スケープゴート その3
蛍光灯の無機な白色が瞬いた。
「もちろん俺は自分の無実を主張する。念のため聞くが、ここで俺の弁護を買って出てくれるヤツはいないのか……?」
案の定、と言うべきか、手を挙げる者はいない。望み薄とは分かっていながらも、現実を突きつけられると少しこたえる。
俺は苦い笑みで気持ちを誤魔化しながら天井を仰いだ。茶色い水垢のような染みが古い化粧ボード一面に滲んでいる。俺の甲斐無い呼びかけも、その染みと同じく壁面に吸い込まれたかと思うと、埃の気配が目を刺して、思わず瞬きを繰り返してしまう。
「なるほど……じゃあ俺は自己弁護するしかないってわけだな」
無理に自嘲ぶった台詞を吐くと、「ちょっと待って」と赤羽が制する。
「正直なところ、私はまだ菅原くんが本当に犯人だと思っているわけじゃないの。そうね……。大げさだけど、ここでは私がこの部の長として、“裁判官”の立場で仕切らせてもらうわ」
俺は少し驚いて、やや精悍な印象さえ漂う彼女の横顔に思わず見入った。虚勢かもしれないが、上級生らしい威厳が頼もしい。
「ありがとうございます。弁護人不在は気掛かりだが……とにかく公平に進むと言うのなら……」
俺が言うや、隣の村上が俺の背後に手を伸ばし、そこにある鍵をカチリと閉めた。
逃げ場のない即席法廷――しかも俺にとっては冤罪前提の魔女裁判だ。腹を決めるしかない……。
「最初に確認しておきたいのだけれど、現時点で菅原くんが犯人だと思う人はどれだけいるのかしら。手を挙げてもらえる?」
裁判官らしく、早速赤羽が仕切り始める。その問いに、女子部員たちは互いに視線を交わすだけで沈黙したままだ。
「手を挙げにくいというなら、質問の仕方を変えましょう。この中で、私と同じ立場だという人は手を挙げて頂戴」
結果、葛西だけが手を挙げた。
なるほど、つまりここにいるこいつらは、俺が真犯人だという確証こそないものの、黒に近いグレーだと踏んでいるってわけか。
「ありがとう、分かったわ……」
それから赤羽は俺に向き直ると、申し訳なさそうな表情を作って言った。
「さっそくで悪いのだけれども、荷物を検めさせてもらえるかしら」
そういう赤羽の目の奥には、僅か猜疑の色があった。
彼女らの髪はまだ濡れているようだ。練習の直後というのなら、俺の手荷物を疑う前に、まずは更衣室や手荷物の点検の手落ちを疑ってほしいところだ。それでも、こうした猜疑の居た堪れなさにあてられた俺は、しぶしぶ頷き、肩にかけていた学生カバンを赤羽に差し出した。とにかく、すぐにでも自分へ向けられた疑惑を晴らしたい気持ちが先行した。
「ずいぶんと重いのね」
「置き勉はしないポリシーなんで……」
赤羽は受け取ったカバンを床に置くと、ファスナーにかけた手を一度引っ込めて、目で俺に許可を求めた。頷くと、彼女は中身を一つずつ取り出し、皆に見えるよう並べていく。筆箱、教科書とノート、飲みかけのペットボトル……。
続いて村上が俺の制服を探り、財布、携帯電話、ハンカチ、音楽プレーヤー、最後に学生証を取り出して、先に広げられていた教科書の上へ並べた。
「怪しい物は――、特にないな」
「当たり前だ」
俺が荷物をまとめようと屈んだ瞬間、赤羽が再び制止する。
「念のため、今身に着けている下着も確認させてほしいの」
「はっ?」
思わず間の抜けたな声が漏れる。とんだ変態扱いを受けた俺は、いろいろな感情がこみ上げて、みるみる顔が熱くなった。女子部員たちも気まずげに苦笑いを浮かべている。村上でさえ躊躇いの色を見せた。
「私だってこんなことを言うのは心苦しいのよ。でも、早いうちに疑いの目は全部摘んでしまいたいでしょ? もちろん、確認は村上くんにお願いするわ」
赤羽が合図をすると、女子部員たちは皆背を向けた。プリーツスカートが、俺をからかうように一斉にふわりと揺れた。
ベルトのバックルを外す乾いた金属音が、不埒にもこの女子水泳部の部室に響いて消える。ここまでくると半分自棄だ。
「不審な点は……ない」
苦い表情で一瞥してから、村上が申告する。それを聞くと、俺も悪戯を見られた時のように、急いで身なりを整えた。無実にも関わらず全く理不尽な話だ。
「もういいかしら?」
「……はい」
背を向けていた女子部員たちが遠慮がちに振り返る。空調のない室内は冷えているはずなのに額には汗が滲む。
「ありがとう、じゃあ……」
赤羽が再び口を開きかけたところで、今度は俺が制止した。開け放たれた鞄を挟んで、即席の裁判は続行する。
「ここまでやったんだ。俺を疑った理由を、筋道立てて説明してもらおうか」
視線を巡らせても皆うつむいたままだ。積極性の欠如というより、関心の欠如といったところだろうか。いかにも、早く帰りたいといった様子だが、それは俺も同じだ。
赤羽が改めて促す。
「分かったわ、じゃあ、さっき手を挙げなかった人で、どうして菅原くんを疑うのか、説明できる人はいる?」
やはり沈黙……。
「だれも名乗りを上げないなら、私から名指しするわよ……」
「ちょっと待ってください、俺が説明します」
と、村上が声を挙げ、一歩前に出た。自然と皆の視線が彼に集中する。一方で、彼はこちらに向き直り、俺の顔を見据えながら口を開いた。
「はっきり言うぞ、菅原。俺はここにヒカリを迎えに来る途中で、体育館の北口からお前に似た男子が出てくるのを見たんだ。知っての通り、北口の先には更衣室しかないし、そんな時間にあそこへ行く生徒も水泳部員以外に居ない」
ヒカリというのは、確か森の下の名前だ。当然、俺は反論する。
「“似ていた”だけじゃ断定にならないだろ。男子水泳部だって北口は使うだろうし、更衣室には清掃で用務員だって出入りするはずだ」
すると、横から葛西が即座に補足を挟んだ。
「今日の活動は女子水泳部だけよ。それに、清掃も生徒のいる時間には行われないわ」
代替となる被疑対象の仮説を封殺された俺は、チッ、と舌打ちを漏らした。部員の一人が眉をひそめる。陪審員の心証を害するのは悪手だが構わない。
「なら村上、お前が犯人じゃないという証拠はあるのか?」
今村上がした話からすれば、こいつ自身も疑われて然るべきだ。しかし、この俺の追及に対して、村上はあざ笑うように反論した。
「俺は部活のある日はいつもヒカリを迎えに来るし、それに、こんなリスクを冒してまで自分の彼女の下着を盗むようなやつがいると思うか?」
「彼女?」
俺が女子部員の側へ視線を送ると、森が他の部員の陰に身を縮めるのが分かった。なるほど、そういうわけか。
村上は続ける。
「それだけじゃない。部員の中にも、更衣室で“お前らしき影”を見たってやつがいる」
俺は思わず大きい声を出す。
「なんだって? いったい誰が言っているんだ」
「それは……」
と、先ほどまで歯切れよく話していた村上が急に言い淀むので、俺は「おい」とさらに声を大きくして凄んでみせた。
「……森さん、あなたよね」
すると、またも葛西が横から口をはさんだ。
「は、はい……」
森は弱弱しくうなずく。俺は追及の矛先を森へ向けた。
「俺を見たというのは本当か? 確かに俺だったのか?」
その追求を、今度は村上の声が遮った。
「だからそうだと言っているだろ」
それでも俺は村上ではなく、森に対して問い立てる。
「もしそれが本当だとしても、どうしてその時声を挙げなかったんだ」
森は萎縮したように目を伏せたきり、何も言おうとしない。俺の我慢もとうとう限界に近くなる。
「ヒカリが見たのは、お前によく似た男子が更衣室から出ていくところだ」
森が口を開く前に、村上の声が割って入る。そんな村上を黙らせるために、俺は睨んだが、それでも怯まず彼は続けた。
「休憩時間に手洗い休憩で更衣室の前を通ったときに目撃したそうだ。ただ、声をかける暇なんてないし、それに……」
村上はまたも言い淀んだが、これについては何を言おうとしたのか想像がつく。ご覧のとおり、この性格だ、もし不審者を見かけたとしても自分から声をかけるようなことはできないはずだ。さだめし、気の所為だと自分に言い聞かせて、見て見ぬ振りをしたと言うところだろう。
「もしそのとき捕まえてくれていたら、俺もこんな目に遭わなかったんだがな……」
俺は肩を落とした。しかし同時に、内心では手応えをつかみつつあった。
この勝負は勝てる……。
「じゃあ、次に菅原くんに今日の放課後、何をしていたかを答えてもらおうかしら」
折よく赤羽が、俺に発言の主導権を与えてくれた。
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