フィルスバーサスユニバース
倉木さとし
死にたくないなら、戦え、浜岡猛
戦え、いろんなヘンタイと
世界がぐらぐら揺れている。
おかげでまっすぐに歩けない。
さらに、さっきから聞こえるこの耳障りな音は何だ?
まるで、何かを伝えようとしているような――
戦って、死ね。
戦わなければ、生き残れない。
戦え。
「えっと、なにしてたんだったか?」
傷だらけでボロボロの肉体は、歩くたびに関節が泣き声を発する。
左手が熱い。
熱さに直結して、封じ込めたかった記憶を鮮明に思い出す。
最初は軽い眩暈がしたんだ。
そこから熱が身体を駆け巡り、出口を求めるみたく左手に熱が収束した。
自分の中で何かが混ざり合い、肥大し、狂い出していたのだと、あとになればわかる。
恐怖はなかった。だからこそ、止まらなかった。
心地よく湧き上がって来るものが、破壊衝動だとしても身を委ねた。
あの時は、それが正しいとさえ信じていた。
思い出されたものは、眼球には光景として、手には感触として、鼻には匂いとして復元された。
白目を剥き、口から手を飛び出させた男の生首。
花火のように爆砕した顔は、辺りを赤く照らした。火薬のにおいのかわりに、空気中に漂ったのは血のにおいだった。
――俺は、人を殺した。
喉の奥から熱いものがこみあげてくる。耐え切れず、嘔吐した。夜だというのに目の前が真っ白になり、地面に倒れる。吐瀉物が顔についたかもしれないが、どうでもいい。
「オレガ――」
声は裏返ったうえにかすれていた。波打って震えた声だから、カラオケならビブラートの加点だけは入るだろう。とはいえ、音程どころかイントネーションすらおかしい調子だ。いくら加点されてもマイナスに突き進むだけである。
「コロシタ?」
そうだ。
このアスファルトの上でうずくまっている狂人が殺したのだ。
色々な言い訳めいたものが、頭の中を飛び交う。だが、何一つ言語化されることがないまま、頭痛が酷くなってきた。
少しずつ、視界が回復する。小さな光がゆっくり近付いてくる。浜岡の横を通り過ぎた頃になって、自転車だと分かった。
世界が滅んだわけではないのだ。
ならば、一人はいやだ。誰かと一緒に居たかった。
しかし誰と?
ガキの頃から友達の
ずっと俯いて歩く浜岡は、街灯に照らされて影を伸ばしていた。
「……浜岡君?」
おそるおそる顔を上げる。さきほど通り過ぎた自転車が、公園の入り口で停まっていた。
「……
「やっぱり浜岡君だった」
学校一の美女、
赤黒い液体で描かれたTシャツの柄。自分の汗と混ざった他人の血はとても醜悪で、五感に最悪をつきつける。
「ど、どうしたの、その格好? な、何があったの?」
問われると、再び意識してしまって震えてしまう。さっきまで誰かと一緒にいれば、逃れられると信じていたのに。でも、実際のところは無理だった。罪の意識からは、決して逃れられない。忘れることなど出来ない。
誰と居ても、不安と恐怖が心を支配してくる。
「……くっ」
体の震えは、ますます激しくなる。
「浜岡猛君」
名前を呼ばれるだけで、浜岡はすがるような顔になる。そんな表情をみせるだけでも迷惑をかける気がして、街灯の支柱を掴んで謝罪するように頭を下げる。
支柱を握っているのが左手だと気づくと、慌てて右手で握りなおした。
「いまの浜岡君、なにかから逃げているみたい」
そうだ。逃げている――現実から逃げたがっている。
「でも、大丈夫。私が、いるから」
浜岡の左手に、温かい月谷の手が触れた。
「こわくないから一緒にいるから……」
首筋に、さらさらした月谷の髪の毛が触れている。月谷の息遣いが、すぐ耳元で聞こえた。だが、それでも、浜岡は月谷の方を見ようとしなかった。
「――俺は人を殺した」
目を見て誰かにカミングアウトするには、一七歳で童貞の浜岡には不可能だった。
「それでも、月谷は俺と一緒にいてくれるか?」
答えは返ってこないし、期待もしていない。
「人を殺した極悪人の味方になれるのかよっ!」
思わず叫んだ。その勢いのまま月谷を押し倒した。
一緒に倒れた自転車の車輪がくるくると回転している。
公園の固い砂の上に、月谷の長い髪が広がった。浜岡は月谷の華奢な両肩を掴んで、馬乗りの体勢だ。栗色の長い髪は乱れ、月谷の顔の上に散らばるように広がっていた。その無造作な一本一本までもが、美しく、儚い。
「――いつも、そのつもりでやってたんだ。やらなきゃやられる、そう思って。でも、相手を本当に殺しちまうなんて、考えてなかった。でもあの時は、理性が無くて、訳がわからない内に……でも、それは仕方なくて――だって、仲間はみんな死んでしまったし。俺一人だったから」
自分でも何を言っているのかよく分からない。でも、何故か目からは涙が溢れてきた。
こぼれた雫は、月谷の頬を濡らして、彼女も泣いてくれているみたいに錯覚する。
「――どうすればいいのか、わからないんだ」
月谷はじっと浜岡の事をみつめていた。
そして、その手が浜岡の顔に伸び、指先が涙をぬぐう。
「私も、浜岡君がどうすればいいかなんて、わからないよ……でも、一つだけ分かっていることがあるの――」
優しく、温かい声は、浜岡が「でも」とか、否定的な言葉を発せさせる隙を与えない。
「――私は、こんな悲しそうな浜岡君を絶対に一人にさせたくない。そう思っている」
それが分かっていること――と、月谷は笑った。
無我夢中で、浜岡は月谷を抱きしめる。
涙で滲んだ瞳がとらえた公園のジャングルジムは、いまも修理されないで壊れたままだった。
赤ん坊が一日一日、大きな成長を遂げるように。
浜岡の左手は、日を増すごとに出来ることが増えていった。
力の高まりは火を見るよりも明らかで、暴発することも多くなっていた。
持っていた携帯電話が石化した。
立ち読みしていた少年ジャンプのページがカミソリになっていた。
炭酸ジュースを自販機で買って飲もうとしたらガソリンだった。
ぞっとするようなことが続いた。
突如として、おそろしい力が左手に宿ったのが原因だ。
浜岡が左手を封印するのは自然の流れだった。とはいえ、出来ることは単純で、手袋をするのが関の山だ。学校にいる間は包帯を巻いた。教師や友達には怪我をしていると嘘をついた。厨二病じゃないかという弄りが、全く笑えなかった。
左手を封印しても、力が高まっているのを感じる。そして、力が高まるごとに、一般社会から離れている気がする。友達と居ても孤独を感じた。力のことを話そうかと思ったが、話したことでもっと孤独になるかもしれないと躊躇ってしまった。
浜岡猛の全ては、左手の『異常』に蝕まれつつある。
「なにか、お悩みですか?」
東の空が暗くなってきた公園で、浜岡は話しかけられた。驚いて振り向くと、真後ろに女が立っていた。同い年くらいのメガネをかけた女だ。
「あんた……」
何者だ――と聞く前に左手を掴まれた。
「この左手ですね、悩みの種は?」
女はにこりと笑って言った。
掴んできた手を振りほどこうとしたが、無理だった。もの凄い力だ。
「物質変換能力ですか」
浜岡の左手の手袋は、砂に変換されて崩れていく。直後、掌の熱さは左腕全体に伝わっていく。
「熱っ。レンジで温めすぎたお弁当を掴んだ時みたいになっちゃいました〜」
女は浜岡から手を離すと、掌を広げてフーフーと息を吹きかけていく。
「コンビニに設置されてるレンジって、家のと同じような感覚で時間を設定すると、びっくりすることありあすよね。あ、そうです。知ってますか? アナタが通う高校に一番近いコンビニに、弁当を爆発させる店員がいるって噂」
ついに訊ねることがなかった「何者だ」というのが、浜岡の顔に書かれていたのかもしれない。突拍子もない話をしているとみせかけて、すでに自己紹介をはじめてくれているとか。
「もしかして、あんたが、その店員だとか?」
「いえ、コンビニで働いていませんよ。私は世界
「えと、なに?」
「長いので、通称のほうで覚えてもらいましょうか――では、改めまして。フェイクファーの傲慢を冠する組織の青木と申します」
噛み砕いて説明してくれたのかもしれないが、まだわからないことだらけだ。
「とにかく、私はあなたのような能力を持った人たちの機関の者です」
「なるほど、で? その機関の者とやらが何の用事だ?」
青木がニコリと笑う。八重歯がキラリと輝いていた。
「あなたも是非、我ら傲慢の一員に。あなたをスカウトに来ました」
「スカウト?」
「あるいは、排除になるかもしれません。あなたの能力、試させてもらいます」
辺りの空気が変わる。
「――!」
浜岡の意志に反して、座っていたベンチから尻が浮かび上がる。まるで見えない車にはねられた感覚だ。吹っ飛んだ身体は、そのままジャングルジムに到達し、背中を強打する。
背骨が軋む。
続いて手足に痺れを伴う痛み。
いっさい庇うような動きをしていないのに、頭部が無事なのは運が良かった。首だけを動かして辺りを確認することも出来る。
どうやら十メートルほど飛んだみたいだ。
ベンチに青木の姿はない。
胃からこみ上げる熱いものを飲みこむ。少しだけ口から溢れたものは左肩で拭った。
「まさか、能力で飛ばされたのか?」
「ピンポーン。当たりです!」
真上からの正解発表。見上げると、ジャングルジムのてっぺんで、青木は引きつった笑みを浮かべている。
何をされるかを想像するよりもはやく、浜岡は悲鳴を上げる身体をひねり、横に飛ぶ。
そうしなければ、死んでいただろう。
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