初めての喧嘩? 前編

 日曜日。紗奈は、今日は義人と一緒に駅の近くにあるお店にお菓子を買いに来ていた。


「シルクガーデンのクッキー。楽しみだね!」

「うん。これ食べたら、ママ元気になるかなあ」


 と、義人が最近体調を崩しがちな母を心配して、言う。


 シルクガーデンは、2人の母親である由美が好きなお菓子メーカーの名前だ。きっと、大好きなクッキーを食べたら少しは良くなってくれるかもしれない。


「元気になってくれたらいいね」

「うん!」


 義人と手を繋いで歩いていた紗奈は、信号待ちで立ち止まる。暇つぶしに駅近くの建物を見ていると、ふと悠の影が見えた気がして、視線をそちらの方へと向けた。


 そこには、確かに悠がいた。


「あ……」


 義人にも「にーにがいるよ」と伝えてあげようと思ったのだが、義人を振り返る前に、紗奈は悠と一緒にいる人物に目がいってしまった。


(金髪の…女の人…………)


 紗奈は、悠とその女性の近い距離に驚いて、義人には何も伝えずに、家に帰る。


 胸がドキドキして苦しかった。


「ねーね? どうしたの?」


 義人が心配そうに紗奈を見上げている。紗奈は「何でもないよ。大丈夫」と言って、義人と一緒にマンションに入った。


「おかえり。紗奈、義人」

「パパ!」

「ただいま」


 今日は日曜日。講義も何も無い真人が、2人を出迎えてくれた。義人は真人に抱きつくと、抱っこをしてもらう。


「ほら、義人。帰ってきた時は?」

「ただいま! パパ!」

「おかえりなさい、義人。手洗いうがいしに行こうな」


 せっかく義人を抱っこしているので、真人は義人を連れて洗面所に向かう。


「おかえりなさい。紗奈、義人」


 由美もひょこっと廊下に顔を出して、挨拶をしてくれる。


「ただいま……。お母さん、お母さんが好きなクッキーを買ってきたから、後で一緒に食べようね!」

「ええ。ありがとう。楽しみだわ」


 由美がニコッと微笑むのを見てから、紗奈は真人達の後を追って、洗面所に入る。


。。。


 おやつの時間になったら、さっそく買ってきたクッキーを紗奈がお皿に乗せて用意した。


「ありがとう。紗奈」

「ううん!」

「悠くんのおかげで、紗奈はどんどん母さんみたいになるなあ」

「えへへ。お料理も、お母さんみたいにもっと上手になりたいな!」

「紗奈の料理も充分美味しいじゃないか」


 紗奈が大好きな母のようになれるといいな。と思ってはにかむと、真人はくすくすと笑ってから、紗奈の料理を褒めてくれる。


「でも、父さんの一番はやっぱり母さんの手料理だなあ。だから、紗奈は悠くんの一番を目指して頑張れよ?」

「うん。お母さんがお父さんの胃袋を掴んだみたいに、私も悠くんの胃袋を掴むの!」


 紗奈はそう言ってから、少しだけ俯く。表情は笑顔のままだが、頭の中ではさっきの光景がグルグルと浮かんでいた。


(あの人、誰だったんだろう……。絶対、真陽おばさんじゃなかった…………)


。。。


 夜も、紗奈はずっと頭の中でモヤモヤしてしまっている。あの人は誰だろうか。知り合いなのか。また、逆ナンでもされたのか。それとも……。


 最悪な想像までして、紗奈はぶんぶんと首を横に振る。


「悠くんに限って、浮気なんて絶対ないもん……。悠くんは、ずっと私だけを好きでいてくれるんだもん……」 


 悠は浮気をするような人柄じゃない。それは紗奈が一番よく知っている。それでも、紗奈の心臓は今もまだドキドキと脈打っていた。


「絶対、有り得ないんだから……」


 紗奈はそう呟いて、スマホを操作する。悠なら、今日の事を正直に話してくれるはずだ。きっと親戚とか、そんなんだろう。


 そう思って、紗奈は悠に電話をかける。悠は数コールもしないうちに、電話に出てくれた。


「もしもし、紗奈。どうしたの?」

「こんばんは、悠くん」

「こんばんは」

「あのね、悠くん。今日なんだけど…何、してた?」


 紗奈が聞くと、悠からはすぐに返事が返ってくる。


「今日は親と出かけてたよ」


 と。


 紗奈は、ついショックを受けてしまった。あの金髪の長い髪は……。あの時、悠と一緒にいた女の人は、絶対に悠の母親ではなかった。


「ほ、本当……?」


 もう一度聞いてみると、悠はまた、すぐに返事を返す。


「うん。どうして?」


 悠の質問に、紗奈は中々答えられなかった。悠が嘘をついた。それが悲しくて、紗奈は落ち込む。


「嘘つき」


 紗奈は震える声でそれだけ伝えると、悠の言葉を聞かずに電話を切った。その後かかってきた電話も、チャットのメッセージも、見るのが辛くて布団を被る。


 紗奈はグルグルと頭の中をモヤが駆け巡る感覚がして、気持ちが悪くなった。さっさと寝てしまおう。と、紗奈は通知が聞こえないようにスマホの電源を切って、布団の中に顔まで入り、眠る。


。。。


 次の日。紗奈は寝不足と悲しみと、怒りと。色々な感情で不機嫌なまま、菖蒲と合流する。


「何? 寝不足か?」


 菖蒲にそう聞かれても、紗奈は何も言えなかった。今もまだ、悠を疑いたくない気持ちが残っている。


「ちょっと、ね」


 駅で悠と合流した時も、紗奈はどんな顔をしていいか分からず、上手く挨拶をすることが出来なかった。


「紗奈……?」


 悠は紗奈を心配そうに見つめて、手に触れてきた。紗奈の肩がビクリと動く。


「昨日、どうしたの? 今日も様子が変だし……」


 心配そうな顔を見ると、紗奈はつい絆されそうになる。


「……悠くんは、昨日親と出かけてたの?」

「え? うん。そうだけど……。昨日も同じことを聞いてたけど、なんで?」


 悠は不思議そうに紗奈を見つめる。距離が近い。紗奈は昨日の女性の事を思い出すと、イラッとした。あの人とも、こんな距離だった。


「知らない。悠くんのばか」

「え?」


 紗奈は悠の手を解くと、スっと改札を入っていってしまう。


「何? 喧嘩……?」

「いや、俺にもよくわかんない…………」


 菖蒲に聞かれ、悠は困惑した顔でそう答えると、紗奈を追いかけて改札に入っていく。菖蒲とあおいは顔を見合わせると、お互いに首を傾げて、ゆっくりと改札を通った。2人の時間を作ってあげるためだ。


「紗奈……? 本当に何なの。紗奈。言ってくれなきゃわからないよ。何か怒ってるの?」

「誤魔化すんだ。悠くんの嘘つき。ばか」


 何度目かわからない「嘘つき」や「ばか」の言葉に、悠も少し拗ねた顔をする。


「そればっかりじゃ分からない。俺が紗奈にどんな嘘をついたの」

「……悠くんが一番知ってるくせに。なんで誤魔化すの? ばか。悠くんなんて知らないもん」


 紗奈はプクっと頬を膨らませると、悠から視線を逸らして、線路をじっと見つめた。電車が来るまで、紗奈の視線は1ミリも動かない。


「俺も知らないから……」


 電車に乗る直前、悠も拗ねた表情で、紗奈にそう呟いた。紗奈の胸がズキリと痛む。それでも、嘘をつく悠が悪い。


 このまま本当の事を教えて貰えなかったら……。紗奈はそう考えて、悲しくなる。キュッと唇を噛んだまま、一言も喋らなかった。


。。。


 教室に入った紗奈は、いつものように千恵美にギュッと抱きつかれ、小さく笑う。


「くすぐったい……。チエちゃん、おはよう」

「紗奈ちゃん。今日元気ない? 何かあった?」

「え? あー……。ちょっと、ね。何でもないよ」


 紗奈はそう言って苦笑するが、菖蒲が眉間に皺を寄せて、紗奈を小突く。


「何言ってんだ。何があったか知らないけど、小澤と喧嘩してるだろ」

「え? そうなの?」

「いつも仲良しなのに……。何があったの?」


 千恵美も美桜も、心配そうに紗奈を見つめる。紗奈はしゅんと俯くと、小さな声で言った。


「私は、ただ本当の事を言って欲しかっただけなんだけどな……」

「紗奈ちゃん……」


 紗奈は今日一日、ぼーっとして過ごしていた。幸い授業で当てられることはなかったが、その代わりに、千恵美や美桜、百合子からも声をかけられなかった。


。。。


 一方で、悠の方も今日はあまり機嫌が良くなかった。今朝に紗奈とぎこちなくなったからだ。


「小澤、なんか今日は顔が険しいな」

「そお?」


 周平にそう聞かれて、悠は彼を見上げる。その時の表情も、意図せず凄んでいるように見えてしまったようで、周平はビクリと肩を揺らした。


「そんなに険しい顔してるかな? ごめんね」

「いや、別にいいけど……。何かあったのか?」

「ちょっと、紗奈とね」


 悠がそう答えると、周平は眉を寄せた。


「北川と? ……え、お前らって喧嘩とかすんの?」


 素直にそう聞いてしまった周平は、悠の纏う空気が少し冷えた気がしたのを感知して、気まずそうに視線をさ迷わせる。


「喧嘩って言うか……。なんか俺が怒らせちゃったみたいなんだけど、さ。原因が分からないんだよね」


 怯える周平を見て冷静になった悠は、はーっと息を吐いて気持ちを落ち着かせると、そう答える。


「怒らせた?」

「うん。何故か、嘘つきって言われてさ。昨日の事を聞かれたから答えただけなのに」

「誤解されてるとか?」

「多分。でも、全然心当たりがないんだよなあ」


 悠はそう言うと、ぐでーっと机に項垂れた。不機嫌でいるのは疲れたので、今度は無気力になってしまっているのだった。


「北川に聞いてもわからないのか?」

「聞いてみたら、自分が一番知ってるでしょって」

「でも、心当たりがないんだよな?」

「無いよ……。あーっ! ていうか、紗奈に誤解されたままで、もし嫌われたりなんかしたら、どうしよう!!」


 悠は無気力から今度は酷く落ち込んでしまい、机に突っ伏したまま暫く動かなかった。


 こちらも、周平やあおいが気を遣って、全く声をかけなかった。寛人の方も、元々悠の纏う空気で声をかけない方がいいと判断していたらしく、挨拶以外で言葉を交わすことはなかった。

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