22 兼家大納言になる
こうしてまた年は明けて、今年は天禄3年だという。新しい年になったことで、嫌なこと辛いことが消えて晴れやかな気分になり、大夫になった道綱の装束を整えて宮中に送り出した。庭に降り立って私に新年の挨拶の拝礼をする道綱を見て、なんて立派に成長したのだろうと思い涙ぐんだ。新年の勤行をしようと思っていたら今宵から月の穢れが始まりそうだ。元日早々の穢れは不吉だと言われているので、今年もまたどうなってしまうのかと不安でならない。今年はどんなに憎らしい人がいようと嘆き苦しみはしないわとしみじみ思っているので、とても心が軽い。三日は帝の御元服だと世間が騒いでいた。白馬の節会などといっても興味がなくて七日も過ぎてしまった。
八日になってやって来たあの人は、
「近頃は節会などの行事が続いているから。」
などと言い訳をする。翌朝あの人は帰っていったが、本邸からあの人を迎えに来たの侍の中に、こんなふうに歌を書いたものを桶の蓋と共に女房に渡した者がいた。
『下野(しもつけ)の桶の蓋は味気なし 影も映らぬ鏡と見える』(酒があれば映るのに)
受け取った侍女は、その蓋に酒やつまみを置いて差し出した。酒の入った器を渡すとともに侍女はこう詠み返した。
『身を捨てて蓋だけ差し出し頼むけど 真心はないということかしら』
こうして、すっかり訪れがなくなったわけでなくたまに夫がやってくるという中途半端で不自由な立場だったので、世間で騒いでしている正月仏事などもできずにいて、十四日が過ぎた。
十四日ごろ、古くなった束帯の上着を送って来て、
『これ、うまく綺麗に仕立て直して。』
などと言ってきた。
「着る予定はいついつ。』
などとあったけど、急いで仕立て直そうともしなかったら、翌朝使いが来て、
「早くしてください。」
と催促する。あの人からの手紙には、
『久くて気がかりなんだ唐衣 古いまま着よう送ってよこして』
とあったけど、言う通りにせず仕立て直して手紙も添えずに使者に渡した。
『出来栄えはまあまあのようだね。でも素直でないのがよろしくないな。』
と返事が来た。悔しくてこんなふうに書いて送った。
『急かされて解いて騒いだ甲斐もなく 古ぼけたものなどこんな程度よ』
その後は、
『司召で忙しいから。』
などと言って音沙汰もない。
今日は二十三日、まだ格子を上げないうちから乳母子が起き出して、妻戸を押し開け、
「雪が降ったのだわ。」
と言っていると、鶯の初音が聞こえてきた。今はすっかり気持ちが老け込んでしまったみたいで、いつもみたいに下手な歌のひとつも思い浮かばなかった。
司召があって、二十五日にあの人が大納言になったと大騒ぎだけれど、私にしてみたらますます不自由になるだけだろうと思うのだった。お祝いを言いにお客が来ても、たまの訪れしかない妻としての立場が不安定な私には、かえって私を馬鹿にしているような気さえしてちっとも嬉しくない。大夫の道綱だけは何も言わないが内心喜んでいるようだった。次の日になって、
『どうして「どんなにかお喜びで」とかなんとか言ってこないんだ。これではせっかくの昇進の甲斐もないじゃないか。』
などとあった。
また、月末ごろ、
『何があったのだ。毎日忙しくてね。なんで手紙のひとつもくれないんだ。薄情だな。』
などと、しまいには言うことがなくなったのか逆恨みまでしてくる。今日も本人が訪ねてくることは期待できないみたいだなと思って、返事には、
『帝の御前で奏上するのにお忙しいようですけれど、つまらないわ。』
とだけ書いた。
こうして今はあの人が来ないのをなんとも思わなくなったので、すっかり心が軽くなっていた。夜も安心してぐっすり眠っていたら、門を叩く音がしてびっくりして目を覚ました。なんだろうと思っていると、召使がすぐに門を開けたのでもしやあの人が来たんじゃないかと思って驚いた。妻戸口にあの人は立って、
「すぐに開けろ、早く。」
などと言っているようだ。近くで控えていた侍女たちもみんな気を許した格好をしていたので、奥に隠れてしまった。あまり時間がかかるのもみっともないので、妻戸口ににじり寄って、
「『鍵をさすのを躊躇って待つ』という歌のようなこともなくなってしまったから、固くなってなかなか開きませんわ。」
と言って開けたら、
「あなたをめざしてやって来たからだろうよ。」
と言った。暁方に松を吹き抜ける風が荒々しく聞こえてきた。このところの独寝の時にこんな音がしなかったのは、神仏のご加護があったからなのだわと思うほど激しい風が吹いていた。
夜が明けて二月になった。雨がのどかに降っている。格子などを上げさせたけれど、いつものように急いで帰ろうとしないのは雨のせいらしい。けれどこのままここにいるとは思えなかった。しばらくしてあの人は、
「供の者は参っているか。」
などと言って起き出した。着慣れて柔らかな直衣に、程よくしなやかになった艶のある袿ひと襲を直衣の下から垂らして帯を緩く締めて歩き出すと、侍女たちが、
「お粥をどうぞ。」
と進める。
「いつも食べないから、いらない。構わないよ。」
とご機嫌な様子でそう言い、
「太刀を早く。」
と言うと、大夫の道綱が取って来て簀子で片膝を付いて座っている。あの人はゆったりと歩いて出ていくと辺りを見まわし、
「前栽を乱暴に焼いたようだな。」
などと言う。そのまま簀子に雨よけを張った車をつけさせて、従者が軽々と車の轅を持ち上げるとあの人はさっと車に乗り込んだようだ。車の下簾をきちんと下ろして、中門から出てほどよく先払いして遠ざかっていくのが、なんとも憎らしい。
ここ数日、風が激しく吹いていたので南面の格子を上げないでいたが、今日こうして外を眺めながらしばらく座っていると、雨がほどよくのどかに降って庭は荒れた様子だったけれど草はところどころ青みがかっていた。その光景を身にしみる思いで眺めていた。昼頃になって雨雲を吹き払うように風が吹いて晴れそうな空模様だったけれど、気分がなぜだか重たくて暮れ果てるまでぼんやり眺めて過ごした。
三日の夜に降った雪が10センチほど積もって、今も降っている。簾を巻き上げて眺めると、
「おお寒い。」
と言う声があちらこちらで聞こえてくる。風までも激しく吹いている。何もかも全てが心にしみた。
さて、天気が回復して、八日ごろ地方官の父の邸に渡った。父の家には親類縁者が大勢いて、若い女性もたくさんいた。みんなして筝の琴や琵琶などの楽器を季節に合わせた調べで奏でて、笑いさざめきながら一日を過ごした。翌朝、客人で来ていた親類たちがみんな帰っていった後、久しぶりの実家とのんびりくつろいでいた。
家に帰ってすぐ届いたあの人からの手紙を見ると、
『長い物忌に続き権大納言の着座の儀式を済ませて、その後潔斎もしていたのでなかなか行けなかった。今日、早速行こうと思うよ。』
などと情のこもった書きぶりだった。一応返事は出した。本当にすぐ来そうな書きぶりだった。でも、いつものことだ、どうせ来ないだろうと思った。こうやって私があの人の妻だったなんてことは誰も知らなくなるのだろうな、と気を許してのんびり過ごしていた。ところが、正午ごろ、
「お見えです、お見えです。」
と侍女たちが大騒ぎしている。みんなが慌てふためいているところにあの人は入って来た。普段着で変な格好をしていたのですっかり動転しながら向かいに座ったが、気もそぞろだった。しばらくして、食事のお膳などを差し出すと、あの人は少しだけ食べて日が暮れる頃、
「明日は春日神社のお祭りで、御幣使を出立させることになっているから。」
と言って、一糸乱れぬ装束を身につけ、権大納言兼右大将の格式を整えた随身をはじめ従者を大勢従えて威厳のある行列をなして出て行った。あの人がいなくなるとすぐに侍女たちが集まってきて、
「ひどく見苦しい格好で油断しておりましたところ、殿はどんなふうにご覧になったでしょう。」
などと、乳母子をはじめみんな口々に申し訳なさそうに言っていた。侍女たち以上に私はもっと見苦しかっただろうと思うと、ただもうあの人に愛想を尽かされてしまったと思った。
どうしたことか、この頃の天気は照ったり曇ったりと、今年はとても寒い春の年と思われた。夜は月が明るかった。十二日、雪が東風に吹かれて散り乱れた。正午ごろから雨になって、静かに降っているままに過ごしていると、何もかもが身にしみてくる。今日まであの人からなんの連絡もないのでやっぱり思った通りだと恨みに思うが、今日から四日間はいつもの物忌かもしれないと思うと少し気が休まった。
十七日、雨がのどかに降っていた。今日は、あの人の家から我が家は方角が塞がっているから来ないだろうなと思って、何もかもが切なく心細いと思っていた。一昨年石山寺に詣でたとき、心細く過ごしていた夜に礼堂で拝みつつ陀羅尼という梵語のお経を読む法師があった。その法師に連絡してみたところ、
『去年から山に籠ってございます。穀断ちをしておいでです。』
などと代わりの人が言ってきたので、
『それならば、私のために祈ってください。』
と伝言を頼むと、法師から直接返事が来た。
『去る十五日の夜の夢に、お袖に月と日とをお受けになり、月を足の下に踏み、日を胸にあててお抱きになるというものを見ました。これを夢判断する者にお尋ねになってください。」
という内容だった。まぁ嫌だわ、なんて大袈裟な夢だことと思って不審に思ったし、言われたとおり人に聞くのも何だか馬鹿馬鹿しい気がして誰にも占わせたりしなかったけれど、ちょうど夢判断をする者が家に来たので、誰か他の人の夢のように聞いてみると、案の定、
「一体どういった方の見た夢なのでしょう。」
とひどく驚いて、
「朝廷を思いのままにし、望み通りの政治をすることになりましょう。」
なんてことを言う。
「やっぱり。この夢判断が間違っているのではないわ。言ってよこした法師が疑わしいわ。このことは内密にね。とんでもないわ。」
と言って、このことはこれで終わりにすることにした。
するとまた、ある侍女が言った。
「こちらのお屋敷の御門を四脚門にするという夢を見ました。」
これも夢判断する者に占わせると、
「これは、大臣公卿がお出になる夢です。こう申しますと夫君が近々大臣におなりになることを申しているとお思いでしょうが、そうではございません。ご子息の将来のことでございます。」
と言った。
また私自身が一昨日の夜見た夢で、右の足の裏に男が『門』という字をいきなり書きつけてきて、驚いて足を引っ込める、というのを占ってもらうと、
「先ほどの四脚門の夢と同じことを見たのです。」
と言う。これも馬鹿げたことなのでとんでもないと思う一方で、そういった出世をしても決しておかしくはない血筋なので、私のたった一人の息子がもしかしたらそんな思いがけない幸運を手にするかもと、心ひそかに思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます