第14話 ロサンゼルスドーム
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「……」
「……」
「あのう……」
運転席に座るマルスと後部座席に座るアスカが、沈黙を貫いている。
ハイヴⅢでのMSTFとの戦闘から、すでに数時間が経過していた。しかし、二人はそれからずっと口を閉ざしている。
声をかけたクラリスは、返事をする気がない二人に気まずそうな顔で身体を縮こまらせた。
マルスは、こちらの事情にズカズカと土足で入り込んでくるアスカのもの言いが気に入らなかった。それに、MSTFの追撃がいつ来るものかということにもピリピリしている。アスカはアスカで自分の選択が失敗だったらと気が気ではなかったし、マルスの態度にも神経を尖らせずにはいられなかった。しかしそれでも……自分の選択が間違っているとは決して考えていなかったのだが。
『お兄ちゃーん。MSTFからはちゃんと逃げられたんだから、そんなに怒らないでよ』
「……。怒っちゃいねーよ」
『嘘。こーんなに眉間にしわ寄せてさ』
ミネルヴァの眉根を寄せるジェスチャーに、マルスがため息混じりに手をふる。
「はいはい。悪かったよ」
『もー』
「……」
ミネルヴァは腰に手を当て、不機嫌さを隠そうともしない兄へあきれた視線を向ける。
『あと一時間もしたらロサンゼルスドームに着くんだから、もうちょっと愛想よくしてよね。またアレックスさんとコーヘイさんに無愛想だって言われちゃうよ?』
「うるさいな。わかってるよ」
『本当かなぁ』
アスカが前方でのそんなやり取りをぼうっと見ていると、その向こうのモニターに、崖の裏側から巨大なドームが姿をあらわす。まだ数百キロメートルは遠くのはずなのだが、それでもずいぶん大きな構造物のようだった。
あれでは、あの構造物の直径は五十キロメートルを超えているのではないだろうか。
遠目に見る分には、卵の殻が落ちているような見た目だった。その卵の殻が超巨大である点にさえ目をつぶれば、そこまで奇異な光景ではないのかもしれない。ドームは地面に埋まるよう綺麗に広がっているわけではなく、外縁部はところどころ不規則な断面を見せている。そうやってできた地面とドームの間隙をよく見ると、無骨な構造材で埋められていた。凄まじい大きさだが、地球の半分以下の重力しかない火星だからこそ可能な構造物だろう。
ドーム自体は白濁色で、その素材はあまり金属らしくは見えない。火星の大地から精製した材料で作られたと考えれば、ケイ素やアルミニウムあたりが候補になるだろうかと、ドームに近づくまでの間にアスカは想像し、火星の土ーーレガリスの成分を思い出すのに時間を費やした。
アルテミスがドームの入口らしき場所へとたどり着いたのは、ドームが見えてから一、二時間も走り続けてのことだった。
『ここがロサンゼルスドームだよ』
ミネルヴァがそう言うが、アスカにはいまいちピンとこない。自分の知っているロサンゼルスという都市とは、やはり違いすぎる外観だったからだ。
……というか、アメリカ西海岸の沿岸沿いの大都市と同じ名前の都市が、ドームと呼ばれていることにそもそもの違和感がある。何かに囲われて成立する都市ではなかったはずだが、火星ではどのようになっているのか想像もつかない。
ゲートが開く前に、モニターにポップアップが表示される。
『IDのスキャンを行います』
『四名のIDを確認しました』
『セルシオ・シュタイナー』
『ミネルヴァ・シュタイナー』
『ファラ・シュタイナー』
『アスカ・ヤマサキ』
『認証完了』
『ゲートを開きます』
続けざまに表示されるそれらの文言をすべて追うことはできなかったが、アスカは一つだけはしっかりと目に焼き付けていた。
「セルシオ・シュタイナー?」
父が師事した教授と同じ名前ではないか、とアスカが驚いていると、クラリスが笑う。
「マルスと私の名前は、火星じゃ悪い意味で有名だからね。そのままIDに使うわけにもいかないんだよ。ザ・レッドが偽名を登録してくれてね。マルスの偽名は……なんか、地球の〈崩壊〉前の科学者の名前を拝借したって言ってたよ」
「……悪かったな。極悪人で」
くつろいだ姿勢のままでポツリと漏らすマルスに、ミネルヴァが呆れる。
『もー。お兄ちゃんってば卑屈すぎ』
「その理屈で言うなら、私も極悪人だから偽名ってことになるんだけど」
「違うのかよ。極悪人は俺だけか?」
「そう言われたら……そっか。私もだね」
「だろ。ほらな」
マルスとクラリスのやり取りに、ミネルヴァが天を仰ぐ。
『卑屈すぎる人が増えたんだけど……』
「まあまあ」
苦笑いを浮かべてミネルヴァをなだめながら、アスカは表示された偽名に納得する。
火星連邦とやらにIDが登録されるのであれば、指名手配の二人がそのままの名前で登録していてはすぐにバレてしまう、というわけだ。アスカにはまだよくわかっていないが、このIDがなければできないことというのはかなりあるように思えた。
重苦しい音とともにゲートが上に開き、アルテミスがゆっくりと中へ入る。
中は大型トラックが何台も入る大きさの広い空間だった。ハイヴⅢの格納モジュールと比較しても五、六倍の広さがあり、奥の壁には入口と同じ大きなゲートが見える。クリーム色の壁面は薄汚れており、年季を感じさせた。
アルテミスが中に入ると、入ってきたゲートがまた重苦しい音を立てて閉まる。エアーコンプレッサーらしき音がうなりを上げ、加圧を始めた。
この場所も巨大ではあるものの、アルテミスの出入口と同じくエアロックになっているらしい。
『ようこそ、ロサンゼルスドームへ』
やがてそんなポップアップがモニターに表示され、奥のゲートが開く。
「……すごい」
想像だにしなかった向こう側の光景に、アスカは思わずそんな言葉を漏らした。
巨大なドームの内側には、青空が広がっていた。
マルスとクラリスにとっては見慣れた光景なのだろう。まばゆい光に目を細めはするものの、感嘆するほどの様子は見せなかった。
モニター越しとはいえ、いつぶりかわからないきめ細やかな深い青の空に感動してしまう。遠くの雲がゆっくり動いているのが見えるから、天井に描かれた単なる絵、というわけでもなさそうだ。
「アスカ。ドームの中なら上のハッチ開けても平気だから、見てきていいよ」
「そうなの? でもーー」
遠慮するアスカに、クラリスは苦笑する。
「ーーいいから。そんなリアクションも久しぶりだよ。私たちが初めてロサンゼルスドームに来たときみたい。きっと気分転換になるよ」
『そうそう! どうせなら観光気分で楽しんじゃった方がいいよ』
アスカの目の前でくるりと一回転するミネルヴァが、クラリスに同意する。
「じゃ、じゃあ……」
アスカは素直に従うことにして、頭上のハッチを見上げる。アスカにも見慣れた、昔ながらのハンドルをくるくると回して開けるタイプのハッチだった。
アスカはハンドルに手を伸ばし、その重さに四苦八苦しながらもハンドルを回してハッチを開け、アルテミスの上部に身を乗り出す。
「うわあ……」
そんな声を上げずにはいられなかった。
頭上には、モニターで見たものよりも圧倒的な広がりを見せる蒼穹が、アスカを包み込むように広がっている。視線を下げると、アルテミスの右手側にはどこまでも続く大海原がゆらゆらと波打ち、太陽光を反射してキラキラとまばゆい光を放っていた。
ここがドーム内だということを忘れてしまいそうな、ここが火星だということを忘れてしまいそうな……そんな、どう見てもアメリカ西海岸の光景だった。
「いったい、どうやって……」
この空と海を再現しているのだろう、という言葉は言えずに消えてしまう。
振り返ってみると、遠くにドームに入るときに通ったゲートが見える。が、その周囲はどこまでも遠くまで蒼穹と大地が続いている。ドームよりも広い空間がドーム内にあるわけがないのだが、どう見てもそうとしか思えない。これは一体どういうことなのだろうか。
そう思いながらも、見ることはもう叶わないと思っていた光景に圧倒されて、アスカは呆然とするばかりだった。
アルテミス上面の前方についたホログラフィックライトが点灯。アスカのすぐ側にミネルヴァが現れる。彼女は自身を指してアスカの質問とも言えないつぶやきに答えてくれる。
『この空と海はね、今のあたしとおんなじ技術なんだよ。これよりもっと大きいホログラフィックライトをドームの天井に敷き詰めてさ、昔の地球にあった青空を再現してるんだって』
「よーするに偽モンってこった」
「またそんなこと言って……」
車内から、投げやりなマルスの声とあきれたクラリスの声が届く。
「そこまでして……再現しなきゃいけなかったの?」
そのホログラフィックライトがどれほどの技術が詰まったものかはわからないが、それでもこれほどの規模のドームの天井に設置するにはとてつもないコストがかかるはずだ。この青空を再現するためだけにそれほどの価値があるのか……などと考えてしまうのは、未だに火星探査という任務を忘れられていないからだろうか。
……それが最早、意味の失われた任務となってしまっているのだと理解していたはずなのに。
そんなアスカの内心を知らないまま、ミネルヴァが明るい声で告げる。
『アスカさんだってさっき、うわあって感動したでしょ? それが理由だよ。あたしたちが生まれる前のことだけど、どうしても必要なことだったんだって』
「そうなの?」
『ニ世紀ちょっと前になるのかな? 地球の〈崩壊〉がきっかけになって火星移住計画は飛躍的に加速したんだけど、こっちにきた人たちはすっごいストレスを抱えていたんだって。テラフォーミングはまだまだ始まったばかりで、今みたいに外気は呼吸できなかったから、閉塞感が凄かったって言われてる』
「それは……そうでしょうね」
アスカのいた時代でも、ハイヴⅢ以外に行動できないという環境は懸念材料だった。ハイヴⅢの中央モジュールのテーブル横にあった大きな窓というのは、単なる景観用の設備ではなく、ハイヴⅢで生活する人の精神に寄与する必要不可欠な設備だったのだ。アスカ自身、半年もの閉鎖環境生活試験を経てから火星探査任務へと出たのだ。地球の〈崩壊〉により火星移住が促進されたということは、裏を返せば火星移住する他に生き残るすべがなかったということだ。やってきたのは地球からの逃亡者たちに違いない。閉鎖環境に対応できない人々も多かったことだろう。
『初めにできたドームはストックホルムドームだったんだけど、そこではホログラフィックライトをたくさん使って、本来火星には存在しない青い空とゆっくり波打つ海……っていうか河を再現したんだって。地球と同じ光景を作り出してやっと、人々はそういったストレスから開放されて生きていけるようになったんだよ。それから、ドームを作る際には青空の再現は必須事項になったって言われてる』
「そっか。でも、確かに……そうなのかもね」
コストを前に無駄だと考えてしまったものの、自身が今まさに感じている、圧倒的な「帰ってきた」という安心感や安堵感を前に、アスカは納得せざるを得なかった。
『それから、火星で作られるドームは、地球にかつてあった都市を再現したものが作られるようになったんだよ』
「ふうん」
相づちをうちながら、アスカは流れる景色を眺める。
道路標識には「太平洋沿岸高速」と記されていた。
海とアルテミスの走る道路の間には椰子の木が均等に並んでいて、涼風にゆらゆらと揺れている。その向こうには砂浜が広がっていて、波打ち際で寄せては返す波が偽物だとはとても思えなかった。道路の逆側には五階から十階前後の高さのカラフルなビルが建ち並んでおり、ロサンゼルスには行ったことのなかったアスカでも、西海岸らしい陽気な雰囲気を感じられる。
たとえそれが作り物だったとしても、それでもアスカにとってはいくら見ても飽きることのない地球の光景だった。しかし、マルスたちにとっては見慣れたもののようで、落ち着いた様子だった。
その太平洋沿岸高速をしばらく走り、サンタモニカで左に曲がり、内陸へとーー海がホログラフィックライトによる偽物なら、この表現も間違っているのかもしれないがーーアルテミスが入っていく。
道路標識の行先によれば、ビバリーヒルズのようだ。
「どこに向かっているの?」
『アレックスとコーヘイのお店だよ。カフェと軽食をやってる店なんだけどさ。ロサンゼルスドームは材料の調達が簡単じゃなくて』
「そうなの? こんな大都市なのに……」
そう言ってから気づく。
ドームに入ってから見たのは、青空と海原の他には、建物と並木道。それくらいだった。いちばん大事なものがずっと視界に映っていない。
「……そう言えば、人を見ていないわね」
『うん。……ロサンゼルスドームは、あんまり人がいないんだ』
やっぱりわかるよね、と言いたげにミネルヴァが頬をかく。
「なにがあったの?」
『結構昔のことなんだけどさ。ここは……なんていうか、運が悪かったんだって』
「運が悪かった?」
『そう。ほらあれ』
ミネルヴァはうなずいて、遠くを指差す。アルテミスの右手側、遥か遠くには、いくつかの高層ビルが中程で崩れたままの姿で朽ち果てていた。
「なにあれ……」
『火星の軌道上には、月基地から運ばれてきた工業プラントがいくつも周回してるんだけど、その一つが故障して墜落したんだ。半分以上は燃え尽きたし、燃え尽きなかったのもほとんどはドームとはかけ離れた荒野に落ちた。たった一つ、一メートルもない破片を除いてね』
ミネルヴァの言葉の意味は明白だった。その破片は、このロサンゼルスドームに落ちたのだ。
「……大惨事になったの?」
『ううん。破片自体はドームを貫通なんてしなかったんだって。外殻をちょっとへこませて、亀裂が一つできたくらい』
「ならーー」
大したことは無かったんじゃ、とアスカは言いかけたが、本当に大したことがなかったのなら、こんな風になっているはずがないと思い直す。
『当時は今よりも外気との気圧差が大きかったんだよ。空気が漏れて、そのせいで亀裂も広がって……、コンプレッサーをフル稼働させても下がり続ける気圧に、ロサンゼルスドームは崩れ落ちるんだって誰もが思ったんだって。他のドームに移住できる人は限られてたけれど、マーズエクスプレスにはなんとかしてロサンゼルスドームから脱出しようとする人たちで溢れかえって大パニックになったんだって。大混乱の末に暴動も起きて、鎮圧にMSTFも出動して……結果があのビルってわけ』
「恐ろしい事件ね」
『結構な数の死傷者も出たって話だけど、それでも一世紀も昔の事件だから、そんなにリアリティは無いけどね。ドームの外殻の修理なんてとっくの昔に終わってるし、ドーム自体も正常に稼働してる。でもまあ、そんなこんなで一度はほぼ無人になったドームだから、ドームの外殻以外の使われていない部分は修繕されずに今もそのままだよ。他のドームと比べたら人口は圧倒的に少ないし。亀裂が入ったのは海側だったって話だからか、サンタモニカとか、ドームのこっち側は今でもほとんど人がいないままなんだ』
「そうなのね」
『そんな感じだから、マーズエクスプレスもたまにしか来なくて、欲しいものもあんまり手に入らない。あたしたちはアレックスとコーヘイみたいに、ここで暮らしてる人相手に運送屋の仕事をして生活してるってわけ』
えっへん、と胸を張るミネルヴァに、アスカは微笑み返す。
「人が少ないおかげで俺たちには仕事あるし、MSTFにもバレねえってわけだ」
「またそんな言い方する……」
「本当のことだろ」
相変わらず投げやりな態度のマルスに、クラリスは少し呆れ気味だった。
アスカは改めて空を振り仰ぎ、アルテミスが目的地にたどり着くまでの間は懐かしい青空を満喫することにした。
しばらくは見ることなど叶わないだろう、帰ってきたら懐かしいと感傷に浸るんだろうか、などと考えながら離れた地球。目の前の光景が本物でなくとも、帰ってきた、という感覚を抱かずにはいられない。
あれはアスカの主観では一年ほども前のことになる。地球で過ごす最後の一日。他の面々が家族や恋人と過ごしていたというのに、アスカは一人で過ごした。家にも帰らずーー実際のところ、必要がないからと引き払っていたので、帰る場所などありはしなかったーー明日、自分が搭乗するロケットをぼんやりと眺めていた。あの日の空は、これよりもっと薄い青だったような気がするが、アスカもはっきりと思い出せるわけではなかった。その日、一日中敷地内で所在なさげにしているのは多くの職員に目撃されていて、打ち上げ後のヒューストンでは「プロフェッサーヤマサキの娘もまた、頭の中は研究で一杯らしい。血は争えないな」などというジョークが流行ったそうだ。アスカの父もアスカ自身も、実際には研究のことばかり考えていたというより、家族のことばかり考えていたのだけれど。
血は争えないというのなら、それはむしろどちらもが突然のタイムスリップに巻き込まれたことなんじゃないかな。ヒューストンが知ることはないだろうけれど。
アスカは飽きることなく空を見上げたまま、そんなことを考えた。
それから、ヒューストンを後にしてISSⅡからオービターⅦ。オービターⅦで火星までの航行に半年かかったものの、その他はあまりにも慌ただしい日々だった。ISSⅡでは最終確認に追われたし、アレスⅣでの火星への降下とハイヴⅢの建設はうまく行かないことだらけだった。そんな任務を経て、一年前には想像できるはずもない場所に自分がいる。
我ながら、数奇な運命を辿っていると言ってもバチは当たらないだろうとアスカは思った。
そうやって思いを巡らせているうちに、アルテミスが道路から逸れて一つの建物脇へと駐車する。
道路際のホログラフィックライトの看板には、椰子の木と砂浜とともに「DINER」の文字が踊っている。
ここがミネルヴァの言っていた「アレックスとコーヘイのお店」なのだろう。アルテミスがやって来るのを見て年配の黒人と東洋人の青年の二人組が建物から出てきた。彼らがそうだろうか、とアスカが考えていると、ミネルヴァが車外スピーカーで声を張り上げる。
『アレックスさんとコーヘイさん! お久しぶりでぇっす!』
アスカの手前でくるりと宙返りするミネルヴァへ、二人が手を振って応える。
「この声が聞こえると、なんだか安心するねぇ」
「ちげえねぇな。この辺りで若ぇのはおめぇさんくらいしかいねぇしな」
「いや、僕ももう若いって言えるほどの年齢じゃないんだけど」
「何言ってんだ。ここにゃおめぇの他は俺と同じようなクソジジイしかいねぇんだぞ。十分若いさ」
「その理屈じゃ、僕はいつまでも若いって言われ続けそうだな……」
「当然」
「まったく」
アルテミスの側面のハッチからマルスとクラリスが出てくると、そんなやり取りをしている二人の所へと歩いていく。
その様子を見て、アスカも上部ハッチを閉め、開放されたままのエアロックを抜けてアルテミスから降りる。
「よう」
「久しぶりだな。アレックスにコーヘイ」
「ごめんなさい。色んなことがあって遅くなっちゃいました」
「がはは! いいってことよ。予想外なんてのはいつだって起きるもんだ。あんたらが無事なら何よりだよ」
豪快に笑う黒人男性に、マルスがにやりと笑う。
「俺らが来なくなったら、ここのスペシャリテもずいぶん寂しいメニューに変わっちまうだろうしな。俺たちの無事は大事だろうよ、アレックス」
「マルス。おめぇは相変わらず皮肉ばっかりだが、人の好意はちゃんと受けておくもんだぞ」
「はいはい。わかったよ」
「まあ、ウチのメニューのためってのも本当だがな」
アレックスと呼ばれた黒人男性は、マルスににやりと笑い返してみせる。
「このジジイ、素直になってみりゃこれだよ」
「老人をからかうにゃ、おめぇさんはまだまだ経験が足りん」
「ったくよ……」
「もう、やめてよね。それで……こっちはアスカっていうの。私たちも会ったばっかりなんだけど……色々あって、しばらくは一緒にいる予定」
クラリスの紹介に、アスカは頭を下げる。
「アスカ・ヤマサキです。よろしくお願いします」
「こっちはアレックスさんとコーヘイさん。二人はこのダイナーのシェフなんだよ」
「よろしくな」
「よろしく」
アスカは黒人のアレックスと東洋人のコーヘイの二人と握手を交わす。
「ロスの過去の話は聞いたか?」
アレックスの問いにアスカはうなずく。
彼が言っているのは、先ほどミネルヴァから聞いたばかりの、工業プラント墜落に伴うロサンゼルスドームでの大パニックの話だろう。
「え、ええ」
「こんな街だ。行く宛を無くしてどうにもならずにここにたどり着いたって奴らが大勢いる。あんたも行くべき道を見失ったらここに来るといい」
「アレックス。急に何を」
「コーヘイ、それくらい察してやんな。マルスたちみてぇな奴らのお世話になる人だ。大変な事情を抱えてなきゃそうはならんさ」
「それはまあ、確かに」
「俺たちみてぇな奴らとはなんだ。俺たちみてぇなとは」
「そりゃあ……なあ」
納得するコーヘイに、愚痴るマルス。当のアレックスは、わかるだろ、と言いたげに肩をすくめた。
マルスは軽く手を振って彼らに背を向けると、アルテミスの後部に回る。
「ったく。まあいい。荷物を降ろすぜ」
『貨物ハッチ開けていい?』
「ああ。頼む」
『はーい』
ミネルヴァの声とともにガコン、という音がなり、アルテミスの後部ハッチが開く。
後部の倉庫はアルテミスの三分の一くらいの広さがあるが、アスカはその中をこれまで見たことがなかった。マルスから「荷物で一杯で何も見えねぇよ」と言われていたからだ。
開いたハッチの中は、マルスの言ったとおりだった。
梱包材に包まれた様々な荷物が、隙間なく詰め込まれていたのだ。
倉庫の壁も天井も覆い尽くされるほどの荷物の量からすると、アルテミスの内側からの扉を開けても梱包材しか見えなかったことだろう。
「待ってましたよ。これでまた旨い料理を作れるってもんだな」
『あたしたちにこんなに大量の食材を頼むのは、流石にアレックスさんとコーヘイさんしかいないよ』
ミネルヴァの言葉に、コーヘイが笑う。
「はは、僕らはいいお得意様でしょ。それでも、マーズ・エクスプレスで頼むよりは安く済んでるんだよ」
『えー。そうなんですか?』
「そうそう。正規の価格で仕入れてたら、ウチのメニューは全部倍の値段になるね」
「うわー」
『うわー』
クラリスとミネルヴァがコーヘイたちと話をしながら、荷物をアルテミスから降ろしていく。どうやら倉庫内の荷物のほとんどがこの店のためのものらしい。
アスカは手伝おうと思ったものの、どの荷物を降ろすのか、どこに持っていけばいいのかも分からずに皆が働く光景を眺めていた。
「アスカ」
マルスに呼ばれて振り返ると、険しい顔をした彼があごをしゃくり、アルテミスから少し離れたところへついて来いとうながしてくる。
「……」
アスカは素直にマルスの背中を追うことにした。
ロサンゼルスドームに入ってアルテミスを降り、ようやくクラリスやミネルヴァに聞かれないところで話ができるようになった。という風に考えると、マルスがアスカに話したいことはーー。
ーーアルテミスに乗せてやるのはここまでだ、とかなのかな。
少し離れたところで立ち止まって振り返るマルスを見て、アスカはそんな覚悟をする。
もともと会ったばかりの他人だ。その自分が図々しくも彼のやり方を全否定して、嫌われていないわけがない。お互いの主張はともかく、ここまで送ってくれただけでも多大な感謝をすべきだろう。
そんなことを考えながら、アスカはマルスの正面に立って彼の言葉を待った。
「……」
しかし、マルスが発したのは、アスカがまったく予想だにしていない言葉だった。
「アスカ。……あんた、いったい“いつ”からやってきたんだ?」
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