剣を筆に持ちかえて_??・下

 次の日、貴子は一人バスに揺られていた。目的地は県内で一番大きい美術館で、件の特別展示を観るためだ。


 明日香は誘っても来なかった。母親からチケットを受け取ったときに嫌な予感がしていたが、明日香が美術の課題で書いたのはこの特別展示のことだったのだ。曰く、退屈だったそうで、『頑張って~』の一文で貴子は断られてしまった。


「……美術館とか、何年ぶりだろ」


 自分から行こうと思ったことはないので、最後に行ったのは恐らく小学校の校外学習のときだろう。そのときを思い出してもいまいち貴子には美術館の良さはわからなかった。流石に絵が綺麗か綺麗でないかくらいは判別がつくが、絵の解釈ともなれば話は別。現代芸術にもなれば、ただの幾何学模様にしか見えなかった。


 何だか大変そうなもの。貴子が芸術に抱いている印象はそれだった。


 貴子がぼんやりと考えていると、バスのアナウンスが彼女の耳に入る。目的の美術館に着いたのだ。停車ボタンを押そうと手を伸ばすと、寸前のところでボタンが光り、貴子は手を引っ込めた。やがてバスが止まると、ぞろぞろと降りる列に貴子は加わった。


「うわっ、結構混んでんじゃん!」


 美術館へ入っていく人々を見て、貴子は驚いた。老若男女問わず様々な人が訪れており、

その様子に期待値は少し高まった。


 貴子は受付を済ませると、チケットと交換で貰った人類の軌跡展のパンフレットを広げた。どうやら年代ごとにフロアが分かれているようで、古い年代から順に観ていく形式らしい。最初の展示は受付からすぐのところにある神代の歴史と芸術作品だ。


 薄暗い廊下を進む貴子。神代のフロアに入ると、とても巨大な展示が貴子の目に入ってくる。


 それは洞窟壁画と呼ばれるものだった。大きな人間を中心に小さな人間が周りを囲っている様子が描かれている。傍らに設置されたパネルには神を祀る人間の壁画と書かれており、太古の昔に神が地球に降臨した情景を描いたものだと説明されている。神の存在については考古学的に未だ議論されているようで、人間は神によって作られたのか、動物から進化したのかは未解決問題とされている。


 とはいえ、貴子は壁画の大きさに驚くことはあっても、神がどうとか進化がどうとかはファンタジーの中の世界の話でピンとこなかった。


 貴子は他の展示を観ようとフロアを歩いたが何も見つからなかった。どうやら、神代の展示はこの巨大な洞窟壁画のみのようだ。パンフレットによると、この洞窟壁画が神代で最も重要で唯一の作品らしい。ひとつの展示でひとつの時代を説明しようとする、開催者のその心意気の方が貴子にとって感慨深かった。


「ふーん」


 結局、次のフロアである古代の作品にも、貴子は足を止めることはなかった。貴子が足を止めたのは中世のフロアに入ってからだった。



「これは……すごい」


 感嘆の声を漏らす貴子。中世のフロアはこれまでとは打って変わって、殺伐とした展示が並んでいた。


 中世、それは見た目の違いだけで人類が争っていた暗黒時代。身体的に特徴を持つ人々を魔族と呼んで、排斥していた時代だ。示し合わせたかのように世界中で戦争が起き、最新の研究では世界人口のおよそ二割の人々が亡くなったとされている。


 展示されている作品もその歴史を踏まえているのか、残酷なテーマの絵画が多い。人が魔族の集落を攻撃する模様を描いた『ジハード』、逆に人の都市が魔族によって陥落した様子を描いた『落日』、そして都市を追われた人が長い道を歩く『生者の行進』。


 極めつけはフロアの中心に据えられた二枚の絵『戴冠』と『叙任』である。


 当時、部族社会を形成していた魔族は強固な同盟を組む人の勢力に大きく遅れをとっていた。しかし、ある魔族の若者が各部族を統一し、自らを魔族の王、魔王と名乗り、人に対して全面戦争を仕掛けたのだ。『戴冠』はその名の通り、魔王が生まれる瞬間を描いた絵で、貴子は歴史の教科書で見たことがあった。


 そして、領土を圧迫された同盟は人々の中からよりすぐりの勇士を四名選び、勇者と呼称して魔族の領土へ送りこみ、魔王の討伐を図った。四人の勇者が同盟によって叙任されたときの様子を描いたのが『叙任』である。こちらも、教科書に載っている有名な絵だ。


 結果として、勇者と魔王の戦いは人と魔族の両陣営を疲弊させ、次の時代の平和に大きく貢献したが、勇者と魔王がどんな戦いを繰り広げたのかは明らかになっていない。戦場は主に魔族の領土だった上、当時魔族と呼ばれた人々は歴史を記録する風習を持っていなかったのだ。伝承は吟遊詩人の唄くらいしか残っていない。


 しかし、記録がほとんど残っていなくても市井の人には関係なかった。勇者と魔王の戦いを気にするのは学者か一部のマニアだけ。長い年月をかけて平和は訪れ、人と魔族の交配は進み、今では身体的特徴を持たない人間はほとんどいない。貴子だって先祖由来の恵まれた体格を持っているし、明日香は猫族特有の短い毛並みに身体が覆われている。人や魔族という概念は現代人にとって遥か遠い存在なのだ。


「う……ちょっと気持ち悪くなってきたかも……」


 胸焼けのような違和感を覚える貴子。流石に争いの絵ばかりだと、気分が悪くなる。


 開催側も配慮しているようで、中世の展示フロアには休憩所が併設されていた。何人かの来場者が休憩所へ向かうのが見えた。


 自分も少し休憩しようかと歩き出したとき、貴子は視界の端にこのフロアに似つかわしくない絵を捉えた。貴子の歩みは自ずと止まった。


「何……? この絵」


 それは地味な絵だった。中世の展示がほとんど血と炎にまみれているのに比べ、片隅に佇むその絵は暗く、静かな印象を受けた。


 柔らかな陽光に照らされた森を日陰から二人の人物が眺める絵。よく見ると森の木々はオレンジの実を付けており、二人はその実を食べているようだ。


 タイトルは『無題』。作者不明のその絵は近代になって初めて発見され、その牧歌的なモチーフから中世より後に描かれたものとされていた。しかし、ある美術鑑定人が絵に使われている技巧に着目し、中世に描かれたものだと鑑定。当然、中世の技巧が使われた近代の絵という反論の声もあり、この『無題』が描かれた年代についてはさまざまな論争があった。


 転機は技術の発達により、絵に含まれている元素から制作された年代を調べられるようになってからだ。倉庫の片隅で眠っていた『無題』は、測定によって中世に描かれた絵だと明らかになった。人類が人と魔族で分かれていた時代にあって、金髪の人と灰緑の魔族がお互い共栄する絵はたちまち脚光を浴びた。


「どうして作者はこんな地味な絵を描いたんだろうね」


 『無題』の前に立つ来場者の一人がそう言った。貴子も同じことを思った。


(もし平和を願うんだったら、もっと明るい絵を描けばいいのに。そっちの方が色んな人の目を引いて、平和に繋がると思うんだけど……こんな地味だったら、ほかの絵に負けちゃわない?)


 結局、貴子は次のフロアでも、その次のフロアでも頭の片隅に『無題』の謎がちらつき、残りの展示を存分に楽しむことはできなかった。そして、ミュージアムショップで『無題』が入ったポストカードのセットを購入すると、美術館を後にした。



「はあ……宿題どうしよ……人類の軌跡展の感想文かあ……何書けばいいんだろ。いっそのこと明日香がなんて書いたか聞いてみるか? いやいや、絶対茶化される」


 帰宅した貴子はベッドに横になりながら課題について考えていた。


 適当に済ませるならば、展示を観て温故知新を感じたなどと書けばいい。パンフレットや公式サイトに書いてあることを引用してもよいだろう。恐らく、明日香はそう書いたはずだ。


 しかし、貴子はうわべだけの内容を書く気になれなかった。それは人類の軌跡という展示の意図に反している気がするし、何よりも『無題』についての疑問が解決していない。感想文を書くならば、この疑問について書くべきだと思った。


「んもう、どうしてこんな絵を描いたんですか」


 『無題』のポストカードを取り出し、貴子は不満混じりにそういった。ほかのポストカードと見比べても明らかに地味で、ありきたり。戦争の絵は見ていると悲しくなるが、少なくとも悲しさは感じさせてくれる。『無題』は無味なのだ。


「はあ……本当に……どうして……あ」


 またため息をついて、気がつく貴子。『無題』に感じたモヤモヤと、自分が進路に感じている胸の支えが同種だということに。


 貴子にとって警察官という進路は『無題』と同じく地味で、ありきたりで、当たり前なのだ。


 しかし、同級生にとって進路とはそうではない。彼らにとって進路とは不安はつきまとうもので、未知と期待で溢れ、挑戦するべき非日常なのだ。貴子はそんな同級生の姿を内心で羨ましく思い、自分も何か挑戦しなければと焦りを覚えていたのだ。


 だから、警察官を目指すのをためらっていたのである。


 腑に落ちて心と頭が軽くなるのを感じた。クリアになった頭で、もう一度貴子は『無題』に向き合う。


(……この作者はこの絵をありきたりになるよう、わざと地味に描いたのかもしれない)


 根拠はないが、貴子は直感的にそう感じた。


(今ならなんとなくわかる……地味はありきたりで当たり前だけど、日常なんだよね。たぶん……この作者は人と魔族が手を携える光景が日常になるように願って、地味でありきたりに見えるよう描いたんだ)


 急に貴子の目頭が熱くなる。『無題』以外の展示を観たから想像がつく。人と魔族が争う時代にあって、どれほどの覚悟と意思でこの絵を描こうと思ったのか。


 翻って、貴子は自分の将来について考える。警察官という仕事は人々の当たり前の日常を守る仕事だ。しかし、その当たり前は過去の戦乱を生きた人間からしてみれば特別なものなのだ。警察官とはそんな彼らが夢見て、願った、特別な日常を守る存在なのだ。


 そう考えたら、地味で当たり前でありきたりだと感じた警察官が何だか特別に思えてくる。


「あーーー! もう!」


 高まった感情を発散するように貴子は叫んだ。当たり前の存在だった警察官という仕事を、自分がほとんど理解していなかったことに貴子は恥ずかしくなった。こんな浅い見識で警察官になるのをためらっていたのだ。


「……はあ」


 本日、何度目かわからないため息をつく貴子。しかし、今度のため息は新しい空気を吸い込むためのため息だった。そして、パジャマの袖で顔を拭うと、貴子は勉強机に向かった。二つの課題を広げると、自信を持ってペンを走らせる。もう迷いはなかった。



 しばらくして、夏休み明けの最初の美術の授業。生徒は一人ひとり教師に課題を提出し、その場で採点を受けていた。美術の課題に点数をつけるのはいかがなものかと貴子は考えているが、今日ばかりはそうではなかった。


「ふっふっふ、貴子ちゃん、部活で交わした約束は覚えていますかい?」

「もちろんだよ、明日香。どっちの課題の点数が高いかの勝負だね」

「負けたら駅前のアイスおごりだからね」

「もちろん」

「おやおや、貴子ちゃん、珍しく自信ありげだね。忘れたとはいわせないよ、中学のとき、美術の通知表はあたしの方が上だったってことを」

「そんな前のことよく覚えているね、明日香。大丈夫、今日の私には秘策があるから」


 そういうと貴子は鞄から課題を取り出す。人類の軌跡展の感想が書かれたプリントと、一枚の絵を。


「えええ! そんなのありかよお!」

「これで私の点数は二倍。勝ちは貰ったよ」


 慌てふためく明日香にそう宣言した貴子。「静かにしろ、減点するぞ」と先生に叱られる。二人は顔を見合わせて、静かに笑い合うのであった。

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剣を筆に持ちかえて yuraha @yuraha1154

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