十.ひさかたの

 十三夜の空を婚星が北へと流れていく様子を、尚方は宴席から離れた釣殿で酔いを醒ましながら見上げた。夜目にも華やかにそよぐ花弁ではなく、水鏡に落ちる花の影、浮かぶ花筏に目を向ける。


 ここは今をときめく藤波ふじなみ左大臣の大邸宅で、八千種第の倍ほども広い。このところ観桜の宴は様々な邸で開かれていたが、桜が散り透く前にと今宵開催された歌宴は、ひときわ大々的なものであった。


 そこに、尚方も招かれていた。左大臣と直接の繋がりはないが、伝手の伝手の伝手を辿って潜り込んだのだ。そしてその伝手は、尚方自身の縁よりも娘の「鬼祓う姫」梓子が結んだものが多い。


 政争に敗れ追い落とされた親王の、更に嫡妻腹ではない末子。そんな出生の尚方が、宮中の表舞台に立てるはずもなかった。父から引き継いだ邸は大内裏より遠く離れた八条。ようやく賜った官は権頭ごんのかみでこそあるが政治まつりごとに関わりのない神祇官で、その上実権は伯や次官すけたちが掌握している。兄たちは僧籍に入り京を離れ、姉たちは後宮や公卿の女房として仕えている中、自分だけが二世王として朝廷に踏みとどまっている。


 娘の通力を頼り、朝廷のおみでしかない大臣おとどの機嫌を窺う。そのすべてが不愉快極まりない。玉鉾の道がひとつ違えば、今頃内裏よりこのくにに君臨していたのは自分であったかもしれないというのに。


 そう、たとえば。


「これは権伯様、いかがされました、このような離れた場所で」


 廊を渡って釣殿へと単身やってきた小物など、世が世ならば、尚方に直接声をかけることすら許されなかったはずなのだ。しかし無視もできず、かと言って歓迎する気もなく、尚方はごく軽い目礼でその者を迎える。尚方の気難しさ、気位の高さは承知の上か、相手は気にする素振りもなく隣に腰を下ろした。


「藤波前壱予守さきのいよのかみ殿か」

「その節はお世話になり申した」


 左大臣と同じ藤波一族の出身だが、傍流も傍流、同じく藤波姓を名乗る公卿の家司を勤めている。一方で世渡りは巧みらしく、上国の国守を歴任し、五位の身ながら四位の尚方以上の財を成していた。次の司召つかさめしの除目では、いよいよ太政官や中務省などの京官を希望するのだろう。そのための縁故も進物も充分に持っている。


「噂に聞きましたが、権伯様の大姫様には既に通う殿御がおいでとか」

「ええ、ありがたいことに」

「残念ですなあ。儂も帰京の暁には、かつての礼を兼ねて文をお送りしたいと思うていたのですが」

「それは申し訳ない」


「その節」「礼」も、任地へ赴く前に梓子が前壱予守を長年悩ませた頭痛を祓ったことであった。


 尚方は素知らぬ顔で応じながら、内心で激しく毒づく。自分よりも年嵩で、既に妻子持ちの、たかが国司風情を、誰が婿として迎えるものか。裳着前の三世女王を垣間見、美しく成長した姿を夢想していただけでも烏滸おこがましい。


 だが、ここで少し風向きが変わった。


「そう言えば、伯にはもう一人、姫君がいらっしゃるのでは。弟姫様にももう、夫がおいでなのですか」

「……いえ、幼い頃に罹った疫病で、些か顔に傷が残ってしまいまして。ひっそりと暮らしております」


 三年前より梓子の妹を娘と見做していなかった尚方は、不自然でない程度に返答が遅れた。更に「弟姫」の響きに、強いて目を背けていた懸念がうずみ火の如く燻り出す。


「ありがたいことに」と返したものの、大社の婿がねからは文などが届くばかりで夜這いは一度もない。折々に高価な贈り物を寄越すから口を挟まないだけで、梓子が、その間隙を縫って別の文の送り主たちと火遊びをしていることも黙認している。


 大社の使いたちは、いつも「若君からオヒメ様に」と口上を述べるらしい。だが八千種第に姫は梓子しかいないのだから、オヒメ様の言い間違い、或いは聞き間違いだと、尚方も取り次ぐ下男下女も思い込んでいた。


 このことは、誇り高い梓子にはとても言えない。いや、言う必要もない。単なる言い間違い、聞き間違いなのだから。


 尚方の密やかな煩悶も知らず、前壱予守は酔いも手伝ってか上機嫌に続ける。


「しかし伯の女君むすめぎみ、大姫様の妹君でしょう。痘痕も笑窪、貴き麗しき姫に相違ない。……未だ夫がおらぬのならば、儂が名乗り出ても構わぬでしょうか?」


 姉が駄目だから妹。身の程知らずな上になんとも下衆な考えだが、激昂しかけた尚方は、それが顔と声に出る寸前で思い直す。


 最早息女むすめでも下女はしためでもない、幽閉し持て余しているだけの少女おとめだ。懐の温かい初老の国司が妾としてくれるのであれば、むしろありがたい話かもしれない。痘痕も笑窪どころではない化けものだが、敢えて明かすこともあるまい。どうせすべては帷の下りた暗い閨の中である。


 そもそも、化けものと成り果てた時点で、尚方は茜子を家から放逐するつもりだった。


 それを止めたのは、化けものを退ける通力を持つ梓子だった。


 勿論、姉妹ゆえの憐憫などではない。戸惑いの表情で梓子は尚方に上申した。


『どんなうらを何度やっても、同じ卦が出ます。茜子を害しては駄目。絶対に……!』


 告げる本人ですら納得の言っていない様子であったが、だからこそ鬼気迫る真実味があった。そのため尚方は化けものを追い出したり殺めたりはおろか、下女として使うことすらできず、ただ閉じ込めて飼い続けるほかなかった。


 だが、たとえ親より歳上の相手でも、結婚は「害する」には当たらないだろう。家の、家長の都合による婚姻は当然のことだ。


「これは……。艶めいた話とは一生無縁かと憐れんでおりましたが、弟姫にも人並みに通ってくださる殿御がおれば、これほど嬉しいことはない」


 心にもないことを大袈裟に言って、尚方は「ただ……」と演技過剰なほどに声を曇らせる。


「そのように諦めておりましたゆえ、未だ裳着も済ませておりませぬ。前壱予守殿をお迎えする支度が整いましたらお声がけいたしますため、しばしお待ちを」

「ふむ。それではその間、不得手ながら文など書いて待つといたしましょう」

「文だのとまだるっこしいことは言わず、邸に来ていただいて構いませぬ。家族のほかに人付き合いのない娘も、前壱予守殿のお越しを待ち侘びることでしょう」

「なんと……」


 娘を慈しむ父とは思えない台詞だが、酒のためか、それとも色欲に負けたか、細い目を丸くしたものの、前壱予守は頷いた。


 やがて月が西に傾き、宴席にお開きの空気が流れ始めた頃、尚方は早々に三条の左大臣邸を辞し、八葉車で八条の自邸に戻った。家人たちの出迎えも適当にあしらい、尚方は大股で東北対への渡殿を進む。


 茜子に男が通ってくるのであれば、裳着より何より、やっておかなければならないことがある。


 自分や梓子では、茜子を傷つけることはできない。だから茜子自身でやってもらわねばならないこと。


「起きよ、茜子」


 妻戸の前に立ち、実に三年ぶりにその名を呼ぶ。しかし扉の内より応えはなく、腹立たしさを覚えながら妻戸に手をかけると、掛け金が下りていない。


「起きよ。話がある」


 断りも入れず御簾を捲り、尚方は母屋に足を踏み入れ、絶句する。


 蔀格子を閉ざした屋内に、単衣を着た化けものの姿はなかった。

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