第2話 伊織の受難


        *     *     *



 羊垣内は、伊織の継母である。彼女は、伊織にとても厳しく当たった。艶やかな黒髪をまとめ上げ、梨々子によく似た、切れ長の目をした女性だ。

 

 伊織の実の母・ななは、伊織が六歳の時に病死している。

 その後、現在の継母である嘉代子が後妻にはいったわけだが、――実は、父・えいすけと嘉代子は元々恋人同士だったのだ。

 だがしかし、 栄介と嘉代子の婚約直前に、当時の当主で栄介の兄――羊垣内そういちろうが、亡くなった。元々、長男・宗一郎の新妻であった七緒は、羊の分家の出で、能力を高く評価されていた。

 一方、嘉代子は、一般人だった。当時の評価では、七緒とは比べものにならなかった。その時まだ若かった栄介は……反対をしなかった。いや、できなかった。

 そうして、亡き長男の嫁が、次男の嫁にスライドすることが決まったのだ。

 嘉代子は、七緒が――伊織の母が、憎くて憎くて、嫉妬して嫉妬して嫉妬して、呪って呪って呪って、呪い続けた。

 そうして、数年が経ったあの日――伊織の母の葬儀会場に、嘉代子は梨々子を連れて現れたのだ。

 大雨がザアザアと降っており、ゴロゴロと落雷の音が響く夜だった。

 当時、六歳だった伊織の前に現れたのは、すでに能力を顕現させていた、四歳の梨々子だった。

 こうして、伊織は一夜にして、母と次期当主の座を失ったのだった。



        *     *     *



「きゃ……!」


 どん、と突き飛ばされて、伊織は固い床に転がった。

 ガチャン、と無慈悲な錠前の音が響く。


「ここから、出して、ください……」

「だめよ」


 継母は冷たく言い放つ。

 伊織は、『折檻部屋』にいた。それは、屋敷の裏庭にある小屋だ。小屋には二つのスペースがある。一つは、扉付近の三畳ほどのスペース。壁には壁面収納用のフックがあり、いくつかの工具が掛かっている。もう一つは、……その奥の、座敷牢。こちらも三畳ほどのスペースで、しかしこちら側は掃除をまったくされていなかった。床は腐っているところもあるというのに、牢の格子だけは新調してある。

 伊織はその中に入れられていた。布団も、食べ物も、なにもない、薄暗い部屋。そこが、継母お気に入りの折檻部屋だった。


 継母は、部屋の壁に立てかけてあった鞭を手に取る。


「今日は、ずいぶんと呪符を書くのが遅かったみたいね。梨々子が会合に遅刻なんてしてしまったら、どうしてくれるの?」

「ご、ごめんなさい……」

「ふっ……」


 継母はうっすら笑うと、バチンッ!――と、鞭で檻を叩いた。

 伊織は、思わず目を瞑る。

 バチンッ! 鞭がもう一度振るわれる。伊織は体を震わせた。

 ――伊織は、母・七緒によく似た容姿で、それが一層、継母の加虐心を煽っていた。


「今夜はそこで反省なさい。食事も許さないわよ」

「わ……。わたし……っ! で、でも、ちゃんと間に合いました……!」


 バチンッ! 鞭が振るわれ、その先端が、伊織の体に当たった。


「……っ!」


 バチンッ!


「……っ。ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

「もっと早く呪符が書けるように。能力が高められるように。月にでも祈ってなさいよ。あははっ」


 継母は楽しそうに笑うと、和紙と筆を投げ入れる。呪符を作れということだろう。

 そうして、ひとしきり伊織を鞭で脅かすと、愉快そうな笑みを浮かべて屋敷へと戻って行った。

 継母の姿が見えなくなると、伊織はその場にへたり込んだ。


「うぅ……っ」


 能力がないのが、悪いのかもしれない。梨々子が呪符を書いたなら、わたしのように疲れないのかもしれない。だけど、今日だって、膨大な量を間に合わせたはずだ……。

 投げ入れられた和紙が、目の端に留まった。……震える手で、呪符を一枚、書いてみる。腕が不自然に痺れ、また気力が削がれていくのだと感じる。

 書けた呪符を前に、梨々子の真似をして手をかざしてみる。――しかし、何も起こらなかった。

 やはり自分には、能力がないのだ――そう思った伊織は、力なく肩を落とした。




 やがて夜がきて、月が昇った。

 この折檻部屋には、 屋根部分に小さな窓がひとつだけある。それにはガラスがはめられていないため、そこから冷たい夜風が入り込んだ。

 しかし、部屋には毛布の一枚もなかった。


「…………」


 体はこんなにもだるくて重いのに、寒くてうまく眠れない。ぼんやりとした輪郭の檻の格子だけが、横たわった伊織の目に映る。


(どうして、こんな風になっちゃったんだろう――……。もう、わからない……)


「……誰か……。……」


 ……言いかけて、やめてしまう。


(……ううん。もう、誰もいない……)


 母の記憶はもう、薄く、……いつからか、思い出さないように、自らしてしまった。

 あの柔らかな記憶を思い出そうとしても、すぐに『もういない』ことが苦しくて、胸が詰まって、それ以上考えられなかった。

 寒さからなのか、疲労からなのか、不安からなのか――震える手を、弱々しく握る。


「……大丈夫。我慢すれば、大丈夫……」


 そう、自分に言い聞かせる。

 しかし、胸の空白は寒くて、とても寒くて。


「……誰か、そばに……。……」


 伊織は、縮こまりながら夜を過ごした。




 翌朝、伊織は早朝から目を覚ました。――と言っても、そもそもあまり眠れなかった。窓が開いているだけでなく、隙間風も吹き込むこの場所で、快眠などできるわけもなかった。


「…………」


 伊織は縮こまったまま、少しでも暖を求めて体をさする。

 その時、ギィと折檻部屋の扉が開いた。やってきた人物は、――若い使用人だった。彼女は「はぁ」とため息をついて、めんどくさそうに立っている。


「もうでてもいいって、奥さまが。てか、井戸の水汲むの早くしてくれない? 朝食の準備できないじゃん」


「……はい……」


 使用人は皆、伊織に冷たかった。継母や梨々子、父の仕草を見ているので、自然とそうするものだと思ってしまっている。――みんなが馬鹿にしている人物は自分も馬鹿にして良いのだと、そう染みついてしまっているのだ。

 しかし、伊織は反論をしなかった。……したところで、どうせ継母に報告されるだけなのだ。そうすると、……折檻部屋からでられる日が延びてしまうだろう。

 若い使用人が牢の鍵をあけると、伊織は外に出た。


「じゃ」

「……あ……。……ありがとうございます……」


 お礼を言うのが正しいのか、伊織にはわからない。継母の命で牢にいれられ、この使用人は継母の命でやってきただけだ。……けれども、伊織は言った。

 伊織は顔を上げる。しかし、その場にはもう誰もいなかった。




 朝五時頃から使用人同然の仕事をして、ようやく伊織が朝食を取れたのは、十時も過ぎた頃だった。おひつに残った固く冷たいご飯――これが伊織の朝食だった。

 父と梨々子は、まだ寝ているようだ。他の使用人たちが話していたが、ふたりが帰宅したのは、どうやら深夜だったらしい。


 この隙に、伊織は風呂場へと向かった。

 継母は、自分が汚い折檻部屋に閉じ込めているくせに、そこから出したら出したで、伊織が風呂に入らないと厳しくなじった。伊織を虐げていることは、他人に知られたくないのだろう。鞭も、体に当てるだけで、顔にはほとんど当ててこなかった。伊織は、日中屋敷にいる間は、身だしなみを整えることを命じられていた。

 廊下を歩くと、すぐに風呂場へ到着する。黒い石の壁で囲まれた、暗い場所だ。当然、お湯は冷めているが、沸かし直すことは禁じられている。伊織は急いで体を洗い、湯船とは名ばかりの水風呂に浸かった。そして、お風呂から上がろうと立ち上がり、


「……あ、れ……?」


 目の前がまっくらになった。




 目を覚ますと、伊織は自室で寝ていた。


「う……」


 ゆっくりと、体を起こす。


(わたし……お風呂で倒れたんだ……)


 大きなお屋敷の中で、部屋は余るほどあるのに、伊織にあてがわれたのはこの三畳の部屋だけだった。小さな箪笥、小さな鏡台、何もかかっていない衣(い)桁(こう)があるだけの、名家のお嬢さまにしては質素な部屋だった。そこに敷き布団を敷くと、より一層狭く感じた。


 本当は、六歳までは自分の部屋があった。しかし、継母と梨々子がやってきて――それらはすべて取り上げられた。母の残したもの――着物や宝石などの高価な物は継母にもって行かれ、日用品は愉悦混じりに破壊された。

 そして父も、ようやく結婚できた愛人の我が儘を、黙認した。

 いま部屋にある箪笥の中身だって、いつまた破かれるかわからない。〝私の物〟は、なんにも、ないのだ……。


 伊織は、時計を見た。風呂場に向かったときから一時間ほどしか経っておらず、伊織は、ほっと胸をなで下ろした。




 ずんずんと廊下を歩く音がして、――ノックもなしに、襖が開かれる。

 自室へやってきたのは、若い使用人だった。


「ああ、起きたの。風呂で倒れるの何回目なわけ? 掃除の、邪魔だから」

「……すみません……」

「梨々子さまが、起きたわよ。早く支度して」

「あ……はい。……わかり、ました……」


 若い使用人は言いたいことだけ言うと、さっさと行ってしまった。

 伊織は立ち上がると、継ぎ接 ぎだらけの着物を着て、部屋を出た。


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