第2話 乱入者

「は……?」

「それじゃ、改めてありがとうございました」


 男は、夏生の耳元から顔を離すと、もう一度お礼の言葉を口にした。

「それじゃ」と言って、この場を立ち去る。通路を行き交う人々の波へ向かい、合流すると、ホームのある方へ消えていった。


 夏生は言われたことが理解できず、ただ呆然と立ち尽くしている。


(……ちょっと待て……俺の音が、なんだって?)


 褒められてはいない。そのことはすぐにわかった。

 明らかにあの男は、自分を見下している。そう思ったら、ようやく身体が動いた。タブレット、スマホ、三脚を急ぎカバンの中にしまうと、夏生は男を追いかける。人の波に乗って、自分もホームへ向かった。


(ふわっとした癖のある茶髪で眼鏡。あとは、紺色のスーツ。そして、耳には赤いピアス……!)


 人で溢れ返ったホーム。夏生は、辺りを見回した。あれだけ顔が整っている人間ならば、すぐに見つかる──そう思ったが、そう簡単ではないらしい。

 夏生は「すみません」と声をかけながら、人の合間を縫って探し続ける。


「電車が参ります」というアナウンスが流れて、電車がホームに滑り込んできた。停車するとドアが開き、降りる人と乗る人が入れ替わる。その中にあの男が……


(────いた!)


 足を踏み出す。そのとき、年配の女性とぶつかってしまった。ぶつかった衝撃で、女性の手からバッグが滑り落ちる。夏生は、慌ててそれを拾い、「すみません」と謝った。そして、女性に怪我もないことを確認すると、電車に乗ろうと急ぎ駆け寄る。しかし、無情にも目の前でドアが閉まってしまった。


(くそっ! あと少しだったのに……!)


 思わず小さな舌打ちが出そうになる。

 電車の窓越しに、人と人の隙間から、あの男の顔がチラリと見えた。

 彼を乗せた電車は動き始め、ガタンゴトンという音と共に去って行く。



 もう見えなくなった電車を、夏生はずっと眺めていた。あの男に言われた言葉が、頭から離れない。反芻はんすうすればするほど、ムカムカと腹が立ってきた。


(次に会ったら、絶対殴ってやる……!)


 夏生は右手を握りしめ、さらに力を込めた。


  * *


 自宅マンションへ帰ってきた夏生は、玄関を閉める。靴を脱いで、部屋の中に入った。テレビ前の折りたたみローテーブルの上に、買ってきたお弁当の袋を載せる。ビジネスバッグは、その下の脚元へ置いた。


 夏生は、スーツのジャケットとスラックスを脱いで、ハンガーに掛ける。部屋の隅に置いているチェストの中から、着替えを手に取ると浴室へ向かった。

 帰宅後の手を洗いも兼ねて、先にお風呂を済ませる。浴室から出ると部屋着に着替えて、冷えたお弁当をレンジにつっこんだ。


 お弁当を温めている間に、夏生はビジネスバッグとスーツのポケットの中から、スマホを取り出した。テーブルの上にあるノートパソコンを開いて、起動させる。次に、スマホとパソコンをケーブルで繋いだ。

 今日録画しておいたストピの演奏データを移動させたところで、キッチンの方から「チン」と音が聞こえた。


 温め終わったお弁当を食べながら、データを確認する。ふたつの動画を見比べながら、編集ポイントを考えていた。


 夕飯を食べ終えると、空になったお弁当の容器や割りばしを袋にまとめる。袋の口をしっかり結んで、夏生は立ち上がった。小さなキッチンの横にある蓋つきのゴミ箱にそれを捨てて、食後のコーヒーを淹れると、またテーブルまで戻る。


 夏生は、熱いコーヒーを一口飲んでから、動画の編集作業に手をつけ始めた。


 ──鍵盤の端に置いたスマホは、演奏する『手元』を。

 ──三脚で撮ったものは、少し斜め後方から自分たちの『姿』を。


 そのふたつの動画を切り貼りして、一本の動画に仕上げていく。


「ムカつくけど……やっぱ上手いな」


 編集し終わった動画を通しで見ながら、最終チェックを行う。その最中に、ついポロッと心の声が漏れた。やはり、あのとき感じた力の差は本物だったのだと、改めて思い知らされる。

 人のことを『つまらない』と言うだけのことはある、と認めてしまった自分に、「チッ」と舌打ちしたくなった。


 しかし、力があるからといって、あの乱入男を許すつもりはない。

 ムカつくものは、ムカつくし、一発かましてやらないと気が済まない。


「次に会ったら……やっぱり、絶対殴ってやる!」


 夏生はそう吐き捨てると、カタカタと指を動かして、最後にキーボードのエンターキーを力強く押した。

 パソコンの画面に浮かぶは、『動画アップロード完了』の文字。

 タイトルには『ドッキリ!?』『乱入!』と目を引く言葉を並べてみた。


 ひと仕事終えた、とばかりに夏生は両手を上にあげ、ぐっと伸ばす。そして、その手をゆっくり下ろしながら、ふーっと息を吐いた。画面右下に目をやって現在の時刻を確認すると、深夜十二時をとっくに過ぎていた。


 三時間以上ずっと、パソコンの画面と睨めっこしていたらしい。

 なるほど。どうりで、目が疲れるわけだ。


「よっ……と。歯磨きして、寝るかぁ」


 膝に手を置いて、声を出しながら立ち上がった。小さなキッチンで歯磨きを済ませると、布団へ移動し、潜り込む。枕元にある充電ケーブルにスマホを挿して、目覚ましのアラームをセットすると、部屋の明かりを消して寝た。



 ──翌朝。

 目覚ましのアラームが鳴って、飛び起きる。まだ眠い目を擦りながら、歯磨きをした。浴室兼洗面所へ向かい、鏡を確認すると、ひどい寝ぐせがついている。

 同じ部署で働いている女性に「サラサラの黒髪ストレートで、うらやましい」なんて言われているのに、これではそれも台無しだ。


(寝ぐせ直しをするついでに、顔も洗うか)


 軽くシャワーを浴びることに決めた夏生は、その間に食パンを焼いておこうと考えた。トースターにパンを並べ、タイマーを回す。


 寝ぐせ直しと洗顔を兼ねたシャワーを終え、着替えると、少し冷えたトースト二枚と牛乳の入ったマグカップをテーブルへ運んで、朝食を食べ始めた。

 左手に持ったトーストをかじりながら、右手でスマホを触る。昨晩上げた動画の反応が見たくて、サイトへアクセスした。

 夏生は自分のチャンネルページに飛んで、目を見開く。


「……えっ?」


 * *


 無礼極まりない乱入男とのピアノの演奏──連弾動画は、今まで上げていた動画の再生数を軽々と超えていった。今回、寄せられたコメントの数も桁違いだ。

 ピアノを弾いたことのない、未経験の視聴者にも、その上手さは伝わっているようだった。「このピアノ好き」とストレートにつづられた感想が、とても多い。


 再生数が伸びたのは純粋に嬉しい。

 だが、その分だけ、あの男に言われた言葉が指に刺さったトゲのように、自分を苛立たせた。


(……あの男、他の場所でも……弾いてるかな?)


 あれだけ上手いんだ。弾いてないはずがない。

 ピアノがそこにあれば、きっと弾いてしまう種類の人間だろう。

 なんとなく、そんな気がする。



 忘れることのできない、あの出会いから、夏生は休日になるとストリートピアノが置いてある施設へ必ず出かけるようになった。あの男と会った場所だけでなく、行ったことのない所にも出向いて、ピアノを弾いた。


 ──名前も知らない男との再会なんて、正直無理だろう。

 ──でも……きっと、もう一度会える。


 そんな確信めいたものが、自分の中にあった。


 ────絶対に会える……!!


 今日も、デイバッグの中に、折りたたみの三脚とスマホとタブレットを入れて、ファスナーを閉める。そのバッグを持って、玄関へ向かった。


(次は『つまらない』なんて言わせない……!)


 白いスニーカーを履き、靴ひもをキュッと結ぶ。そして、つま先を軽くトントンと叩くと、玄関を開けた。


 爽やかな風が横を通り過ぎていく。新緑の香りが鼻腔をくすぐった。

 初夏が近い──そんなことを考えながら、夏生は目的地へ向かうのだった。

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