芥川龍之介「蜘蛛の糸」とは寄付や福祉の難しさを語った寓話である
この短編の主人公二人、
この話を読み聞きする度に御釈迦様ともあろう御方がなんと
そもそも御釈迦様と言えば神にも等しい、否、
このような事に筆舌を尽くすのは憚られる事で御座いますが、御釈迦様がおすくいになろうとされた犍陀多という男はすくってはならない存在に相違御座いません。その事実を明らかにするまでの顛末がこの「蜘蛛の糸」という短い話で御座いましょう。という事は、この物語が始まるまで御釈迦様は犍陀多がそのような度し難い存在であると見抜けなかった落ち度があると申さざるを得ません。まさかその何もかもを見通す覚めた眼で、あのような結末にも成りかねないと見越した上でかような気紛れの施しをなされたので御座いましょうか? だから落ち度などないと? だとしても助けきらずに因果が招いた彼の自己責任であると途中で放棄されるのは、意地も趣味も悪い弄びだと苦言を零さずにはおられません。そのままとは申しませぬがそっくりですなあ。己の気紛れで他者をすくい上げるところと過ちを犯してしまうところが。
さて、尊格への当て付けはこのくらいにしてここから本題に入ろう。
蒸し返しになるが、私はこの短編を読み聞きすると大抵、御釈迦様は怠慢だなあという感想を抱いたものだった。仏という人間よりも遥かに上位の存在なのだから何としても助けろよと言った方が正確だろうか。昨今我らが住まう資本主義社会に深く根を下ろしている自己責任論は社会の二極化を加速し格差を固定化しつつある。それを生み出したであろう自業自得や因果応報をその教説の屋台骨にしている仏教もまた邪教に堕落しかねない可能性は決して無くなる事はないと、最近になって思い至った。だからと言ってそれを喧伝するつもりは毛頭ないが、牽制はする。それこそこの文章を書き残す意味の一端に違いないと朧気ながらも予感しているからだ。
犍陀多というどうにもすくい様がない悪人が存在する。人智を超えた超越者たる御釈迦様すら間違える。ここから言える事は全能者などその存在からしてありえないという事だ。そんな世界で困窮者が助かるのは難しい。この作品から私が第一に汲み取った教訓は「すくい様のないものをすくってはならない」である。
困窮者はその困窮故に自身がすくい様のない存在になっていると、自分ではまず気が付けない。加えて自分が苛まれている困窮の原因が自分にもあると決して認められずにあらゆる──自分が負うべき──責任を他者に転嫁して憚らないからどうしようもない。
もしそうであるならば、すくい様のない困窮者は切り捨てた方が良いのではないか? 可哀想だが、厳しいようだが、そうした方が社会は健全に効率的に回っていくのではないか? という疑問が当然の帰結として出てくるであろう。確かにそうすれば、一時的には活性化していく面もある事は否めない。だがそれをいつ何時もそうであると常態化した価値判断基準に固定化しようとするのなら、それは愚問だと言わざるを得ない。
何故ならば、すくってはならないすくい様のないものであるか否かいうのは、実際にすくおうとしてみなければそうであるのかないのかわからないからである。それこそ本作品で御釈迦様がそうしようとしてそう出来なかったように。このため困窮者をすくおうとするのならよくよく見極めなければならない。彼はすくうべき存在であるか否かを、すくい様のある存在であるかどうかを。そしてそれは困窮に喘いでいない全ての人々も別の様相で自分以外に見られているのではなかろうか? この人は富を与えるに値するかどうか、幸に与するに相応しいかどうか。我々人間という存在はこういった吟味を常に受け、折に触れて問われ続けているのではないだろうか? それこそ神や仏や人生から。その問答を死ぬまで繰り返すのが人生というものの一つの様態なのだろう、きっと。
実践しなければ実践するに値するか否か判別しかねるからと言って、無論常に実践しなければならないという訳ではない。しても良いししなくても良いが、採らなかった選択肢を採った者を侮ってはいけないし嘲ってはいけない。取り分け自分が失敗を犯してしまった時に他者を呪詛し責任転嫁してしまうのは最もしてはならぬ事だ。御釈迦様が御釈迦様たる所以は自分が失敗しても沈黙を以てやり過ごした事だ。私は最初に御釈迦様と犍陀多は似た者同士であると述べたが、この一点だけは明確に相違している。
本作品の御釈迦様についてもう一つ注記すべきは確かに仕損じたが引き摺り降ろされなかったという事だ。もし仮に、自身に続く他の罪人を罵っても蜘蛛の糸が
そうであるならば、困窮者をすくうのならすくおうとしている事を極力悟られてはいけない。もしすくおうとしている困窮者がすくい様のない存在だったら、彼は陰に陽に自身の辛苦を周囲に味わわせて社会をより濃く地獄に彩ってしまうだろうし、加えてすくえなかったら逆恨みされるし、万一奇跡的にすくえたとしても感謝の一つも述べられないだろうし、更に悪い事に手を差し伸べた相手に対して高確率で恨み辛みをぶつけようとするであろうと予想されるからである。
ここまでをまとめると以下の通りだ。一、すくい様のないものはすくってはならない。二、困窮者の中にはすくい様のないものが混じっている。三、困窮者がすくい様があるか否かは実際にすくおうとしなければ判別不可能である。
よって、それでも困窮者にすくいの手を差し伸べるのなら、個人的に手を差し伸べるよりも寄付や福祉の方が効果的だし相応しいと云っても過言ではあるまい。勿論実名よりも匿名の方が望ましいのは想像に難くない。また実名で寄付するのならそれなりに強靭な富や知識を持ち合わせていないといけないとも言えるだろう。困窮者当人から恨みを買ったり、口先だけの傍観者からの容喙を許し掻き乱されるのをのを予防する為である。
実名よりも匿名である事が望ましいのに加えて、すくいの手を差し伸べた後は恩着せがましくしない事だ。すくうかどうか、何をどう施し与えるかは銀行の融資課のように厳しく査定しても良いし、そうするべきだ。しかし、一旦すくうと決意し施し与えたら、被相続人のように押し黙るか、その件に関して記憶喪失であるかのように振る舞ったほうが良い。
どうしてかと言うと金は天下の回りものであり、誰かの占有物ではないからだ。「これだけ面倒見てやったのだから役立つ人間になれ。感謝を態度と行動で示せ」と恩を取り立てる度に縁が傷み運が悪くなっていくからでもある。そうなると次第に施した者の手から富が零れ落ちて失われていく。言うまでもなくそれはすくいの手を差し出した者の望むところではあるまい。「これだけしてやった、くれてやったのだから、それ以上に返せ、返ってきて然るべきだ」という思考は救おうと与えているのではなく、掬い取ろうと貸し付けているのだ。所詮は回りものに過ぎない金という裾を分けているつもりで袖の下を送り付けていると言わざるを得ない。これは金だけではなく、愛や恩も同様である。
また「無償の愛が大切だ」「愛に見返りを求めるのは良くない」と言った御高説が手垢に塗れて世間に流布しているが、私には少し違うように思われる。無償と見返りというのは結び付けてはいけないのではないか。無償というのは費用に与する言葉であり、見返りというのは収益に属する言葉であるから、これらを一緒くたにしてはいけない。別の角度から言うと前者は困窮者に対しての言葉であり、後者は彼らをすくおうとする支援者に対しての言葉である、という事だ。これらの差違を意識せずに愛や福祉を語るのは味噌も糞も一緒にするようなものだ。
支援者にとって愛や福祉というものは決して無償ではない。手を差し伸べようと費やした金や時間や労力は全て有償である。だから見返りがないと、利益が出ないと続けるのが難しいというのも首肯せざるを得ない。だからと言ってそのような市場原理という秤だけで愛や福祉まで計り尽くしたら、利己主義だけが是となり誰も他人を助けようとしなくなって、遠からず人の世は血腥い修羅の巷に堕して破滅を迎えてしまうことだろう。
見返りを得られないだろうから切り捨てようと決断する前に、相手が齎すと見越した利益よりも、自分の費やした愛の方に価値を見出すべきなのだ。言うなれば与える愛に見返りを期待するよりも与えた愛を見返し見直すべきだという事である。
それはすくい様のない物に手を差し伸べてしまっても、ずっと寄付や福祉で面倒を見続けなければならないということか? などと反論を試みる人もいるかもしれないが、それは浅慮である。すくい様のないものをすくってはならない、これまで何度も述べてきた通りだ。そう判断したのなら手放せば良い。無論、この「蜘蛛の糸」という作品で描かれたように、すくい様のないものの方から縁が切れる原因を作って勝手に自滅してくれるのが望ましいし、大抵そうなる。
そして両者の関係が近すぎて離し難い場合でも、なるべく優しく柔らかく、しかし淡々と手放せば良いし、そうするべきだ。すくい様のないものから恨みを買うのを恐れるあまり、彼が困窮したままの現状を買い支えてはならない。困窮者は決して支援者のペットなんかではない。
一方、辛苦艱難窮まって困り果てている者に対しては、何と言うか、言葉に困るというのが偽らざる私の現在の所感である。それでも誤解を承知で思う所を以下に述べる。
結論から言うと、経済的なものを始めとして困窮者当人にとって、あらゆる困窮の主要因は愚痴と邪気の共有である。邪気に塗れた魂では負の螺旋を抉ってしまう。困窮から抜け出したかったらそれを少しずつでも止めなければならない。邪気というのは魂の内側から醸し出される雰囲気であり、恰もそれは肉体における内臓やその分泌物のように働いている。なので、自分の意思や頭脳だけで制御するのは困難である。対して愚痴というのは筆舌の働きに過ぎず、それらを抑え込むのは自分の意思や頭脳で決意さえすれば、内蔵を抑え込むのに比べれば遥かに容易に取り掛かれる。だから筆を擱いて口を慎んだ方が良い。
その際、金も愛も恩もあらゆる支援や福祉を無償で受け取っても構わない。返す事を考えるよりも自分が困窮から抜け出すのに没頭していたらいい。だって困窮しているのだから。学生は学業に邁進するべきだし、病人怪我人はそれらの治癒に専心すべきだ。社会の一員として社会に貢献する前に社会を堪能する必要がある。
無償の支援を受けて他者に甘えるのは大いに結構。けれど常にそうであり続けてその地位に甘んじてはいけない。何故ならそれは支援の行き過ぎで支配される事になってしまうからだ。支配されるとは人間の身でありながら家畜のように振る舞わなければならなくなることだ。世話する者の言いなりに成り下がるしかなくなり、支配者の気に食わぬことを仕出かしたら害されるか放置されてしまう。そして支援を受ける前の窮状に戻るか、もっと悪くなる。少なくとも良くなることはない。勿論人間は社会の家畜ではないから一時世話になったからと言って一生奉仕し続ける義務などどこにも存在しない。
だけれども貰うばかりで富や慈悲を独り占めしてはいけない。独り占めしようとした者がどのような末路を辿ったかはこの作品を通じて犍陀多が身を挺して示してくれた通りだ。自分はあんなヘマせずもっと上手くやれるって? なら何で貴方は困窮しているのか?
結局のところ、困窮しているのは噛み合わせが悪いからだ。それは先に述べた愚痴や邪気など共有すべきでない事柄を共有しているからだし、富や慈悲といった独占できないものを独占しようとしたからに他ならない。そういった齟齬から生じる摩擦が強すぎるせいで、困窮して幸や他者との軋轢を生み出している。それを少しでも減らしたければ蛹のように押し黙って時が来るのをひたすら待つしかない。しかし人間の変態は不審者として警戒されるのがオチである。
邪気に呑まれた魂では尽くした筆舌のほぼ全てが愚痴になってしまう。唯一発しても自分が邪気を共有せずに済ませられるのは沈黙を除けば感謝のみである。だから福祉や支援を受けて当然だという態度や言葉を発してはいけない。そういう態度だと読み取られたとしても、言葉だけは発しないように必死になって抑え込んでいくべきであり、その為には受け取ったら感謝を伝えるようにすべきだし、伝えられないのなら呟くくらいしても罰は当たるまい。
ここまで我が思索を深めるきっかけを与えてくれた芥川龍之介および最後まで読んでくれた読者の貴方に感謝を意を評してここで私は筆を擱こう。ありがとう。
拾枚帖 枕本康弘 @moto_yasu
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