第9話 未知の探求者 籾谷ささら

「クソッ、宗教の類は全くの専門外だ!」


61階の階段で、武原は癇癪を起して地団太を踏んだ。ガンガンガン、そんな大きな音が水辺で反響して、ひどくけたたましい。その様子を困ったように笑いながら、籾谷は濡れた髪をタオルで乾かしていた。


「で?結局どうだったんですか~?いなくなった女の子、どこに行っちゃったか、見えました?」

「見えた。見えたがまったく奇想天外な話だ。宗教というのはまったくつまらない、いつでも人間のたどる物語をしっちゃかめっちゃかにしてしまうのだからな!ああ忌々しい……!」


「あはは。ほんとに武原先生は宗教が嫌いですねえ~。結構浪漫のある話だと思うんですけれど。」


そう聞くが早いか、武原は眉を吊り上げる。


「浪漫?浪漫だと!?死者の魂が死後も巡りゆく話を浪漫とするなんて全くの悲劇だ!ちがうか?死者の眠りは甘やかなものであるべきなのだ。それは死者本人のためにも。そうして残されたものにとっても。それは祈りだ。ほんものの敬虔なるもの。それは侵されるべきじゃあない」


まるで演説でもするかの如く腕を振りまわし、彼女はまくしたてた。その拍子にひらひらと浴衣の袖が籾谷の頬をかすめたが、まるで気が付く様子もない。


「……っふふ、まさか先生の口から敬虔なんて言葉が聞けるとは思いませんでした~」


にゃはは。武原の熱のこもった口調をさらりと受け流して、籾谷は笑った。

水にぬれて額に張り付いた長い黒髪。光を反射した水面のような色の瞳。どこか茫洋とした雰囲気を醸す籾谷が、すこし、目を伏せる。


「死者の眠りは甘やかなものであるべき。ふふ、いい言葉です。死んだ人間ともう一度会いたいなんて言うのは、残されたほうのエゴイズムですからねえ……まあ、それはさておき。」

「……何が見えたか、の話だな。私自身少し混乱していて要領を得んかもしれんが、聞いてくれるか」

「ええ、もちろんですよ~」



ぽり、とひとつ武原は頭をかいて、口を開く。


「……何も難しいことはなかった。事件が起こったわけでもない」

「はい」

「娼館であてがわれた部屋に彼女──翠は居た。夜だ。部屋は暗く、ランタンが一つきり。翠はベッドに座って、何やら祈っているようだった。それを私は見ていた」

「祈って、」

「そうだ。祈っていた。何かに。手を合わせて、必死にだ。そうしたら──……裂けた」


さけた。その言葉に籾谷はいくらか瞬きをした。言葉がうまく変換できなかったようだった。数拍ののちに、なにが、と言葉はつなげたけれど。


「何が、と言われると、空間が。としか言えん」

「空間、ですか?」

「ああそうだ。祈る彼女の前の空間が、まるでナイフでカンバスを裂くかのように割れた。そうして暗い部屋に、その隙間からの光が差し込んだんだ。まばゆく、私は一瞬目がくらんだが、見んわけにもいかない。薄目を開けてその裂け目の向こうを見た」


そこまで一息に言い放って、けれど武原は言葉を詰まらせる。普段から言葉を湯水のごとく垂れ流す人間が、こうも言いあぐねるとはどんな地獄の様相を見たのであろうか。なんだかその先の話を聞くのが怖いような気もしたが、聞いてくれるかと問われ、かまわないと籾谷は答えた。ならば違えるわけにもいくまい。ふう、と一息ついて、にっこり笑ってみせる。さあ続きをどうぞと言わんばかりに。


「……表現が見つからなかったわけではない。あの様相を見れば老若男女、口をそろえてこう言うだろう。『天国がそこにあった』と。」


「……天国ですか。へえ~、いいですねえ」


「私が間抜けにもポカンと大口を開けていると、裂け目から手が伸びた。そうして其れが当然かのように彼女は手を取り……『天国』へと入っていった。彼女の姿が向こうへと消えるのと同時に、裂け目も閉じた。」


「う~ん……」


「さあ如何するべきだ籾谷先生?今の話を一角殿にもして見せるか?いやはや舌を抜かれて終わりであろうな、あの調子じゃあ。異様な霊験によって彼女は天国へと向かった。その痕跡となるものがなかったか部屋をくまなく探してみたがまあ梨の礫よ。あのインチキな奇蹟につながる物品は見つからなかった。」


う~ん。苛苛とした調子の武原もよそに、籾谷はぼんやりと視線をさ迷わせる。多少大仰にゆらゆら体を揺らしてみせるのは、いつもの癖であるらしかった。何か言うのをまとめている様子で、ひとしきりうんうん唸る。そうしていくらかして、籾谷はいつもの間延びした声音で持って、口を開いた。


「なんか、武原先生らしくないですねえ」


「どうしてそう思う?」


「ていうか、神秘的なものを見て驚いて、考えるの飛んでっちゃう感じ、結構意外で、かわいいなあ~って思いました。」


にこ。それはいっそ清清しいまでの笑顔で、彼女は言い放つ。それは未熟さを揶揄する言葉か、それとも、ただの感想なのか。武原は数秒考えて、苦々しい顔で籾谷に言い返す。


「……なるほど?私はあなたを悪意という手段を持たない類の人間だと査定していたのだが、もしや勘定違いか?」


「わるい風に受け取らないでくださいよ。ただの感想ですってば。……ふふ。じゃあお詫びに、コツを一つ、教えてあげましょう。あのねえ、武原先生。私の仕事って、なんだと思います?」


薄暗い61階の、コンクリートの階段に腰かけた籾谷が、まるで歌うように武原にそう尋ねた。髪を乾かしていたタオルを指先で弄りながら、少し目を伏せていつものように笑いながら。


「……旧人類の遺物探索、及び研究だと存じているが、違ったか」


「あってます。そうしたらね、毎日海の、ま~っくらな底を目指して潜っていくわけです。まだ見ぬ技術を求めて。未知の科学を追いかけて、です。そうしてね、見つけたとしましょう。見たこともない、恐ろしいものを!私はまず、如何すると思いますか?」


「……そりゃあ、とにかく一度逃げるんじゃないか?慣れない海の中じゃ、一にも二にも安全が優先されるだろう」


「残念、はずれです。正解は、観察する、です。……つぶさにまず、観察をします。どんな色、形、状態、その周りは?得られる情報を、私の知る過去の情報と参照するんです。」


「……へえ」


「どんな未知のものでも、です。どんなに怖くても、です。海の中では、恐怖や焦りが命取りです。決して自分を見失わないことが大事。そうして少しずつ、未知は既知になる」


「……」


あ、と武原は思った。彼女の言いたいことがわかってしまうと、今度は己の未知への向かい方の甘さが思い出されて、少し恥ずかしいような気持でもあった。ごほん。ひとつ咳払い。己は作家であった。作家というものは、観察するもの。その行いから無意識とはいえ逃げようとしていたとは、何たる名折れ。


「────さあ武原先生。最初から始めましょう。作家さんは観察が得意なはずです。もう一度、何一つ見逃さないように、『天国』のこと、思い出してください?」

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九龍偏屈作家譚〈渾渾沌沌の街の人間模様を、好奇心のまま暴くから巻き込まれるんですよ!?〉 具屋 @pantsumusya

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