ストピ・スピカ ~俺が掴む、たったひとつの一番星~

椿原守

第1話 君の音はつまらない

 時計の針が定時を指す。

 それを確認した藤崎夏生ふじさきなつきは、自分の足元に置いていたビジネスバッグを持ち上げた。机の上のボールペンをペンケースにしまうと、バッグの中に入れる。


「なぁ、藤崎! この後、飲みに行かねぇ?」


 バッグのファスナーを閉めていると、同僚の高橋が肩を叩いて話しかけてきた。夏生は、高橋に向かって軽く手を上げて、「ごめん」と合図を送る。

 

「悪い。今日はちょっと用事があるんだ」

「……なんだよ。最近、付き合い悪いな。もしかして……彼女でもできたか?」

「バーカ、違うよ。また今度誘ってくれ。それじゃ、お疲れ」

「おう、お疲れ! 次こそは、絶対付き合えよ!」


 お互いにもう一度手を上げ、「お疲れ」と挨拶をしてから、夏生は会社の廊下に出た。廊下を歩きながら、首から提げていた社員証をストラップごと外す。

 外した社員証はバッグに入れず、そのまま手に持っていた。社員用のドアに到着すると、横にあるセンサーにかざして外に出る。


 少しだけオレンジがかった空。まだ陽の暖かさが残った空気。

 春──という季節を穏やかな風が運んできた。

 夏生は、それを肌で感じながら、駅に向かって歩き始める。


 駅へ近づけば、近づくほど、そこへ向かう人の数が増えていく。

 夏生は、人と人との間を縫う様に、早足で歩みを進めた。そして、駅のホームへたどり着くと、目の前に電車が滑り込んでくる。ちょうどいい──と言うように、夏生はその電車に飛び乗った。


 * *


 いつも使っている駅を通り過ぎ、そこから数駅ほど先のところで、夏生は電車を降りた。ホームへ降りるとすぐに、通行の邪魔にならないようにと壁際に寄る。そして、スーツのポケットからスマホを取り出すと、駅の構内地図を検索した。


(……あった。ここか)


 お目当ての場所を見つけた。その場所をしっかり覚えると、夏生はスマホをポケットにしまって、歩き始める。ぞろぞろと歩く人の波に乗って、構内を移動した。そして、その場所が近づいてくると、途中下車するようにその流れから、そっと離れる。


 夏生が足を止めたそこには、大きな黒い塊がポツンと置いてあった。周囲にいる人たちは、その塊を気に留めることなく歩いている。


 黒い塊の正体。それは──ストリートピアノ。


 通称『ストピ』と呼ばれており、誰でも自由に演奏することができるピアノのことを指す。そのピアノが置いてある場所は、主に駅やショッピングモール、役所などの主要な施設、稀に野外に置いてあることもあった。


 夏生はピアノに近づいた。周囲を見て、自分以外に演奏希望者がいないことを確認すると、ビジネスバッグをピアノ椅子の足元に置く。

 バッグの中から、折り畳みの三脚とスマホを取り出して、ピアノから少し離れた場所に設置した。バッグの中から更にタブレットを取り出すと、五線譜を映し出し、ピアノの譜面台に置く。そして、ポケットに入っているスマホも取り出し、録画ボタンを押すと鍵盤の一番端へ置いた。


 夏生は、録画準備が整うと、センター分けしている前髪を手櫛でサッと下ろす。

 これは動画編集をしやすくするためのテクニックだ。このひと手間をかけるだけで、顔バレ防止のモザイク処理を行わなくて済む。

 真っ黒な視界の隙間から、自分の目元がしっかりと隠れていることを、ピアノの反射を利用して確認した。その確認が終わると、二台のスマホに向かって軽く手を振る。編集ポイントの合図を送ったら、鍵盤の上に静かに指を乗せた。


(今日弾くのは、リベルタンゴ……!)


 左手を叩きつける。腹に響くような重低音が辺りに広がった。

 少しミステリアスな雰囲気を持つ曲に合わせて、自分の指が軽やかに踊る。身体を揺らし、足を揺らし、気分も高揚してきた──そのとき、ふと違和感に気づいた。


 いつの間にか、自分の真横に誰かが立っている。


「えっ?」などと思う暇もなく、その男は椅子の右側へ、身体を滑らせるようにして座ってきた。そして、すぐにピアノを弾き始める。


(なんだコイツ!? ……チッ! 連弾かよッ!)


 突然の乱入者に驚き、思わず指がもつれそうになった。ぐっと奥歯に力を入れ、もつれそうになった指を、なんとか制御する。

 狭い椅子に男がふたり。お互いの肩も腕もぴったりと、まるで磁石のようにくっついてピアノを弾いた。男の手が動くたびに、夏生の鼻腔に香水のようないい匂いが、ふわりと届く。


 チラリと隣に目をやって、乱入者の顔を確認した。

 ふわっと癖のある茶色の髪と、細いフチのある眼鏡。長いまつ毛に、くっきりとした二重。そして、シュッと通った鼻筋が、整った顔立ちを思わせる。つまり相手はイケメン──そのことに夏生は、もう一度心の中でチッと舌を打つ。


 気を取られるな──そう言うように、乱入者は仕掛けてきた。

 夏生は、慌ててそれに対応する。


(コイツ……上手い……!)


 乱入者がピアノを弾き始めて、すぐそのことに気づいた。自分の演奏とは雲泥の差だ。レベルが違う。一音一音、隣から聴こえてくる音の粒が、自分が奏でるそれと違った。


 ──悔しいけど、楽しい! でも、悔しい……!


 感情の波が、タンゴのリズムと一緒になって踊り、クルクルと入れ替わって自分を揺さぶった。乱入者が煽る。夏生は口の端をニッと吊り上げ、受けて立つと指を走らせた。


 * *


 約三分ほどの演奏を終える。いつの間にか、行き交う人の足を止めていたようで、拍手が聞こえてきた。夏生は、椅子から立ち上がると何度かお辞儀をして、観客に感謝を伝える。それを終えると、後ろを振り返って、乱入者の男に声をかけた。


「連弾、楽しかったです。ありがとうございました」


 内心は、この男に向かって罵詈雑言を吐いているが、一応、自分は社会人だ。それらを微塵みじんも感じさせないように、営業スマイルを浮かべてから、お礼の言葉を告げる。乱入男も、返事をするように、ニッコリと笑ってきた。


「俺も楽しかったです。ありがとうございました。あの、ひとつ気になったことがあるんですけど、それを……言ってもいいですか?」

「はい。なんでしょう?」


 そう返事をすると、乱入者の男がこちらへ顔を寄せてきた。そして、耳元でそっとささやく。


「連弾は楽しかったけど、あなたの音って……つまらないですね」

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