第2話 草薙の羽化
199X年8月。学校のビオトープで、少年は蝉を見ていた。やや弾性のある草の剣先に、今まさに羽化せんとする蝉が歩みを進めている。やがて、進むべき桟橋を歩み切ったことを知覚したのであろうか、蝉は脚を止め、僅かずつ、背を破り始めた。つい先刻まで着ていた自らの皮に裂け目が入り、真新しい翠玉の薄葉をまとった成体にならんとする個体が、姿を現した。少年は、上手に畳まれていた羽がしわ一つなく展張されてゆく様を、静かに見つめていた。蝉の体は緩やかな硬化が既に始まっており、それに伴って羽の淡い翠玉は徐々に失われてゆくこと、そしてだからこそこの時間は特別に美しく、また儚くも映ることを、少年は知っていた。
ざあっと音がして、一帯の草が揺れた。飼い猫が駆けたのである。理由は知れぬ。ともかく辺りが凪いだ時、蝉は姿を消していた。
羽は今まさに展張されたばかりで、軟らかいはずである。薙ぎ倒された今、あるべき姿は失われたと思われた。羽以外だってそうかもしれない。そう思い至った少年は、自分になす術もないことを知っていたから、蝉を探すことはしなかった。そうして、薄闇が忍び寄りつつあるビオトープを離れた。
彼こそは、後にサヌキ特別行政区の行政長官となる、
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