応接室。
声は内海の母親の部屋から発せられていた。そっと覗くと、おじいちゃんの部屋だったころの面影はない。散乱した化粧品に汚れの目立つベッドシーツ、強烈な死臭とタバコの臭い。そして部屋の中央に二人はいた。親指部分が破れた内海の靴下と、その上に覆いかぶさる母親。真っ白な内海の脚と対比するように、母親の左足は灰色に変色していた。
「ゆいかちゃん、どうしてママとの約束やぶったの? 一緒にいてくれるって言ったよね?」
「……ごめんなさい」
喉から絞りだしたような呻き声。
「ママ、ゆいかちゃんのせいで脚が痛いんだよ。もう動かないの。これじゃお金稼げないよ。ゆいかちゃん、学校に通えなくなってもいいの」
「ぐ、ごめんなさい」
「ゆいかちゃん、最近ママの言うこと聞いてくれなくなったよねェ。どうして?」
「ごめんなさい……あ」
「学校で悪いこと覚えちゃったのかな? なんのために行ってるかわかってる? ゆいかちゃんがどうしてもって言うから、行かせてあげたんだよね。やっぱり女に学があってもロクなことなかったねェ」
「ごめんなさい、もぉ……もう、しません」
呪いのような小言は延々と続く。その声はひどく落ち着いていて、悪いことを諭す大人のようにも、大人に怒られて泣きながら言い訳をする子供のようにも感じた。
おばさんに羽化する前の蛹みたいな人は、内海の首を絞めつけている。苦しそうな声を上げながら、それでも内海は抵抗することなく、床のゴミを握りしめていた。
私は息を潜めて、彼女達をジッと見つめていた。ゆっくりと、女の背後に近づいた。
「ゆいかちゃん、ママの彼氏にも色目使って、誘惑してたよね。ママのこと、裏切ろうとしたよね。前までは大人しくて良い子だったのに、うそつきの悪い子になっちゃったよねェ? ママのだいすきな、ゆいかちゃんじゃないよねェ」
「ごめんなさい。ごめんなさいっ」
内海の母親は右腕をゆっくりと掲げた。
包丁! なんで気付かなかったんだろう。シンク下を見たとき、確かになかった。完全に見落としていた!
「うそつきはゆいかちゃんじゃないよねェ!」
母親の身体が揺れて、内海が私の存在に気が付く。
「ひや」それに母親が反応した。首だけがグルンと振り返る。ホラー映画の演出みたい。小学生の、初めて会った時と同じ視線だった。でも、今は私が見下ろしている。
こいつ、殺せばいいんじゃない?
あ。全能感。
灰皿があった。すぐ横のテーブルに。お父さんのと同じ臭いのタバコが敷き詰められていた。
だからそれを手に取った。母親が包丁をこちらに振りかぶるよりも先に、その頭めがけてフルスイングした。タバコの臭いと灰が散乱する。再度こっちへと向いた顔面にもう一発。多分、今度は目に当たった。情けない悲鳴をあげて、内海の母親は内海の体の上から転げ落ちる。包丁が床に落ちた。
私は灰色の脚を踏みつける。骨の感触はなかった。もう腐りきっているんだ。
「あァあ゛、あ! わァ~‼」
私は灰皿を縦に持ちかえる。
血を滴らせて蹲る女に狙いを定めて、振り下ろした。
最期ならなんでもやっていいんだっていう、それを。誰もが持ち合わせているわけではなかった。
広がっていく生命を眺めて、所詮私は人間だったのだと余分な自己が胡乱になっていく。
愚かで、無様な、末路だ。私たちの。
いや、私たちだったものかもしれない。私たちになり得たものかもしれない。
いくつもの顔が浮かんでは滅する。まいまい組、山本先生、リナ————島太郎はどっち側なんだろう。
結局のところ、彼らは利己的な遺伝子で出来ていたのだ。だから持ち得なかった。私だって同じヒト属のはずなのに。
心臓がバクバクとうるさい。熱い息を吐いた。
「ママ? ねぇ、ママ……ひとりにしないで」
起き上がった内海は、譫言を呟いて、母親の肩を揺する。家ではママって呼んでるんだ。
正当防衛だよ。だから仕方がない。だってそうでしょ。この害獣は内海を殺そうとしたんだから。
なんて。正当化のセレナーデも甚だしい。
私ははじめからこうしようと画策していたような気さえする。
「ごめん。ズボン、汚しちゃったね」
白いショートパンツに灰と血がついていた。中学の時の、地面に落ちてみんなに嘲笑された、惨めったらしいトイレットペーパーがフラッシュバックした。血の汚れって大根おろしで落ちるんだっけ?
内海は頭を大きく揺らして立ち上がった。肩は脱力したままで、俯いた顔は死体に向いたままだった。
「……おはか、作ってあげなきゃ」
内海なりの贖罪がそれだったんだろう。
「埋めなくていい」
内海が、ゆっくりとこちらを向いた。私を視界にいれて、それでもいつもより焦点の合わない目が彷徨って、逡巡して、私を見た。
嵌めたピースで埋まった。欠けているわけじゃないけど満たされているわけでもなかったそれが、たった今、充足していく。血流が正常に戻っていくような。走り終えた後、足先で跳ね返った血が酸欠の頭へと還っていく、あのフワフワした感覚に似ていた。変わりたいと思っていた気持ちは嘘じゃなかったはずなのに、この満ち足りた心には抗えない。
内海のこの顔が、この目が、きっとずっと見たかった。いつも幸せで恵まれているように見えた虚像の、怯えたような顔が。私は今でも彼女の特別のままだった。畏怖こそが私を信仰する最高の祈りだった。
立場の逆転。持っていたものの裏返し。泥水の底を、私は浚うことができた。
「そんな面倒なこと、しなくたっていいよ。どうせ今日で終わりなんだから」
私の口は自然と笑みを広げる。
残酷な私を恨めばいい。さんざ肉体と精神を弄んで、おじいちゃんの遺産を食いつぶして、最後には縋りついてきた母親より、何の取り柄もない私を。
『神様』も、内海の母親も。この揺れる瞳にはもう映らない。たったいま、私が、殺した。
だからもう、遠くの無力な星になって、私たちを照らさないで。
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