剣を筆に持ちかえて_10・上
灰色の思い出はいつまで経っても色褪せることはなかった。浅い呼吸、痺れる足、その感覚をルークスはずっと覚えている。十年前のあの日、魔族の追手を振り切るために母親と走ったときの感覚だ。
今と当時が違うのは、ルークスはすっかりと成長しており、その感覚に耐えることができるようになったことだ。あの日は歩みを止めてしまったが今度は止まらない。裏路地を駆け抜けて、ルークスは叔父の住まう館へ向かっていた。
館は都市の中心部にある。武断的な領主の性格もあってか訓練場が隣接しており、日中は戦士たちの声によって賑わっている。しかし、日が落ちて戦士たちが街へくり出せば、打って変わってそこは静かな空間に様変わりする。
館の前には二人の守衛がいた。もちろんルークスは顔見知りであったが、彼らの前を素通りして少し離れた塀をよじ登り敷地内に侵入した。正面から入ることもできたかもしれないが、今は自分が生きていることを説明する時間すら惜しかった。
館を目の前にして首元に張り付いた汗を服の袖で拭うルークス。じっとりと粘り気のある湿度のみが残った。雨が近いらしい。
そのまま静かに館に侵入するルークス。広い玄関ホールには誰もいなかったが、あちこちに人の気配がある。使用人の休憩所からは談笑が聞こえてくるが、ルークスに気がついた様子はない。
「……何だこれは!」
玄関ホールの光景を見て、思わずルークスは叫んでしまった。幸いなことに館にいる者に気付かれることはなかったが、念を入れて物陰に身を潜めた。
ルークスが驚いたのは玄関ホールに並んだ調度品だった。繊細な意匠が施された花瓶に彫像、ソファ、そのどれもが見たことのある品々だったからだ。元々それらの調度品はルークスが両親から受け継いだ屋敷にあったものだ。そんなものがどうして叔父の屋敷にあるのか、ルークスは見当も付かなかった。
疑問を胸に抱えながら、ルークスは領主の居室を目指して階段を登った。
そして、階段を登ったすぐ先にあるものを見て、ルークスは膝から崩れ落ちた。
「……どうして……お母様の絵が……」
階段を登ってすぐの壁、階段を登った者が誰でも目にする位置にルークスの母親であるマーサの肖像画が掛けられていた。その絵はその昔、父親のパテルが描いてマーサに送ったものだった。芸術的な価値はほとんど無いがルークスの一家にとって家宝にも等しい絵だった。間違っても叔父の屋敷にあるべきものではなかった。
(理由が分からない……!)
ルークスの額から粘り気のある汗が吹き出し、胃がキリキリと痛み出す。まるで違う世界に迷い込んでしまったような、そんな不安がルークスを襲う。
(遺言はどうなったんだ……!?)
ルークスは魔族への復讐を誓い、戦場へ出ることを決めたときに万一に備えて財産分与に関する遺言を残していた。その遺言にはルークスが戦場で倒れた場合、使用人に十分な報酬を与えた後、余った財産は教会が運営する孤児院へ寄付、領地は国王へ返還することになっていた。
(一年近く死んでいたのだから財産が無くなっていることは覚悟していた……無くなったとしても納得はできる……しかし! 叔父上、どうして!)
考えられるとすれば、遺言の執行者として指定されていたルークスの親戚、つまり叔父が遺言に従わなかったことだ。しかし、平民が公証人役場で作る遺言とは違い、ルークスたち貴族の遺言は国王が直接証人となる。つまり、遺言に従わないことは王に対する反逆を示していた。そんな危険なマネまでしてどうして遺産を求めたのか、ルークスにはわからなかった。
疑問の答えはすぐ近くにある。ルークスは重い足取りでパトルスがいる執務室を目指した。
執務室の扉は来訪者を拒む素振りを見せず少し開いていた。ルークスは空気が移動する気配を感じた。部屋の窓も開けて風の通り道を作っているのだろう。
ルークスは音を立てることもいとわず扉を押した。ぎいと音が鳴る。
「誰だ? こんな時間にノックも無しに……」
椅子に座りながら書類に目を通していたパトルスは、扉が開いた音に反応して目線だけを動かした。たちまちに表情は驚きに変わり、口からは意味を持たない言葉の幕開きだけが漏れ出る。
やがて頭の中で状況が整理できたのか、椅子から立ち上がりルークスの元へ駆け寄った。
「……ルークス、生きていたのか……! 本当に、本当に良かった……!」
「叔父上、戻るのが遅くなってご心配おかけしました……あの戦いで重症を負い、近隣の村で療養をしていたのです」
ルークスはあらかじめ考えていた嘘の話をした。当然のことながら魔族に手当を受けていたなんてことは口が裂けても言うことはできない。
「そうか、そうか! 連絡があれば迎えを出したというのに……お前というやつは全く。もっと手間をかけさせてくれ!」
パトルスは両手をルークスの肩に置くと、その存在を確かめるように優しく力を込めた。そして、ようやく何かに納得したのか手を離すと豊かな口ひげを弄り始めた。
「……まあ、色々と積もる話もあるだろう。夕飯は済ませたか? 何か用意させよう」
「いえ、腹は減っていません、大丈夫です」
「ガッハッハ! そうか、そうか!」
そのとき、窓から風が吹いて重石が乗った書類の束がはためいた。ルークスとパトルスの間に冬の終わりを告げる冷風が流れる。パトルスはその風を止めようと、窓辺に寄って窓を閉めようとした。
「……そうだ、ルークス。お前が生きていることを知っている人はいるのか?」
「叔父上以外にいませんよ。療養していた村では旅の戦士で通していましたし、ここに戻ってからも人々を混乱させないよう素性は隠していました」
「そうか、そうか! では、追って皆にもルークスが生きていたことを伝えなければな!」
ルークスとパトルスの間にまた冷風が吹く。パトルスは窓を閉めずにじっと外の夜景を見ていた。そこには夜空の星々のように漆黒の中で輝く町並みが広がっている。そんな叔父の背中を見てルークスは口を開いた。
「獣の牙」
「……巷を騒がせている傭兵集団の名前だな。それがどうかしたのか?」
「ここへ来る前にその構成員が館で働く庭師を狙っているのを見つけたので、どういうことか問い詰めました」
「……そうか、何と言っていた?」
「獣の牙は叔父上が作ったと。一体どういうことなんですか? 無法者を組織して表沙汰にできないことをさせるなんて!」
「……ルークス、領主というのはあらゆる手段を使って領民を導かなければならない……たとえそれが非合法な手段であってもだ。お前もそのうち分かる……!」
「では、あの廊下に飾った母上の絵はなんですか? どうして我が家の財産がここにあるんですか? 遺言では孤児院に寄付されるはずだったのに! 非合法どころか王への反逆とも取られかねない行為です。どうして!?
「……それは」
「叔父上……俺は、あなたのことがわからなくなりました……」
「……」
ぴしゃりとパトルスは窓を閉じた。そして、ルークスの方へ身体を向けるとまっすぐに目を交差させた。
「……これは、ある男の話だ。名家に生まれた男は何不自由なく生活し、勉学や武芸に励み功績を上げ、やがて国内有数の実力者になった。しかし、地位も名誉も手に入れた男だったが満たされることはなかった。男には自分よりも出来のいい兄がいたんだ。周囲の男に対する評価は常に、出来のいい兄の弟だった。男には愛する女がいた。美しく、気立てが良く、そして強かな女に男は入れ込んだ。しかし、男は選ばれなかった。選ばれたのは男の兄だった」
「自分のプライドを常に傷つけられ、さらには愛する者を奪われた男に、最後に残されたものは復讐だけだった」
「復讐は入念に行われた。悪事をこなせる腕の立つ者を集めて魔族に扮する訓練を受けさせ、あらゆる情報網を活用して男の兄が無防備になる機会を調べ上げた。そして十年前、復讐が決行された。魔族にカムフラージュした一団で領地の視察中の兄を襲い、ついに男はこの手で復讐を果たしたのだ」
無表情でそう言い放ったパトルス。それを聞いたルークスはまるで頭を打たれたかのようにふらつき、膝から崩れ落ちた。
(……叔父上は一体何を言っているんだ……?)
パトルスの言葉は耳を通して確かに頭へと届いたが、肝心の頭がその内容を理解することを拒んだ。
「……叔父、上は……父上と、母上を……手にかけたの……ですか……?」
「そうだ」
「では……十年前の……魔族の襲撃は……全て叔父上が仕組んだことなのですか……」
「そうだ」
「……私の目の前で……母上を殺したのは……あなたなのですか……? 魔族に扮して……?」
「そうだ」
絞り出した言葉は強く、静かに肯定された。
(叔父上が……仇? なら、今までの……この十年は何だったんだ?)
両親亡き後のルークスを引き取ったのは紛れもなくパトルスだった。そして、両親を殺したのは魔族だと伝えたのも、魔族に復讐する力を与えたのもパトルスだった。それらが指し示す事実はひとつしかなかった。
死霊のようなうめき声を上げながらルークスは頭を抱えた。やがてうめき声は嗚咽へと変わり、嗚咽と共にルークスの脳裏に思い出が溢れ出す。両親と過ごした日々が、魔族との戦いの日々が、そしてウィリデと共に過ごした日々が走馬灯のように流れる。
跪くルークスの前にパトルスが立った。すると、執務室の外から騒がしい足音がいくつも聞こえてくる。
「パトルス様!」
執務室になだれ込んできたのは領主の兵士だった。パトルスは窓から夜景を見るふりをして、兵士の詰め所へと合図を送っていたのだ。
「そこにいる者は亡き我が甥のルークスを語るどころか、この俺の命まで奪おうとした賊だ! この場で処刑しろ!」
「かしこまりました!」
結局のところパトルスはルークスの真面目さに漬け込んで利用していただけだった。元々殺す気でいて、生き残ってしまった。利用できたから殺さなかった。利用できなくなった今、真実をごまかす必要も無ければ、生かしておく意味もなかった。
兵士のひとりが剣を構えてルークスに近づく。ルークスは抵抗するそぶりすら見せない。
「手間をかけさせるなよ」
そう小さく呟くと、兵士はルークスのうなじに一旦剣を添えて振りかぶった。パトルスはその様子をじっと見つめていた。
そして、刹那。地面に重量感のある何かが転がる音がした。
落ちたのは兵士の首だった。
突然の出来事に一瞬おののくパトルスと兵士。しかし、そこは歴戦の勇士。すぐに我に返るとパトルスは剣を抜き、兵士はルークスを取り囲み四方から攻撃し始めた。
しかし、ルークスは兵士たちの攻撃を意に介すことなく、近付いてきた兵士から順番になぎ倒していく。
ルークスの身体を動かしたのは皮肉にも戦場で魔族を殺していくうちに身についた技だった。ルークスが剣を振るうのに自らの意思は必要ではなかった。敵対者からの敵意と殺気があればルークスの身体は動いた。思考を介していない剣は普段よりも鋭く、まさにルークスは一振りの剣であった。
普段から膂力の強い魔族を相手取るルークスにとって人の兵士はひどく脆かった。また一人、また一人と兵士が執務室の床に転がっていく。
「ルークスっ!」
兵士だけでは埒が明かないと判断したのか、パトルスはルークスに斬りかかる。鋭く重い一撃はルークスの動きを止めるには十分だった。剣を打ち合う鈍い音が執務室に何度も響く。
(どうして俺は戦っているんだ……?)
朦朧とする意識の中、ルークスはそう思った。
(……俺は復讐のために戦っていた……復讐の相手は……父上と母上を殺したのは……魔族ではなく、叔父上……!)
ルークスは身体の内が熱くなるのを感じた。先に動いていた身体は心の中にあるものを全て燃やし、再び復讐の炎を灯した。幽鬼のようだった表情に生気が宿り、口角が三日月のように釣り上がる。
「おおおおおお!」
パトルスの攻撃をいなして雄叫びを上げながら首を狙うルークス。パトルスは寸前のところで躱すと、返す手でルークスの腹を蹴り上げる。すでに二人の周囲に息をする者はおらず、兵士だったものが転がっているだけだった。
剣を構え直すルークス。それを見てパトルスも珍しく剣を構えた。
勝負は一瞬だった。ルークスが斬りかかるとパトルスは半歩引いてカウンターの姿勢を取る。そして、ルークスの剣が自身に振り下ろされるのに合わせて、パトルスは剣を斜めにして攻撃を逸らそうとした。
「んぐお!」
パトルスの剣を持つ手に予想外の重みが伝わる。そのまま剣は執務室の床に突き刺さった。ルークスは最初からパトルスではなく、パトルスの持つ剣に狙いを定めていたのだ。その剣撃には怒りだけでなく確かな理性が宿っていた。
剣を弾かれたことでパトルスの体勢は崩れた。その隙を見逃すルークスではない。
「おおおおお!」
ルークスは全体重を乗せて、無防備になったパトルスの腹部目掛けて剣を突き立てた。
「ぐふっ……」
うめき声を混じらせながら口から鮮血を滴らせるパトルス。ルークスの刃はパトルスの内臓を突き破っていた。
「ルークス……」
「叔父上……」
二人の目と目が交差した。ルークスは徐々に生気を失っていく叔父の目を見た。その目は先ほどまでの戦いが嘘だったかのように凪いでいた。
パトルスはルークスの肩に手を置くと、何回か優しく叩いた。
「お前は本当に……本当に……」
喉から絞り出すようにパトルスは言葉を絞り出した。ルークスは剣伝いに弱まっていく鼓動を感じながらそれを聞いた。
「本当に……強くなったな……! 流石は俺の弟子だ……!」
そう言って微笑むとパトルスはそれから動くことはなかった。そして、ズルリと滑り落ちるように身体を床に沈ませた。
ルークスは両親の仇を討ったのだ。
復讐を果たしたのだ。
・
・
・
「きゃああ!」
ルークスが刺さった剣を抜こうとした正にそのとき、執務室の外から悲鳴が聞こえた。目をやると兵士が全開にした扉から使用人の女が顔を出しているのが見えた。その表情はひどく青ざめており、怯えた目をしていた。
ルークスは過去にその目を見たことがあった。魔族に襲われた人々が持つ目だった。
「あ、ああ……!」
怯えた目に射抜かれたルークスはうわごとを漏らしながら脱兎のごとく駆け出した。その先は使用人がいる扉の方ではなく窓だった。かろうじて人ひとり通れるであろう窓を身体をぶつけて割るとそのまま外へ飛び出した。
執務室があるのは二階である。着地した衝撃で身体のどこかが歪んだ音が聞こえたが、ルークスは意に介すことなく走り続けた。外はしとしとと雨が降っており、血塗れの金髪を徐々に洗い流していった。
ルークスは駆けた。都市の大通りを。ルークスは駆けた。舗装された街道を。ルークスは駆けた。森の中を。
家も無く。親も無く。慕っていた師も無く。ルークスは何も無くなって、泣きそうになった。しかし、何も無いので涙は出ない。だから、雨が代わりに泣いてくれた。
ルークスの息継ぎは喉をかすめ、心臓ははち切れそうだった。それは彼が延々と逃げ続けることはできないことを示していた。
やがて、ルークスの足は止まった。
(どこで間違えたんだろう……)
心を燃やし尽くしたルークスに残ったものは後悔だけだった。敬愛していた叔父をこの手にかけたことは本当に自分が望んだ結末だったのだろうか。もっと良い選択肢はあったのではないか。
(何もわからない……もう疲れた……)
極限まで疲労した頭で考えても何も出てこなかった。そうこうしている内にルークスのまぶたはどんどん重くなっていった。ルークスは姿勢を低くすると、そのまま泥の中に座り込んだ。
そこでルークスは右手が重くなっているのを感じた。叔父を殺した剣を握ったまま逃げてきたのだ。こびりついた血は雨によって注がれていたが、これまで多くの血を吸ってきた剣だ。その分、刀身はひどく摩耗しており、後一回でも振るえば折れてしまうだろう。
まるで穢らわしいものでも見るかのようにルークスは握った愛剣を見下ろした。そして、地面に置こうとしたが、右手が凍りついたかのように動かなかった。意識的に力を抜こうとするが、右手はカチコチに固まり言うことを聞かなかった。
ルークスは剣を手放すことを諦めてため息をついた。愛剣をじっと見つめた。そして、そして、おもむろに剣を自分の腹に突き立てると、まぶたを閉じて力をこめた。
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