【掌編・幕間】かつては神童

そして今も手を伸ばす

 いつも拙作をご愛顧いただき、本当にありがとうございます。


 今回はこちらで、本編「赤の魔竜と歪の月」とは関係なく、近況ノートにてPV90000感謝企画として募集しましたスピンオフのお話を「幕間」と銘打ってお届け致します。

 普段の展開ではお見せ出来ていない、登場人物達の側面を書いています。いつもとは違った雰囲気をお楽しみいただけると本当に嬉しいです。

 また、PV100000達成企画を同時に募集しております。どの様な些細なものでも構いません、本編に絡んだ私にやらせたい事や書かせたい話を、是非気兼ねなくご提案下さい。詳細は近況ノートをご覧いただきたく思います。

 重ねて、本当にありがとうございました。そして、いつもありがとうございます。







 

「はぁ…はぁ……くそったれが……」


 ぴんと張られた二本のロープのほぼ中央で、男は荒く息をする。動きを阻害する武器や荷物を仲間に渡していたとは言え、今ほど屈強な自身の重さを恨めしく思った事はない。

 それでも、男は上げた両手で上のロープを握り、くたびれたブーツで下のロープを擦る様に進む。その更に下には敢えて目を向けない。遥か下ではとぐろを巻く様に、泡立つ紫色の液体が波打っているからだ。

 強く握った手は感覚を失い、徐々に麻痺し始めている。それでも先を強く見据え、男はじりじりと瘴気が立ち登る迷宮を進んでいた。


「総長ー!もう少しです、気を抜かないで!」

「休みながらで構いません、無理はしないで下さい!」

「あと少しで俺の魔法が届く、そこまで踏ん張れ!」


 少し先の足場からは仲間達が必死の形相で声を涸らしている。声援に全身を包まれた男の口角が、わずかに上がった。


 彼らを統率する立場として、一番腕利きである自ら殿しんがりを務めた判断はやはり正解だった。不用意に奇襲される事なく、今までの探索でもっとも深い階層にまで辿り着けている。

 まだまだ見たい景色がある。自分を信じて託してくれたあいつらの為にも、ここで無様に死を迎えるわけにはいかない。


 確固たる信念を胸に前方を強く睨み付けた矢先、首元から下げていたアミュレットがするりと外れた。落とした視線の先で、革紐と共に青銅色が小さくなっていく。


「あっ」


 思わず口を吐いたその音と共に、男の全身に漲っていたはずの緊張が漏れ出てしまっていた。滑るはずのない右手の革手袋から意思を持ったかのごとくローブが逃げ、巨躯がぐらりと傾く。


「くそ……!!」


 慌てて伸ばした掌で、文字通りの命綱をどうにか掴み直す。止めどない冷や汗が背を伝う中、とにかく冷静さを保つべく、男は必死に体勢を整えながら、何度も深呼吸を繰り返した。

 しばらく時間こそ要したものの、ようやく態勢を整えた男に、改めて仲間達の顔と声が入ってきた。命拾いした安堵と共に口を開く。


「大丈夫だ!もうすぐそっちに」


「総長、下、下!」

「なんだよありゃ……どうなってやがんだ?!」

「人…か?或いは……魔物……?」


 仲間の視線を追った男の眼が、皿の様に丸くなった。


 紫に淀む液体の上を、沈む事なく歩いてくる人影がある。綺麗に整えた白髪、短く切り揃えた髭は勿論、身にまとうローブは遠間で見ても汚れひとつ見当たらない。後ろ手を組み、気ままに散策でもしているかの様な軽い足取りである。


 老人を見下ろす男の頬を、先ほどとは違う理由の冷や汗が伝う。


「……嘘だろ…二十六日目だぞ……?」



 ナツェルト王国が誇る古代王国の遺産、ロギッツァの迷宮。彼の二つ名「奇術師」を世に知らしめているのが、中堅都市マドゥルにあるこの地下遺跡だった。

 足を踏み入れる度に変化する内部。底なしとも称される多層構造。跳梁跋扈する魔物や幾重もの罠。踏破させまいとするロギッツァの遺志が詰まった迷宮に、未だ見ぬ富や名声を求めて多くの冒険者達が挑んでいる。


 気心の知れた十二人編成での彼らも、この迷宮に挑んでもう長い。

 だが挑戦を重ねるにつれ、迷宮との向き合い方を徐々に体得し、長い期間を探索に充てる事が出来るまでになっている。マドゥルに集う同業者の中でも、上位に位置する程度には攻略してきた自負を、皆が一様に持っていた。


 つまり、積み重ねた経験があるからこそ尚更、彼らの眼下を闊歩する、恐らく魔道士と思しき老人はあまりに異質だった。


 大人数での探索が最低条件とされるこの迷宮にただ独り。しかも大した荷物さえ所持していない。

 総長が思わず口走った通り、彼らの探索は二十日を優に越えている。同業がおよそ追い付く事など敵わない迷宮の深部で、ばったり出会って良い存在ではない。



 にわかに流れた沈黙に、老魔導士は初めて違和感を覚えた様だった。足を止めるとこちらを見上げ、小さく会釈しながら目を細める。


「おや、珍しい…こんな奥にまで人が来るのは久しぶりですよ。そうですね…あの先にある高い足場でお茶でもいかがでしょう。孤独な老人の相手をして下さると嬉しいのですが」




「五年?!」

「えぇ。あなた方の記憶の大陸歴が間違っていなければの話ですけれど」


 あんぐり口を開いた探索者の一人を尻目に、わずかに微笑んだ老魔導士は静かに煮出した茶をすすった。

 魔法で宙に浮かぶランタンが、話を聞き入る一行の驚愕をありありと照らし出している。


「おい…こんな迷宮の地下深くで五年も暮らすなんて可能なのかよ…」

「ちょっと考えられないわ…食事はどうなさっているのです?」

「あなた方と一緒ですよ。自生する植物や口に出来る魔物を適宜調理しています」

「ね、寝る時は?!見張りを立てずにこの迷宮で眠るなんて事、出来るんですか?!」

「感知の魔法を隙なく張り巡らせておけば、さほど難しい事でもありません。きっとあなた方にも可能です」

「いや…『隙なく』って簡単に言いますけど…ひとつの階層でもこんなに広いのに…」

「広さなど、大した問題ではありませんね。魔物の習性を把握さえしていれば、安全の確保は容易ですから」


 矢継ぎ早に浴びせられた問いかけにも、老魔導士は平然と柔らかく返す。


「いやはや…ゼニン導師の力量たるや、我々など足元にも及びません。たった一人で良くぞ生き永らえておられます」


 感嘆しながら下げられた総長の頭に、老魔導士ゼニンは小さく首を横に振る。


「力量など、この迷宮では大した意味を成しません。この場所でもっとも活きるのは経験則。長くいればいるほど、生き抜く秘訣が仄見えてくるものです」

「ですが、もしその話が真実だとしても、我々では…いや、探索者の殆どがそうだと思いますが、独りでなど生き抜けぬのがこの迷宮のはずです。やはり導師には、充分な力量と経験がおありのご様子だ」


 盃の茶を口にした後、総長は興味の色に塗られた瞳をゼニンに向ける。


「先程、『過去、深奥には辿り着いた』と伺いました。では今、導師は何を得るべく再び探索しておられるのですか?」




 若い探索者達が去った後、片付けを済ませたゼニンは、茫洋と広がる迷宮を眺めていた。先程の自分の回答をぼんやり思い出す。


「確かに、私はかつて迷宮のもっとも奥にまでは辿り着きました。ですが、この迷宮の価値の本質はそこではありません。虚実を織り交ぜて作られた階層然り、立ち入る度に変化する構造然り…ロギッツァが遺してくれたこの迷宮自体が、魔法という可能性を体現した宝庫なのですよ。私は出来得る限り、なるべく余す事無く、その全てを知りたいのです」


 回顧し終えた老魔導士の口元を、苦笑が飾っている。


 熱量に任せて語りながら、探索者達を包む空気が、驚愕や敬意から徐々に変わっていくのを、ゼニンは目と肌で感じていた。

 だが、初めの頃の様な、わずかながらの落胆もなく、彼らが見せたのはむしろ、想定内の反応だった。

 あてどなく迷宮を彷徨い、たまに出会う探索者達を時には救いながら、幾度となくこの話をしてきたが、ただの一度として、自分の考えに賛同する人間に出会った事はない。少なくとも素直に納得出来る様な話ではないらしい。


「理解の範疇の外側…なのでしょうね」


 呟いたゼニンだったが、その表情は一切変わらない。



 たとえ自分の目指すところが、他人に理解を超えた恐怖を与えているのだとしても、声を上げて鳴く探求心や好奇心を、どうして自らが無視できようか。


 無論、理解者がいたに越した事はない。例えば、デルヴァン王国で十将の座に就いていた才媛。自分の考えの、ほんのわずかでも理解してくれる可能性があるとするなら、彼女を置いて他には思い当たる顔がない。

 だが、その彼女も亡くなって久しい。そして追憶は新たに何かを生み出したりもしない。結局、独りでの探索が性に合っていると気付いてからは、余分な思考の一切もなくなった。今の自分に必要なのは、魔法の持つ真理と可能性に向き合う為の、静かで真摯な時間だけだ。



 ほんの少しの荷物を腰袋にまとめると、ローブを翻したゼニンは、暗い虚空に向かって指輪をかざす。


「蒼の裏側・不可視の扉・彼方からの哄笑・相食む音色・開け」


 詠唱が終わるや空間に縦横の切れ込みが走り、書物をめくるかの様に多くの迷宮の景色がばらばらとめくれていく。


 かつてニザ分団との攻略した際、迷宮にかけられたこの多層の魔法の解除に、ゼニンは複数の詠唱を行い、少なくない時間と魔力を要した。

 だが、長い年月の間に研鑽を積んだ末、今やゼニンは通常と同程度の詠唱で、他の階層へと渡り歩けるまでになっている。


 変わりゆく景色を眺めるゼニンの顔に、薄く陰りが差した。刻一刻とめくれていく景色と、かざした手を交互に見やる。



 これだけの事が出来る様になっても、未だ魔法の深淵の一端を掴んだ感覚はない。だからこそ興味が尽きず、日々を探求で彩れるとはいえ、時には考えてしまう。


 きっと、もうそれほど長くはない。命が尽きるまでの間に、魔法のどこまでを知り得るのだろう。


 それは年を重ねたゼニンにごくたまに訪れる、珍しくも深刻な憂鬱だった。



 ふと顔に風を感じ、ゼニンは我に返った。目の前の光景に思わず目を奪われる。


「……これ……は……」


 先程まで、めくれていたのは確かに迷宮の景色だったはずだ。だが今、目の前にぽっかりと開いた空間は、明らかに屋外へと繋がっている。

 なだらかな丘陵、遠くに見える森、抜ける様な青空。春のスロデアを思わせるその風景は、およそ彼が知らないほどの強い精霊の力に満ちていた。


 詠唱にせよルーンにせよ、幾度も唱えてきた呪文を間違えたとは思えない。また、これまで見てきた傾向からも、ロギッツァの仕込んだ罠とも思えない。単なる偶然の産物かもしれないが、それとて確証などない。


 つまり、ゼニンの逡巡に明確な答えは出なかった。だが、口角だけがただ静かに上がる。


「これだから、探求は止められないのですよ…」


 躊躇する理由などなかった。目の前に広がる、良く知っている様に見えて異なる世界へと、ゼニンは足を踏み出した。



【完】

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