第40話 制止
七沢が左拳で、畑中さんの腹を殴る。
その衝撃で、ナイフを持つ手が緩み、地面に落ちた。七沢はそれをすかさず足で蹴っ飛ばし、手の届かない所へ追いやる。
七沢は、右手で畑中さんの胸倉を掴むと、もう一度腹を殴った。
次に、膝蹴りが腹に入り、畑中さんの身体はくの字に曲がる。
お腹を押さえ、くぐもった声を漏らす畑中さんの胸倉を、七沢が両手で掴んだ。そのまま地面に沈むのは許さないと、強く引き寄せ、そして怒鳴る。
「っざけんじゃねーぞ!! 万が一、ナイフが手に当たって、ピアノが弾けなくなったら、どうするつもりだ!!」
ガクンと頭を前後に揺さぶられながらも畑中さんは、その言葉に「ふっ」と鼻で笑って返す。
「僕は、そのつもりで刺しに行ったんだ。怪我をすれば、その間はピアノは弾けないだろう? そしたら、その間に、彼に追いつけばいい」
「まだそんなくだらない……そんなことのためにっ……このイカレ野郎がッ!!」
七沢はそう言うと、もう一度畑中さんの腹を殴る。
下から思いっきり抉るような拳に、彼の身体が少し浮き上がった。
「ぐぅッ!」という声を上げた後、畑中さんは、その場に崩れ落ち、腹を抱えて悶絶している。
「……立て。こんなものじゃ済まさない」
七沢は、地の底から響くような声でそう言うと、靴のつま先で畑中さんの
畑中さんは苦悶の表情を浮かべながらも、七沢の顔を見上げる。そして、彼の靴に唾を吐いた。七沢はそのまま、畑中さんの顔を蹴り上げた。
──七沢が、本気でキレている。
そう気づいたのは、そのときだった。
七沢が、地面にうずくまっている畑中さんの脇腹に蹴りを入れる。ここはトイレ裏近く──ひとけが少ないとはいえ、誰かに見られてはおおごとになる。傍から見れば、七沢がただ一方的に畑中さんを痛めつけているようにも見えるかもしれない。
──止めなければ……彼を止めなければ!
夏生は立ち上がって、七沢の背中を羽交い絞めするように抱きついた。
「お、おい。七沢っ おい! やめろって! やりすぎだ!」
七沢は、邪魔をするなと言うように、身体を揺らし、拘束を解こうとする。
その腕が簡単に解けないと思ったのか、彼は足で、畑中さんの腹をもう一度蹴った。畑中さんが、カエルが潰れたような声を上げる。夏生は必死でしがみついた。
(どうすれば、こいつを止められる……!?)
考える。しかし、良い考えが浮かばない。
また、畑中さんを蹴ろうとする気配を感じる。
夏生は咄嗟に大声を出した。
「──やめろ!! 聖也!!」
七沢の身体がビクッと反応して、その動きが止まる。そこでようやく自分を羽交い絞めしている相手に気づいたのか、振り返ってこちらを見た。
「なつ、きさん……?」
「やっと気づいたか」
正気に戻った──夏生はホッと安堵する。そして、畑中さんを見た。
微動だにしない彼に近づこうとして、七沢に制止される。
七沢がしゃがみ込んで、畑中さんの状態を確認した。意識を失っているだけで、どうやら息はあるらしい。
キレた七沢があのまま続けていたらどうなっていたのか……。今頃になってそれが頭に浮かぶ。最悪の事態に、取り返しのつかないことになる前に、止められて良かったと、夏生はもう一度安堵した。
七沢と一緒に畑中さんを抱え、すぐ近くのベンチに移動させる。地面に寝かせたままでは、悪目立ちするし、自分たちの気分も悪い。
七沢と洗い場へ移動する。彼は血まみれの手を洗い流した。まだ、その血は完全に止まっていなかったらしく、洗ったそばから、また滲んでくる。
夏生は、ここでようやく彼の傷の状態を知った。手のひらで刃の部分をしっかりと受け止め、握りしめていたせいか、親指の付け根辺りから斜めに切れている。夏生はボディバッグから、まだ一度も使っていないハンカチを取り出すと、それを七沢に差し出した。
「汚れちゃいますよ……?」
「そんなこと気にしてる場合かっ! それよりもその血を止めることが先だろ?」
「ありがとうございます。すみません。それじゃあ、お言葉に甘えて、お借りします」
七沢はハンカチを受け取って、傷口に当てた。
夏生は次にポケットティッシュを取り出すと、軽く水でそれを濡らし、絞った。そして、七沢の顔に手を伸ばして、飛び散っていた血をティッシュで拭き取る。
「あ……顔にも飛んでましたか。すみません」
「ったく、無茶しやがって……バカ野郎」
「でも……夏生さんが無事で、本当に良かった」
「ばっ! お前が無事じゃないだろ! 素手でナイフなんか握りやがって……!」
今更ながらに、手が震えてきた。自分が刺されそうになったことも怖いが、今、一番怖いのは、七沢の手がどうなっているのか、だ。
傷は深くないのか、ピアノは弾けるのか、と、そのことが気になった。
震える手を、七沢が左手で握りしめてくる。そして、ぎゅっと抱きしめた。
手だけじゃなく、喉も震える。声を震わせながら、七沢に問いかけた。
「手は、大丈夫なのか? 傷は深くないのか?」
「手のひらの表面を切っただけですから、大丈夫だと思いますよ」
「本当に? 嘘じゃないよな?」
「俺は夏生さんには、嘘つきません」
その声に嘘の色を感じない。
夏生は七沢の背に手を回し、服をぎゅっと握りしめた。
「……お前はバカだ。ピアニストが手を怪我してどうするんだよ」
「でも、俺が受け止めなきゃ、夏生さんが怪我していましたよ」
「それは、そうだけど、でも──」
「俺があなたを守りたかったんです。間に合って……よかった」
七沢が更に強く抱きしめてきた。その腕の強さと温かさに、思わず視界がにじむ。助けてくれたことは嬉しい。けど、同時に申し訳なさに襲われる。
自分のせいで、七沢は怪我をしたのだから。
(そうだ……病院。まだ、間に合うかもしれない……!)
今日は土曜日。お昼を過ぎたくらいならば、まだやっている病院もあるあろう。早く怪我を診てもらったほうがいい。そのほうが自分も安心できる。
「七沢! 病院っ! 病院に行こう!」
「たぶん、これくらい大丈夫ですよ」
「バカ! 大丈夫じゃない! いいから行くぞ!」
夏生はそう言うや否や、七沢から身体を離す。怪我をしていない左手を掴んで、駅のあるほうへと歩き始めようとした。しかし、握った手をグイッと後ろに引っ張られ、背中から抱きしめられる。
「おい!」
「待ってください、夏生さん……もう少し、このままで……」
七沢の身体は小刻みに震えている。さっきも、もしかすると震えていたのかもしれない。耳元で、はぁ、と安堵したような息が聞こえ、それから彼が口を開いた。
「あなたが無事で、本当に良かった……」
「……うん。助けてくれて……ありがとう」
七沢の言葉に胸が熱くなる。
夏生は、言いそびれていたお礼を口にしたのだった。
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