3.未来に犯された遺物は私を見ている
ぬるい海水に浸っていたはずなのに、頭の中はのぼせたような感覚から戻ってこられなくなっていた。まだ波の中にいる気さえする。
公園を出てすぐの交差点で、車の排気音に吞み込まれながら信号を待っている間、左腕をさすった。
私たち2人とも、きっと冷静じゃなかった。
内海は人を殺してしまった。本来越えるはずのない一線を越えてしまったから、きっと情緒が不安定になっていた。感情を剥き出しにして本能のままに嚙みついてきた。
対して私はどうだった? 世間の目だとか、蛙の子は蛙だとか、そういうことを、他人事のように、あるいは第三者視点で内海の事を捉えていた。別世界の話のようでまるで実感が湧いていなかった。動揺していなかったわけじゃない。でも私の心を揺さぶったのは、内海が告白をしたことよりも、彼女が私を害する存在になると危惧したことだ。そうでなければ、あの状況でなければ。本当に、どうでもいいのかもしれない。現実の内海がどうなろうが、私の中の内海は友達のままなんだから。
目の前の信号が青になり、パッポー。パッポー。と間の抜けた音が鳴る。もう一度腕をさすって、振り返った。セミの鳴き声と子どものはしゃぐ声が交じり合っている。そこに内海はいない。
————私は引き留めてもらいたかったんだろうか。
どうしてほしかった?
何がしたいの? 何に憧れて、何を目指して、何になろうとして、何を守ろうとして。そうやってどういう結末を望んでいたんだろう。夭折か、老衰か。緩やかか突然か。必然か偶然か。
信号が点滅しているのに気が付いて、思わず駆け出した。ここの信号は歩車分離式だから待ち時間が長い。
白い線を何度か蹴って、反対側の歩道に足を踏み入れる。なんとなく、走ることをやめなかった。なんなら加速した。身体は効率的な走り方を憶えていた。
中学の時、陸上部だった。小学4年生の冬に地域のマラソンイベントでいい成績を出して、その延長線上だった。もともと一輪車とか竹馬とかが好きなタイプだったし、それに結果がついてくるのも、文武両道と囃し立てられるのも、悪い気がしないどころか気持ちが良かった。
特に好きだったのは冬のマラソン。頬を切る風は冷たいのに、身体は内臓まで暑くて。世界を置いていくようなあの感覚。正しさの尺度が決まっていて、必ずそこに収まる安心感。
時間にして5分くらいだろうか、車に追い抜かされたのを横目で見て、足を止めた。陸上部だった頃は季節なんか関係なく何キロも走っていたのに。流石に疲れてしまった。頭の中が少しばかりクリアになった気がする。
もう一度左腕を見る。もうなんの痕も残っていなくて、産毛が濡れぼそっているだけだった。
内海と歩いた道を全部逆戻りして、電車公園へと戻ってきた。歩道からだと周囲の木が邪魔で何も見えないけど、それさえ抜ければ広い思い出がそこにある。
小学生たちはまだ缶蹴りをしている。それどころか3人くらい増えていた。飽きないんだろうか。入り口から見て端の方にあるベンチでは、相も変わらず母親らしき女性たちが歓談している。
わざわざ1人で近づいて座るのは、ひょっとしたら不審者に思われるんじゃなかろうか。いや、でも、私って仮にも女子高生なわけだし……。とは思いつつも割って入るような気まずさがあって、入り口から先には進めなくなってしまった。
ベンチに座る気はありませんよのポーズをするために、入り口のすぐ横に視線を移す。雨風にさらされて何十年と経過しているはずなのに、薄雲に覆われて拡散された光でさえ、柵で囲われた遺物を黒々と輝かせていた。先頭につけられたネームプレート付きの丸い扉の上に葉っぱがついている。お茶目。
この公園が『電車公園』と呼ばれている理由のもう一つは、この地域を大昔に走っていた蒸気機関車が展示されているからだ。
柵の前には蒸気機関車の説明が書かれている。どこで造られていつからいつまで走り続けて、役目を終えたか。それを読むフリをしていたけど、目は滑るばかりで内容なんて全く入ってこない。私は電車が好きなわけじゃない。電車の名前ってなんで数字とアルファベットで構成されているんだろう、覚えられるわけがない、と嫌悪感に似た感情すら想起させられる。そもそも高校見学会の時に一度乗ったきりだし。通学は自転車だ。車社会の田舎で電車なんて必要ない。
それでも、この蒸気機関車も、いま走っている電車も、きっと誰かに必要とされている。
私にとっての内海はまさしくそれのはずだった。だけど内海はそうじゃないって言った。「比山は内海のことをどうでもいいと思っている」と、はっきりそう言った。私はそれに少なからずショックを受けていた。私と内海の間には、少なくとも友愛と呼べる関係性があると確信していた。まあ、そんなことは小っ恥ずかしくて言えたものではないけど。
私のどういった言動が内海にそう思わせたのか、いつからそう思われていたのか。それが内海の精神状態にどう作用し続けていたのか。グルグルと堂々巡りする。身の回りの人間に険悪な雰囲気を纏われて素知らぬ顔をできるほど、私は孤独を愛せていない。
頭の中が真夏のアイスみたいにドロドロに溶け切っていて、何が正しいのかわからなくなってしまっている。肉体もそうなっちゃえばいいのに。
「比山さん?」
今日はうんざりするくらい声をかけられる。内海はいないっていうのに。
首だけで振り返ると、ベンチに座っていた女性の1人が、蒸気機関車の説明書きを覗き込むように立っていた。内海と一緒にいた時に目が合ってしまった人だ。
振り返った長髪に、懐かしさがこみ上げてくる。
「山本先生?」
「私のこと、覚えててくれたのね!」
遠くで男の子が「お母さん、誰―?」とガキ特有の大声を発している。一緒にいたはずの女性たちには「元教え子」とかなんとか言ったのか、私を特段気にしている様子はない。
山本先生は私が小学五、六年生の時の担任だった。若くて美人な先生だと、他の教師から持て囃されていた。小学校を卒業してから顔を思い出すことはなかったのに、目の前に現れると不思議と蘇ってくる。
「私が産休に入ったのが、比山さんたちが六年生の時だったから……もう五年になるかしら。少し見ない間にすっかりお姉さんになったわね。ほら、あそこの一番背の高い子、私の子どもなの。早生まれなのに同じ年の他の子と比べても成長が早くて、いま通っている英会話教室の先生にも、他の子より上達が速いですね、って言われちゃって」
ああ、私、あの時は気付きもしなかったけど、多分こういうところが薄っすら嫌いだった。自分の話は聞いてもらえて当たり前、自分は優遇されるべき人間だというお姫様思考が滲み出た話し方。話題こそ今は子どもにフォーカスされているけど、自分と子どもを同一視しているのか、あるいはそんな子どもを育てている自分に酔っているのか。この人、こんな感じでママ友付き合いとか大丈夫なんだろうか。さっきまで聞き役に徹しているように見えたのは私の見間違いだったのかとすら思う。
そういえば、私と内海を仲良くさせたのはこの人だった。
私は小学生だった自分が死ぬほど嫌いだ。特に五、六年あたり。死後「人生で一番嫌いだった時期は?」と聞かれたら即答できるほどに。
小学生時代の六年間、自分の事を神様だと思っていた。歳を重ねるごとにその思い込みは激しくなっていき、特に五、六年生あたりには最高潮に達した。早熟の中二病、あるいは小五、六病だった。
テストの成績は何をしなくてもいつも上の方だったし運動もできた。五〇m走のタイムはたいてい一番目か二番目で、運動会のリレーではアンカーを務めるほど。大人受けも悪くなく、クラス委員に立候補するくらいには自信に満ち溢れていた。もし負けん気の女子が他にいたとしたらこうはいかなかっただろう。
かたや内海はいじられるしかないタイプ。教科書とノートには臭くて変な汁がついていて、それが入っているランドセルも「博物館から昭和の実物資料でも貰ってきたの?」と噂されるほど汚かったし、私服通学なのに長袖の青い体操服を着ているところしか見たことがない。そのくせ体育はほとんど見学で、たまに出たかと思えば酷いロボットアクションを皆に見せつけた。運動会ではどのグループにも嫌がられる運動音痴っぷり。
内海と同じクラスになったのは五年生からだ。山本先生はきっと内海の存在を危惧していた。だから春の遠足の前に内海だけがいない教室で「あの子は片親で母親に虐待されている貧しい家庭の子どもだけど、いじめたりはしないように」みたいなことを、嚙み砕いて、遠回しに言った。『虐待』という単語は流石に出していなかったような気がするけど、今の時代ならPTAも真っ赤な発言だ。
若くてきれいな山本先生。教職に就いて二年目で担任を任されていた山本先生。私たちの前ではヒステリックに叫ぶくせに、他の先生の前では良い顔をする山本先生。当時の私は大人に憧れるばかりであまり気にしていなかったけど、絶対に関わりたくない人種。あの時だっていつもお父さんのたばこみたいな臭いがしてたから、近づくのは避けていたけど。
お姫様の山本先生はきっと、自分のお城とも言えるクラスにドブネズミみたいな内海がいるのは耐え難かったんだろう。
落ちこぼれのドブネズミと、お城を清潔に保ちたいのに追い出せないお姫様。現実世界では生徒と教師という関係だから排除しようにもできない。だからそのドブネズミを小綺麗にして飼うしかない。だから私をあてがった。
「比山さん。内海さんに勉強を教えてあげてほしいの」ほら、最近内海さんと仲良いじゃない。山本先生はそう付け加えた。
小学五年生の夏休み前、ロッカーのものを片っ端からランドセルに捻じ込む時期。珍しく職員室へと呼び出されたかと思えば、山本先生からまさかのお言葉。まさしく晴天の霹靂とも呼べる内容に、私は多分、猫を被るのも忘れて露骨に嫌な顔をしてしまったと思う。
「でも、内海さんで、やる気とか? ないじゃないですかあ」
教えてあげるのはいいけど、という言い方で断る雰囲気を出した。
クラスで内海に最も多く声をかけていたのが私というだけで、特段仲良くはなかった。それも学級委員たる人間の勤め、あわよくば教師の評価を上げるために他ならない。
なんてったって当時の内海は今と違ってものすっっっっっごくつまらない人間だったから。流行のゲーム機も持っていなければドラマとかアニメの話にもついてこられない。もちろん塾にも通ってない。「何が好きなの?」と聞けば「なにも」とヘラヘラ笑いで返して周囲をイラつかせるのが定番だった。そんな感じだから帰りの会が終われば話すことはなかったし、一緒に帰ったことも、休日に会うことすらなかった。しかも臭くてとろいやつと、夏の間だけでも2人きりで過ごすなんて冗談じゃない! 私にだって予定はあるのだから。
そんなことは山本先生も承知の上だったんだと思う。だけど先生は大人げなかった。自分の目的のためにはどんな手段も厭わない。子どもを利用するのだってその内にある。
山本先生はうーんと困り眉をまず私に見せつけた。服装以外のおしゃれを知らない田舎の小学生にとって、整えられた眉根の下がるさまは芸術作品にだって例えることができる。
「これから夏休みに入るでしょう。内海さん、おうちで集中して勉強ができないみたいだから」
それには少し納得がいった。内海の頭が悪いのは周知の事実だった。
多分だけど、内海は授業内容をほとんど理解していなかった。ノートすらまともにとれない始末で、休憩時間いっぱいまで懸命にノートに影を落としている横で、日直の女子が聞こえよがしに文句を言っていた。またテストの点数も酷い有様らしく、「まあ内海さんに比べたらマシかあ」とこぼす声が聞こえたことがある。
そんなやつを、この私が? わざわざ時間を割いて? わけがわからない。
「だから、優等生の比山さんに見てもらえたらなあって。ほら、比山さん賢くて頑張り屋さんだから」
職務放棄も甚だしい一言だったけど、私にとっては垂涎モノの甘言だった。
思い返せば思い返すほど見え見えのそれに対して、小五病真っ只中の私、あまりにも単純すぎ。「内海はやる気がない」に全く対応していない返事で、こちらを持ち上げておけば勝手に自分の利益に貢献するだろうという魂胆が見え透いているのに、「大人に認められている私!」「大人を以ってして賢いと言わしめる私!」頭の中はそれだけがどうしようもなく膨らんでいた。山本先生もさぞ扱いやすかったことだろう。
二つ返事で、私は内海の勉強を見ることとなった。
内海は夏休み初日からお盆の前まで、水泳の補習で朝から学校に来ていた。学期末のテスト、平泳ぎで足が攣って溺れかけたらしい。その補習期間がそのまま私たちの勉強会の期間となった。
まず私は内海の本気の理解度を知るべく一学期最後のテスト用紙を並べさせた。このときに初めて一桁台の赤文字を見た。理科だけ辛うじて二桁だったが、記述問題の主語と述語の繋がりが暗号文を連想させた。内海の頭はお気楽能天気な私の想像を超えて壊滅的だった。
昼、教室に集合して、時折休憩をはさみながら17時まで勉強をした。当時、教室にクーラーは設置されていなかった。今みたいに酷暑日と呼ばれる日はそれほど少なかった気がするけど、日当たりの良い教室内では汗が止まらない。向かい合った内海はサラミの脂を凝縮したような臭いがして、それがプール終わりの塩素の臭いと蒸れた空気も相まって、窓を開けていても長時間いると吐きそうなくらい気分が悪くなった。休憩時間には2人してベランダに出て、プール開放ではしゃぐ下級生や同級生の姿を眺めながら「私たちも泳ぎたいね」って言い合う。
私の努力のおかげで夏休みの宿題の7割くらいは終わった。といっても内海はそれほど地頭が悪いわけではないようだと、勉強会を始めてから気づいた。最初の内は一問を解くための開設で長針が2周するほど時間を費やしていたのに対して、8月に入る頃には半分以上の問題は自力で溶けるようになっていた。
「バカなのにちゃんと勉強できるじゃん」
素直な称賛のつもりだった言葉。今に思えば失礼極まりなさすぎる。
内海はパッと顔を上げて私を見る。脂の臭いが風圧で漂ってきて、私は反射的に顔を背けた。
「勉強、楽しいよ」
比山さんも一緒だし。私はその言葉にちょっとドキッとした。この頃の内海はモサかったけどかわいげがあったな。
「いつもそんな感じで勉強してたら100点なんて余裕でしょ。この調子で家でも勉強すればいいじゃん」
「家は……お母さんが怒るから」
「なんで?」
親なんて「勉強しろ」botばかりだと思っていた私には意外な事実。まあ実態は虐待ネグレクトおばさんだったわけだけど。
「『女にガクがあるとモテない』んだって。だから、テストもあんまり」
良い点をとったら怒られるんだろう。名探偵比山は内海容疑者のこれまでの行動の裏が取れた。
「そんなん無視しとけばいいんだよ。お母さんの前では勉強できないフリして、今日みたいに学校で勉強すれば」
私も寝なさいってお母さんに言われても、寝たフリして布団の中でゲームしてるし。と付け加える。悪ガキのクソ知恵。
そんなものにさえ感激したのか、内海は私の方へ身を乗り出した。内海の目をしっかりと見たのはこの時が初めてだった気がする。大きく見開かれたその中で私の姿がぼんやりと反射していた。
瞳孔が萎んで人より暗い虹彩が目立っている。瞳孔にほど違い色のそれは、光を吸収しはしないのだ。それは内海の本心を匿うのと同時に、モノの本質を映し出すんじゃないかとさえ思えた。
「神様みたい————比山さんって、神様みたい!」
「うぁ……う…………」
私はしばらくの間、内海のその瞳に見入ってしまって、情けない声ばかりあげていた。内海の目いっぱいに映る私は神様なんじゃないかと錯覚してしまって、本当にそうなのか確かめてみたかったからだ。
「比山さん! また、休み明けに!」
最終日、内海は私が背を向けて歩き出すまで、手を大きく振り続けていた。
夏休み明け、内海の小テストの点数は87点だった。
それからの内海は私の後ろについてきて、私のやることなすこと全部に「すごい、すごい」ってそればっかりで。それにつられた同級生も少しばかりの称賛の声をくれた。それが渦巻いて真実になっているような気がした。
「内海を正しい方向へ導いてあげられるのは私だけなんだ」「私は内海の神様なんだ!」
どうすればもっと内海に期待されるか。すごいと思ってもらえるか。ほんとにそればっか。あの頃の私は、内海の真実の瞳に、煌々と輝く神様を映してもらいたくて必死だったのだ。承認欲求に飢えて、利他の名を冠した自己愛に依存した。
他の誰でも良かったはずなのに、自分が救った内海に溺れてしまっていた。
山本先生もなんだか機嫌が良かった。不安の種がひとつなくなったからだろう。それもいけなかった。私は思いあがっていた。ちょっと背伸びしたい小学生の時分に満たされた気持ちになって、虚像を真実だと思い込むくらいにはバカで単純だったのだ。私という人間は。
「そういえば、さっき……1時間くらい前だったかしら。一緒にいた子、内海さんよね? 今もまだ仲良しで安心したわ」「人と人との縁って意外と続かないものだから」
「ついさっきケンカ別れしたところですけどね」
良いことを言った、と言いたげなその顔に向けて、そう返してやったのは強かなイジワルだ。
「そうなの」山本先生はそれだけ言った。変だな。山本先生の怒りスイッチを押せると思ったのに。————リナに歯向かって、内海を怒らせて、山本先生を煽って。嫌だな。今日の私ってばすごくイヤなやつ。
「……子どもってね、すぐ成長してしまうのよ。でも、私は自分の生活を優先してしまったから。……同じ子どもでも、生徒相手とは全く違ったわ。生徒にとって先生はたくさんいるだろうけど、子どもにとっての親って、たったひとりしかいないんだって、今さら学ばされちゃった」
————だから最期くらいは、あの子の親でいてあげたいの。
「なんで?」「なんで、今さら、そんなこと言うんですか。それって先生の、親のワガママじゃないですか」
これはきっと内海が聞きたかったこと。そして私の心からの疑問。期待もなく愛される必要条件とはなんだろう。
「そうね……比山さんの言う通りだわ。私のワガママよ。私、今までずっと生き急いできた。自分の楽な方へばかり進んで、嫌なことはできるだけ人に押し付けてきた。あの子もそう。実家に育児を押し付けて、独身気分なまま遊んでたの」
山本先生は自嘲気味に笑った。
「隕石のニュースを見て、疑似的な臨死体験でもしたのかしらね。私が今までやってきたことは一体何だったんだろうって。……1週間前にあの子と外に出たの。ベビーカーを押してたころ以来だったわ。私の手を握れるくらい大きくなっていたし、色んなところを楽しそうに、新鮮に見て回ってた。そしたら泣き声が煩わしくて育児から逃げてたのがバカらしくなっちゃって! いま、ここにいるのも親のワガママ。あの子のやりたいことをちゃんと見届けていたいの」
いやだ、いやだ。山本先生はそんなんじゃない。もっと自分勝手で、ヒステリックで……そうでなきゃいけないのに。
そうでなきゃ私の思い出が壊される。
「今さら、っていうのには、賛同してるわ。なんて言うのかしら。母親として一歩成長したってことなのかな。今はただ、あの子にできるだけ愛情を感じてもらえるようにしたいの。……どう? 比山さんから見て、ちゃんと成長できてる?」
何かを答えようとしたところで、スマホが震えた。着信だった。
「内海さんからかしら。出てあげたら?」
嫋やかに笑って、山本先生はベンチへと戻っていった。
山本先生の言葉は見当外れで、着信はお母さんからだった。
「もしもし」
「あ、もしもし? 今どこにいるの?」
「……電車公園……の近く」
嘘を吐く必要はない。と思う。
「あらそう。いつ家に帰ってくるの? きょう、芽衣ちゃんの好きなハンバーグだよ。昌治さん、もうすぐ仕事終わるって言ってたし、迎えに行ってもらおうか?」
お母さんは娘の前でも、お父さんのことを昌治さんと呼ぶ。結婚して18年は経っているというのに、いつまでも新婚気分で、見ているこっちが居た堪れなくなるくらいだ。
「……いい。今は友達といるから」
「お友達って、内海さんとこの?」
少し怒気を孕んだその声に、睨まれているわけでもないのに顔を伏せた。
「そう」
「あんたねえ。卒業したら大学生なんだから、付き合う子は選んだ方がいいわよ」
「……選んでるよ」
お母さんは内海のことが嫌いだった。放課後に内海を家に誘った時、お母さんは玄関口で内海に対して「家が汚れるから入ってこないで」と面と向かって言った。怒るでもなく、常識を諭すような物言いで。それからは裏口からこっそりと内海を家に上げるようにしたのだ。
お母さんの頭の中にいる内海は、薄汚い小学生のままだ。
「ちゃんと選べてないから言ってるんでしょ。こんな調子で結婚なんて大丈夫かしら。将来、ミユキおばさんみたいになっても知らないわよ。結婚と言えば向かいの家の————」
ミユキおばさんはお母さんの年の離れた妹で、未婚のまま30歳を迎えて、親戚からは針の筵状態になっている。本人はたまにしか帰ってこないし、あまり気にしていないみたいだ。一度だけ、「結婚はできないけど恋人がいる」と教えてくれたことがある。
「お母さんさあ」
「なあに」
「私のこと、好き?」
「ちゃんと好きよ」
「……私、大学行くのやめようかなって思ってて。高卒で働こうかなって」
「ワガママ言っちゃだめよ」
近所のスピーカーおばさんに絡まれた時と同じ声色。私はこの声が苦手だ。
小学生までのお母さんは、もっとおっとりとした話し方だった。優しくて、おやつにシフォンケーキを作ってくれるような人だった。それが段々と変わっていって。私への期待値が下がってしまったのが原因だとは分かっている。
大学進学を決めたのもお母さんが強く勧めたからだった。「期待に添えられていないのだから、大学くらいは卒業してもらわないと」という強い意志が感じられた。私もこれ以上失望されるのが、お母さんの声が冷たくなっていく過程に耐えきれなくて、従うほかなかった。
「今どき大学に行かなきゃ、まともな職につけないわよ」
「じゃあ高卒で働く人たちはまともじゃないの」
「屁理屈言わないの。内海さんとこの子に影響されちゃったのかしら……とにかく早く帰ってらっしゃい」
「帰らない」
小学生の頃から期待されていることには慣れていた。独り占めされているようで気分が良かった。だけど期待されるような人間ではないことに中学生で気が付いてしまった時、あるいは自分が思い描いている人生を送れるほどの能力がないことに気が付いてしまった途端、それが重くのしかかるように感じていたのもまた事実。
生きることを期待されて、持て囃されて。なんだかもう、疲れてしまって。
期待されることに慣れているけど期待されたくない。でも失望されたくもない。だから反抗期にすらなれず、ただ親に求められるがままに過ごしていた。
「あんな夜職の子の言うことなんて聞く価値ないでしょう」
内海の母親は確かにそうだ。内海も卒業後はそっち系の職に就くこと以外認められないと愚痴っていた。そういえば就職先については聞いたことがない。
「卒業したらすぐ会わなくなるわよ」
『人と人との縁って意外と続かないものだから』山本先生だった人の声を反芻する。確かにそうだと思う。小学生だった頃の友達で、連絡先を知っているのは数える程度だ。だけど、だからこそ、大切にしなきゃいけない。不確定で不明瞭で非定義的な関係だからこそ、取りこぼさないように。
歴史の死体が私を見ている。
ああ、私。この人の言うことを聞き続けていたら、そのまま老いていくんだろうな。
だから隕石っていう運命に一目ぼれしてしまった。あてどなく走るよりも、運命に集束してしまうほうが遥かに気が楽だったのだ。
海が怖いのは私だ。漫然とした運命は受け入れ難い。
涼しさすら感じていた空気が重たくなって、急にぜんぶが恐ろしくなってきた。
地球に隕石が衝突することなんて、本当はないんじゃないかって。なおざりになっていた疑念が今さら顔を出してきている。
そんなことを気にしているのは私たちみたいな、死にたがりのくせに自分で死ぬことを選択できない弱虫ばかりで、ほとんどの人はいつも通りの日常を送っているんじゃないの。
弱虫なのは内海も一緒だったのかもしれない。薄ぼんやりとした不安が、私に赦しを求めていた。他人に委ねて満たそうとしていたのかもしれない。
だけど。このままじゃきっと、緩やかな終わりを待つのろくさな大人と同じだ。
変わりたい。
内海の隣で自信を持って笑える私になりたい。『神様』はもう見ないで、内海の目をちゃんと見れるようになりたい。
「————とにかく、昌治さんに迎えに行ってもらうから、ちゃんと待ってなさい」
「待たないよ。家にも帰らない」
もういいんじゃない? 『期待される子供』じゃなくて。
だからこれは反抗期だ。最初で最後の、私からの小さな裏切り。
「私のことは私で決めるよ。もう、自分で、決められるんだよ」
大きく息を吸った。震える声をごまかすためじゃあ決してない。
「あと私……ハンバーグ好きじゃない。ハンバーグ好きなのはお父さんだよ」
スピーカー越しに甲高い声が弾ようという気配がしたと同時に、電話がプツリと途絶えた。
切られた? と思って画面を見るとホーム画面。右上には「圏外」の表示。
ありえない。山奥ならともかく、こんな町中で電波が途絶えるなんて。
現実を見上げる。黒い穴が開いているようだった。いつか図鑑で見たブラックホールを思い出す。天井から見ているそれは、たぶんブラックホールみたいに優しくはない。
運命がすぐそばまで来ていた。
ぜんぶなくなる。
もう、ぜんぶなくなっちゃうんだ。
そうしたら、私たちどうなるの?
私たちの、痛いこと、嬉しいこと、悲しいこと、全部、ぜんぶ、なくなるの? なかったことになるの?
それはいやだ!
私は駆け出した。感情にそぐわない惰弱な意思は放って。
やけくそとはまた違う。内海にもう一度会わなければならないという、明確かつ主体的な目的がそこにあった。
内海はどこにいる? メッセージアプリの通話ボタンを押す。右上の圏外表示は忖度してくれない。
海にはもういないだろう。幼馴染の直観が言う。
確かにそうかも。じゃあ、内海の行きそうな場所ってどこなんだろう。
内海にはやり残したことがあったでしょう。小学生の『神様』が宣う。
やり残したこと?
そうだよ。
そこまでは言ってない。
赦されたいと願っていたなら、母親を殺したことに対して罪悪感があったということだ。
犯人は現場に戻る、的なこと?
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。私たちは内海の機微を悟れるほど、上手く生きられていない。もうずぅっと前に知っていたことだよ。
脳内会議終了。身体の奥で木霊する声につられて、反復するように方向転換した。電車公園から内海の家まではそれほど離れていない。
走って、走って、肺が痛む。昔に比べて走るのが遅くなった。これが帰宅部の欠点だ。運動なんて体育と登下校中の坂道くらい。
100人中100人に勝てるほど私の足は速くない。現に今だって車が私を追い越した。でもそれは走らなくていい理由にはならない。逃げる理由にもならない。言い訳はもういらない。
欠けてるわけじゃないけど満たされてるわけでもない。私はそんな生活で満足する演技を続けてた。
でも内海は違った。どれだけ欠けていても、苦しくても、藻掻いてた。バカだったけど、きっと色んな事を考えてた。
あの頃の内海はもういない。成長した。成長したんだよ。何も成せない私なんかに焦がれちゃって努力して。私とは決定的に違う。ちゃんと血の通った人間だった。
それに対して私って何も持ってないんだ。夢とか未来への切望とか、そういうの。なくたってどうにかなっていた。私ってきっと変わっているんだ。おかしいんだ。ニヒリズムなふりをして取りこぼすことを恐れていた。
その結果がこれだ。不変を求めるあまりに内海の手を払って逃げ出した。正直、怖い気持ちはまだ抜けきっていない。
でも。
内海がいなくなるのは、波が私を捨てて引き返すのと同じくらい空しい。
重たい空気が肺に浸潤して、私の中の嫌な考えを吸収していく。それを思いっきり吐き出した。
視界が歪む。フォームはブレてない。まだ泣くなよって自分に言い聞かせるけど、汗と混ざった勢いのままほうれい線から首にかけて伝っていく。
いた。内海の家へ向かう途中の、軽自動車一台通れるかすら怪しいうねった坂道。なよなよしい脚が半歩、また半歩と進んでいる。
「うつみっ!」
足を止めて、ゆっくりとこちらを振り返った。項垂れたまま。強風でも吹いたのかというくらいぐしゃぐしゃになった髪は内海をより陰気に見せている。私は肩で息をしながら減速して、五歩くらい離れた位置で立ち止まる。多分このくらいが適切な距離なのだ。
こういうとき、なんて声をかければいいんだろう。いつもは内海が勝手に話しはじめてたっけ? それに私が呼応して、会話が成り立っていた。でもそればかりじゃなかったはずだ。
「さっきのさ」
揺れた内海の頭がそっぽを向くような気がして、続きの浮かばない一言が私の口からはみ出た。
テレパシーなんてものは存在しないんだから。思ってることは言わなきゃ伝わらない。それがどれだけ陳腐な表現だったとしても。だから続きを、早く。早く。
内海からする蒸れた海の臭い。私はこの正体を思い出しつつあった。
「さっきの、どうでもいいっていうの、本当じゃないよ。私が何をしても、内海が何をしても、友達のままでいられると思ってた」
「じゃあ」
「だから内海にとっての大事な決断は内海のものにしてほしかったんだよ。私じゃもう、内海を導けないから。でも、今の内海のこと、ちゃんと見れてなかった。お母さんを殺しちゃって、怖かったんだよね。……それなのに突き放したみたいな言い方になっちゃてごめん」
謝罪の言葉はするっと出てきた。一番素直な気持ちだったからかも。内海と仲直りがしたかった。
内海は何も言わない。いま畳みかけないと、この機会は二度と損なわれる、そんな予感がする。
「もし私が、私のお母さんを殺したら、内海は私のこと嫌いになる?」
そう言った私に反応して内海は飛び上がるように顔を上げる。
「そんなことっ……」
やっぱり内海もそうだ。私とは違う感情かもしれないけど、内海は私を見捨てられない。
「自分のこと、赦せそう?」
「……わかんない」
「そっか。じゃあ、どうやったら赦せそう?」
「家、帰ってみる」
「そうだね。じゃあ、行こうか」
内海の腕を引いて歩き出した。坂道を登って、右に曲がって二軒目が内海の家だ。
後ろから鼻を鳴らす音が聞こえる。泣いているんだろう。
「内海はすごいよ。私はあの頃となんにも変わってないのに」
ズズズッとひときわ大きく鼻水を啜る音。
「そんなことないよ。比山もちゃんと変わってる。例えば……ちょっと優しくなった」
「私が意地悪だったってこと」自嘲気味に言ってみた。内海もつられて軽く笑った。
「そうじゃなくて……自分じゃわかってないかもしれないけど、比山も、ちゃんと成長してるよ」
そっか。主観じゃ分からなくても、内海から見たら、私も成長できてたんだ。
気付くのがもっと早ければ、地球の寿命がもっと長ければ、私たちは何かを残せたのかもしれない。
「それに、私にとって比山は、今でも神様みたいな存在だから」
久方ぶりに訪れる内海の家は、枯れた蔦が壁面に張り巡らされていた。壁は所々にヒビが入って、蔦はそこから出てきているようだった。前に来た時は「良い感じの古民家」という感じで、古いながらも手入れのされている様子だったのに。
「比山がどれだけ自分で卑下したって、私はそう思ってるよ」
いつの間にか隣に立っていた内海が、ポケットをまさぐって鍵を取り出した。
チリンと、爽やかな鈴の音が鳴る。
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