ソフィアの場合

 秋たけなわの十月。

 細く強い雨が無数の高層建築物で形成された街を包むようにしとしとと降っている。二日前から降り続く長雨のせいで、外の景色はかすんで見えた。

 雨にしてはいやに重い音が響く昼前のリビング。

 照明はいているのに薄暗く感じるそこで、ソフィア・ディートリヒはソファーに腰かけくつろいでいた。

 彼女の正面にある壁には、シリコンに似た材質でできた薄っぺらなテレビ。大きな画面に映っているのは映画だ。前から見たいと思っていた映画がネットでレンタルできるようになったので、休みの日に見ようと事前にレンタルしていたのである。

 ジャンルはサスペンスなので盛り上がりに欠けるが、それでも面白い。借りてよかった。

 「この監督、他にも何作か撮ってるみたいだし、次はそれを借りて見ようかしら」

 きっと面白いだろう。他の人におすすめできないのが残念だ。

 ……弟とか他の連中はアクションかホラーの二択になりそうだしね。

 薄暗くした部屋で、ポップコーンやドリンク片手にわあわあと騒ぐ連中の姿が目に浮かぶ。年の離れた弟はホラーが苦手だが、それなりに楽しく見るに違いない。なんでも全力で取り組み、全力で楽しむのがあの子の美点なのだ。

 ふふ、と笑みをこぼすと、左手に持っていたマグカップに口をつける。中身はインスタントのホットコーヒー。砂糖もミルクも入れないのが彼女の好みだ。

 浅めに焙煎されたコーヒーの香気こうきと湯気が褐色かつしよくの肌をかすめていく。

 飲みたい時にすぐ飲めるインスタントコーヒーは、大雑把おおざつぱでせっかちな自分でも簡単かつ美味しくれられるので日常生活に欠かせない存在だ。コーヒーの粉末をカップに入れてお湯を注げばいいのだから、発明した人は天才だとソフィアは常々思っている。軍の携帯食に紅茶と一緒に同封されているのも頷ける。

 ……でも、ヴォルフガングに飲みすぎ、っていわれちゃうのよね。

 ヴォルフガング――弟の怒ったような困ったような表情が脳裏をよぎった。

 おそらく、姉が恐ろしいカフェイン中毒になるのを防ぎたいのだろう。八歳も年が離れている上に血の繋がりがない姉の健康を気にかけてくれる弟なんて、広い世界を探してもそういないのは分かっている。

 なので、最近はノンカフェインのコーヒーを飲むようにしている。そうすれば健康でいられるし、弟も心配せずに済む。

 そういえば、知り合いから〝タンポポコーヒー〟なるものもすすめられていたので、近いうちに挑戦してみようか。自分で作れるとの話も聞いたが、さすがに自作するのは面倒めんどうなのでオーガニック食材の専門店で購入するけれど。

 大画面のテレビの中では、警察に追い詰められて逃走中の犯罪者が旧式の回転式拳銃リボルバー片手に近場ちかばのオフィスへ侵入し立てこもりを始めた。椅子やテーブルをドア付近に積み上げてバリケードを構築こうちくする男の荒く震えた呼吸は、残念なことによりいっそう強まった雨声によってかき消されてしまう。

 「もう、音が聞こえないじゃない」

 細い眉をひそめ、ソフィアは窓へと視線を転じた。ついでにローテーブルに置いてあったリモコンを操作し音量を上げる。

 「映画が終わったら、いろいろと買いに行こうと思ってたんだけど、どうしようかしらね」

 ため息交じりに呟く。

 大雨が降る中を出歩くのは嫌だが、残念なことに冷蔵庫の中には食材があまり残っていない。この映画を見終わったら、近くのスーパーへ買いものをしに行こうと予定を立てていたからだ。

 ……せっかくの休日なんだし、体力を消耗しようもうさせたくないのよね。風邪かぜひくのも嫌だし。

 ソフィアの仕事はかなり荒っぽいもので、現場での肉体労働はもちろん、デスクワークもしなければならないのでとても疲れる。

 仕事の最中はアドレナリンがどばどばと出ているからか疲労なんてみじんも感じないが、終わった途端とたんにどっと出る。その場で眠れるレベルだ。

 だからこそ、オフの日はできるだけゆっくりとすごしたい。特に天気が悪い日は。

 ……コーンフレークで済ませてもいいんだけど。

 幸い、朝食用のコーンフレークは種類も量もたくさんあるので、昼食と夕食、二食ともそれで済ませるのも手だ。牛乳だって明日の分まである。

 「この勢いだと、明日まで降りそうね」

 いつもなら前日に食材を買い込むのだが、雨と仕事の疲れのせいで忘れてしまったのが悔やまれる。

 「デリバリーにしようかしら、って……あら」

 ソフィアはテレビに釘づけになった。

 物語は終盤しゆうばんにさしかかっている。犯罪者が警察官へ向けて銃撃じゆうげきしたことで銃撃戦じゆうげきせんが始まった。ビュンビュンと複数の銃弾じゆうだんが犯罪者とパトカーを盾にした警察官たちの間を飛び交い、一発が犯罪者の肩を打ち抜く。男が肩を押さえながら倒れると、わっと警察官たちが駆け寄って身柄みがら確保かくほする。

 しかし、彼女の目をひいたのは深い傷を負い警察に捕まったおろかで哀れな男ではない。

 勝ち気そうな黒い目が見つめる先には、流れ弾に巻き込まれ、バラバラに散らばったマカロニ・アンド・チーズ。ソフィアの好物であり、おふくろの味である。

 「マカロニ・アンド・チーズなら作れるかもしれないわね」

 映画の本編が終わり、スタッフロールが流れる中、ソフィアはリビングと隣接りんせつしているキッチンへ向かった。単身者たんしんしや用の小さな冷蔵庫を開け、中をざっと見渡みわたす。

 食材の少ない庫内にはボトルに入った牛乳、ワインと合わせて食べようと思っていたものの未だに開封かいふうすらしていないチェダーチーズ、バター、しなしなになりつつあるタマネギがある。

 「生クリーム以外は全てそろってるわね。あとは……あったあった」

 冷蔵庫横の棚をガサゴソとあさり、薄力粉の袋といろんな形のマカロニが入ったケースを取り出した。

 そうして集めた全ての食材を調理台に並べ、そうだ、と呟く。

 「先に片づけを済ませないとね」

 リビングへ行ってテレビの電源を切り、マグカップを回収。キッチンに戻ってシンクにマグカップを置いたら、着ていたハイネックニットセーターのそでひじのあたりまでまくり上げ、オレンジ色のエプロンを身につける。シンクで手を丁寧に洗えば、準備完了だ。

 「それじゃ、作りましょうか」

 まずは必要な調理器具を揃え、オーブントースターの温度を設定し予熱。続けて材料の分量をはかり、バットに乗せる。

 母親が作るところを隣で何度も見ていたし、一緒に作りもした。だから分量も作り方もちゃんと頭に入っている。材料を鍋へ入れるタイミングや加熱の具合、焼き加減さえ気をつければ失敗しない。

 開封したチェダーチーズを滅多めつたに使わないおろし器で粉末状ふんまつじようにおろしたら、タマネギをみじん切りにしていく。とはいいがたい大きさのものもあるが、気にしない。自分しか食べないし、しっかりいためれば問題ないのだ。

 目にみる厄介やつかいな汁を出す元気すらないタマネギはそのままに、鍋を火にかけて熱するとバターを放り込んだ。バターが熱で輪郭りんかくを失いとろりと半透明になって溶けていくのを横目に別の鍋でマカロニをで、バターが溶けきったところでタマネギを入れる。

 木べらを使ってタマネギを炒め続け、しんなりとしたら薄力粉を加えて焦げないよう気をつけつつ更に炒めたあと牛乳を注ぎ、少し時間をあけて牛乳が温まったのを確認したのち、チーズをざらざらと投入して木べらで大きく混ぜて溶かしていく。チーズが入った分、混ぜるのに力が多少必要になるものの、ソフィアはそこらの女性よりも腕力も体力もあるので楽勝だ。

 あとはやや硬めに茹でたマカロニを鍋の中に入れてしっかりと混ぜ合わせ、塩コショウで調味し味見。問題がなければ、あらかじめバターを塗っておいた大きな耐熱皿に流し込んで予熱済みのオーブントースターに入れて焼けばいい。

 本来はオーブンで焼くものだが、あいにくソフィアの家にはない。

 ……ま、なんとかなるでしょ。

 オーブントースターだって火力はあるのだ。それに、この料理はレパートリが豊富ほうふにあり、オーブンで焼かなくてもいいレシピだってある。

 ……そういうところはアップルパイと同じよね。

 マカロニ・アンド・チーズもアップルパイも、家庭やレストランによって使う材料や作り方が違う。だから味や食感、見た目がそれぞれ異なるところもソフィアがマカロニ・アンド・チーズが好きな理由の一つだ。

 オーブントースターが仕事をしてくれている間、ソフィアは使用した調理器具を洗い、片づける。ときおりオーブントースターをのぞいてマカロニ・アンド・チーズの様子を確認しながら、キッチンのはしえてある二人用の小さなダイニングテーブルに食器とか鍋敷なべしきとかを用意し焼きあがるのを待った。

 ピー、ピー、ピー。

 焼きあがったことを告げる甲高いアラームが鳴った。

 オーブントースターの扉をそっと開け、ミトンをはめると耐熱皿を取り出す。

 途端とたんただよったのは、チェダーチーズが持つ濃密のうみつな匂いとうっすらと表面が焼けた香ばしい匂い。ふわりとたちのぼった蒸気が料理を食欲をそそる。

 火傷しないように、とマカロニ・アンド・チーズをそっと鍋敷きに乗せるとミトンを外し、椅子に座った。

 先に用意していた水を一口飲んで、スプーンを手に取る。そして取り皿に焼きたて熱々のマカロニを取り分けてから、一口分をすくい上げった。

 白い湯気を吹き払うようにふうふうと息を吹きかけ、マカロニ・アンド・チーズを冷まして食べる。

 「あっつ!」

 表面は冷めていたが、中は火傷やけどするほどではないがまだ熱が残っていた。はふはふと息を吐くようにしながら口の中で転がし冷ます。

 いい感じに冷めたマカロニ・アンド・チーズは美味しかった。

 チェダーチーズの濃厚のうこうな味、なめらかな舌触したざわり、バターの風味ふうみ、焼けてパリッとした表面やマカロニのプリプリの食感。全てが一口で感じられる。

 ……母さんが作ったものとは同じ味にはならなかったけど、これはこれで美味しいわ。

 もう一口分をスプーンですくい、マカロニ・アンド・チーズをしげしげと見つめる。

 生クリームがないぶん濃厚さが足りないし、マカロニもちょっと硬い。でも、自力でここまで美味しく作れたのだから満足だ。

 繰り返し息を吹きかけて冷ましながら、少しずつゆっくりとマカロニ・アンド・チーズを食べていく。

 途中で思い出したのは、保護施設にいたソフィアがディートリヒ家に養子として迎えられた日のこと。新しい〝家族〟とどう接すればいいのか分からずにいたソフィアに母親が笑顔で作ってくれたのが、オーブンで焼くタイプのマカロニ・アンド・チーズだった。

 ……あれは本当に美味しかったわ。

 あの時食べたマカロニ・アンド・チーズよりも美味しい料理には、未だに出会っていない。

 おそるおそる食べた瞬間、それまで抱えていた不安と緊張がチーズのように溶けていったのだ。まるでそれは魔法の食べものを口にしたかのようだった。

 ――それから、ソフィアは〝本当の家族〟になれるよう努力した。両親や祖父母、そして可愛い弟が与えてくれる愛情をもらってもいい人間になる為に。

 今は胸を張って〝家族だ〟といえる。

 ふふ、と笑い、残りのマカロニ・アンド・チーズを食べる。

 「夕食は、あの子と一緒に外食なんていいかもね」

 確か、弟の家の近所に美味しいラーメン屋があった筈。機会きかいがあれば行ってみたい、といっていたので、声をかければすぐに応じてくるだろう。

 「……あら?」

 ふと窓の方を見ると、雨が止んでいた。料理に夢中で気がつかなかったようだ。

 ナイスタイミング。そう呟き、最後の一口を口に運ぶ。

 席を立って使った食器を洗い、ダイニングテーブルに置いてあったスマホを手に取り操作した。そして、

 「もしもし、ヴォルフガング? ソフィアよ。あのね――」

 先ほど思いついたことを弟に伝えると、返ってきたのは喜びの声だった。しかも、

 「え、今すぐ来るの? 別にいいけど、コーヒーしか出せないわよ。あはは、大丈夫。コーヒーっていってもノンカフェインのものよ」

 スマホの通話を〝スピーカーモード〟にし、マグカップ二つを食器棚から出しながら、

 「夕方まで時間あるし、昔話でもしましょうか。さっき、マカロニ・アンド・チーズを作ったのよ。母さんのレシピのね。……え? 食べたかったって? はいはい、わかったわよ。今度、あんたにも作ってあげる」

 笑みを含んだ声で話を続け、コーヒーを淹れる準備をする。

 「――それじゃ、美味しいコーヒーを淹れてあげるから、気をつけて来るのよ。いいわね?」

 そういって通話を終えると、ソフィアはリビングのソファーに腰を下ろして待つ。弟の来訪と、それによって始まる楽しい時間を。

 窓から柔らかく白い光が射す。外の景色がいつにも増して輝いて見えた。

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ひとりごはん かこう @n6n1k6k0u

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