kiss

怪々夢(ケケム)

kiss

 旦那様はわたすを拾ってくれますた。家族から疎まれ、捨てられる寸前だったわたすを嫁に貰ってくれたのです。立派な祝言をあげて頂き、初夜を迎えますた。

「どうした絹代、そんなベットの端っこに腰掛けてないで、もっとこちらに来なさい」

 恥ずかしい話ですが、わたすは生まれて初めてベットと言う物に触れますた。わたすが知っているのは、煎餅みたいに硬くなった、ボロの布団だけです。

「だども、こんな高価な物をわたすが汚してしまったら申し訳ないのっす」

「私たちは今日から夫婦になったのだぞ、このベッドは絹代のものでもあるのだ。いくらでも汚していい。遠慮するのはやめて、こちらに来なさい」

 わたしゃ、旦那様に下に行くのが、なんだか恐れ多くて、やっとの思いで、隣まで行きますた。

「わたす、旦那様の嫁っ子になったからには一生懸命働きますので、なんでもお申し付け下せぇ」

「一生懸命働く必要などない。この家にいてくれるだけで、それでいいのだ」

「だども、夫婦生活って、何をしていいか分かりません、何か一つだけでも構いませんのでご命令頂けませんか?」

「では、絹代、私にキスをしなさい」

「キスって言うと、接吻のことですか?」

「そうだ、構わないな?」

 旦那様はわたすが返事をする間も与えず、唇に吸い付いてきますた。突然のことと、口を塞がれた苦しさで、思わず「んんっ」と声が漏れてしまいます。

 初めてのキスに、電流が走った様に、手足がピンと伸びてすまいますたが、身を任せると心地よく、いつまでもこうすていたいな、などと、贅沢な願いを抱きますた。

 願いは叶わず、旦那様は布団を被られてすまいますた。わたすも布団に入り、今起こった事を振り返りますた。羽毛布団の温かさよりも、私の耳が熱いのです。

「旦那様、ありがとうございますた」

「うむ」

 旦那様は満足されたでしょうか?なにしろ初めての経験で、それに旦那様は三十五歳の立派な紳士です。わたすの様な小娘が相手で大丈夫なのでしょうか?

 旦那様が立てられる寝息を聞いていると、不思議と心が落ち着いてきて、ぐっすり眠ってしまったのですた。


 旦那様は仙台にある大学病院にお勤めされています。今日も外套にシルクハットを被って自動車に乗って行かれますた。まだ春は遠く、朝靄の立ち込める中を、病院へと向かわれますた。

 世の中は高度成長期で街はどんどん発展しているそうですが、わたす達が育った村はそんな事とは無縁で、田んぼと山が広がるばかりです。

 旦那様は、わたすと同じ貧しい家の出ですが、独学で勉強し、働きながら大学に通ったそうです。わたしゃ旦那様を心から尊敬しております。本当に幸せ者です。

 次の夜も旦那様はわたすに接吻を求められますた。その翌日も、その翌日も。ですが、それ以上のことは求められませんですた。これは普通のことなのでしょうか?

「旦那様、よろしいでしょうか?」

「どうした絹?」

「旦那様がわたすに接吻以上の事を求めないのは、わたすが醜女だからでしょうか?」

「そんな事はない。絹代は綺麗だよ」

「だども、わたすは旦那様に抱かれたいのです。それは贅沢な悩みでしょうか?」

「すまない絹代、お前がそんな風に思ってしまったのは私の責任だ。私の罪悪感と、お前に捨てられるんじゃないかと思う恐怖心のせいなのだ」

「わたすが旦那様を捨てる?そんなことあるわけねぇですだ」

 想像も出来ない話ですた。仮にわたす以外の女なら、そんな不届者もいるかもしれません。だどもわたすに限っては、あり得ない話ですた。

「絹代、一つ聞くが、私の職業を知っているか?」

「はい、旦那様のお仕事は目のお医者さんです」

「そうだ、私は眼科医だ。ではなぜ絹代の目の手術をしようとしないのか、不思議に思わないか?」

「そんなこと考えたこともなかったのす。私の目がよっぽど悪いんだなぁ」

「お前の目の手術は、それ程難しいものではない。私でなくても、手術は可能だろう」

 旦那様は搾り出すようにして仰いますた。旦那様の震える手が、そっとわたすに触れますた。

「絹代、お前は美しい。醜男なのは私だ。絹の目が見えたなら、私とお前は到底釣り合わず、こうして夫婦となる事はなかった。私は絹の目が治って、私の顔を見られるのが怖いのだ」

 わたしゃ何と愚かなのでしょう。一緒に暮らせるだけで幸せなのに、もっと愛されたいなどと、わがままを言って旦那様を困らせてしまいますた。

「わたすは目が見えません。だから代わりに心の顔が見えるようになったのす」

「心の顔?」

「はい、心にも顔があります。旦那様の心の顔はとても優しげでハンサムです。だども、旦那様が気にすると言うのなら、わたすは目が目えないままでいいのす」

 旦那様が「はっ」と息を吸うのが分かりますた。そしていつもの意思の強い声を取り戻して「明日手術をしよう。そのつもりでいるように」と仰りますた。

 

 翌日、旦那様のお勤めの大学病院に向かいますた。看護婦さん達はわたすみたいな田舎者にも優しく接してくれて、怪物扱いしないのです。立派な病院は人も違います。

 手術はあっという間の出来事で、気付いた時にはもう終わっていますた。麻酔と言うのは本当に大したものです。さすが、旦那様のなさることは魔法の様ですた。

 包帯を取れるまでには一週間程かかるそうです。旦那様は忙しい合間を縫って私の世話をしてくれます。わたすは生まれつき目が見えないので、全部自分でできるのですが、嬉しさから、旦那様に身を委ねていますた。

 そしてついに包帯を取る日が来ますた。

「今日で一週間経ったな、包帯を見てみよう」

「旦那様、白雪姫って知っていますか?」

「うむ」

「わたすは、ずっと目が見えずに生きてきますた。だからずっと眠っていたみたいなもんです。包帯を取る前に目覚めのキスをして頂けませんか?わたす、閉ざされた小屋の中で王子様をずっと待ってたんです」

「バカなことを言ってないで、私が良いと言うまで目は閉じている様に」

 包帯が少しずつ外されていく度に黒で塗り潰されたわたすの世界に光が差し込みます。包帯という繭で守られたサナギが、蝶になって飛び立つようです。

 わたすの瞼が顕になると、旦那様の唇がそっと触れました。

「もう良いだろう。ゆっくりと目を開けてごらん」

 わたしゃ旦那様に促され瞼を開けますた。

 夢にまで見た旦那様のお顔がそこにある。わたしゃ思わず叫んでいますた。

「ああ、やっぱり思った通り、旦那様はハンサムです」


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