つばめ荘の幽霊
プンクト
第1話
一.エアメール
階段を降りてきたとき、開けっぱなしの玄関の戸の向こうに人影が見えた気がして、栞(しおり)はサンダルを履いて玄関から顔を出した。
「…びっくりした」
知らない男子といきなり目が合ったので栞は思わず呟いた。
栞と同じくらいの背丈で、頬ににきびなのか蚊に食われたのかポツンと赤い痕がある。眉をぎゅっと寄せて薄い唇をわずかに突き出していた。栞は一目見て、不機嫌そう、という印象を受けた。その唇が開いたかと思うと、
「・・手紙、知らない?」
無理に押し出すようにそう言った。栞はなんだなんだと思いながら軍手を脱いでジーンズのポケットに突っ込んだ。
「手紙?」
「エアメール」
栞は目を大きく見開いた。エアメール!?
昨日、ヨウタが郵便受けにこんなものが入ってたと持ってきたのが、「by AIR」と書かれ外国の切手が貼られたエアメールだったのだ。自分たち宛ではなかった。
「ちょっと待ってて」
栞は慌てて家の中に引っ込むと手紙を探した。ごたごたの中で見つかるか心配だったが、手紙は居間のテーブルの片隅にあった。急いでそれをひっつかんで戻る。
「あった。えっと、あなたがこの」
と栞は宛名に目を落とし、
「甲斐くんなの?ここから引っ越した人?」
と続けた。そう、甲斐という変わった苗字だった。「甲斐翔太様」とある。昨日までこの苗字の表札がかかったままだったので、間違えて配達されたのだろうか。今日郵便局に届けようとお母さんが言っていたが忙しさですっかり忘れていた。
「そう」
甲斐という子は手を出して受け取ろうとしたが、栞はためらった。この子は栞たちの前にこの家に住んでいた「甲斐翔太」なのだろう、たぶん。だけど確実にそうとは言えない。
「悪いんだけど、あなたが甲斐くんだって証明、出来る?」
男の子は驚いたように栞を見て、なに言ってるんだこいつと言いたげに肩をすくめた。栞はその仕草にカッとなったが自分を抑えて口を開いた。
「交番でも、身分の証明ができなきゃ落とし物を返して貰えないでしょ」
「あんたお巡りさんじゃないだろ」
険しい視線だった。栞はひるみそうになりながら黙って見返すと、男の子はやがて舌打ちをして、体に斜めにかけていたバッグを前に回し、黒い財布を取り出した。これ、と栞の前に突き出したのは図書館の貸し出しカードだった。甲斐翔太と印字されている。
「はい、ありがとう」
栞がカードを見て手紙を渡すと、甲斐という男の子は何か口の中で言い、手紙を持ってすぐ歩き出した。
無愛想なやつ!
栞はその背中を見送って、玄関を外から見た。古い木製の戸の上には色付きのガラスがはめ込まれている。一羽のつばめが空を飛んでいるデザインの、ステンドグラスというものだ。ねえ?とつばめに心の中で話しかけると、軍手を再びはめた。
引っ越してきて二日目、やることはまだまだあった。
二.転校初日
お母さんと栞はそれぞれの支度をして外に出た。十一月の朝の空気は思ったより冷たく、栞はグレーのカーディガンのボタンをかけた。
「可愛いよ」
お母さんは笑顔で言ったが、申し訳なく思っているのが伝わり、栞はにやっと笑って見せた。
「あたしはなんでも似合うの」
引っ越してくる前に一度ここに来て、色々な手続きのついでに栞の制服も店で採寸して注文したのだ。しかし、制服の注文には季節外れだったせいか、今日の登校には間に合わなかった。中学校に相談した結果、制服が出来上がるまでは私服でいいことになったが、「くれぐれも華美でない服装で」という条件つきだ。白いブラウスにグレーのカーディガン、下は黒いスカートという服装は、お母さんと栞の服を総動員してファッションショーをした挙げ句決定した、小川家で用意できる「もっとも地味な服装」だった。
ヨウタはまだ玄関でぐずぐずしている。ヨウタは小学二年生。アニメのキャラクターのついたトレーナーにジーンズという服装だが、小学生はもともと私服通学なので問題ない。が、その顔は緊張で白かった。
「ほら、新しい靴、早く履きな」
栞は気を引き立てようとして言った。効果はあまりないようで、黙って靴を履いて歩き出す姿には、とぼとぼという形容がぴったりだった。
三人は連れ立って歩いたが、途中ヨウタの小学校の前で栞は二人と別れた。お母さんはヨウタに付いて小学校へ行き、遅れて仕事へ向かうのだ。
「じゃあ、しっかりね。道は大丈夫ね?」
お母さんが小学校の校門前でそう言って心配そうに中学校方面を見やったが、栞は今度は強がりでなく笑った。
「誰に言ってんの」
栞は道を覚えるのが得意なのだ。先週一度中学校に行っているし全く問題はない。お母さんも、そうだね、と笑うと手を振った。栞はヨウタのやたら大きく見えるランドセルをぽんと叩いて、今にも泣きそうな顔に、じゃねと言って歩き出した。
道を曲がり、中学校に近づいても、中学生は少なかった。たぶん時間が早すぎたのだろう。栞は鞄を背負いなおした。ここの学校指定の鞄は横型で、背負うようになっている。手には学校指定のナイロン製のサブバッグを持っていた。中には、上靴や、体育があるのでジャージの上下が入っている。
持ち物はどう見ても中学生、でも服装は全然違う。こりゃ目立つだろうな。栞は内心ため息をつきながら校門に入った。まず職員室に来るように言われていた。失礼しまーす、と職員室に入り、担任の先生はどんな顔だっけ…ときょろきょろしていると、見覚えのある五十代くらいの男の先生がおうと手を上げた。
「来たな。…なんだか、市役所の受付にいそうだな」
栞の服装を見て笑いながら言った。栞は苦笑し、そうだ、名前は確か橋本先生だ、と思い出しながらおはようございますと頭を下げた。
橋本先生から書類や色々な物の入った紙袋を受け取り、それらの説明を受けているうちに、静かだった廊下がどんどん騒がしくなっていくのがわかった。
「…まあ、そんなところかな。またなんでも聞いてよ。さてと。誰かいるかな」
橋本先生はついてくるように手で合図しながら戸を開けた。玄関からこちらに歩いてくる生徒を品定めするように眺めている。横に立つ栞は紺色の制服の波に圧倒されていた。ひと、ひと、ひと。でも知っているひとは誰もいない。心臓がきゅうっと小さくなった。
「森崎」
先生は一人の女の子に声をかけた。ポニーテールの小柄な女の子が驚いたように先生を見て、隣の栞に目を移した。
「これが転校生の、小川…なんだっけ。そう、栞。教室まで一緒に行ってやって」
森崎さんははあいと返事をして、栞にニコッと笑いかけた。笑うとえくぼが出来て可愛い。
「行こうか」
「うん」
並んで歩き出したが、栞は何を話せばいいかわからず無言だった。名前はもう先生が言ったし。栞は自分が緊張していることに気付いた。ヨウタもこんな気持ちだったんだ。わからなくてごめん。あたし、鈍いのかな。今まで緊張してることに気付かなかったよ。
「えっと、あたし、森崎みくるっていうの。同じ二年一組だよ」
階段を上りながら栞を見上げて笑顔で言ってくれたので栞はホッとした。
「みくるちゃん。可愛い名前だね」
ありがと、と恥ずかしそうに言って、みくるは階段を上りきったところで指差した。
「二年の教室は、三年の教室通り過ぎてあっちなの」
その時だった。後ろから何かがドンとぶつかってきて、栞はバランスを失って尻餅をついた。
「痛ぁ」
自分が廊下に座り込んでいることに気付いて、痛さはほとんどなかったが、恥ずかしさを紛らわすために栞は声を上げた。
「だ、大丈夫?!」
みくるはびっくりして立ち止まった。その視線が栞の後ろに向けられたので栞が振り向くと、同じように座り込んでいる男子と目が合った。染めたような茶色い長い前髪が目にかかっている。走ってきたのか息を弾ませていた。この人がぶつかってきたのだろうか。彼は謝りもせず、立ち上がってかけていこうとした。が、後ろに現れた大柄な男子に捕まって引きずられるように連れていかれた。
「なんなの…?」
栞が呟くと、みくるは顔をしかめながら、転がっていた栞の紙袋とサブバッグを拾ってくれた。
「あの人たち、三年生。三年生はちょっとガラが悪いっていうか」
歩き出しながら栞が振り返ると、大柄な男子が笑いながら、栞にぶつかってきた男子の体をべたべた触っていた。栞にぶつかってきた男子は、やめろよ!とキレたように言い、大柄な男子を振り払うと走り出した。
「二年には、あんな人あんまりいないから、心配しないで、ね」
みくるは心配そうに栞を見た。栞がこの学校を嫌いにならないか心配しているみたいだった。優しいなあと、栞は嬉しくなった。
「ううん、びっくりしただけ」
「なんなんだろうね。痛かった?」
「大丈夫だよ」
二人は二年一組に着いた。
戸を開けたとたん、おしゃべりがぴたりとやんで大勢の顔が一斉にこちらを向いたので、栞は顔がカッと熱くなった。えいっと冷たい水に潜るときのような気持ちで歩き出す。早く席に着きたかったが、自分の席がわからず栞は救いを求めるようにみくるを見た。
みくるが、こっちだよ、と言って案内してくれたのは前から二番目、窓際の机だった。栞が椅子に座ったとたん、周りの女子が集まってきた。どこから来たの?制服、なんで着てないの?どこに住んでるの?
ひとつひとつ質問に答えていると一人の男子が教室に入ってきた。こちらに歩いてくるので何気なく顔を見て栞ははっとした。昨日うちに来た男の子だった。栞の隣の席に鞄を置いている。勘違いではない証拠に、その男子も栞を見て驚いた顔をした。その胸の名札に「進藤」とあるのを見た栞は、自分でも知らないうちに口を開いていた。
「転校したって嘘だったの?名前も違う、甲斐くんじゃないじゃん」
皆が驚いたように栞を見たのがわかった。
甲斐くん(?)は眉をひそめて栞の顔をちらりと見た。鞄の中身を机の中に突っこみながらぶっきらぼうに言った。
「転校したなんて言ってない。引っ越しただけ」
転校したなんて言ってない。引っ越しただけ。
その意味が頭に染みこむまで数秒かかった。栞は転校の伴わない引っ越しなんて知らなかったのだ。そうか、近くに引っ越したら転校しない場合だってある。やっとそう思い至って栞は顔を赤くした。その時には甲斐くん(?)は自分の机から離れていた。
女の子たちは顔を見合わせている。
「進藤を知ってんの?」
みくるが聞いた。栞が曖昧に頷くと、思い当たった顔をした。
「ああ、さっきつばめ荘に住んでるって言ったもんね。前に進藤が住んでたとこだ」
つばめ荘というのが栞の新しい家の名前だ。民宿でもなくアパートでもない一軒家にそんな名前が付いているのが栞にはなんだか不思議だったが、その名前はこのあたりの子たちにも浸透しているらしかった。
「苗字は…」
苗字はなんで違うの?と言いかけてやめたのがわかったのか、みくるの隣のショートカットの女の子が困ったような顔で言った。
「前は甲斐だったんだけど、この夏からお父さんと暮らすことになって、進藤になったの」
家庭の事情で苗字が変わったということか。
どうしよう。嘘をついたと決めつけるような、ひどい言い方をしてしまった。
栞は後悔した。
進藤くんは隣の席なので、謝るチャンスはあるはずだが、栞は謝るタイミングがわからない。進藤くんは全くこちらを見ず、栞の存在に気付いてもいないような態度だった。怒っているのか、栞のことなど眼中にないのか。
一時間目の数学はもやもや悩んでいるうちに過ぎてしまった。二時間目は体育だった。みくると活発そうなショートカットの高橋さん─高橋沙希が更衣室まで連れていってくれた。
「今、ずっとマラソンなの。最悪」
みくるはスカートの下にジャージを履きながら言った。
「雨、降って欲しかったよねえ。栞ちゃんは、何か部活してたの?」
「美術部だったの。でも絵とか下手だけどね。どこかに入らなきゃいけないから入ってたって感じ」
へえ、と沙希は意外そうな声を上げた。
「まさかの文化系。こっちでも入る?美術部」
「うーん。ここは、部活、強制じゃないんでしょ?」
「うん、入らなくても大丈夫。わたしは吹奏楽部で、沙希はバスケ部だよ」
「なんか二人ともそんな感じだね!」
話しているうちにみくると沙希と仲良くなれた気がして心が弾んだ。ジャージの上下に着替えると、沙希が
「新品、ピカピカ」
と栞を見て言った。
「皆と同じになってなんかホッとした…。あの服装、浮きすぎだもん」
栞が苦笑いして言うと、二人はくすくす笑った。
「栞ちゃんて背も高いし大人っぽいから、なんか若い先生に見えたかも」
「廊下で見たとき、実は一瞬、教育実習の先生かと思った」
とみくるが言ったので、栞は、えーショックと笑った。
「あ、体育のあとだったら、ジャージのままでも大丈夫だよ。本当は駄目かもしれないけど、そういう人多いし怒られないよ」
「そうなの!?」
いいことを聞いて栞は元気になった。
実はマラソンも嫌いではない。マラソンは学校の周りを二周するらしいが、学校の敷地には小さな林のようなものまであるので、けっこう距離がある。疲れたとか、あとどのくらいかな、などと考えてはいけないというのが栞の持論だった。栞はいつも走りながら好きな歌を頭の中で歌う。走ってる自分がカッコいいと思えるようなテンションの上がる歌を。林を横目で見ながら走る。林は暗いが、中でも黄色くなった葉っぱは光って見える。土の匂い、湿った葉の匂いを吸いながら、頭の中で歌っているうちに、栞は先頭グループに入っていた。
タッタッと足音が近づいてくるのを頭の片隅で感じてはいたものの、突然ふーっと左耳に息を吹きかけられて栞は「わっ!?」と叫んでのけぞった。
「どうもー」
左隣から笑いかけてきたのは日に焼けた、すらりとした体つきの女子だった。子馬のような軽快な足どりだ。
「見かけない顔。もしかして、一組にきた転校生?」
「そうだけど…」
「名前は?あ、あたしは二組の日野ね」
その馴れ馴れしさに圧倒されながらも、小川栞、と答えると日野さんは顔を寄せてきた。
「小川さん、足速いねえ。どう、陸上部に入らない?」
走りながら、息も切らさず話しかけてくる。日野さんは陸上部らしい。
「やだよ」
栞は走るペースが乱されてきていることを感じながら答えた。
「もう二年生も後半でしょ。今さら部活に入りたくない」
日野さんはあははと笑った。
「今さら新人扱いはイヤかあ。まあ気が向いたら、陸上部見に来てよ」
日野さんはしばらく栞の横で並んで走りながら話しかけてきた。転校してきて何か困ったことはない?わからないことは?
「特にないかなあ。でもありがとう」
走りながらこんなに喋る人いる?と思いながら、栞はおかしくなって笑った。変な人。
日野さんは、そう?じゃあねーと言うと、ぐんとスピードを出して駆けていった。
体育の授業が終わったあと、更衣室で沙希がにやにやして言った。
「栞ちゃん、ピノに絡まれてたね」
ピノ。少し考えてわかった。
「日野さんのこと?」
栞は着替えないことにして、さっきまで着ていた服をサブバッグに入れた。厚手のカーディガンがかさばるのでぎゅうぎゅう押し込む。しかし完全に入れるのは無理で栞はファスナーを閉めるのを諦めた。バッグからはグレーの袖がぴょんと飛び出している。
「うん。ピノって速い人に話しかけてペースを落とさせるの」
「通称ランナーキラー。栞ちゃんがあんなに速いって知ってたら忠告したんだけどね」
みくるが言ったので栞は吹き出した。
「ランナーキラー?」
「ダサッ!・・って思ったでしょ」
いやいや、と首を振りながら栞は笑った。いろんな人がいる。だから学校は面白い。
「ただいまー」
口の中で呟きながら、背負った鞄に付けたリール式のキーホルダーから鍵をするすると引っ張って引き戸の鍵を開けた。引き戸はガラガラと音がする。
ヨウタはいない。授業のあとは学童保育に行くので、お母さんと帰ってくることになる。帰ってきて一人なのには慣れていた。だけど、前はマンションだったのに、今は小さいとはいえ一軒家。帰ってきたときの感じが違うのだ。
玄関の戸を開けると、靴を脱ぐところ。すぐにもう一枚の戸で区切られているのでとても狭い。北国はこうやって玄関を独立させて、寒さが家の中までいかないようにしているのだとお母さんは言った。戸を開けると右側にトイレ。浴室。左側に階段がある。階段の下は三角形の物置になっている。その横を通り過ぎてまっすぐ進むと居間と台所がある。居間は広いが、台所は狭い。居間の横には小さな和室があって、その縁側から庭に出ることができる。
ここで、階段のところまで戻って二階へ。二階には二部屋と物置部屋がある。大きい方の部屋にお母さんとヨウタが寝る。小さいほうが栞の部屋だ。
栞は手を洗って居間のソファに寝転がった。
あー疲れた。おやつ食べたい。けど、眠い。
帰りの会のときに思い切って隣の進藤に謝った。許してくれたのかどうか、こちらをちらりと見ただけだった。どうも進藤には話しかけにくい雰囲気がある。沙希は、進藤が無口で無愛想なのは前からだから気にしなくていいよと言ったけれど・・。
栞はいつの間にか半分眠りに落ちかけていた。
が、何か気配を感じた気がして栞は目を開けた。玄関の戸が開くようなはっきりした音はしなかった。栞は横向きに胎児のように丸くなっていたが、顔だけ起こして周りを見た。そして凍り付いた。
誰かがいた。少女だ。台所からこちらの方へ向かって歩いてくる。白いブラウスに紺色の吊りスカート。何かを探しているのかきょろきょろと辺りを見回している。肩より長い髪をおさげに編んでおでこを出している。ヨウタと同じくらいだろうか。たぶん十歳にはなっていない。あたし、鍵かけなかったっけ?
だれ、と言おうとしたが声にならなかったことに気づいて、言い直した。
「あなた、誰?」
少女は気づかない。真剣なまなざし。白い顔が、いつの間にか暗くなっていた部屋の中で浮かび上がるようだ。栞はそっと身を起こすために一瞬少女から視線を外した。次の瞬間、さっきの場所にはもう誰もいなかった。慌てて立ち上がって探したが少女はいない。
これってもしかして。幽霊!?
寝ぼけていたのだろうか。栞は時計を見た。五時。まだお母さんたちは帰ってこない。栞は頭を振った。早くお母さんとヨウタが帰ってくればいいのに。
お母さんとの約束で、栞が帰ってからやることは決まっていた。宿題をすること。洗濯物が干してあったら取り込むこと。お米を研ぐこと。だがやる気にならなかった。栞はテレビを付けた。色と音が部屋に広がった。ヨウタでさえもう見ない幼児向けの番組を、栞はソファの足元に座り込んでぼおっと眺め続けた。
「ただいまー」
お母さんの声のあとにヨウタのただいま!という声がした。二人が帰ってきた。栞は慌てて立ち上がった。
「おかえりなさい」
「お姉ちゃん、こんなの見てたの」
テレビを見てくくくと笑ったのでヨウタの頬がぷくっと盛りあがった。
「栞、帰りにお店に寄ったら制服出来てたよ。明日から制服で行ってね。・・約束、やってないじゃない。洗濯物、まだ干してあるよ」
お母さんが早口で言いながらもスーツの上着を脱いで椅子の背にかけエプロンをして、ヨウタを洗面所に追いやって手を洗わせ、夕刊に目をやりながら行儀悪くストッキングを脱ぎ捨てている。
栞はめまぐるしく動くお母さんにつられて早足で二階へ向かう。お母さんとヨウタが寝ている部屋から洗濯物のあるベランダに出ると、冷たい外気に触れて胸がすっとした。
もう外は暗い。西の空だけが紫色のような灰色のような微妙な色合いの明るさを残していた。栞は洗濯ものを取り込みながら、暗くなるのが早いこの土地で暮らすことに少し心細さを感じた。
まだ湿っているものだけカーテンのレールに引っ掛け、乾いたものを畳んでいると、ヨウタが来て手伝ってくれた。
さっきの女の子はなんだったのだろう。あれは夢だったのだろうか。まだ半分寝ていたのかもしれない。でももしそうじゃないとしたら・・。栞は目の前のヨウタの顔を見た。聞いてみようか。
いや、駄目だ。こんな怖がりに聞けるわけがない。代わりに、今日どうだった、と尋ねたが、ヨウタはぽかんとした顔をしている。具体的な質問をしなければわからないのだ。栞は言い直した。
「給食、好きだった?」
ああ、と思い出す顔になった。
「なんか、モチッとしたの入ってたね。ピンクの。あれ好きだった」
栞は少し考えて、すき焼き風の煮物に入っていた麩のことだとわかった。小学校と中学校はメニューが同じなのだ。
「うちじゃ出ないもんね。今度買ってもらおうか」
「うん」
「先生は?優しそう?」
「うーん。なんか、早口だった。女子には優しそうだったけど、男子には怒ってた」
「・・ま、せいぜい怒られないようにね」
友達できた?とは、聞かないことにした。
二人は乾いた洗濯物をしまうとトントンと下へ降りていった。
「栞、学校どうだった?」
お母さんが夕飯を作りながら声をかけてきた。栞はお母さんを手伝って大根を切りながら、今日の話をした。この家の前の住人の「甲斐くん」は今は「進藤くん」という名前で隣の席にいる、と知ってお母さんはへーえと驚いていた。
「みくるちゃんって子と、沙希ちゃんって子と仲良くなったよ。今日は部活がない日らしくて、一緒に帰ってきた。お母さんは学校どうだった?」
お母さんはお父さんが亡くなったあとずっと、とある小さな会社で会社員をしてきた。が、仕事内容のきつさと待遇の悪さについに見切りをつけて、今までより北にあるこの街に栞とヨウタを連れて引っ越してきた。今日からこの街の私立高校の教師として働き始めたのだ。
「うん、今のところなんとかやっていけそうかな。生徒はやっぱりお嬢さんって感じだったわ」
伝統のある女子高なのだ。
「ふうん。不良よりはいいかな?でもお嬢さんもそんなに扱いやすいとは思わないけど」
「そんなこと言われなくてもわかってるわよ」
お母さんはにやりと笑った。
「お母さんこの辺で黒い猫見たことある?」
「え?どうかなあ。ないと思うけど」
「つばめ荘の近くに可愛い黒猫がいるよねって。沙希ちゃん、撫でたいけどいつも知らん顔されるんだって」
「プライドが高い猫なのかな。ヨウタは見たことある?」
ヨウタはテーブルで宿題をしていると思っていたが、いつの間にか突っ伏している。栞が包丁を置いてそうっと近づくと、ヨウタはすうすう寝息を立てていた。
「寝てるよ」
お母さんは栞が銀杏切りにした大根をお鍋に入れながら、ため息をついた。
「帰り、泣いちゃって大変だったの。〈なかよし〉、嫌だって」
〈なかよし〉とは放課後の学童保育の名前だ。
ヨウタを叩き起こしてご飯を食べる。ヨウタは寝起きが悪いのかふくれっ面をしている。さっきちらっと見たら全然宿題をやっていなかった。手伝ってやらないと終わらないかもしれない。
栞は今日の体育の時間のことを話した。林の横を走ったこと。ピノという子が話しかけてきてペースを乱されたこと。お母さんは興味深そうに聞いてくれた。
「あの学校の裏にそんな林があるの。知らなかったわ。それにしても」
とお母さんは野菜炒めをお皿に取り分けながら言った。
「栞はお友達を作るのが早いね。・・お父さんに似たのかもね」
「お父さん?そうなの?」
栞はドキッとした。久しぶりにお父さんのことを聞いた。
「うん。お父さんって誰とでも友達になれちゃう人だった」
お母さんはそう言って、少し微笑みを残したままヨウタのほうを見ている。お母さん、人見知りのヨウタの心配をしているんだ。あっという間に自分から心を離されたような寂しい気持ちになった。
あたしだって大変なんだから。みんながこちらを見る中を歩いていく、あの冷たい水に潜るような気持ちを思い出す。
「ぼく、〈なかよし〉行きたくない」
ヨウタはそれまでの話を聞いていた様子もなく、突然言った。
「なんでよ。嫌な子がいるの?先生が怖いの?」
「そういうわけじゃないけど、嫌なの。帰る子もいるんだから、帰りたい」
栞はお母さんを見た。
「学童って行かなくてもいいの?」
「そりゃあ家に誰かがいたり、いなくても自分で鍵を開けて家で過ごせる子ならいいんだけど」
お母さんは眉を寄せている。栞はふうんと言ってお味噌汁を手に取った。
「じゃあうちの場合行くしかないね。あたしの方が帰るの遅いし。ヨウタが家で一人で留守番なんて無理だし。行きなよ、前の学校でも学童行ってたじゃない」
「そうだけどォ」
ヨウタが口をとがらせる気持ちはわかる。前の学校の学童には同じ保育園からの友達がたくさんいたのだ。こっちで見知らぬ子たちと夜まで過ごすのは寂しいのだろう。
三.幽霊なんて怖くない
数日後、帰り道は雨が降っていた。お母さんに言われて傘を持ってきてよかった。肌寒く、栞は紺のブレザーの襟の左右をぎゅっと合わせるようにして歩いた。
帰ったら制服を脱いでハンガーにかけて、タオルで水分を拭く、とイメージしつつ、角を曲がってつばめ荘に目をやった栞はぎょっとした。
誰かが―いや、あれはヨウタだ。それともう一人。傘をヨウタに差しかけている男の子。紺色のブレザー、中学生だ。栞は走り出した。
「ヨウタ!・・進藤くん」
ヨウタはびしょぬれだ。こちらを怖々と見上げている。髪が濡れて束を作り、長い睫毛まで濡れているのがわかった。叱られると思っている顔だ。ということは。
「あんたどうしたの?〈なかよし〉は?」
栞が怒鳴るとヨウタのへの字の口が震えた。あ、泣く・・と思ったときに
「こえーの、お前の姉ちゃん」
と脇から声がした。
進藤だった。そう、どうして進藤がヨウタと一緒にいるんだろう。
質問しようとしたときにヨウタがくしゃん!とくしゃみをした。栞は慌てて家の鍵を開けて、ヨウタと進藤を手招きした。進藤もちょっとためらったが入ってきた。
ヨウタの、雨で張り付いた服を引っ張って脱がせながら事情を聞くと、案の定、ヨウタは〈なかよし〉を抜け出してきたらしかった。
「どしてよ!?なんかあったの?」
「・・なんもない」
「先生たち今頃あんたを探してるんじゃないの?」
「・・そうかも」
「馬鹿じゃないの?」
ヨウタをお風呂場に押し込み、苛々しながら居間に戻ると、進藤は呆れたような顔でこちらを見ていた。
「あんまり怒んなよ」
「だって。あ、小学校に電話しなきゃ。ちょっと待って。これ」
栞はタオルを持ってきて手渡した。ヨウタに傘を差しかけていたせいで進藤の体の左半分が濡れている。栞は小学校から来たプリントを探して電話番号を見つけると、学校に電話した。職員室の先生が出たが、学童の先生に伝言を頼んだ。
「・・家に戻っているので大丈夫です。すみませんでした」と言って受話器を置くとはあーっとため息が漏れた。
進藤は家に帰る途中、お地蔵様のある道で、木の下に立っているヨウタを見かけたのだという。傘もささず見るからにしょんぼりしているので声をかけたら、家がわからないと言う。
「どうしようと思ったけど、名札見たら、小川って名字だったから。つばめ荘に住んでる?って聞いたらうんって言うから、連れてきた」
すっかり世話になったことがわかって栞はカッと頬が熱くなった。
「ごめん」
ヨウタの馬鹿。ほんとに、弟なんて持つもんじゃない。恥ずかしくて顔が上げられない。でも、あれ以来ほとんど話したことのない進藤にそんな親切な面があるとは知らなかった。
「別にい」
進藤はどうでも良さそうに言って、きょろきょろ家の中を見回している。ようやく栞は思い出した。そうだ、進藤はこの家に住んでたんだっけ。
「懐かしい?」
と尋ねると、まあ家具とか違うから別の家みたいだけどね・・と呟きながらも、無遠慮に廊下を覗いている。栞は台所の冷蔵庫を開けるとオレンジジュースのペットボトルがあったので、二つのコップに注いで居間に持っていった。
「どーぞ」
「あ、ども」
進藤は椅子に座った。
そうだ。栞は進藤の顔を見てひらめいた。どうして今まで思いつかなかったんだろう。少女の幽霊のこと。前の住人に聞いてみればいいんだ。
栞はあの後何度か少女の姿を見ていた。見るのは決まって夕方だ。栞のことは全く目に入らないような様子で家の中を歩く小さな女の子。認めたくはないが、幽霊としか思えなかった。お母さんに聞いてみたが、見たことはないらしい。深刻な顔をして栞を見返すお母さんを見て、栞はもうお母さんにそのことを言うのはやめようと思った。
あたしの心を心配してるような顔しちゃって。幽霊は本当にいるんだから!
「ね、あのさ。この家って」
だけど、この家って幽霊が出ない?なんて聞いたら前の住人としては気を悪くするよね。えーと、なんて言えばいいかな。栞は言いかけて口を閉じた。
「この家って・・?」
進藤はオウム返しに言い、やがて何かを感じ取ったような表情になった。耳を澄ませるように首を傾げ、栞の顔をまじまじと見ている。何も見逃すまいという目だった。その顔を見て栞は予感がした。何か知ってる。まるであたしが言おうとしてることを予想してるみたい。
「何か、見たことない?感じたことない?不思議なものを」
栞は思い切って言った。
「ある」
間髪入れずに答えが返ってきたので、かえって栞は拍子抜けした。問い詰めようとしたときにヨウタが裸のまま入ってきた。
「あ、こら、なんか着なさいよ」
栞は慌ててヨウタをまた洗面所に押し返して、乾いた服を持って行ってやった。
「あるって、何を?」
ヨウタが聞くと怖がるかもしれない。急いで話を進めようとする栞の意図がわかったようで、進藤はちらっと洗面所に続くドアを見やって言った。
「幽霊・・かな?」
栞は口を開けて進藤を見た。何かを言おうとしたが言葉にならなかった。
本当に本当?自分だけが見たと思っているうちは、夢と同じであやふやだった。でも、他の人も見たと知ると、急に怖くなってきた。
「小川も見たんだ?なに、怖いの。あんなのが」
栞の気持ちがわかったのか馬鹿にするように笑っているので、栞はむかついた。
「・・怖くない。進藤が見たのって」
栞が何か言い返そうとしたときにヨウタがちゃんと服を着て入ってきた。洗いあがりの頬をぴかぴか光らせて、進藤を見て嬉しそうな顔をした。まだ帰っていなかったことが嬉しいのだ。何よ、今日初めて会ったばっかりなのに、あんな顔して喜んじゃって。
「あ、ぼくもジュース飲むー」
ジュースを持ってきてちゃっかり進藤の隣に座っている。進藤がちょっと困った様子なのが面白かった。子犬に懐かれて困っている人みたい。進藤はヨウタをちらりと見て栞に尋ねた。
「さっきの話、こいつに内緒?」
「え、だって」
幽霊の話をしようとしているのか。ヨウタは無邪気に何が?と言ったが、栞は腹が立った。ヨウタは小学二年生なのに。体も気も小さくていまだにおねしょするというのに。
進藤は決めつけるように言った。
「カホゴなんだよ」
カホゴ。それが過保護という意味だと気づいたのは一瞬後だった。むかついて言い返そうとしたが進藤は突然大きな声を出した。
「キサラギ!」
栞は驚いて進藤を見た。ヨウタもきょとんとして見ている。進藤は宙を見つめていた。眉を寄せて首筋を掻きながら、また大きな声を出した。
「いるんだろ。出て来いよ」
進藤がおかしなことを言い出した、と栞は心配になってヨウタと目を合わせようとしたが、ヨウタが普段から大きな目をさらに見開いているのに気付いた。視線の先が自分の後ろだと気づいて栞は振り向いた。そして息をのんだ。
そこには誰かが立っていた。
背の高い青年だった。二十代前半くらい?季節外れの半袖Tシャツにジーンズ。
「いやあっ」
栞は立ち上がった。鍵、鍵をかけなかったっけ?普段はお母さんに言われたとおりに家に入ったら施錠していたが、今日は思いがけないことがあったから忘れていたかもしれない。気づくと栞はヨウタの側に回って立ち、テーブルを挟んで青年と向かい合っていた。
「だ、誰?出てって。警察呼ぶよ!」
『やれやれ』
青年は場違いにも肩をすくめて視線をヨウタの隣に座る進藤に移した。進藤はちっとも慌てていない。ジュースを一口すすったことに栞は気づいた。
『久しぶり、翔』
と青年は笑顔で言った。
「畜生、やっぱりおれには見えない」
同時に進藤は不思議なことを呟いた。その口調が気になって栞は進藤の顔を見た。
「進藤、この男の人なに?」
「・・なんだ、幽霊見たって言ってたのに。初対面だったの?」
混乱しきっている栞に、進藤は困惑しているようだった。まいったなと小さく呟いている。栞はその場にぺたんと座り込んだ。
「どういうこと?幽霊?」
見上げると、進藤は仕方なさそうに手のひらを宙に向けた。その手の方向は青年のいるところからは少しずれていた。
「こちら、キサラギ。不審者じゃない、って言いたいけどやっぱり不審者かな。でも警察を呼んでもどうにもならない。彼はこの家の幽霊だから」
「ゆうれい!」
今まで固まっていたヨウタが大声を出して立ち上がったので、ガタンと椅子が動き、そこにへたり込んでいた栞のおでこにゴンとぶつかった。
「いたっ!」
右手で額を押さえたので視界が遮られた、その一瞬のうちに何かの気配が動いた。大丈夫?という声とともに手が差し出されていた。栞はぎょっとした。キサラギという青年がいつの間にかすぐ前にいて、わずかに腰をかがめて片手を差し出しているのだ。栞はおそるおそるその手にふれようとした。が、ふれることはできなかった。栞の右手は彼の手をすり抜けるように空を切った。唖然として見上げると、キサラギは微笑んだ。とても端正な顔立ちだということに栞は初めて気づいた。
『ごめんね、手を貸してあげられなくて』
その夜ヨウタは帰ってきたお母さんに叱られた。ヨウタは抜け出してきたことをお母さんに言わないでと言っていたが、学童の先生からお母さんに連絡があったらしく事情はもう知られていた。
「大変だったね、栞。ありがとう」
お母さんは炊けたご飯を底から混ぜながら言った。栞はお母さんが買ってきたコロッケを電子レンジで温めようと皿に移していた。ヨウタはテーブルの上でふきんを動かしているが、同じところばかり拭いている。
「別に、大変ってこともないけど」
栞は上の空で言った。ヨウタが学童保育を脱走してきたことはもはや栞にとってささいなことだった。
進藤に少女の幽霊の相談をしたかったのに、別の幽霊を紹介されるとは。この家っていったいどんな家なんだろう。
ご飯を食べながら栞はため息をついた。お母さんはそれを勘違いしたのかこう言った。
「なんて子だっけ。進藤くん?すごくお世話になっちゃったね。明日お礼ちゃんと言っておいてね。何かお菓子とか持っていったほうがいいかしら」
「・・いい。ちゃんとお礼言っとくから」
栞は夕方のことをまた思い出していた。
・・栞が見たことがあるのは少女の幽霊だったと主張すると進藤は驚いたように目を見開いていた。そして少女の幽霊なんて見たことがないと言った。
少女の幽霊のことはいったん忘れよう、一度に二人の幽霊なんて対処できない、と栞は深呼吸して椅子に座った。前には比較的落ち着いている進藤、その横にはなにがなんだかわかっていないような顔のヨウタだ。キサラギという青年は黙って腕組みをしてテーブルの横に立っている。
「おれが会ったことがあるのはキサラギだけ。でも、これ大事なことなんだけど、彼はこの家の住人の・・子どもにしか見えないんだ」
「住人の子ども?・・じゃあ、見えるのはあたしとヨウタだけ?」
栞は言いながら気づいた。
「まって、じゃあ進藤にも見えないの?聞こえないの?」
混乱の中で、見えない、と進藤が呟いていたのを思い出した。感情を殺したような、妙に乾いた声だった。
「まあね。この家に住んでたときは見えたんだけど」
しばらく黙っていたキサラギが、口を開いた。
『僕からは見えてるよ。また翔に会えて嬉しいよ』
進藤は気づいていない。キサラギがヨウタと栞に目を合わせてきた。栞はドキッとした。
『きみらには聞こえてるんだろ。通訳してくれよ』
栞は無視した。ジュースを飲みほして顔を覆った。
信じられない。幽霊?しかもこんなに図々しい幽霊?これは何かの間違いだ。幽霊なんかじゃない、不審者だ。幽霊にしては足だってちゃんとあるし。しかし、自分の手がキサラギの手のひらを通り抜けたことを忘れることは出来なかった。彼が消えていることを期待しておそるおそる顔を上げると、キサラギはまだ同じ場所に立っていた。絶望的なため息が漏れる。
「僕からは見えてるよって。また翔に会えて嬉しいって、言ってるよ」
緊張した面持ちのヨウタが進藤の方を向いて、か細い声で言った。ああ、ヨウタのお人好し。こんな得体の知れない男の言うことを聞いて。だが進藤はそれを聞いてちょっと笑顔になった。それを隠すように、ずっと持っていたタオルで制服を拭きだした、今さら。
そういえば馬鹿にした笑いではない進藤の笑顔は、初めて見た気がした。
・・変な一日だった。
栞はコロッケの最後の一口と一緒にため息を呑み込んだ。幽霊のキサラギを見られるのは、この家の住人の子どもだけ。自分たちは引っ越したばかりだけど住人として認定されたわけか・・。別に光栄でもない。ヨウタは黙ってご飯を食べている。進藤が帰り、すれ違いのようにいつもより早くお母さんが帰宅して、いつの間にかキサラギは消えていた。ヨウタと幽霊の話はしていない。いつもならなんでもお母さんに話すヨウタだが、今のところこのことを言うつもりはないようだ。信じてもらえるわけがないとヨウタでも思うのだろうか。
この子がこんな秘密を抱え込めるのかな。栞はヨウタの細い肩を見た。
栞の不安が当たったのか、ヨウタはその夜熱を出した。
「昨日は弟がお世話になりました」
朝、担任の先生が来る前の騒がしさに紛れて、隣の席の進藤に栞は堅苦しく礼を言った。進藤はこちらも見ず口を開いた。
「別にぃ。…かえって面倒を持ち込んだようで」
「それはほんとにそうだよ」
栞はつい本気になって言った。
「進藤が呼ばなければ、あんなの出てこなかった。あたし知らなかったのに。知らないままあそこで暮らせたのに」
「だから、もう知ってると思ったんだから仕方ないだろ。」
進藤もむかついたようだ。こちらを向いて小声で反論してきた。
「それに、おれが呼ばなくたってそのうち出てきたよ。あいつ、暇で暇で仕方ないんだから」
「暇?」
「言わなかったっけ。キサラギは家から出られないんだ。あの家付きの幽霊なんだ。おれは小五のときからこの夏まで住んでたわけだけど、そのずっと前からいるってよ」
やだ、と思わず栞は大きな声を上げた。前の席の佐藤さんが振り向いてなになに?と面白そうな顔をしたので、栞はなんでもないと首を振って見せた。
じゃあいつもあの家にいるの?見えないときもあの家の中を歩き回ってるの?冗談じゃない。三人家族のつもりでいたのに、見ず知らずの男が同居してたなんて。
栞は一時間目の授業中どうしたものか考えていた。授業が終わると栞は、放課後家に来てくれないかと進藤に頼んだ。
「お願い」
なんでよと面倒そうな言葉が返ってきたが栞は頑張った。
「あいつと話したいけど、一人じゃちょっと…」
怖いの、と進藤が馬鹿にしたようにこちらを見て鼻を鳴らしたので栞は否定した。
「…怖くはない。気持ち悪いだけ。ヨウタが帰って来る前に話したいの。ヨウタ、昨日ショックで熱出したんだからね」
いや、熱は雨に濡れたせいだったかもしれないが。
「熱?」
進藤の顔が曇ったので栞はあっと思った。ヨウタの前でキサラギを呼び出したことに責任を感じたかもしれない。
「まあ、朝はもう元気で学校行ったけどね。とにかくお願い」
「・・別にいいけど」
意外な人の好さに漬け込むようで少し気が咎めたが、進藤が来てくれることになって栞はホッとした。一人であの幽霊と話す、さらには説得する自信がなかった。
進藤は部活には入っていないらしい。
この中学校では部活に入っていないのは少数派だ。四時過ぎに学校から出ていく人影は少なかった。栞は早足の進藤の背中を十メートルくらい先に見ながらつばめ荘へ向かった。一緒に帰っていると人に思われたくないお互いの気持ちがこの微妙な距離に表れている、のかもしれない。
角を曲がると進藤が家の前に立っていた。ごめん、となんとなく謝って栞は急いで家の鍵を取り出した。が、鍵を回したことで逆に施錠されたことに気づいて栞はぎょっとした。進藤を振り返って何かを言おうとしたが、言葉が出ないまま、鍵を開けて玄関のたたきの靴を見た。ヨウタのスニーカーがあった。もう帰ってるんだ。学童はどうしたの。いや、問題はそれだけじゃない予感がした。靴を脱ぎ捨てて廊下を歩き出すと居間から声が聞こえてきた。ヨウタの声と、もう一人誰かの声。ヨウタが笑っている。一瞬友達が来ているのかと思ったが、たたきにヨウタの靴しかなかったことを思い出す。
進藤を振り返ると今度こそ声が出た。
「あいつだ」
進藤は驚いた様子もない。
ドアを開けると、テーブルの席に着いたヨウタが振り返って「あ、お帰り。あれ、進藤くんもいる」と嬉しそうだ。栞は急いで目を走らせた。ソファに、キサラギがいた。長い足を持て余すように組んで座っている。まるで普通の人間のようにこの空間に馴染んでいる。片手を上げて栞たちを出迎える様子は家族のようですらあった。
『栞ちゃんおかえり。よっ、翔。僕に会いに来てくれたの?』
と悪戯っぽい視線を向けた。栞はイラッとしてキサラギを睨みつけた。西日が当たっているせいか、金茶色の髪、瞳も茶色いみたい。その言葉は誰も反応しないまま西日に溶けて消えた。キサラギは口元に少し笑みを浮かべて面白そうに栞を見返している。栞は視線はそのままで、ヨウタ、と声をかけた。
「あんたなんでウチにいるの?〈なかよし〉は?」
「あー、やめた」
ヨウタはちょっと恥ずかしそうに言った。朝、〈なかよし〉に行きたくないこと、一人で家に帰れることをお母さんに訴えたら、行かなくていいことになったのだという。
「お母さんに鍵ももらった」
もう、お母さんてば!甘いんだから。まさかヨウタがいるとは思わなかった。ヨウタのいないところで話をしようと思ったのに。
「幽霊と楽しそうに喋っちゃって。知らない人と口をきいちゃ駄目ってお母さんにも言われてるでしょう」
「知らない人じゃないよォ。昨日知り合ったじゃない」
口を尖らせるヨウタを遮るように皮肉っぽい声がした。進藤だった。
「ちょい。その幽霊野郎のことが見えない人間が一人だけいるんだけど、配慮はしてくれないの」
ヨウタが慌てて立ち上がり、居間の入り口に立ったままだった進藤の手を引いてソファの前まで行った。
「ごめん、見えないんだっけ。忘れてた。キサラギはここに座ってるよ」
進藤はソファのあたりをじろじろ見たが、見えないとやりにくいなあと肩をすくめた。
『翔、また会えたね。もっともそこのお嬢さんは、僕とヨウタがいるから怒ってるみたいだけど。二人だけが良かった?』
ヨウタが笑い出しそうな顔をしながらその言葉をそのまま進藤に伝える。最後まで言い終える前に栞はソファまで歩み寄り怒鳴っていた。
「くだらないこと言わないで。あたしは、あんたに、あんただけに話があったの」
『なるほど。やっとぼくに話しかけてくれたね』
栞は黙った。いつのまにか話しかけていた。今まで、怖くて、現実と認めたくなくて、話しかけられなかったのに。
『で、なんの話?』
「それは…」
「あんまりしょうもないこと言わないほうがいいよキサラギ。たぶん小川はキサラギをいなかったことにしたいんだ。せいぜいいい印象持たれるようにしろよ」
進藤の言葉に、栞は驚いてとっさに顔を見た。進藤は、見えないはずなのに、ほぼ正確にキサラギの顔のあたりに視線を向けている。進藤は栞の考えていることがわかっていたのか。ヨウタがいるのは計算違いだけど、このまま言ってしまおう。
「キサラギ、あなた、この家から出られないって本当?」
『本当だよ』
「でも、わたしたちから見えないようになることはできるんでしょ?わたしたちが引っ越してきてからあの日まで、ずっとわたしたちの前に出てこなかったもんね」
『・・できるよ』
キサラギの表情は穏やかだった。これから言われることがわかっているだろうに、怒りも悲しみも感じさせない目でじっと栞を見ている。
「こんなこと言うのはひどいかもしれないけど、もうわたしたちの前に出てこないでほしいの。わたしたち、忘れるから。昨日と今日のことだけなら、忘れられると思うから」
「だめだよ!」
非難の声は幼い声だった。栞は内心ため息をついた。なんとなくこうなるような気がしていたからヨウタのいないときにしたかったのだ。
「キサラギはぼくたちよりずっと前からここに住んでるんだよ。そんなこと言うケンリ、お姉ちゃんにないよ」
権利の意味わかってんの?と思いながらもどう言えばヨウタを説得できるか栞は考えを巡らせた。
「ねえ、家の中に他人がいるんだよ。歩き回ってるんだよ。プライヴァシーはどうなるの。あたしはそんなのいや。しかも男なんて」
ヨウタはぽかんとしている。早生まれでまだ七歳のヨウタにプライヴァシーの概念はなかったか、と思いつつ栞は続けた。
「家族だけで暮らしたいってそんなにわがままかな?ひとに生活を見られたくないっていうあたしの権利はどうなるの」
ヨウタは言い返せずうつむいた。少しの間沈黙が満ちた。キサラギは腕組みをしてヨウタを見ている。ヨウタが顔を上げたとき、大きな目にはしずくが盛り上がっていた。でも、でも、と言いながら隣に立っている進藤を見上げる。その必死な顔を見て進藤は困り切ったようにヨウタから離れてソファにどさっと沈み込んだ。キサラギの体に重なりそうになったのでキサラギが『おっと』と横にずれている。それがおかしくて栞は自分でも思いがけなくふっと笑ってしまった。
「おれはここの住人じゃないから、それこそ何も言う権利ないかもしれないけど」
進藤は栞とヨウタの顔を見比べるようにちらちら視線を移しながら言った。
「キラサギはそんなに厄介な同居人じゃないよ。役にも立たない代わりに、食費もかからないし。物理的には何もできないんだから心配することないよ」
物理的。
一瞬考えて納得した。キサラギの手にさわれなかったことを思い出す。キラサギが何にもさわれないのなら、物質的な被害はあり得ないんだ。だけど。
「それにさっき男だから嫌だなんて言ってたけど、キサラギは小川のことを女として見たりしないよ」
急に進藤が皮肉っぽい声で断言したので、栞は頭に血が上った。その瞬間は進藤が大嫌いになって、なんで連れてきたんだろうと後悔した。とんだ馬鹿だ。幽霊と対峙するのが怖いからって連れてきたのが、幽霊の援軍だったなんて。
「そんな心配してない。進藤にはわかんないよ。あんたみたいに、何年も幽霊と暮らしてきたやつには。どうかしてるわ。幽霊に感化されちゃって」
「まあそうかもね。おれも、小川が何を怖がってるんだかわかんないな。小二の弟ですら怖がってないのに」
栞は唇を噛んだ。完全に馬鹿にされてる。栞は進藤の薄く笑った顔に何かを投げつけてやりたい気持ちになった。
そのとき、進藤がソファに座ったまま体を横に向けた。挨拶するように右手を広げて掲げる。そこにキサラギが手を重ねた。ハイタッチしたのだ。(このうるさい奴を黙らせてやったね)と言わんばかりに。音はしなかったけれど。栞は一瞬怒りを忘れて口を開いた。
「見えてるの?」
「いや。キサラギやってくれてた?前はよくやったから」
『久しぶりだったね』
キサラギが嬉しそうな顔をして言ったのをヨウタが通訳すると、進藤も照れ臭そうに笑った。
教室ではいつも無愛想な進藤、めったに笑顔を見せないらしい進藤のそんな表情を見て、栞は反撃の言葉に詰まった。
「あんたたちがおかしいの。でも、もういい。勝手にして」
栞は力なく言った。ヨウタが嬉しそうな顔をするのが視界の隅に映った。
物理的に何もできない。
栞は進藤が言ったことを思い返した。何にも触れなくたって、この幽霊は住んでる子どもにすごい影響を与えてるじゃないの。キサラギと進藤の絆を見て、栞はヨウタのことがまた心配になった。
「さ、おれはもう帰ろうかな。用も済んだみたいだし。小川の役には立てなかったけど」
進藤はひょいと立ち上がった。
『翔、また遊びに来いよ・・僕のうちに』
キサラギは進藤に向けて言いながらも最後は栞を見て反応を試すような顔をしている。
僕のうちだって。栞は自分でも気づかないうちに口を開いていた。
「遊びに来てもいいけど、あたしたちのうちだよ、キサラギのうちじゃない」
それを聞くなりキサラギは弾けたように笑い出した。キサラギの言葉が聞こえない進藤は訝しむように栞を見ている。進藤からすると突然栞が誘ったように聞こえるのだ。栞は頬が熱くなるのがわかった。こんな幽霊、大っ嫌いだ。
四.謎の手紙
数日後の朝、栞は時間割を確かめながら鞄の中身を確認していた。
お母さんは既に家を出ている。ヨウタは不器用に今日の朝刊をテーブルに広げていた。
これはキサラギの希望だった。
『僕は活字を読むのが好きなんだ。でも、自分で本のページをめくったりできないわけ。きみらに、新聞を広げて置いてほしいんだ、毎朝。頼むよ』
まるで若い社長が秘書に頼むような気軽な口調でキサラギが言ったとき、栞は呆れて無視した。誰がそんなこと!だいたい、幽霊がニュースを読んでどうすんの?だけどそれ以来、生真面目なヨウタは新聞紙を何面にもばらしてテーブルいっぱいに広げて登校するようになった。
「サブバッグ・・は今日もいらないか」
体育がない限りこれを持っていく必要はなさそうだ。栞はサブバッグを床に置こうとして、バッグの外側に薄い大きめのポケットが付いていることに気づいた。何気なく手を入れてみると、指先に何かが当たった。取り出してみると、小さな封筒が入っていた。握られたようなシワが付いている。
え?なんだっけ、こんなもの入れたかな?
封筒は糊付けされていなかったので開けると、中には畳んだ便せんが一枚。
フーコーへ
僕たちが過ごしたあの公園を覚えていたら、初雪の日の夜、七時に来てください。
M
文面はそれだけだった。
「なにこれ?」
栞は混乱した。なんでこんなものがあるんだろう。慌ててバッグを確かめる。確かに自分のバッグだ。でも、これは誰か栞じゃない人宛ての手紙だ。誰かが間違って栞のサブバッグのポケットに入れたんだ。でも、誰が?
「どうかした?」
ヨウタがこちらに顔を向けたので、栞は慌ててなんでもないと首を振った。時間がない。栞は手紙を慌てて鞄の中に移した。
「さ、もう行くよ!」
まいったな…
栞は頬杖をついて手元の紙に目を落としていた。みくるは吹奏楽部、沙希はバレーボール部の活動があるので別れ、放課後、教室に栞は一人だった。栞はそれとなく、「フーコー」というあだ名の人がいないか、みくるや沙希に聞いてみた。手紙のことは言えなかった。ラブレターと思われる以上、うかつに秘密をばらしては「M」にも「フーコー」にも悪いと思ったのだ。しかし、二人ともそんなあだ名の人は知らないらしかった。Ⅿにいたっては該当者が多すぎて探しようがない。苗字か下の名前かもわからないし。
突然教室の前のドアが開いたので栞はびくりとして顔を上げた。入ってきたのは進藤だった。こちらに大股で近づいてくる。忘れ物でもあったのか、しゃがんで自分の机の中を覗き込んでいる。隣の席なのに栞は声をかけそびれ、なんとなく窓の外に目をやった。校庭では揃いのジャージ姿の男子が大勢で走っている。聞き取れない奇妙な掛け声を出しながら。
進藤は不思議な男子だった。二回目に家に来た日、少し仲良くなれたかと思ったが、翌日にはよそよそしい態度に戻っていた。話しかけにくい。距離感が掴めない。あまり他の男子とつるんでいる様子はない。授業中手を挙げることはあまりなかったが、勉強は出来るらしかった。無愛想だが仏頂面というわけでもない。進藤を見ていると「淡々」という言葉が浮かぶ。
窓から目を戻すと、進藤がじっと栞の手元を見ていることに気づいて、栞は反射的に手紙を隠そうとした。が、進藤の顔を見ながら少し考える。
話しかけにくい。でも少なくとも口は固そうじゃない?
「ね、ちょっと時間ある?」
栞は、無言で栞の顔を見返した進藤の様子を勝手に〈肯定〉と受けとって、手紙を見せながら説明した。誰かがラブレターらしき手紙を宛先を間違えて自分のサブバッグに入れたこと。差出人か宛名の人物に渡したいがどちらも本名ではなくわからないこと。
「ほっとけば」
進藤の答えは簡潔だった。
そうかもしれない。ああ、手紙に気付かなければ良かった、と栞はまた思った。でも気付いてしまった以上、放っておけなかった。
「だって放っておいたら、この宛名のひとは、待ち合わせ場所に来ないんだよ?差出人は、自分がふられたって思っちゃうんだよ。」
「そんなの、間違えるのが悪いんだよ」
「…まあそうだよね。あたしもそうは思うんだけど」
栞の煮え切らない返事を聞いて、進藤は立ち上がって言った。
「おれもフーコーなんて聞いたことない。…あいつに相談してみれば?」
「あいつって?」
進藤は鞄のファスナーをしめながら、当たり前のような顔をして言った。
「つばめ荘の幽霊」
栞はあっけにとられてから、なんで、と呟いた。
「あいつ暇だから」
進藤の答えは簡単だったが意味はよくわからなかった。首を傾げていると進藤は鞄を背負って歩き出した。
「あいつはその暇な時間をつばめ荘の住人のために使ってくれる」
背中を向けたまま進藤は言い、立ち止まって少し迷っているようだったが、振り返って栞と一瞬だけ目を合わせた。
「少なくともおれにはそうしてくれた」
言われたことを理解するまで時間がかかった。栞がありがとうもバイバイも言えないでいるうちに進藤は教室から消えていた。
どういうことだろう。キサラギが、あたしに協力してくれる?進藤もかつてキサラギに助けて貰ったことがあるみたいな口ぶりだった。あの、軽薄な幽霊に?
栞は眉を寄せて考え事をしながら家に向かっていた。栞はいろんな道を通って帰るのが好きだった。今日はあえて少し遠回りをして、いつもとは反対の方向、玄関ではなく庭のある側へ出た。つばめ荘の、簡素な柵があるだけの開けっぴろげな庭を見ていて、栞はぎょっとして一点を見据えた。庭に面した縁側に誰かがいる。男だ。栞は目をこらし、一瞬後に緊張を解いた。それがあぐらをかいて座っているキサラギだと気付いたからだ。庭を見ているようだ。コスモスが残りわずかな花を咲かせているほかは雑草だらけの、荒れた庭を。
栞は庭から入って縁側に近づいた。キサラギ、と呼びかける。人に見られたら不審がられるから、小声で。
キサラギも気付いた。ぼんやりしているところを見られたからか、珍しくばつが悪そうに笑った。
『おかえり、栞』
「ただいま。キサラギ、外に出られるの?知らなかった」
『この縁側だけ、ね』
ここまではつばめ荘の邸内と見なされるということか。栞は靴を脱ぎ、縁側から家に入ろうとしたが、ガラス戸には鍵が掛かっていた。それはそうか。玄関に回るのが面倒で、栞は縁側に腰かけた。隣でキサラギは相変わらずあぐらをかいている。
「キサラギって、誰もいないときでも姿が見えるんだね―あたしにはって意味だけど」
『どういうこと?』
なんと言えばいいか栞は少し考えた。
「キサラギは、あたしたちに用事があるときだけ姿を見せるんだと思ってた。でも、今みたいにこっちが一方的に気づいてるときでも、姿が見えたから」
ああ、とキサラギは頷いた。
『逆なんだ。ぼーっとしてるときは姿が出ちゃうんだ。姿を消すのは意識しなくちゃできない』
変なの。
「じゃあ、あたしたちが引っ越してきてから、あの日まで、頑張って消えてたんだ」
『そ。引っ越し早々大パニックになるのもお互い困るからな』
じゃあずっと消えてて、っていうあたしの提案ってひどかったのかな。栞は反省した。
「・・そういえばヨウタは?」
『遊びに行ったよ。公園だってさ』
珍しい。あいつにも友達が出来たかな。
栞は傍らの横顔を見た。鼻筋が通っていて、唇、顎にかけて、彫刻のような優雅な線が続いている。茶色い瞳はどこか遠くを見ているようだった。
「ねえ、キサラギは、何してたの」
『何ってこともないけど。暇だから外見てた』
「ほんとに暇なんだね」
『そりゃそうさ』
キサラギは眉を上げて見せた。
『食べる楽しみもなけりゃ酒飲む楽しみもない。ピアノも弾けない、おしゃれも出来ない。せっかくのハンサムな顔を見せる相手もたったのガキ二人』
からかうような笑いを含んだような声だ。
「わーるかったね、ガキで。ハンサムって自分で言うか普通。このナルシスト」
幽霊に、この厚かましくて腹立たしい幽霊に、何かを相談する?
冗談!・・でも、それもありかも?
とにかく損はない。キサラギの口が固いかは知らないけど、自分たちきょうだいにしかキサラギの声が聞こえない以上、キサラギから秘密が漏れることはあり得ないんだし。栞は立ち上がってキサラギを見下ろした。まさに「上から目線」で偉そうに言った。
「ね、暇つぶし、させてあげる」
栞はヨウタによってテーブルに広げられていた新聞を片付け、代わりに手紙を置いた。
キサラギは長身をかがめて読んでいる。
『封筒と手紙にしわがあるけど、これは?』
「最初からあったの」
『ふうん。・・フーコーか。妙なあだ名だな。栞、フーコーって知ってるか?』
「知らない。あたし、ふうこさんって人のあだ名かと思った。でも、そんな人まだ見つかってないの」
『僕はフランス人かと思った』
栞がフランス人!?と素っ頓狂な声を出すと、キサラギは栞の無知を憐れむような顔をした。
『有名なのは哲学者のフーコー。物理学者にもフーコーがいる。・・まあいいや。手紙を入れられたのは先週の木曜日に間違いないわけね?』
「うん。サブバッグ持っていったの、あの日だけだから」
『じゃあその日のこと、思い出せる限り思い出してみ』
初めてこっちの学校に登校した日だから、印象は強かった。あの日お母さんとヨウタと一緒に家を出たところから、六時間の授業を終えて家に着くまで、できるだけ細かく話した。話し終える頃には喉が渇いていた。栞は台所へ行き水を飲み、忘れないうちにお米を研ぎ出した。お母さんとの約束だ。ザッザッザと音を立ててお米を研ぎながら、栞は気配を感じてぱっと横を見た。キサラギがこちらに来たのかと思ったが、人影は小さかった。
白いブラウスを着た少女が台所の入り口で思案気に首を傾げている。こちらを見ているようでいて、視線は合わない。
「ねえ」
栞は低い声で話しかけてみた。
「あなた、何か困ってるの?」
少女の表情は変わらない。やはり栞のことは見えていないらしい。
まるでこっちが幽霊になった気分だ。見てもらえないというのは寂しいものだ。栞はそんなことを思った。もう少女を見ることには慣れていた。怖くはない。一人の幽霊を受け入れたんだもん、二人目だって受け入れるしかない、と栞は思っていた。
炊飯器にお米をセットしているうちに少女は消えていた。居間に戻ると、キサラギは椅子に座っている。両手を頭の後ろに組んで宙をにらみ、考えごとをしているようだった。
『この手紙、栞宛てって可能性もあるんじゃない?』
「まさか。ないない」
栞は即答した。
「あたし、フーコーなんて呼ばれたことない。それに転校初日だよ?この学校に知り合いなんていないよ」
『前からの知り合いが偶然この学校にいたってこともあるかもよ』
「えー、ないと思う。書いてる内容も全然わかんないし」
『じゃああくまで他人宛ての手紙と仮定するか。栞は二時間目の体育のためにジャージに着替えて、あとは帰るまでずっとジャージ姿だったんだね?』
「うん」
『じゃあ二時間目までに間違えて入れられた可能性は低いな』
「どうしてよ?」
『栞を誰かと間違えることはない。あの朝に限っては』
あたしを誰かと間違えることはない?あの朝に限っては?
「なんで?」
『あの日、栞は制服がなくてグレーのカーディガンを着て行ったんだろ。その姿がどんなに目立ったか、自分ではわからないかな。全員が紺色の中で』
キサラギが栞の紺色のブレザーに目をやったので、つられて栞も自分の制服を見下ろした。
『きみは、何百ものカラスの群れに紛れた一羽の鳩のように目立っていた。そんなきみを誰かと間違えることがあるか?』
「そっか。・・じゃあ、朝じゃないね。バッグは教室についたら机の横のフックにかけたんだよ。帰るまでほとんどずっと─あ、体育のとき以外─そこにあった。そのときに間違えたんだね」
『二時間目は体育だった。きみはジャージの入ったサブバッグを持って更衣室に行った。でも更衣室で間違えて入れられた可能性も低い』
「うん・・手紙書いたのが男なら、女子更衣室に入るなんて危険なことまでしないだろうしね」
『それもある。それに、やっぱり更衣室でだってきみのロッカー、なのか?どういう形態かはわからないが、着替えを置く場所は他の子とは違っていただろう。紺色の制服が置かれるべき場所にグレーのカーディガンが置かれていたんだから』
確かにあのときの栞のロッカーは他の子のロッカーより特徴的だっただろう。ってことは。
「じゃあそのあと教室の机の横にずっとかけてた、そのときに間違えて入れたとしか考えられないってこと?」
キサラギは微笑んだ。
『きみは終わったあとにジャージ姿のまま過ごしてもいいと知り、着てきた服はサブバッグに押し込んだ。そう言ったね』
「うん」
『ファスナーがしまらなくてカーディガンがバッグから飛び出していたとも言った。そんな特徴的なサブバッグを、他の人のバッグと間違えることがあるか?バッグは目立つようになった。代わりに目立たなくなったのは、きみだ。ジャージ姿で過ごしている生徒は少なくなかったようだから』
「どういうこと?さっぱりわからない。朝も違う、体育の時間も違う、そのあとも違う。じゃあ、いつ入れられたの?」
『朝だ。教室に着くまでのあいだ』
「さっき、朝はあり得ないって言ったじゃない!」
キサラギは呆れたように肩をすくめた。
『ちゃんと話を聞けよ。朝に〈間違えて入れられた〉可能性は低いって言ったんだ。僕は、この手紙は間違えて入れられたんじゃないと思う。きみの意見では、きみ宛でもないらしい。他に考えられるのは、きみに預けたって線だ』
「あたしに預けた?」
『取り返すためには目印が必要だ。灰色の鳩のように目立っていた女の子のバッグに隠して、あとで間違いなく取り返そうと思ったのさ』
栞が考えをまとめようと黙り込んだとき、玄関から話し声が聞こえた。お母さんとヨウタだ。一緒に帰ってきたんだ。
「ごめん、まだよくわからない。あとで話そう。ご飯が終わったら出て来て」
栞は囁いて急いで手紙をバッグに仕舞った。キサラギは皮肉っぽく眉を上げて〈仰せの通りに〉とでも言いたげなお辞儀をしてすうっと消えた。キサラギは基本的に栞たちがお母さんと一緒のときには出てこない。キサラギが視界にいては栞たちの言動が不自然になってしまうからだろう。だけどそれも「頑張って」姿を消してくれているのかと思うと、気の毒なような、おかしいような気がした。
「ただいま!そこでヨウタと会ったの」
お母さんはいつものようにめまぐるしく動きだした。手を洗ってエプロンをかけて冷蔵庫から肉と野菜を取り出しながら、ヨウタがしっかり手を洗うか目を光らせ、炊飯器の蓋をあけてお米がセットしてあるのを見て、栞にありがと、と声をかける。栞もつられて台所に立った。今日はカレーらしい。
「今日ね、小山田くんって子が公園で遊ぼって。公園で野球したんだよ」
ヨウタは流しで手を泡だらけにしながら楽しそうに報告した。
「あんた、野球なんて出来るの」
「んー、ルール知らなかったけど、教えてもらった」
良かったじゃん、とヨウタのために喜びながら、頭の片隅で栞は手紙のことを考えていた。
夕飯のあと、栞は宿題を持ってヨウタの部屋に行った。ヨウタはキサラギと話したがったが、ヨウタひとりしかいない部屋から話し声が聞こえたらお母さんを心配させてしまう。小声を保てずすぐに声が大きくなってしまうヨウタのために、栞は仕方なくヨウタの部屋に来たのだった。
ヨウタは嬉々として、野球の話や学校であったことをキサラギに話している。キサラギはふんふんと興味を持って聞いてやっている。こんな、要領を得ないコドモの話、よく聞けるな・・ヨウタの机を借りて宿題をしながら、栞は呆れた。実の姉でもヨウタの話は半分も頭に入ってこないっていうのに。
「グローブ、持ってないのか。物置にグローブあるよたぶん。バットもあったかも。古いやつだけど」
マジで!?とヨウタが目を輝かせている。キサラギは言った。だいぶ前に住んでいた子どものがあったはず。翔が引っ越し先に持っていったとは思えないからたぶんまだある、と。
そういえば、ガレージの奥には小さな物置小屋がある。使えるものは使っていいし、捨ててもいいとお母さんが大家さんから言われたらしい。明日にでも物置を一緒に探してやるか、と思いながら栞は数学の問題を解き続けた。
「・・さ、宿題終わったと。じゃあ次はあんたが宿題やりなさい。あたしはキサラギに話があるから」
栞はヨウタを無理やり机の前に座らせて、自分は壁にもたれて座った。キサラギは長い足を投げ出して座り、両手を床についている。手で上半身を支えているように見えるが、そういうわけではないのだろう。
「ね、キサラギって体は全く重くないの?」
栞は思いついたことを尋ねた。
「え?体が重いか?そんなこと忘れたな。重いってどんな感じだっけ」
キサラギの口ぶりは本気なのか冗談なのかわからない。
「不思議だなあ。重力はどうなってるんだろ。キサラギだけ無重力の世界にいるのかな。でもそれなら宇宙飛行士みたいにもっとふわふわ浮かんでるはずだよね」
「キサラギは普通の人みたいに歩けるよね」
とヨウタ。キサラギは照れたように鼻を鳴らした。
「まあそんなことはどうでもいいよ。栞、僕の言ったことわかった?」
なんのこと、と首を回してこちらを見るヨウタを顎と視線だけで宿題に向かわせて、栞は口を開いた。
「考えてみたの。朝、バッグに手紙を入れたのは、廊下であたしにぶつかってきた三年生だと思う。あの人になら、そのチャンスはあったと思う」
栞が転んだとき、バッグも手から離れて床に転がったんだ。目が合ったのに、謝りもしなかった男子生徒を栞は思い出そうとした。顔は思い出せなかったが、茶色い長い前髪が目にかかっていたっけ。彼が、栞がびっくりしている隙に、バッグのポケットに手紙をしのばせるところをイメージしてみた。出来そうな気がする。
キサラギは満足そうに頷いた。
「僕もそう思う。やったのはきみのクラスの奴じゃない。クラスメイトならその日の主役ともいうべき転校生のきみを人と間違えるわけがないし、目印をつける必要もない。クラスメイト以外。その三年生なら機会はあった。・・そいつ、追いかけてきたデカい男に体を触られてたって言ったね。で、キレて体を振り払ったって」
「うん。男が男に痴漢?って思ったの。だけど、あとから来たそいつは笑って面白がってた。手紙を探してたんだね。制服の中に隠してないか。あ、きっとその前にでも取り合って、それで手紙にしわがついたんだ!そう、でも手紙はあたしのバッグのポケットに隠してたからセーフだった」
小さく小さく引き裂く時間があればそうしただろう。漫画の中のキャラクターなら、呑み込んだかもしれない。でもそんなことそうそうできるもんじゃない。
「…あとで、茶髪の三年生はあたしを探して取り返そうと思った。でも、その頃にはあたしを見つけられなくなってた」
さっき、栞のことを「目立たなくなった」とキサラギが言った、その意味がわかったのだ。
「灰色の服を着てたあたしがジャージに着替えたから、どの子だったかわからなくなったんだね。だから取り返せなかった」
じゃあ今もあの三年生はわかってないんだろうか?栞の考えを読んだように、キサラギは言った。
「そう、あの日は無理だった。だけど、同じ学校で私服を着てきた子が誰か、少し時間があれば人に聞いて探し出すのは簡単じゃないか?」
確かにそうだ。じゃあどうして取り返しに来ないんだろ?
「あれ以来きみはサブバッグを持たずに登校していた。次にサブバッグを持っていくのはいつだ?」
「えっ、ちょっと待って」
栞は慌てて自分の部屋へ戻り、鞄にしまっている時間割表を確認した。
大変!
「明日だ、体育があるから」
つい大声を出しながらヨウタの部屋へ向かうと、下の階からお母さんが不思議そうに「何か言った?」と聞いてきた。栞は慌てて、なんでもない!と答える。
「明日か・・。たぶん明日そいつは接触してくる。なぜ今まで来なかったか。バッグを持たない栞に声をかけて、『きみのバッグに入れちゃったんだ。明日手紙を持ってきてくれる?』とは言いにくいのが人間だ。わかるだろ?」
自分がその立場だったら、と想像してみるとなんとなくわかった。
「うん。彼としてはまだあたしが手紙に気付いてない可能性に賭けたいよね。なのにそんなことばらしちゃったら、家で手紙を読まれちゃうかもしれない。バッグを持ってるときのあたしに声をかけて、そこに入ってるんだ、って言って、目の前で読まずにそのまま渡してほしいって思うはず」
「そういうこと。まあ正直に言わずスリみたいに取り返そうとする可能性もある。でも、最初のときみたいな千載一遇のチャンスはそうないからな。三年生が二年生の教室に入るのは目立つしね」
栞はどきどきしてきた。
「じゃあ、明日はどうすればいい?手紙のこと、知らないふりしたほうが、いいよね?」
キサラギは少し考えてから言った。
「もちろん。返せと言われたら、驚いたふりしてすぐに返すんだ。どこかひと気のないところに呼び出されたら断れ。もしくは誰か連れていけ。友達か、翔でもいいから」
翔・・?進藤のことか。キサラギが思うほど、仲良くないんだけどな。
「どうして?そんなに警戒する必要ある?」
「そりゃあ・・知らない異性と二人きりになるのは感心しないからね」
その堅苦しい口調に栞は思わず笑い出した。キサラギはなんだよという顔をしている。
「キサラギって、若く見えるけど、言うこと昔の人じゃん」
キサラギは憮然とした顔になった。
「失礼な奴だな。おい、今言ったこと忘れんなよ。一人では会うな」
「はいはい」
・・だけどこの推理、当たってるのかな?当たってたら凄いけど。あっという間にキサラギが構築した推理には、けっこう説得力があった。このひと、どんな人間だったんだろう。
「キサラギってさ」
栞はなんて表現すればいいか少し考えた。
「いつから幽霊してるの?いつまで生きてたの?」
いつ死んだの―とは言えなかった。
「・・さあな」
キサラギは首を傾げた。
「覚えてないんだ。生きてたときの記憶、なんにもないんだよ、僕」
「ええっ!?嘘」
栞は唖然とした。
「ほんと。・・名前も、翔に付けてもらったんだ。それより、ヨウタ寝てるけどいいの?」
静かだと思ったらいつの間にかヨウタは机に突っ伏して寝ていた。外で遊んで疲れたのだろう。
「ちょっと、起きな!宿題終わってないんでしょ?」
ヨウタの肩を揺すった。記憶がない幽霊。どんな幽霊が普通かはわからないけど、キサラギは幽霊の中でも変わり種に違いないと栞は思った。
五.走れ、走れ、走れ。
翌日、栞はサブバッグのポケットに手紙をしまい、どきどきしながら登校した。本当にあの三年生が声をかけてくるのかな。あるいは勝手に取り戻そうとするのかな。
二時間目の体育の時間はまたマラソンだった。
疲れるが、林を横に見ながら走るのは気分が良かった。先週より紅葉が進んだ気がする。冷たくて清潔な秋の空気を吸っては吐く。頭の中で歌を歌う。自分をその気にさせて走っているうちに、また栞は先頭集団に入ることができた。
「おーがわちゃん」
と振り向いて声をかけてきたのは日野さんだった。
「ピノちゃん」
と言ってみると、顔をくしゃっとさせてピノでいいよ、と言ってくれたので、栞は追い上げてピノに並んだ。
「ランナーキラーって言われてるんだって?」
と栞が思い出し笑いをしながら言うと、ピノも笑い出した。
「あら聞いた?いやー。照れるなあ。そんなこと言われちゃうと」
「褒めてないって」
ピノととりとめのない話をしながら走る。ピノにたくさん喋らせて疲れさせようと企んだが、それは無理だった。ピノは校門が近づくとラストスパートをかけて軽やかに栞を抜いていき、一位でゴールした。
体育の授業が終わって着替える。
さあ、あたしがこのバッグを持ってる機会はそうはないよ。
と、栞は妙に意識しながらジャージの入ったバッグを抱えて更衣室を出た。きょろきょろするが誰も近づいてこないので、ほっとするような拍子抜けするような気持ちだった。キサラギの言ったことって、全然的外れなんじゃない?
「どうかしたの、栞」
とみくるに聞かれてしまった。
「いやいや・・。あー、疲れたね」
「朝から、ね。体力残ってないよ。文化部にはキツイわ」
「ね、栞ってやっぱり速かったね。我がバスケ部のキャプテンのハヤシにも勝ってたし。栞より前にいたのってピノとか、リオンくらいじゃない?」
と沙希が言ったが、体育は一組二組の女子の合同だし、まだ一組の女子もうろ覚えなので、ピノ以外の名前はさっぱりわからなかった。
「ほんと、帰宅部にはもったいない。どっかに入らないの?」
「うーん。だってもう二年ももうすぐ終わりだからね。それにあたし、ただ走るのなら好きだけど、運動神経はないの」
「マジ!?」
「マジ。まあせいぜい帰宅部ライフを謳歌しますよ」
そんな話をしているうちに栞は手紙のことをすっかり忘れていた。
放課後、帰る準備をして教室を出て歩き出したところで、目の前に男子が現れた。どいてくれないので無意識に端に寄ろうとしたところで、男子の顔が目に入った。栞より少し背が高いくらいであまり目線は変わらない。茶色い前髪が目にかかっている。この人。あのときの三年生だ!これって、キサラギの言った展開じゃないの。
栞は一気に緊張したが、知らないふりをしなければならないことを思い出し、黙って歩いていこうとしたが、おい、と呼び止められた。
「はい?」
「えーと、小川さんだっけ」
と名札を見て続けた。
「ちょっと用があるから付いてきてくれる?」
え?どうしようどうしよう。
キサラギにされた忠告を思い出したが、周りに知った顔はいない。教室には名前もまだ覚えていない男子が数名残っているだけだった。付いてきてなんて頼めるような相手はいない。
「なんでですか」
と言いながらちらっと名札に目をやると、「間宮」とあった。マミヤと読むのだろうか。差出人Mということか。名札の横には何か花のような形のピンバッジを付けている。
「すぐに済むから」
と言って男子は歩き出した。あなたが欲しいのはこれでしょ、と手紙を差し出せたらどんなに簡単だろう、しかし、それはどうやら駄目らしい。なんて面倒くさい。あたしはなにも悪いことしてないのに、どうしてこんなに気を遣わなきゃならないの。
栞は躊躇したが、付いていった。早く終わらせたい。どこまで行くんだろう。前回手紙を奪われそうになったことで用心深くなっているのだろうか。間宮は玄関まで行って靴を履くとどんどん歩いていく。栞が二年生の下駄箱で靴を履き替えて出た時にはその背中は運動場を横切って栞の知らない角を曲がろうとしていた。もう!と思いながら小走りに追うと、背負った鞄の中でペンケースがカタカタと音を立てた。角を曲がったところはどうやら屋外プールへ続くスペースだった。誰もいない。
「それのポケットにさ、おれの手紙が入ってんだ。それ、返して」
間宮は栞のバッグを指さした。有無を言わせない口調に栞はかちんと来た。栞がおとなしく返すことを疑っていない口調。先輩だからってなんだよ。謝ってよ。第一あの時ぶつかったことも謝ってない。
「はあ?どうしてわたしのバッグに先輩のものが入ってるんですか?」
栞は不思議そうに尋ねた―つもりだったが、口にすると笑い混じりの馬鹿にした口調になってしまった気がする。間宮は一瞬驚いた顔をしたあと、苛立ちをあらわにした。
「いいから、返せって」
一歩距離を詰めてきた。ちょっと怖い。
栞はバッグのポケットから手紙を引っ張り出した。それを間宮に差し出す。
「これでいいですか」
と言いながら、栞は自分がミスをしたことに気づいて心臓がどくんとした。
馬鹿。
手紙があるなんて知らなかったふりをするべきだったのだ。半信半疑でポケットに手を入れて、手紙があることに驚かなければならなかったのに、平然と取り出してしまった。これじゃあここにあるって知ってたみたいじゃない。キサラギから言われてたのに。
間宮もそのことに気づいたようで、眉をひそめた。栞の手から手紙をひったくった。その顔にあったのは、疑い、怒り、苛立ち。しかし栞が予想した表情ではなかった。
(恥ずかしがってない。照れてない)
栞はそのことにどうして違和感があるのか考えながら、じゃあこれで、と口の中で呟いて歩き出した。しばらく歩いてひらめいた。
(あれ、ラブレターじゃなかったんだ!)
栞は運動場の広い空間に出る角でとっさに間宮を振り返った。さっきと同じ場所で手紙をぎゅっと握りつぶしている間宮がこちらに顔を向け、目と目が合った。間宮の目に何かが浮かんだ、と思った瞬間、間宮はこっちにダッシュしてきた。
なによ!
栞ははっきりと恐怖を感じた。どうして追いかけて来る?なにも考えられず、栞は走り出した。ほとんど人影のない運動場を抜け、校門を出る。どうしよう?栞は走り続けた。振り返らなくてもわかる、間宮が追いかけてきているのが。ダッダッという大きな足音が後ろから聞こえる。
ラブレターじゃない。栞は文面を思い出した。ラブレターじゃないなら何?きっと誰かを呼び出す手紙だ。
なんて馬鹿なんだろうと栞は自分を罵倒した。どうして学校から飛び出した?玄関に向かえばまだ少しは生徒がいただろうに。そろそろ運動部が運動場に出てくる時間だ。陸上部のピノもいたかも。それに玄関の近くには職員室もある。
学校の前の道には誰もいない。数少ない帰宅部の生徒が帰り、部活後の生徒が帰りだすまでのこの時間は、こんなに寂しいのか。鞄の中のペンケースがカタカタとうるさい!
待てよ。帰宅部の生徒、と思ったとき、栞の頭に一瞬浮かんだ顔があった。家がどこかなんて知らない。だけど、なにか言ってた。彼がヨウタを見つけたときのことを思い出せ。そうだ、「お地蔵様のある道で」ヨウタを見つけたって言ってた。
栞は、走りながら鳥になったイメージで今いる道を空から見下ろした。お地蔵様のある道、一度通ったことがある。確かあれは。
方向感覚の鋭さは栞の数少ない自慢だ。どこにいても東西南北はたいていすぐ把握できるし、建物の位置関係を理解するのも早かった。筋金入りの方向音痴であるお母さんによると、それは「お父さんからもらったもの」らしいので、なおさら栞にとっては大切なものだった。それをさらに鍛えるために、栞は引っ越してきてから今まで、毎回のように違う道を通って登下校していたので、このあたりの道はほとんど頭に入っていた。
ここを渡って左折。スピードが付いているので足がもつれそうになる。栞は曲がった。この道のどこかで右に曲がることができれば、きっとお地蔵様のある道に出られるはず。あそこだ、あそこで右に曲がれる。後ろの足音はさっきより近づいていた。追いつかれちゃう。足の速さだってあたしの数少ない自慢なのに!
それにしても暑い、十一月なんて信じられない。
血のような味が口の中に上ってきた。疲れた。苦しい。体育のマラソンとは全然違う。歌を歌う余裕なんてない。当たり前か。マラソンと鬼ごっこは別のものだ・・。背中の鞄と両手で抱えたサブバッグを捨てられれば少しは楽になるだろうか。
たとえお地蔵様のある道が彼の通学路だとしても、このタイミングでまさにいるとは限らない。
(ていうか、いないのが普通。いたら奇跡だよ)
自分でツッコみながら曲がると、そこは思った通りの道だった。長い道。道の脇に木々が茂っているところがあり、そのたもとに小さく見える灰色。赤く見えるのはよだれかけか。お地蔵様だ。だけどこの道に人はいない・・と思った栞は、だいぶ先に紺色の背中を見つけた。同じ中学校の男子だ。お願い。
し、ん、どー!
と叫んだつもりだったが、言葉にならなかった。口から出たのははあはあする息だけだった。が、その人影は振り向いた。名前を呼ばれたからではなく、足音に気づいたのだろう。
間宮はもう後ろ、たぶん十歩ぶんくらいの距離にまで迫っていた。
人影の顔がはっきりした。進藤だった。全速力でこちらに向かってくる二人を驚いたように見ている。
「し、ん、どー!」
栞は荒い呼吸の間になんとかそれだけ押し出した。助けて、とは言わなかった。そんなことは期待していない。
(ただ、小川じゃんって顔してよ。あたしの知り合いって顔でそこにいてよ。ほとんど知り合いのいないあたしの、)
栞は進藤の手前でやっと足を止めた。もう限界だった。
「なんだよ・・?」
進藤は戸惑っている。が、返事なんてできない。栞は肩を大きく上下しながら進藤の顔をただ見ていた。間宮も後ろで止まった。急いで栞は間宮に向き直る。間宮は両手を膝についてゼイゼイと息をしている、と思ったらブレザーを脱ぎ捨ててその場に座り込んだ。かちゃんと音がしたので見ると、ズボンのポケットから何かが転がり出ていた。
黄色いカッターナイフだ。
自分の顔色が変わるのがわかった。進藤が驚いたように体を動かした気配がした。間宮はカッターナイフをポケットにつっこんだ。
「違う。これは、あんた用じゃ、ない」
当たり前だ。そんなもので狙われる覚えなんてない。
「どうして、追いかけて、きたの」
相手が座り込んでいてすぐには身動きが取れないことと、進藤がどうやらまだ立ち去らない様子なので、栞の緊張は少しだけほぐれた。
「逃げた、から」
「違う、先に、追いかけて、きたじゃない」
「手紙、読んだんだな」
間宮は栞の表情を見守りながら鋭く尋ねた。嘘を見極めようという顔だった。栞はあきらめて頷いた。キサラギ、ごめん。全然言われたとおりにできなかったよ。
「・・うん。でも」
「わかってる。無断でひとに預けたおれが悪いんだ」
間宮は大きく息を吸って吐いた。ようやく普通の呼吸を取り戻したようだが、立ち上がろうとはせず、長い前髪の隙間から栞を見あげた。どこか投げやりに見える。
「フーコーって知ってるか?」
キサラギの言っていたことを思い出して栞は試しに言ってみた。
「・・哲学者の?」
「いや、物理学者の方」
間宮は言った。
「おれもよく知らないんだけど、でっかい振り子を使って地球の自転を証明した奴なんだってさ。〈あいつ〉は、フーコーを自称して、おれを振り子にしようとした。なわ跳びのなわで、大なわ用の長いなわで、おれをあの公園の遊具に・・ジャングルジムに吊るすのが、一時期あいつのブームだったんだ。雪の日に、しばらく吊るされてたこともある」
あの公園、と言いながら指さした方向に公園があることを栞も知っていた。
栞は唖然としてじっと間宮の顔を見る。
「ずっと昔のことだけど、おれはまだ忘れられなかった。思い出してはムカついて、ムカついて。この手紙で呼び出して、もし来れば―それは覚えてるってことだから・・もしかしたら悪いと思ってるってことかもしれないから・・それだけでも気が済むと思った。もし忘れてるんなら、許せないと思った。そう思いついて、手紙とカッターを持ち歩くようになって、おれはやっと落ち着いたんだ」
進藤は栞の後ろにいる。顔は見えない。が、この場を去ろうとはしていないようだった。かといって、進藤にも相談したあの手紙のことだろうときっと見当はついているだろうに、口を出してくることもない。ただ黙ってこの場にいてくれる、ということで栞は救われる気がした。
「そのあいつって、あの、間宮さんを追いかけてきた人ですか」
栞はおずおずと尋ねた。廊下で間宮を追いかけて、たぶん手紙を探そうとしていた背の高い男。
「追いかけてきた人?・・ああ、あいつじゃねえよ。あいつは勘違いして面白がってただけ。読まれると面倒だったから、あんたのサブバッグに入れさせてもらったんだ。あとで取り返そうと思って。服が変わってたからわからなくなって、すぐに取り返せなかったけど」
間宮はブレザーを拾って立ち上がった。
「・・迷惑かけたな。勝手に入れたことも、追っかけたことも。追っかけたのは、言い訳したくて、つい」
シャツの袖で額の汗を拭っている。
「あの、今度は、本人に手紙を渡すんですか?」
栞は気づかないうちに声をかけていた。関係ない。関係ないけど、このままにしていいのかと思ってしまった。
間宮はさあ、と首を傾げて見せた。
「わからない。・・でも、ケチが付いたからなあ」
間宮は背中を向けて歩き出した。その直前ちらっと見せた顔が心に残った。間宮が角を曲がるまで栞は立って見ていた。いつの間にか日が傾きはじめている。
「つ、疲れたあ・・」
栞は今になって全速力で走ったぶんの汗が噴き出した気がした。緊張が解けてそのまま力が抜けてしゃがみ込む。進藤を見上げ、なんと言うべきか迷っていると、進藤はぼそっと呟いた。
「体育のマラソンじゃ走り足りなかったの?」
冗談を言っているようにも見えないその真面目な顔がおかしくて、栞は思わず笑った。
栞はやがて立ち上がり、進藤にお礼を言った。進藤は「別に、なんもしてないけど」と言っただけで、何も説明を求めなかった。間宮の言葉で分かったからかもしれないし、そもそも興味がないからかもしれない。栞もあえて説明はしなかった。が、これだけは言おうと思った。
「進藤が言ったから、キサラギに相談してみたんだ。で、全部キサラギの考えたとおりだった。・・すごいね。キサラギって。色々考えてくれて助かったし、」
進藤があいつを慕うのがわかる気がする。
なんて言ったら、絶対にイヤな顔をするかと思って栞は言葉を呑み込んだ。
「・・まあそんな感じ」
「ふーん、そっか」
進藤は相変わらず表情があまり変わらない。栞は急に進藤と並んで歩いているのが照れくさくなった。いきなり追いかけてきて、妙なことに巻き込んで、一緒に帰ってる。自分が相当図々しい気がして来て、次の道で曲がろうと決めた。自宅への最短ルートを頭の中で組み立てる。
「じゃ、また」
突然栞が身を翻したので進藤は驚いたようだった。
「あ・・小川」
「ん?」
進藤は何かを言おうとしてためらっているように見えたが、ボールをぽんと放るように言った。返ってこなくても構わないというふうに。
「今度、つばめ荘に行ってもいい?」
栞は思い切りボールを投げ返すつもりで、にやっと笑った。
「もちろん!前にも来ていいって言ったじゃん」
六.夜の公園
十数日が過ぎた。いつのまにか秋から冬へと季節は変わっていた。
ストーブを付けるようになった居間には低いゴーという音と暖かさが満ちている。
『きみらのお母さんって美人だよね』
夕方、栞とヨウタが居間で再放送のドラマを見ているとき、キサラギが突然言った。ドラマの女優から連想したのかもしれない。ヨウタは嬉しそうな顔をしたが、栞はイヤな気がして
「セクハラ」
と言い放った。キサラギはのけぞった。
『いやまさか、セクハラではないよ。失礼な奴だな』
「あんたが幽霊してる間にセクハラの定義は広くなったの。・・キサラギ、まさかお母さんから見えないのをいいことに、お母さんの着替えとかお風呂とか覗いてないよね?そんなことしたら許さないから」
ふと心配になって釘を刺したが、キサラギは心外そうに眉を上げた。
『そんなことするわけないだろ。僕をその辺の俗人と一緒にしないでくれる?幽霊ってのはそんなことを超越した清らかな存在なわけ』
「嘘、絶対に嘘」
どう見ても俗人じゃないの。やっぱりこんな奴の存在、お母さんには言えない。意味がわかるのかわからないのかヨウタは笑っていたが、会話に入ってきた。
「ぼくね、お母さんに似てるってよく言われるよ」
顔を得意そうに向けるのをキサラギはしげしげと見て頷いた。
『うん、ヨウタはお母さんそっくりだな。栞は』
と、視線を栞に移したので、栞は素っ気なく顔を背けた。
「やめてよ。似てないのはわかってる」
ヨウタはCMに出てくる可愛い赤ちゃんがそのまま大きくなったような顔をしている。白桃のような頬、二重のぱっちりした目に小さな鼻、微笑んだようなかたちの唇。お母さんは基本的に同じそれらのパーツをもっと洗練させた感じで、三十八歳にはとても見えない。自分の、切れ長の目、冬でも浅黒い肌、背ばかり高い骨ばった体つきは、お母さんやヨウタとはまるで違う。
『お母さんにはあんまり似てない・・けど、きみも綺麗だよ。お父さんに似てるのかな』栞はなんと言っていいかわからず黙った。ヨウタが面白そうに覗き込んでくるのから顔を逸らし、キサラギに
「セクハラ」
と呟いた。
そのとき何か気配を感じて顔を上げると、少女が台所の方向からこちらに歩いてきた。
まただ。
おでこを出してお下げ髪を垂らし、生真面目な、というより険しい表情をした少女。
栞はヨウタとキサラギの顔を見て、少女の方に顎を動かした。
「そこに彼女がいる。食器棚の前。見えない?」
二人が食器棚の前に目をやるが、その目は何も捕えられなかったようで、すぐに栞に戻ってきた。
「・・わかんない」
ヨウタが代表して言った。やはり少女の幽霊が見えるのは栞だけなのか。ヨウタが少し眉を寄せているのは栞に同情しているのかもしれない。栞ははじめ、怖がりのヨウタにこの幽霊のことを打ち明けるのをためらっていたが、「見える」仲間欲しさに言ってしまった。なぜかヨウタにも少女は見えないらしい。キサラギでもう幽霊に耐性がついていたのか、ヨウタにそう怖がっている様子はなかった。
「どうしてあたしにだけ見えるんだろ?どうして幽霊同士交流がないのよ?」
がっかりしてキサラギに八つ当たりをするとキサラギは肩をすくめた。
「さあ・・。現代的、都会的な幽霊は近所付き合いが希薄なんだよね」
「なーにが都会的よ。それに、あんたと彼女は近所付き合いどころか、ルームシェアしてんの。この家の中の住人のことくらい知っててよ」
キサラギは苦笑した。
「栞はどこか彼女に共鳴してるのかもね。だからきみだけが見ることができる」
共鳴。それってどういうことなんだろう。
いつのまにか少女は消えていた。彼女と目が合ったと思ったことはない。彼女が栞のことを認識しているとは思えない。自分が―自分だけが勝手に共鳴しているのだろうか。栞は頭を振った。
しばらく黙って少女のことを考えていると、引き戸がガラガラと開く音がした。
「進藤だ」
進藤はたまにつばめ荘に遊びに来るようになっていた。キサラギが目当てだとはわかっていたが、「あとはお二人でごゆっくり」というわけにはいかない。進藤は、ヨウタか栞が協力しないとキサラギの言葉を聞くことができないからだ。だから、居間で一緒にテレビを見たり宿題をしながら、ぽつりぽつりと交わされる二人の会話のために、ヨウタか栞がキサラギの言葉を〈通訳〉してやるのが習慣になりつつある。進藤は礼のつもりなのか、たまにアイスやプリンを持ってくるのがおかしかった。
『翔、お母さんは元気?』
小中学生にとってアイスは季節を問わないおやつだ。三人で進藤が持ってきてくれたカップアイスを食べていると、キサラギが尋ねた。ヨウタが繰り返す。進藤は頷いた。
「うん。忙しそうだけど、元気みたい。ビデオ通話で見る限りではね」
キサラギが進藤の近況を気にして尋ねるので、それを〈通訳〉するうちに、栞たちも進藤の置かれた状況を知るようになった。進藤のお母さんは今仕事でアメリカのニューヨークに住んでいるのだ。もともと都市デザインというものを研究していて、その勉強のために渡米したらしい。この家に届いた進藤宛のエアメール、あれはお母さんから来たものだと進藤は言った。彼が淡々と語るところによると、「天然なんだ。とっくにつばめ荘から親父んちに移ってるのに、うっかり前の住所と名字を書いたみたい」ということらしい。
「ビデオ通話ってパソコンでやるの?」
とヨウタ。小川家にもパソコンはあるが、お母さんが仕事やネットショッピングするくらいにしか使っていない。アメリカと繋がるとはいかにも魅力的だった。
進藤は頷いた。
「でも時差があるでしょ。何時間なんだろ」
「十四時間こっちが進んでる。だからこっちの夜九時頃が向こうが起きたとこで、その頃話すことが多いかな」
栞はそっかあと頷きながら、確かにそのタイミングでしか話せないかも、と思った。指折り数えてみる。お母さんが仕事を終えて―何時か知らないけど、夜六時くらいとして―進藤と話したくても、進藤はもう学校に着いている。
『頑張ってるんだな』
キサラギが微笑んだ。そうか、進藤のお母さんはキサラギのことを知らなかっただろうけど、キサラギにとっては、お母さんも進藤と同じく見守ってきた家族なんだ、と栞は思った。
それにしても、キサラギが質問するので栞たちも進藤の個人的なことを知ってしまうわけだが、そんなことをクラスメートに知られるのって嫌じゃないのかと栞は最初気を回した。が、進藤は平気なようだった。進藤には案外開けっ広げなところがある。進藤の両親は進藤が小さいときに離婚しているが、お父さんが近所に住んでいることもあり、交流はずっとあったこと、お父さんとお母さんの仲もそう悪くないらしいことまで知ってしまった。なんだか人の家庭って不思議だ。
なりゆきで親しくなってみると、進藤はとっつきにくい性質ではなかった。皮肉っぽいし口は悪いが意地はそう悪くない。ヨウタなんて、迷子のところを助けられたこともありすっかり懐いていた。
なんとなく四人で再放送のドラマを見る。終わったので栞は宿題を広げた。
進藤も宿題を持ってきていたらしく、机の上に教科書を出している。
栞は何気なく表紙に目をやって、その記名が「甲斐翔太」であることに気付いた。そうだった。進藤は夏にお父さんと暮らすことになって名字が変わったんだっけ。前の名字は確かに「甲斐」だった。
「どうして」
栞は思ったことが勝手に言葉になっていたので自分で驚いた。どうして進藤は「進藤」になったんだろう。どうしてお父さんと暮らすことになったんだろう、と考えていたのだ。栞はお母さんと離れて暮らすなんて想像も出来なかった。
進藤がこっちを見たので栞は困った。こんなことは聞けない気がした。
「どうして・・ここはつばめ荘っていうんだろう」
苦しまぎれにそう尋ねてみた。
「知らないけど。よくつばめが巣を作るんだ。だからじゃない?」
「え?どこに?」
ガレージ、と進藤は言った。今年も作ってたよ。まだ残ってるんじゃない。
「いつ作るの?」
進藤は、何も知らないんだな、と言わんばかりの顔で、そりゃ春だよ、と言った。
栞はわくわくしてきた。春につばめが来てくれるだろうか。
その日、進藤を送りがてら、ガレージの高いところをよく見てみた。天井に近い壁に灰色の奇妙なかたまりがくっついていた。もっと可愛い巣をイメージしていたのでちょっと意外だったが、栞はヨウタに言った。
「つばめの赤ちゃん、見たいね」
ヨウタはうーんと言葉を濁した。ヨウタは虫が苦手だしカラスや鳩も怖いのだ。
「つばめは可愛いんだから」
栞は言いながら思った。この家はつばめの家だって思えば、自分たちも間借りさせてもらってるようなものだ。幽霊の一人や二人が同居してたって文句を言う筋合いはないのかもしれない。
寒いと思ったら、次の日には雪が降った。
三時間目、空から落ちて来るものに白さが混じっていることに気付いて窓際に座る生徒たちから小さな囁きが漏れた。栞は特に感慨もなく塵か埃のような雪を横目で見ていたが、誰かの口から「初雪」という言葉が聞こえてきてドキッとした。
間宮の手紙には、初雪の日、って書いてあったっけ。つまり今日なんだろうか。もし、あの手紙を彼が渡していたなら―だけど。
あの日、夕方の居間で間宮に手紙を返した経緯を報告すると、思ったとおりキサラギにひどく怒られた。
「ひとりで会うなってあれほど言ったのに、いったい何を聞いてたんだよ?」
珍しく厳しい表情にたじろいで、ごめん、と言いながらも栞は反論した。
「でもキサラギにだって責任があるよ。知ってたんでしょ。あの手紙がラブレターなんかじゃなくて、その、別の意味で誰かを呼び出す手紙だってこと。だからひとりで会うなって言ったんだね。教えてくれたら良かったのに」
誰かを恋する男じゃなくて、誰かを恨んでる男だって知ってたら、もっと警戒したかもしれない。
キサラギはぐっと黙った。
「確信はなかったんだ。雪が降るほど寒い日に、しかも夜に、好きな相手を呼び出すとはおかしな気がしたけど。まさか、カッターナイフを持ち歩くような男とは思わなかった。・・そいつ、大丈夫かな?」
「さあ・・。でも、カッターは使わない気がする」
「どうしてそう思う?」
それは、最後に栞を見た間宮がなんだかせいせいしたような表情をしていたからだったが、言葉にするのは難しかった。
「・・あんなに走ったら絶対筋肉痛になるから、そんな乱暴できないよ」
とボケてみたが、キサラギは乗ってこず、眉を寄せていた。
「そんなに怒らないでよ」
と言うと、キサラギは我に返ったようだった。
「別に栞に怒ってるわけじゃない」
と小さく笑った。
栞は授業も聞かずにちらちら降る雪を見ながらあの日のことを思い出していた。
帰宅してしばらく栞は悶々としていた。六時五十分。時計を見やると思い切りよく立ち上がり、ショート丈の黒いコートを着てマフラーを巻き付けた。今日はお母さんの帰りが遅い日だ。周囲の気配を窺う。よし、キサラギはいないみたい。
「どっか行くの」
ソファに寝そべったヨウタが尋ねる。栞は黙って頷いた。当然のようにヨウタはどこ?と聞いたが栞は答えなかった。
「お母さん帰ってくるよ」
栞は顔をしかめた。適当に言っておいて、と言いかけたが、ヨウタに適当な嘘が付けるわけがない。それにヨウタに嘘を付かせるのには抵抗があった。
「たぶん、そんなに時間かからない。お母さんには、ただ出かけたって言って」
何か言いたげなヨウタに背を向けて栞は居間を出た。真っ暗な廊下を通って玄関へ着き、電灯のスイッチを付ける。明るくなった瞬間、栞は思わずひっと声を出した。
キサラギが腕組みをして玄関の戸に寄りかかっている。
『今からお出かけ?』
いつものようにからかうような笑顔を向けてくる。
「そう。どいてよ」
栞は座って靴を履こうとした。スニーカーをやめて、ショートブーツにする。さっき窓から見たら一度はやんでいた雪がまた降っていた。
『公園に行くのか。初雪の日の夜七時、だったもんな』
キサラギも覚えていた。栞は答えずにブーツに足を入れる。
『人の喧嘩を栞が止められるでもなし、ただの好奇心で行ってどうする?』
栞はカッとした。
「好奇心じゃないよ。勝手なこと言わないで」
『じゃあ野次馬根性か』
キサラギは薄く笑った。こんな意地悪なことを言うキサラギは初めてだった。栞は睨みつける。
「あたしは、間宮はたぶん来ないと思ってる。それを確かめたいの」
『来ないと思うなら行く必要ないだろ』
キサラギは間髪入れずに言った。その顔は意地悪ではなかった。ただ、珍しく真剣だった。
『なあ、間宮の問題は奴が自分で解決することだ。栞が危険をおかす必要はないんだよ』
「危険なんかないよ。たぶん、来ない。でも間宮の、あのカッターを忍ばせてた覚悟に少しだけ触れたから。万が一何かあったらあたしは後悔する。だって間宮の覚悟を知ってるのは、たぶんあたしだけだから」
栞は座ったままキサラギを見上げて言った。そう。行かなきゃ、というこの衝動はそういうことなんだ。言葉にして自分の気持ちがはっきりした気がする。
キサラギは戸の前に立ったまま少し考えていたが、静かに言った。
『僕は奴を知らない。でも、全速力で女の子を追いかけるような奴は信用できない』
なぜかその言葉が気に障った。頬が熱くなる。
「女の子なんかじゃない・・!」
キサラギが怪訝そうに眉をひそめる。自分でも妙なことを言ったと思った。
『とにかく行くなよ。危ないだろ』
「ほっといて。あんたはあたしの保護者か」
栞は立ち上がると足を踏み出してキサラギに近づいたが、彼は動かなかった。頭ひとつ分の高さから静かにこちらを見おろしている。キサラギの体を通り抜けることを考えるとなぜか怖かった。が、仕方ないと思いキサラギに触れんばかりに迫ると、ふうと上からため息が聞こえた。キサラギは横に体をかわしていたが栞はもう勢いがついていたのでつい引き戸にガンとぶつかった。そのままガラリと戸を開け、後ろを見ずに走り出した。
熱くなっていた体に冷気と雪が気持ちよかった。
女の子と言われたことがなぜか嫌だった。男の子になりたいわけじゃない。でも、さっきの文脈の「女の子」は、可愛い、無力な存在に思えた。
(あたしはそんなものになりたくない)
これは卑下じゃない、自惚れでもない。可愛くて無力な「女の子」は嫌だった。
でも実際には。
栞は足の速度を緩めた。ため息をつく。実際には無力なんだ。あの日だって、足が速いつもりだったのに、間宮に─体育会系とも思えぬ間宮に―ほとんど追いつかれていた。でも、悔しいのはそのことじゃない。悔しいのは、彼がこちらに向かってきた瞬間にはっきりと恐怖を感じたことだ。追いかけられるのは怖かった。怖かったことが悔しい。もし進藤に会えなかったらどうなっていたんだろう。
そう考えるとキサラギの心配は妥当なのかもしれない。だけど栞は自分が間違っているとは思いたくなかった。
公園に着いた。公園は真っ暗かと思ったが、街灯がいくつかあるせいでそうでもない。大きな丸い時計の文字盤が、街灯が投げかける光に照らされている。七時を三分ほど過ぎていた。
栞はジャングルジムの陰に立って、二カ所ある公園の入り口をちらちらと見ていた。
来るだろうか。間宮は。そしてフーコーは。
雪は細かく、街灯の光の中を舞っている様子は、授業中、窓からの光の中で埃が舞うのに似ている。目の前のジャングルジムの鉄の棒に雪が落ちてもすぐ溶けていくのをぼんやりと眺める。溶ける速さに雪が追いついていない。それでもこのまま降り続けば少しは積もるのだろうか。
塗料がはがれ落ちた鉄色のジャングルジム。これが、間宮が吊されたというジャングルジムなんだ。いつのことかは言わなかった。今の間宮の体が縄跳びの縄で吊り下げられるとは考えにくい。ずっと前のことなのかもしれない。雪の日に吊されたこともあると言った。間宮はその時何を思っていたんだろう。栞は勝手に幼い間宮を想像した。体はふたまわり小さく、髪は染めない黒さ、顔にはあどけなさが残る。そんな間宮が、腰にぐるぐる巻かれた縄で宙づりにされ、雪の降りしきる中、足をばたつかせている姿を想像すると、胸がぎゅっとなった。
考え事のせいでしっかり見えていなかったらしい。いつの間にか人影がこちらに歩いてきていることに気付いて栞はどきっとした。
間宮だろうか。相手のフーコーだろうか。
栞の姿はジャングルジムの陰で見えにくいはずなのに、まるでわかっているようにこちらに向かって歩いてくる気がする。緊張のせいでそう思うのか。栞は足元を見下ろした。今日は履きなれないブーツだ。これで走れるだろうか。
目を凝らして見て、その人影がフードをかぶっていること、そのせいで実際より少し大きく見えていたことに気付く。その体つき、歩き方には見覚えがあった。栞は大きく息を吐いた。緊張が解けた。栞はジャングルジムの陰から出ていった。
「・・どうして?」
角度が変わり、街灯のあかりで進藤の不機嫌そうな表情が見えた。
「ヨウタから・・っていうかキサラギから電話があった」
栞は驚いて口を押さえた。キサラギがヨウタに電話させたのか。そこまでするとは思わなかった。なんてお節介な幽霊なんだろう。ごめんと呟くと、ゲーム中だったのにさあ、と口を尖らせた。
「で、来てないの」
事情は知っているらしかった。そもそも進藤はあの手紙を読んでいるんだっけと栞は思いだした。自分が読ませたのだ。
「うん」
進藤は栞から少し離れて立ってさっきの栞と同じように公園の入り口を見ている。帰ろうとは言わない。栞を連れ帰るように言われたわけではないのだろうか。
「・・帰っていいよ。あたし、もう少しだけここにいるから」
と言ったが、進藤は肩をすくめただけだった。
帰る気はないらしい。二人は黙ったまま立ち尽くしていた。一度だけ、こんなところにいてお父さんに叱られないのか聞いてみたが、「まだ仕事」という返事が返ってきた。
進藤と一緒だと沈黙したままでいられることに栞は気づいた。他の人と一緒にいるときには何か喋ってしまう。沈黙は気まずかった。なのに、今はいくらでも黙っていられる。進藤が無口だからか。場の空気を取り繕うことをしないからか。
進藤の隣では不機嫌にすらなれる。そう、栞は不機嫌だった。お節介なキサラギにも、彼に言われるがままここに来た進藤にも、こんなところで人に迷惑をかけている自分にも、等分に腹が立っていた。
自分は独りだと思った。進藤には多大な迷惑を、キサラギやヨウタに―もう帰宅していればお母さんにも―心配をかけている身でありながらそう思った。我ながらなんて身勝手なの。でもこんなところにいる気持ちは誰にもわからないと思った。きっと自分は険しい顔をしている。
ふと白い険しい顔を思い出した。少女の幽霊。たった一人で、うろうろつばめ荘を歩き回る彼女なら、もしかして栞の気持ちをわかってくれるかもしれない。
(あなたはここに来られないの?キサラギと同じでつばめ荘から出られないの?)
もしここに来られたら・・あたしたち二人で間宮を助けてあげられたかもしれない。ただし、今の間宮じゃない。小さな男の子だった間宮をジャングルジムから降ろしてあげられたかもしれないね。
間宮がフーコーに復讐するのを止めたい。名も顔も知らないいじめっ子のフーコーを助けたいんじゃなくて、間宮を助けたい。でも自分にはその力がない。結果としてここで他の人に迷惑をかけている。
栞はふーっと長く息を吐きだした。時計を見ると七時四十分だった。
「帰る」
と独り言のように言った。
「・・気が済んだ?」
進藤がからかうように言った。
栞は頷いた。
「うん。・・正直言うとね、間宮のことは少ししか考えなかった。ただ、自分が無力だなあって、思ってた」
「無力?小川ってそんなケンキョなキャラだっけ」
え?「ケンキョ」が「謙虚」だと頭の中で変換すると、栞は意味が分からなくて進藤の顔を見た。
「誰が誰を呼び出そうが小川には全然関係ないのに、なぜか首突っ込んでさ。決闘だか復讐だか知らないけど、自分なら止められるって謎の自信持ってここに乗り込んできたんだろ。自分は無力って何を今さら。もっと早く謙虚がってくれりゃあ、おれだって家でゲームできたんだよ」
「なっ、」
栞は絶句した。なんて言われよう。そんなふうに言われると恥ずかしくて顔どころか首までが赤くなった気がする。暗くて進藤に見えないのだけが救いだ。
「あたしは来てくれなんて頼んでない。余計なお世話なんだよ」
きっぱりそう言ったが、フードの上に雪を積もらせている進藤を見ると、これを言わずに済ますことは出来ない気がして、でもありがとう、と小さな声で付け加えた。進藤は拍子抜けしたように鼻を鳴らして歩き出した。
「まあおれも無力だなって考えてたけど」
「え?」
「今晩あの間宮って奴とかその相手の男が来てさあ・・万が一おれたちが巻き込まれるような事態になっても、おれはたぶん何も出来ないから。おれが、何か出来ると思う?」
進藤は両手をポケットから出して広げ、自分の体を栞に向けてみせた。
栞はあらためて進藤を見た。女子としては長身の栞とほぼ同じ背丈だ。体つきまで似ていて、同じようなやせ型だ。顔にも猛々しさはない。愛想がないのはいつも通りだが、凪いだ湖面のように落ち着いている。つまり、あまり強そうではなかった。でもまさか正直にそうとも言えず、うーん?と曖昧に呟くと、進藤はまた鼻で笑った。
「まあキサラギもそんなことわかってるだろうけど」
「・・なんであんなにお節介なんだろ?」
「さあね」
公園から出て歩いていく。雪がさっきより勢いを増している。栞は進藤のようにコートのフードをかぶろうとしたが、フードの中に入っていた雪が水となって栞の首筋に流れ込んでくる不快な冷たさに小さな悲鳴を上げた。そんなことをしていたので気づくのが遅くなったが、栞ははっと立ち止まった。
「進藤んち、こっちじゃないじゃん」
正確な場所は知らないが、方向は知っていた。進藤は、あーと返事にならないような返事をしてかまわず歩き続けている。
「まさか、あたしを送っていけって?」
栞はまた不機嫌になってきた。もう女の子扱いはやめてほしい。思わず足を止めていたが、先を歩いていた進藤は振り返って言った。
「さっさと行こうぜ」
確かにこんなところで立ち止まって言い合いをしたって帰るのが遅れるだけだ。栞はため息をついて足を速めた。
「・・小川もおれも自分のこと無力だって思う。だけど、たぶんおれたちがそう思う以上に、自分のことを無力だと思ってる奴がいる」
追いつくと進藤がそんなことを言うので栞は首を傾げた。
「なんのこと」
「家から一歩も出らんなくて、例外除いて誰とも意思の疎通が出来ない、存在さえ認識してもらえない。自分自身の記憶がない。奴が自分のこと無力だって思ってないと思う?」
栞は驚いて進藤を見た。横顔からはぽんぽんと白い息が吐きだされている。
いつかの、縁側から寂しい庭を見つめていたキサラギを思い出す。
それから。眉を寄せて、栞に怒ってるわけじゃないと言ったことがあった。あれは、もしかして、自分自身に苛立っていたのだろうか。
「溺れるものは藁をもつかむって言うだろ。おれはその藁みたいなもんで、役に立とうが立つまいが、キサラギが打てる手はそれくらいしかないんだ。だからおれは来たの」
「・・でも!」
栞は叫んだあと、混乱する頭を整理するためにゆっくり言った。
「どうして?どうしてキサラギはあたしのことでそこまで必死になる?」
「キサラギにとってつばめ荘に住む子どもを守ることは絶対なんだ。そういう幽霊なんだよ」
ただいまー、と口の中で言いながら引き戸をガラガラと引く。玄関の段差のところに男が腰かけ、片足をもう片方の膝に乗せて手持ち無沙汰な様子だったが、こちらを見上げて目を大きくした。
キサラギが玄関にいることは予想できたので栞は驚かなかったが、その紅茶色の虹彩を不思議なものを見るようにしばし眺めてから、ごめん、と呟いた。キサラギは何かを言おうとしたようだが、奥から「栞?」というお母さんの声がしたと思ったらドタバタと音がしてヨウタが駆け込んできた。ヨウタは中学校のサブバッグを隠すようにして持っている。それを栞の手に押し付けた直後にお母さんがエプロンで手を拭きながら現れた。
「もう、こんな時間にまたお邪魔するなんてご迷惑じゃないの。道も暗かったでしょ?危ないじゃない」
呆れている。が、怒ってはいない。
栞がどういうことかわからずに瞬きしていると、キサラギが囁いた。
『きみは友達の家に宿題を忘れて取りにいったことになってる』
そしてすっと姿を消した。ヨウタがお母さんの後ろでコクコクと頷いている。
「う、うん、ごめん。遅くなって。宿題あった」
栞はサブバッグを振って見せた。
七.〈刃傷沙汰〉ってなんて読む?
朝、雪はうっすらと積もっていた。学校はその埃っぽさや汗臭さを雪に浄化されたように清潔に見えた。生徒もいつもより活気づいているように見える。
「雪が降るとちょっとテンション上がるね」
と呟くと、沙希はそんなの最初だけ、と笑い飛ばした。
十二月の下旬から三月頃まで、ほとんど地面が見える日はないと聞いて栞はわーおと声を上げた。今まで住んでいたところはひと冬に二、三回しか雪は降らなかったのだ。
昼休み、栞は廊下で窓の外を見下ろしながらみくると沙希とお喋りをしていた。
〈各部活の部長は視聴覚室まで来るように〉
という放送が流れた。栞は気にも留めなかったが、少しして廊下を駆けていく兎のような人影が目にとまった。B組の日野さん、通称ピノだ。
「ピノだ」
と呟くと沙希はああ、と言った。
「陸上部の部長だから」
「あ、そうなんだ」
もう部長も二年生に代替わりをしているわけか。栞はちらっと前の学校で所属していた美術部を思い出した。あっちでも代わっただろうか。新部長は誰になっただろう。今度友達にメールで聞いてみようか。
「部長になるとバッジ付けなきゃダメなの知ってる?名札の横に」
とみくる。
「ダッサいよねあれ」
と言いながらもちょっと憧れているような沙希の口調に栞は笑った。
「なに、どんなやつ」
と言うと、みくるが結露している窓に指でかいてくれた。こんなの、と見せたそれは桜の花のようなシルエットの真ん中に「長」の一文字が入っている。妙にレトロだと思ったが、その絵は記憶を刺激した。
「なんか、これ、見たことあるな」
栞は首を傾げて少し考えていた。あ!と思わず声を出す。
「なに?」
「うん。でも、おかしいか。もうどこも二年生が部長やってるんだよね?」
「どうかな。三年生が八月とか九月に引退するところが多いけど、文化部はもっと遅いとこもあるし」
「今も三年生が部長してるとこもある?」
「あるかも」
栞は立ち上がった。栞?と呼びかけられて、ごめん、ちょっと行ってくるね、と断って、栞は教室を出た。
間宮に手紙を返すように言われたあの日、間宮のネームプレートの隣にピンバッジが付いていた。桜の形をしていたのを覚えている。あれが部長を表すものだとしたら、彼は今視聴覚室に召集されているはずだ。あの不良っぽい間宮が部長をしてるなんて―なに部か知らないが―意外だけど、と栞は思いながら階段をおりて一階の視聴覚室へ向かう。もう部長たちが集まったらしく、戸は閉められて、野太い先生の声だけが聞こえる。
通り過ぎて少し行くとトイレがあったのでそこに身を隠して視聴覚室の様子を窺う。しばらくすると解散したのか、戸が開いてパラパラと人が出ていった。ピノも軽やかに歩いていく。間宮が誰かと一緒だったら諦めるつもりだ。だが、大半の部は二年生が部長を務めているようだから、三年生の間宮は誰ともつるまずに出てくるのではないかと栞は踏んでいた。
案の定、間宮らしき背中はひとりで現れた。ほんとに部長だったんだ。栞はタイミングを見計らって歩き出した。自然に間宮と肩を並べるべく歩幅を調整する。前回は散々だったけど、あたしにだってこのくらいの演技は出来るんだから、と思いながら、間宮に自然に追いついて、あ、と声を掛けた。
間宮は顔を横に向けて嫌そうな表情になった。
今なら二人きりじゃないし、キサラギに怒られることもないよね、と周囲をちらと確認する。さっき、間宮の居場所がわかった瞬間、天啓のようにひらめいたのだ。本人に聞けばいい。昨日から―正確には先月から抱えるこのもやもやした気持ちをなんとかするには本人に聞くしかないのだと。
「小川さん、だっけ」
と間宮は仕方なさそうに言った。
「先輩、あれからどうしたんですか?」
ずばり聞いた。遠まわしなのは性に合わない。というか、遠まわしの質問を考えられるほど機転が利かない。
間宮はさすがに驚いたようだ。
「あれからって?」
「じんしょう沙汰はごめんですよ」
あの日間宮の上着からこぼれたカッターナイフを思い出して言った。生徒の間に何か事件があったという噂は聞いていないから大丈夫だとは思うけど・・。
間宮は少し考えていたが、あのさ、と低い声を出した。
「それってにんじょう沙汰のこと?」
「え?」
栞は素っ頓狂な声を出し、二人は一瞬お互いを見つめた。
「いや、じんしょう沙汰でしょ」
栞は確信を込めて言った。これでも国語は得意な方だ。確か、刃物で人を傷つけるような騒ぎ、みたいな意味だったはず。
「じん、はヤイバって字でしょ。あれをニンなんて読みます?」
「・・馬鹿か。にんじょう沙汰だって。おれ、そういう漫画よく読むから自信ある」
「どんな漫画よ」
間宮はブレザーのポケットから何かを取り出した。スマートフォンだ。もちろん学校に持ってきてはいけないはずだ。間宮は栞がそれを非難する暇もないくらい素早く指を動かし、栞の前に画面をかざした。その顔にはどうよ、という不敵な笑みが浮かんでいる。画面には
「刃傷沙汰(にんじょうざた)」
という文字があった。ウェブの国語辞典のようで、下に意味の説明が続いている。栞はショックを受けた。がーんと思わず呟く。自分が今までにこの間違った読みを人前で披露したことがなかったかどうか、記憶を蘇らせようとする。・・まあ大丈夫、かな?平和に生きてればそうそう使う言葉じゃない。
「・・別に変なことはしてねえよ」
気づくと間宮はスマートフォンをどこかに仕舞いこんでいて、俯いて呟いた。二人で並んで階段を上る。
「手紙なんてケチが付いたし。やっぱり似合わないし。やめて、直接文句言いにいった。ジジイの繰り言かってくらい、長々とぶちまけてやった」
昔自分にひどいことをした相手に、間宮は言葉で報復したらしい。刃物は使わずに。
「・・相手、びっくりしてた?」
「ああ」
間宮は思い出し笑いをした。
「フーコーね。おれがぷっつりキレたと思ったみたいでさ。何かされると思ったみたいでおたおたしちゃって。スマホで仲間呼ぼうとして。その情けない顔見たらすっきりした。だから、刃傷沙汰にはなってない」
「刃傷沙汰」のところを強調しながら間宮は言った。
「そりゃよかったです」
栞はほっとした。
「ところで、なに部の部長なんすか?」
栞はちらっと部長を表すピンバッジを見ながら聞いた。間宮は憮然としたような照れたような不思議な表情になって言った。
「科学部。・・似合わないとか言うなよ」
八.幽霊の正体
帰宅すると、キサラギはソファにうつぶせに寝転がっていた。栞が朝に広げておいた外国のミステリ小説―前にキサラギにリクエストされて図書館から借りてきてやったのだ―に物憂げな視線を注いでいる。
夕べは栞のせいで夕飯が遅くなったし、宿題をやっていなかったこともあり栞は多忙だった。そのせいか、キサラギは姿を現さなかった。きちんと話をしたかったので、栞はそのソファに寝そべる姿にホッとした。
『おかえりー。栞、これめくって』
「ただいま」
ヨウタが新聞紙を広げて置く習慣は続いているが、キサラギは特別ニュースに興味があるわけではなかった。単に最も多くの活字を「紙にふれることなく」読めるのが新聞紙だったのだ。試しに栞が「あんたの好きな本、借りてきてあげようか?」と提案すると、キサラギは尻尾を振らんばかりに喜んだ。そして当然のように栞はページを捲る係になってしまったのだった。
キサラギが朝からずっと同じページを繰り返し読んでいたのかと思うと気の毒ではある。栞は台所で手だけ洗うと急いで次のページをめくってやった。キサラギは渇いた人が水を求めるように目でごくごくと活字を呑み込んでいく。なるほど活字好きなんだろうなと思わせる姿だった。
ソファの前のローテーブルは先週お母さんによってこたつへと進化している。栞はこたつに足を入れてテレビを見ながら、たまに振り向いてキサラギの本をめくる。キサラギは「はい次」「めくって」「あっ、ちょっと戻って。前のページ」などと声をかけてくるのだ。本当に図々しい。
キサラギがきりのいいページまで読んだところを見計らって、栞はその本をぱたんと閉じた。
『あー!何するんだよ?』
「あとでまた読ませてあげるって。あたしの話、聞いて。昨日のこと」
『・・ああ』
キサラギはソファの上で体をぐるりと回して仰向けになった。栞は手でキサラギの足をしっしっと払って折り曲げさせると空いた場所に腰かけた。
「昨日、心配かけてごめん」
『奴は来なかったんだな?』
確かめるように問う。きっと昨日の栞の様子で推測はしていたのだろう。栞は黙って頷いた。やっぱり行く必要はなかっただろ、などと言われるのではないかと栞は一瞬身構えた。が、キサラギは小さく、良かったとだけ言う。
「進藤を寄こしたのは、どう考えてもお節介だと思ったけど。でももし何かあったら、あたし一人じゃどうにもならなかったよね。だから、まあ、感謝してる、のかなあ」
『なんだよ。あやふやだな』
キサラギがにやっと笑った。栞もつられて笑い出したが、本音を言う。
「自分が行ったのが間違ってたとは思いたくないの」
キサラギは頭の上で両手を組んで言った。
『んー。それでいいんじゃない?栞は気が済むように行動した。僕もそうした。翔だって僕が頼みはしたけど、強制したわけじゃない、自分で判断して公園まで行った。それだけのことだよ』
無力でも行動していいんだと言ってもらえた気がして、栞は顔が自然にほころんだ。
「そっか。・・まあ進藤はかなり愚痴ってたけどね。ゲーム中だったのにとか色々言われたよ」
と言うとキサラギはなぜかおかしそうに笑った。
『それは照れ隠しさ』
「照れ隠し?」
キサラギは何か言いかけてやめ、また口を開いた。
『つまり、僕に当てにされて嬉しかったのさ』
「なにそれ。キサラギって本当に図々しいんだから」
栞は呆れた。続けて今日間宮と話したことを言おうと思ったとき、玄関の戸が開く音がした。進藤が来ることになっていたのだ。立つのが面倒だったので、入っていいよ!と声を出す。少しして進藤がのっそり入ってきた。
『よっ、翔』
キサラギは寝そべったまま片手を上げた。
キサラギが催促するように栞の顔を見たので、栞は自分が「通訳」しなければいけないことを思い出して繰り返した。キサラギここに寝てるよ、と注釈付きで。進藤は彼にとっては何も見えないソファに向けて中途半端に手を上げた。
『夕べは無理を言ってすまない』
これを栞が通訳するのは少し、いやかなり恥ずかしかったが、渋々口を開く。進藤には学校で会ったときに昨日のお礼は言ってあった。「昨日はどうも」「・・別に」とお互い素っ気ないものではあったが。
進藤はソファに向かってどういたしまして、とぶっきらぼうに返した。
栞は鞄の中から教科書やノートを出してこたつへと移動させながら、今日の間宮とのやりとりを話した。間宮がフーコーに対してカッターナイフではなく言葉を使ったことを。もちろん「刃傷沙汰」の件は恥なので省略する。
話し終えると、進藤がにやっと笑った。
「キサラギがお節介だって言うけどさ。小川も相当だろ。昨日の夜小川がしたこととか、今日間宮に話しかけるために待ち伏せしたことがばれたら・・いい加減にしろ、放っておけって怒鳴られるんじゃない?」
そうかもしれない。栞は顔を赤らめた。
「あたしのはお節介じゃなくて正義感って言ってよ」
栞が冗談に紛らわせると進藤は鼻で笑った。
『良かったな』
キサラギが心からそう思っているような安堵の表情で言った。
「うん」
二人は宿題に取り掛かった。今日はたくさんあるのだ。キサラギは栞が本をまた開いてやったのでソファを独占して読書を再開する。栞はキサラギが顔を上げてこちらを見るたびにページを捲る。
五時を過ぎて遊びに出かけていたヨウタが帰ってきた。
「あっ、進藤くん!もう、来るんならうちにいればよかった」
ヨウタはついでのように栞とキサラギにただいまを言い、上気させた頬で進藤の隣に座り込もうとしたが、栞がおかえりと言いながら洗面所のほうを指さしたので、従順に手を洗いに立つ。ヨウタが歩くと床に足跡がつくことに気付き、「靴下替えなよ」と声を掛ける。
「小川ってほんと親みたいだな」
進藤が呆れたように言った。
「ヨウタを育てたのは半分あたしだもん。でもさ、昔から一緒に歩いてると、〈可愛い坊や、とそのお姉ちゃん〉って目で見られるんだよね」
進藤は喉の奥で笑った。
「引き立て役ってわけね」
「ちょっと。そこまで言ってないでしょ」
帰ってきたヨウタもこたつに足を入れる。雪合戦をしてきたと言う。
「雪合戦するほど積もってたっけ?」
「ううん。無理やり。だから土とか草が混じって汚い雪玉になったー」
なぜ好き好んでそんな見栄えのしないものを作って遊ぶのか。小学生の生態に首を傾げながらも栞はなんとなく言った。
「あんた、最近社交的だね」
「しゃこうてきって何」
「うーん、友達とよく遊んでるねってこと」
ヨウタは照れくさそうに笑った。ちらっとキサラギを見て言う。
「うん。キサラギに教えてもらった。友達できるコツ」
へえ、とキサラギを見ると、視線は本に向けたままだが口元がわずかにほころんでいる。
「どんなの」
と聞くと、内緒!と元気な声が返ってきた。
ノートに目を落とした栞は視界の隅に何かを感じて顔を上げた。
白い小さな影。少女だ。そうだ。彼女はこの時間にしか現れない。
雪が降るほど寒いのに、いつものブラウスにスカートだけの服装で大丈夫だろうかと心配になる。彼女の顔が白いからだ。
栞は黙って彼女を見守っていた。和室の方から現れ、居間に足を踏み入れようとしている。その目にはいつも通り、何も映っていないようだ。
そう思った栞は次の瞬間目を見開いた。少女は進藤を見たのだ。ただ目を向けただけじゃない、認識したとしか思えない。その証拠に少女は歩く向きをわずかに変えて進藤の方へやってきた。その顔には今までの張りつめたものではない、驚きと喜びの表情が浮かんでいた。それどころか手を伸ばして進藤に触れようとしている。
「え、ええ?」
栞は驚いて口を開いた。少女への視線を進藤に転じる。進藤はえ?という顔をしていたが、少女の方はちらりとも見ない。栞を見ている。気づいていないのだ。ヨウタも同じだ。少女の方には目を向けない。
「どうしたのお姉ちゃん」
栞はそれには答えず少女を見つめ続ける。少女の両手は進藤の頬を挟むように伸ばされた。その仕草は何かを連想させた。が、それが何かはっきりする前に栞はぎくっとした。自分と同じく少女を見るもう一つの視線を感じたのだ。
キサラギだ。
キサラギが見ていた。寝ていたはずが体を起こしている。
キサラギが少女を見ている。不思議な目の色だった。見守るような眼差しの中にあるのは、優しさと・・あれは哀しさだろうか。
栞が唖然としてキサラギの表情に気を取られている間に、少女の姿は消えていた。
「なんだよ?」
眉を寄せて進藤がこちらを見る。今あったことを伝えようとして栞はぎょっとした。
いつの間にか、キサラギが進藤の後ろに立って、髪をかき上げるような仕草に隠して立てた人差し指を口にあてて見せたのだ。ヨウタから見えないように示す、言うなのサイン。
「う、ううん・・虫がいたかと思ったけど違った」
栞はなんとかごまかした。どういうこと?キサラギを横目で睨みつける。が、キサラギはまるで気づいていないようなふりをしてまたソファに寝転がっている。
今あったことが気になって、宿題はなかなか進まなかった。
栞はその夜、自分の部屋を見回した。引っ越してひと月と少し。いまだに開けていない段ボール箱が隅に積まれている。他に、本棚に収まりきらない漫画本、学校への出番を待つ習字セットやリコーダー、返却されたテスト用紙、昔からの馴染みであるぬいぐるみたちなどなどが床に置かれている。要するに部屋は散らかっていた。だが、今日は目的を持って、それらを部屋の隅に寄せた。真ん中だけ丸く畳が見えてくる。
栞は廊下に出て階下の様子を窺った。ヨウタとお母さんがお風呂に入ったことがわかり、栞は急いで部屋の真ん中で口を開いた。
「キサラギ!」
まるで魔法陣に悪魔を呼び出してるみたい。キサラギは出てこない。キサラギは遠慮しているのか、普段この部屋には現れないのだ。しかし今日はどうしてもこの部屋で話したかった。
「キサラギ?キサラギったら!」
苛立たしさが通じたのか、キサラギが現れた。魔法陣の真ん中に忽然と現れるのではなく、ドアを通り抜けて、面倒そうな口調でハイハイと言いながら。
『なんだよ?・・おっと、すごい部屋だねこりゃ』
「そんなことより、あたしが何を話したいかわかるでしょ?」
さあ?とキサラギはいつものようにからかうような顔を見せた。栞がベッドの端に腰を下ろすと、キサラギは畳の上でこちら向きに胡坐をかいて座った。
「さっきのこと!キサラギ、あの幽霊が見えてたのね?今まで見えてないフリして、嘘つき!」
キサラギは斜め上を見るようにして思案していたが、やがて仕方なさそうに頷いた。
『・・ああ、見えてるよ』
「どうして黙ってたの?それに、さっきのあれはなんなの?どうして・・秘密にしなきゃならないの?」
声が大きい、とキサラギが言ったので途中から栞は声を弱めた。興奮していることを自覚した。
『どうして見えることを黙ってたか。どうして翔たちに秘密にするか。その答えはどっちも同じで、彼女のプライヴァシーを尊重した、ってところかな』
「プライヴァシーを尊重」
栞は繰り返した。夕方からずっとぼんやりと胸の中でくすぶっていた疑問をぶつける。
「あんた、あの子の正体を知ってるんだね」
キサラギは答えなかった。答えないということはイエスなのだろう。
「教えてくれないの。幽霊のプライヴァシーがそんなに大事?」
『・・まあ、栞の好奇心を満たすことよりはね』
栞はかちんと来た。が、感情的になってはキサラギに勝てないのだ。もういい、と栞が言うのを彼は期待しているのかもしれない。栞は深呼吸してから口を開く。
「不思議な現象があって、どうやらあたしにしか見えない。その謎を解きたいと思うのって自然なことでしょ?」
キサラギはそれを聞いて少し考えていたが、何かを割り切ったのか、いいだろうと言って微笑んだ。茶色い目はいたずらっぽく輝いている。
『じゃあ自分で謎を解いてもらおうか。僕からはヒントだけをあげる』
「知りたい」ではなく「謎を解きたい」と言ったのが良かったのか。すぐには教えてもらえないようだが栞は頷いた。キサラギは人差し指をこめかみに当てて考えていたが、やがて言った。
『彼女は、きみたちが言うところの〈幽霊〉ではない。夢の中でつばめ荘を訪れているのさ。それから・・そうだな、前に栞が、どうして幽霊同士交流がないのかと尋ねたとき、僕がなんて言ったか覚えてる?』
幽霊ではない?夢の中でつばめ荘を訪れる?
栞はぽかんと口を開けた。理解が追い付かない。
キサラギが質問を繰り返したので、栞は慌てて記憶をさらった。
「えっと、都会的な幽霊、現代的な幽霊は近所付き合いをしないとかなんとか」
『そんなようなことを言った。もちろんつまらない冗談だ。でも事実でもある。ただし、僕のことを言ったんじゃない。・・僕がどんなに洗練されてたって、残念ながら都会的とまでは言えないだろ、こんな田舎に住んでたんじゃね』
キサラギは片目をつぶった。腹立たしいほどウインクが決まる男だ。
じゃあ都会的で現代的なのはキサラギではなく少女のほうということか。その彼女は幽霊ではない?つばめ荘の夢を見ている?
全くわからない。
「幽霊じゃないって・・つまり〈生き霊〉ってこと?」
なぜか、その言葉は〈幽霊〉より恐ろしかった。
『さあ?そういう定義には詳しくないんだ』
興味もないと言いたげな素っ気なさだ。
栞は考えるためにベッドから立ち上がって少し歩いた。夢という言葉が引っかかった。だって彼女が現れるのはいつも夕方だ。夕方に眠っているのか。まず「昼寝」という言葉が浮かんで消えた。あるいは病気なのかもしれない。もしかして入院しているのだろうか。栞たちが引っ越してきて―少女を見るようになって―ひと月だから、少なくとも一か月は入院しているということになる。あんな小さな子が可哀想に、と栞は思った。
小さな子。だが、あの仕草は・・。ふと今日の夕方の光景、少女の仕草を記憶に蘇らせたとたん、雷に打たれたようにもう一つの可能性に思い当たった。ええと、彼女が現れるのは夕方の四時から六時くらいの間だ。栞は急いで指を折る。指を使って引き算をするなんてまるでヨウタだと頭の片隅で思いながら、答えを出し、栞は確信した。
(都会的な幽霊。確かに都会だわ)
『ヒントは以上だ』
去りかけたキサラギの腕を、栞は待ってとつかもうとした。どうかしている。もちろんつかめるわけがなく、栞はバランスを失って前に倒れそうになったが、なんとか転ばずに済んだ。
『・・危ないな、どうしたんだよ』
キサラギが栞を支えようと手を出してくれたことがわかって栞は小さく笑った。物理的には支えにならなかったがその行為は栞の心を温めた。
「わかった、あの子の正体。進藤のお母さんだね」
キサラギの唖然とした顔をしばらく眺める。珍しい表情だ。
『・・よくわかったな』
「ニューヨークとの時差は十四時間っていうのを思い出したから。こっちの夕方は向こうでの深夜だもん。でも、一番のヒントは今日あの子がしたことだよ。進藤のお母さんは夢の中で進藤を探してたんだね」
進藤は母親のことを「天然」だと言った。とっくに進藤がつばめ荘から引っ越しているのに、つばめ荘宛てに手紙を出した彼女。夢の中でもきっと進藤がつばめ荘にいるはずだと思い込んでいたのだろう。進藤を見つけて頬を両手で触ろうとしていた姿を思い出す。
その仕草には見覚えがあった。栞のお母さんもよく栞やヨウタの頬を両手でぎゅっと挟むのだ。どうして進藤のお母さんが少女の姿なのかはわからない。でも、その仕草だけは大人びていた。というか、母親めいていた。
『・・甲斐奈緒子だ』
キサラギが呟いた。彼女の名前を教えてくれたのだ。
「奈緒子さん、か。ねえ、どうしてあたしに見えたんだろ?前にあんた、あたしが彼女に共鳴してるって言ったね」
さあ、とキサラギは首を傾げた。
『あれは適当に言ったのさ。でも、きみと彼女は似てるところがあるかもね』
と言う。
『家族への深い愛情がある。・・周りにはしっかり者と思われてるけど、実はそうでもなくて。人のためなら動けても、自分のためだけには腰が重いのさ』
意味ありげに散らかった部屋をぐるりと見るので栞は顔を赤らめた。言われてみれば、居間や廊下にはまめに掃除機をかけるし、トイレ掃除やお風呂掃除も苦ではない。だがなかなか自分の部屋の片づけには取り掛かれない。
「失礼ね。そのうち片づけるってば」
キサラギは期待していないように鼻で笑った。
九.家族のかたち
栞はベッドの中でゆっくり頭をもたげた。カーテンの隙間から差し込む光がいつもと違う。早いのか。曇っているだけか。栞は壁の時計を見てまだ六時前であることを知った。もう少し寝ても良かったが、寝られない気がして起き上がる。
下に降りていくとお母さんがテーブルの上でパソコンをカタカタと叩いていた。お母さんは夜より集中できると言ってよく早朝に持ち帰った仕事をしているのだ。
「おはよう」
「あれ、ずいぶん早いわね」
お母さんは驚いた顔をした。栞はお母さんの前にパソコンしかないのを見て言った。
「起きちゃった。・・ね、朝ごはん作ったげようか」
「うっそ。嬉しい。作って」
栞は冷蔵庫の中を調べ、玉ねぎとピーマンを薄切りにする。パン三枚にケチャップを塗り、切った野菜を載せる。ベーコンやハムがなかったのでツナ缶を開けてパンにちょこちょこと置き、最後に溶けるタイプのチーズを散らした。その間栞は黙々と手を動かしながら昨夜のことを思い出していた。
あのよく訪れる少女が進藤のお母さんだったなんて。思いがけなかったが、少女が遠い昔に死んだ幽霊ではなく、生きているということにはなぜかホッとする。
キサラギは少女の訪問のことを進藤に言ってはいけないと言った。
「どうして。お母さんはきっと進藤に会いたいのに。寂しいのに」
キサラギはため息をついた。
『確かに彼女は息子に会いたいんだろうよ。それであんな夢を見るんだ。だけどだからって、彼女は泣き暮らしてるわけじゃない。きっと逞しく健やかに暮らしてるさ。夢だけで判断するなよ。誰だって何かしら寂しさを抱えてるものだろう』
誰だって寂しさを抱えてる。栞は亡くなったお父さんのことを思った。
「そうだけど・・。進藤は知りたいんじゃないかな。離れてる家族が自分に会いたがってることを」
『翔は知ったら苦しむだろう。それに、夢は自分でもコントロールできないプライヴァシーだ。栞だったらそんなものを人に知られたいか?』
栞はわかったよと呟いた。きっとキサラギは正しいのだろう。
ヨウタの分は残してトースターにパンを二枚入れてやかんを火にかける。リンゴを剥き終わって少し暇が出来たので台所の入り口に寄りかかってお母さんの背中を見た。小さな背中。お母さんは栞より小柄だ。優しい顔立ち。だけどその内面には強い意志があることを知っている。お母さんも進藤のお母さんと同じく、未知の場所―この土地に飛び込んだのだ。
栞はピザトーストの皿とマグカップを二つずつ、そして切ったリンゴを載せた皿を運んだ。マグカップの中身はお母さんがブラックコーヒー、栞はカフェオレだ。
お母さんは栞の持ってきたものを見て、最高、と声を上げた。
二人でいただきますを言う。栞は目を伏せて、ねえ、と言った。
「お母さん、一人であたしたちを育てるの、怖くない?」
お母さんは驚いたようにどうしたのと言い、コーヒーを一口飲んでから口を開いた。
「不安が全くないと言えば嘘になるけど。怖くはないわ。あんたたちがいるからね」
子どもがいるから怖いんじゃないの?子どもを、曲がりなりにも大人になるまで責任を持って育てなければならないという重圧を想像すると、恐ろしかった。
納得のいかない様子の栞を見てお母さんは笑った。
「子どもってものすごい力になるの。泣きながら親の姿を探す赤ん坊が、どんなに親にパワーを与えるかわかる?その成長がどんなに楽しみや希望を生むか。泣いてた赤ん坊が、今やわたしにピザトーストを作ってくれるの。すごいでしょ」
栞は照れた。このところ自分は無力だと思い込んでいたぶん、お母さんの力になっているとわかって嬉しかった。体がふわふわ浮き上がりそうだ。
お母さんも照れくさそうに頬を染めて言った。
「ねえ。わたしもついあんたに頼って悪いと思うけど・・まだ子どもでいていいんだからね。あんたは役に立つことでわたしの力になってる訳じゃない。いるだけで、存在するだけでわたしの力なの」
栞は縁側に腰かけていた。隣にはキサラギが腹ばいになって置かれた本を読んでいる。栞はいつものようにページを捲ってやっていた。雪はあれから何度か降ったが、今は溶けて地面が出ている。雪は日当たりの悪いところに汚く残っているだけだ。庭には、竹馬に乗ろうとしているヨウタと傍らでそれを見る進藤がいた。
ガレージの中の小さな倉庫でヨウタが竹馬を見つけたのだ。
「どうやって乗るの。お姉ちゃんやって見せて」
竹馬なんて小学校低学年の頃に何度か遊んだ記憶があるくらいだ。たかが竹馬、たぶん乗れるが、ヨウタや進藤の前で醜態は見せたくない。けっこう高い位置に足台があることも気になる。栞が迷っていると、ヨウタはさっさと見切りをつけて進藤に頼んでいた。
進藤は竹馬を前に傾けるとひょいと乗った。おおーっとヨウタが感心するうちに庭を一周して帰ってきた。いつもより五十センチ以上高い目線が珍しいのか、進藤は周りを見ていて、足元を気にする様子もない。縁側にいた栞は拍手した。キサラギは本から目を上げて微笑んだ。
「すごいすごい」
「こんなの簡単。でもヨウタには高すぎるな」
進藤は竹馬から降りると、足を乗せる台を低い位置に調整してくれた。
しばらく進藤が指導するとヨウタは乗れるようになった。まだぎこちないが、地面に蹄のような小さなくぼみを増やしている。進藤は縁側にやってきて腰かけようとした。それが寝転んだキサラギの頭のあたりだったので、
「あ、ちょっとずれて。そこキサラギいる」
栞が慌てて声を掛けると進藤がびくっとしてかがめようとした腰をずらした。結果として栞のすぐそばに座ったので、なんとなく栞は距離を取った。
『おっと、潰すなよ。最近おまえデカくなったんだから。体重も増えただろ』
「潰すなよって。デカくなったし体重増えただろって言ってる」
栞が伝えると、進藤は前よりはね、と苦笑いした。
もちろんどんなに重かろうがキサラギが潰されることはあり得ないのだが。
『栞、めくって』
とキサラギが言う。今は進藤の方が近いので、栞は床に置かれた本を指さして
「めくってやって」
と進藤に言う。進藤はそっとページをめくった。
晴れていたので日中は割と暖かく感じたが、夕方になるとさすがに冷える。栞はふと思いついて家に入り、粉末のコーンスープをマグカップに入れ、ポットのお湯で溶いた。
時計を見ると五時だった。少女の幽霊の正体を知ってから十日あまり。あれ以来、彼女―甲斐奈緒子―を見ていない。栞はコーンスープ入りのマグカップを三つ、プラスチックのトレーで運びながら、さりげなくあちこちに目を走らせたが、彼女はいなかった。
もうあなたは来ないの?進藤に会えたから?
「これ飲もう」
トレーを縁側に置く。自分で混ぜてね、とスプーンを各マグカップに入れる。ヨウタが目ざとく見つけて竹馬からぱっと降りると竹馬をずるずる引きずりながらやってくる。地面に線路のような跡が付いた。
スープはまだ熱すぎるので、栞は飲まずにマグカップで冷たくなった指先を温めていた。
一口飲んで進藤がうまいと言うと、
『いいなあ。飲み食いできない人間の前でよくもまあ美味そうに』
キサラギが子どもっぽいことを言い出したので、ヨウタがスプーンで一口スープをすくい、あーん、とキサラギに食べさせようとした。ヨウタは今まで何度かこれをやっているが、冗談ではなく真面目なのだ。今度はうまく食べられるかもしれない、といつも思っているのだ。それを知っているのでキサラギも口を開けて付き合った。が、もちろんスープはどこにも触れず、空しく縁側にこぼれた。
「ちょっと。自分で拭いてよね」
「はーい。あーあ。食べられたらいいのにね」
『お気持ちだけ頂いておくよ』
キサラギは笑った。
スープは甘くて温かい。キサラギがこれを味わえないのは確かに可哀想だと思った。
ヨウタはスープを飲み干すと、また竹馬に飛び乗った。キサラギは縁側に寝転ぶが、本には目をやらず進藤を見る。
『ところでお母さんは元気?』
栞はさっとキサラギを見た。キサラギも彼女が姿を見せないことを気にしているのだろうか。進藤のために問いを繰り返す。
「うん、相変わらず。今度クリスマス休暇で帰ってくるってさ」
「えっ。そうなの!?」
栞は思わず大きな声を出してしまった。
「良かったね!」
「・・まあね」
進藤は訝しそうだ。なんで小川がそんなに食いつくんだよと言いたげな顔をしている。でも当たり前じゃんと栞は内心思った。あんなに息子を夢見たお母さんがやっと息子に会えるんだから。キサラギも栞を見てにやっと笑って素早くウインクしてきた。
「キサラギも嬉しそうだよ。・・進藤のお母さんって凄いよね。自分から新しい環境に飛び込んだんだね。それってさ、凄い勇気だよね」
新しい場所が、自分にとって居心地のいい場所だなんて誰も保証してくれないのに。でもこれはあたしのお母さんも同じだ、と栞は気づいた。
『きみらもそうだろう。新しい環境に飛び込んだじゃないか』
キサラギがいつの間にか体を起こして胡坐をかいている。思いがけない優しい表情で栞と進藤を見ていた。栞はここに引っ越してきたこと、進藤はこの家を離れてお父さんと暮らしていることを言っているのだと思った。
「あたしたちもそうだってさ。新しい環境に飛び込んだって。・・でも、あたしとヨウタはただお母さんに付いてきただけ。自分で決めたわけじゃないわ」
空に向けて呟くと、もう星が出ているのに気付いた。ずっと外にいると気づかなかったが、辺りは暗くなっていた。
「おれは・・自分で決めた。だけどそれが正解かはわからない」
進藤の低い声は独り言のようだった。栞はそれを聞いて胸がギュッとなった。進藤は自分で選択したのだ。お父さんと暮らすか、お母さんと暮らすか。それがどんなに厳しい選択だったかは、父親のいない栞でも想像できる気がした。いや、この想像より百倍大変だったかもしれない。
「あ、別に親父との暮らしに不満があるわけじゃないからな。いや、まあ、ちょっとはあるけど」
進藤が珍しく言い訳するように言った。
「うん」
進藤はお母さんのことを心配しているのだろうと思った。一人でアメリカに暮らすお母さんのことを。前にキサラギが、甲斐奈緒子が夢の中で息子に会いたがっていることを伝えてはいけないと、『翔は苦しむだろう』と、言った意味がわかった気がした。
(子どもはさ、いるだけで、親の力になってるんだってさ)
たぶん、遠く離れてたって。お母さんから聞いたことを言いたかった。でもうまく言えそうになくて開いた口を閉じた。
『大丈夫さ。翔のお母さんは強いから。これで今回翔に会えたら、もっと強くなるだろ。・・やれやれ、僕だけか、どこにも飛び出せないのは』
冗談めかした口ぶりだったが、少しだけ苦味が混じっている気がした。
キサラギが本のページに目を落とす横顔を思い出す。その横顔にはいつも別の世界への憧れのようなものがあった。そういえば、キサラギが自分のことを無力だと思っていると進藤が言っていたことを思い出す。キサラギのいつもの軽やかな、飄々とした態度のせいですっかり忘れていた。
栞はキサラギの言葉を進藤のために繰り返してから尋ねた。
「・・飛び出したいの?」
キサラギは急に大きく手を振った。見ると、ヨウタがイチョウの木の下からこちらに手を振っている。明るい水色の上着が薄い闇に浮かんでいる。もう表情までは見えない。
『いや?・・ここが僕の家だ。ここで、ガキの面倒も見なきゃいけないしね!』
いつものからかうような口調だ。
誰がガキよと言う前に栞は自然と呟いていた。
「当てにしてるよ、あんたのこと」
当てにされると嬉しいとはキサラギが言ったことだが、それは正しい。だが栞は別にキサラギを励まそうと無理して言ったわけじゃない。たぶん本心だ。栞はこの幽霊のことを半分家族のように思い始めている自分に気付いていた。
キサラギは驚いたようだがふっと微笑んだ。
栞はなぜか恥ずかしくなり、それを隠すように立ち上がって大きな声を出した。
「ヨウタ!もう寒いし終わりにしな」
ヨウタが竹馬からぴょんと飛び降りるのが見えた。栞の声を合図に、進藤とキサラギものっそりと立ち上がる。いつの間にか、東の空にほぼ丸い月が架かっていた。
十.プレゼント
クリスマスを三日後に控えたある日、栞はヨウタと進藤と共に栞の部屋でとある作業をしていた。部屋はまずまず綺麗だ。昨日の夜に本気を出して片づけたのだ。やってみればこっちの方が生活しやすく、どうしてもっと早くやらなかったのだろうと思う。
「このくらい?」
進藤が椅子に立って手の位置を示した。その手には紐がある。紐の端は既にカーテンレールに結び付けてあり、今もう片方の端をフック付きの画鋲で向かい側の壁に固定しようとしているのだ。水平に紐を張るのがどうしても栞一人ではできなくて、進藤に来てもらったのだった。
「うん、いいと思う」
進藤はピンと紐を張って固定してくれた。
「これを五本くらいね」
進藤は内心げんなりしたかもしれないが黙って椅子から降り、椅子を持ってカーテンレールの位置にまた戻る。栞はヨウタの部屋から持ってこさせたもう一つの椅子に乗った。手には大量の長方形の紙がある。
この紙は本のページだ。キサラギが好きな作家の文庫本を栞が買ってきて、カッターを使ってページを丁寧に一枚ずつ切り離しておいたのだ。
これはキサラギへのクリスマスプレゼントだ。ヨウタがキサラギに何かをあげたいと言い出し、栞が考え付いたのは「読書」。いちいち栞の手を借りなくても物語に没入できる体験をプレゼントすることにしたのだ。キサラギには部屋に入ってこないように言ってある。サプライズプレゼントだ。
栞はページの束とゼムクリップ入りの箱をヨウタに持たせた。
「じゃあ一ページから順番に渡して。一ページの次は三ページ。こっちから見て1、3、5、7ってなるように吊るすよ」
「りょーかい」
本は紙の両面に印刷してあるから、こうやって吊るすことでしかキサラギに自由に読んでもらう方法はないのだ。ものにふれることのできないキサラギには。
栞の言葉を聞いて進藤が口を挟んできた。
「ちょっと待て。それじゃあキサラギは一ページごとにのれんの向こうと行き来しなきゃいけないだろ」
のれんという表現に栞は頬を緩めた。
「そうだけど、仕方ないじゃない?」
「馬鹿。二ページと三ページは並べて吊るせば動かず読めるだろ。普通の本のページだって見開きで読めるようになってるじゃねえか。だからこっちから見たときに1、4、5、8、9って吊るせばいいの」
意味がわからなくて沈黙する。紙を試しに吊るしてみてやっとわかった。馬鹿と言われたのにはかちんときたが、進藤に来てもらって良かったかもしれない。本人には言わないけれど。
段取りをつかむとスピードが速くなった。進藤はカーテンレールと向かい側の壁の間にぴんと張った紐を渡す。栞は椅子に乗り、足元にいるヨウタからページを受け取りゼムクリップで紐に吊るす。三枚くらいやったら椅子の位置をずらしてまた同じことをする。
「ところで、これ親に見つかったらなんて言い訳すんの?」
進藤が言う。
「それなんだよね・・。これお母さんが見たらどうしよう」
バラバラに分解した本を一ページずつ紐から吊るす。キサラギのことを知らない人にはどう見ても〈奇行〉だ。お母さんは怒るより呆れるより、心配するだろう。
「アートだって言えばいいんだよ」
ヨウタが言った。
「アートぉ?生意気なこと言うじゃない」
「めちゃくちゃだった部屋を片付けたらさ、アートに目覚めたって言えばいいんだよ」
「ちょっと。余計なこと言うな。あと、あれ片付けてよ」
ヨウタが今日持ち帰ってきた絵具セットとランドセルが床に投げ出されている。学校から帰ってきたその足で栞の部屋に来て作業していたのだ。栞は椅子の上からヨウタを軽く蹴った。
「ま、現代アートって押し切れば何も言えないかもね。小川のセンスは疑われると思うけど」
進藤が笑いながら椅子から降りた。紐をすべて渡し終えた進藤は椅子を動かし、ページの配置が間違っていないか確認する作業に入ったが、え?というような不思議そうな声を出した。見ると、床に置かれた絵具セットを見ている。いや、絵具セットではなく、そこにお母さんの字で書かれた名前を見ているのだ。
小川頁太
「ヨウタってこんな字だったの?」
ヨウタは頁太と書く。ヨウタは白いページとゼムクリップを栞に渡しながら、そうだよと少し得意そうに笑った。
「一発で読める人、いないよ。大人でも」
「これって、ページって漢字じゃなかった?」
頁はページと読む。そんなに馴染みのない漢字だが、さすが進藤だ。栞はなんとなく先を予想して居心地の悪い気持ちになった。
「ヨウって読むのか。そうか、つまり、栞とページってことか」
進藤は感心したように言った。
「そ。お父さんが付けたんだって」
栞はページを吊り下げながら、何気ないように言ったが、なんだか気恥ずかしい気持ちだった。栞とページ。それを思うといつも複雑な気持ちになる。まるでヨウタとユニットを組まされてるみたい。六つ違いのこんなコドモと。それに、頁太って名前の方は栞と統一感を持たせるべく、かなり無理したんじゃないか?と疑ったりもする。こんな読みにくい名前にしちゃって。
でもお父さんの愛情も感じるのだ。お父さんが名付けに悩んでいる姿は覚えていないが、その頃はもう病気だったはずだ。ベッドの上でああでもないこうでもないと考えるお父さんを想像すると涙が出そうになる。
お父さんはブンガク趣味があったらしい。生きていればキサラギと話が合ったかもしれない。まあ直接は話し合えなかっただろうけど。
「進藤くんは前は甲斐くんっていう名前だったんだよね」
ヨウタが無邪気に言った。名前のことで連想したのだろうが、栞はあっと思って進藤を見た。進藤の顔はちょうど吊り下げられた白いページに隠れて見えないが、その返事は聞こえた。
「そうだよ」
それから独り言のように呟いた。
「小さい頃は進藤で、親が離婚して甲斐になって、この夏に親父と暮らすことになってまた進藤になった」
ヨウタはわかっているのかいないのか、ふうんと言って、尋ねた。
「間違えたりしない?名前書くとき」
進藤は苦笑したようだった。
「間違えたかも。もう忘れた。・・どっちの名前でもいいんだ、おれは。でもみんなはおれの名前を間違えないようにすごく気を遣ってたな」
なんだか苦い口調だった。栞は想像してみた。今日から甲斐くんは進藤くんになりました、と先生からみんなの前で言われたかもしれない。みんなはすぐに呼び方を切り替えたのだろう。進藤という苗字を―進藤の事情を―すぐに受け入れるのはみんなの優しさだ。だけど。前の苗字はまるで、なかったものみたいにされた、と進藤は思ったかもしれない。言っちゃいけない気まずいもののように。
「七十。七十ページまで来たよ」
栞が言うと、進藤はああと言った。栞はページをそっとかき分けて進藤の顔を見た。
「あのさあ、あたしだけあんたのこと、甲斐って呼んだげようか」
「あ?なんでだよ」
「一人くらいさ、その名前で呼んだっていいんじゃない?」
その名前だって、触れちゃいけない気まずいものじゃないんだって言いたかったが、うまく言葉に出来ない。進藤は
「いいよ、そんなの。変だから」
と顔を背けた。怒っただろうか。でも栞は気にせず思いつくまま言った。
「まあ、あんたはラッキーだよ。どっちの苗字もカッコいいから」
進藤はまるで咳き込んでいるような音を出したが、顔を見ると笑っているのだとわかった。
文庫本は四百ページ近くあった。つまり枚数で言えば二百枚弱。全てを吊るすのには場所が足りないと途中で気づき、今日のところは半分にすることにした。今日中にキサラギに読んでもらって明日残りを吊るすことにする。
「ヨウタ、明日新しい百枚に取り換えるからね。・・あ、進藤はいいからね。紐が張ってあれば大丈夫。明日、お母さん帰ってくるんでしょ」
うん、と進藤は少し照れた顔で頷いた。そんな顔をするといつもより幼く見える。
百枚を吊るし終わり、椅子を片づける。何本もの紐から白い紙がたくさん吊るされているのは不思議な光景だった。
「万国旗だな」
進藤が呟いた。確かに長方形の紙が整然と連なっているところは万国旗に見えないこともない。ただし、色彩もデザインもない旗だ。どこの国を表すでもなく、すべて合わせても物語の半分にしかならない。
でもこれがキサラギをひとときでも別の世界に連れて行ってくれますように。
栞は一瞬目を閉じて白い紙片の連なりに祈った。
「さ、キサラギ呼ぼっか!」
三人は口々にキサラギの名を呼んだ。
眉を寄せて怪しむような顔で、キサラギがドアを通り抜けて来る。
「三人からのクリスマスプレゼント!」
ヨウタが言った。
キサラギが目を大きくした。白い万国旗を見て不思議そうな顔になったのが、紙片の正体に気付き、まるで子どものような笑顔に変わっていくのを見て、栞は胸の底から嬉しさがこみ上げてきた。
ヨウタと進藤を手招きすると、両の手のひらをそれぞれの前に掲げる。栞の意図に気付いた二人と栞はばちんと音を立ててハイタッチした。
終
つばめ荘の幽霊 プンクト @punkt
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