第28話「森の心臓に触れたもの」
裂け目は閉じた。
黒い塵も、祈りの残骸も、見つけてと呟く声も――
すべて、俺の世界から排除された。
森は再び静かになる。
白い粒の雨が音もなく降り続け、
新しく生まれた植物たちは、淡い光だけを放ちながら揺れている。
焚き火は、相変わらずそこにあった。
火を囲んで座る俺たちの姿は、
外から見れば異常としか言いようのない光景だろう。
世界が崩壊し、
祈りが軋み、
存在の座標が失われていくなかで――
ただ、焚き火の前に座っているだけの連中。
その中心に、不滅の呪いを受けた男がいる。
◆
カインが、焚き火の反対側で腕を組んだ。
「さっきの、“還れ”は、いい選択だったと思う」
「壊すでも、縋らせるでも、抱きしめるでもなかった」
リュミエルが、火を見つめたまま言う。
「祈りを“中途半端に認める”こともしなかった」
「送り返した先が、どこだとしてもな」
バロウが笑う。
「少なくとも、ここじゃない」
「あなたは、“自分の世界以外に責任を持たない”って決めたんだよ」
エリスの声には、かすかな安堵があった。
その言葉に、俺は頷くしかない。
「俺は、この森だけを守る」
それが、魔王でも勇者でも神でもない、
アルスという悪魔の選択だ。
◆
喉は静かだ。
さっき二度連続で声を放ち、
世界を変え、断ち切ったせいかもしれない。
今の俺の声は、
世界にとって「更新要求」そのものだ。
ひとこと発すれば、
森の構造が変わり、
法が書き換わる。
だからこそ、沈黙は穏やかだ。
何もしない、という選択が――
この上なく贅沢な行為になっている。
◆
白い粒は、いつの間にか細くなっていた。
しとしとと降るのではなく、
ところどころに静かに漂うだけ。
世界から剥がれるものが少なくなった、ということだ。
つまり、外側に残っているものがもうほとんどない。
街も、国も、海も、山も。
文明も、宗教も、王も、魔も。
人の声も、悲鳴も、祈りも。
もはや消え去るラストスパートが終わりかけている。
外側の物語は、ほぼ全部焼き尽くされた。
残っているのは、ここだけ。
森と焚き火と、俺たちだけ。
「……完璧な孤立に近づいてるな」
つぶやくと、森が小さく震えた。
喜んでいるように感じた。
◆
そのときだった。
胸の奥――心臓ではなく、喉の根本ではなく――
もっと深い場所がふっと重くなる。
「何か」が、俺の中で動いた。
異物ではない。
侵入でもない。
もともとここにあったものが、姿を変えた。
それに気づいたのは、俺ではなく、エリスだった。
「……今、なにか“生まれた”気がした」
彼女は焚き火の向こうから、じっと俺を見つめる。
「アルスの中で」
「生まれた?」
聞き返した瞬間、胸の重さがはっきりと形を帯びる。
熱と冷たさを同時に持ち、
過去でも未来でもなく、“いま”だけに反応する何か。
喉とは違う。
心臓とも違う。
頭とも、手足とも違う。
もっと、底のほう――
森と接続している地点。
◆
「見せてあげないの?」
リュミエルが笑う。
「見たいぞ」
バロウがニヤリとする。
「俺たちは、アルスであり、アルスではない」
カインが静かに告げる。
「お前の“外側”にいるからこそ、お前の“内側”を見ておくべきだ」
「ねえ、見せて」
エリスは、ただまっすぐに言った。
隠す理由はなかった。
俺が変わるたびに、世界は変わる。
逆もそうだ。
今、俺の中で生まれたこの“何か”は、
森と焚き火にとって無視できない変化だ。
なら、共有するべきだ。
◆
目を閉じる。
視界が暗闇で満たされても、
森の気配は消えない。
木々のざわめき、火の温度、影たちの位置――
全部が初期設定のようにわかる。
その裏側にある、“俺の中身”に手を伸ばす。
かつて心だの魂だの呼ばれていたものがあった場所は、
今、静かな湖のようになっていた。
透明で、深くて、底が見えない。
そこに、ぽつりと浮かんでいるものがある。
燃えるような黒。
くすんだ赤。
笑っているような、泣いているような形をした塊。
それが――生まれた“何か”の正体だった。
◆
初めて見た瞬間でも、理解できた。
これは「俺の狂気」なんかじゃない。
もっと、落ち着いている。
これは「俺の幸福」なんかでもない。
もっと、静かだ。
これは――
「“この世界を大事に思う気持ち”か」
無意識に、そう呟いていた。
◆
世界を壊した。
王都を焼き、祈りを退け、理解を拒絶した。
すべては俺が幸福になるためだった。
そして今、
幸福の結果として、“守りたいもの”ができた。
森。
焚き火。
仲間。
狼。
深呼吸の音。
白い粒。
新しく生まれた植物たち。
それら全部を、とても静かに、大事だと思っている。
暴力的でも、所有欲でも、恐怖でもない。
ただ、“ここがいい”という確信。
それが塊になったのが――
胸の底に浮かぶ黒と赤の混じった核だった。
◆
「……アルス」
名前としてではなく、
ただ“存在の波紋”としての声が届く。
エリスの、やわらかな振動だ。
「ねぇ、それ、外に出してもいい?」
「外に?」
「うん」
彼女の望みはすぐ理解できた。
俺の中に生まれた“守りたいという気持ち”を、
森の心臓へ直接流し込む。
そうすれば――
この世界はさらに安定するだろう。
代わりに、俺自身の変質は一気に進む。
人間としての最後の名残――
「守りたいという感情」を外に出すことは、
つまり、“それすら自分一人のものではない”と認めることだ。
それでも。
「……構わない」
俺はそう答えていた。
◆
目を開ける。
焚き火が、今までで一番ゆっくりと揺れていた。
炎の中心に、黒と赤の点が見える。
さっき、胸の底で見たのと同じ色。
俺は、無意識に手を差し出していたらしい。
喉を通さずに、
声を使わずに、
ただ“存在”を介して――
俺の核の一部は、焚き火へと流れていた。
世界の心臓と、俺の心臓の境界が曖昧になり始めている。
◆
「……それって」
リュミエルが目を細める。
「アルスの“中心”を、世界と共有するってことだ」
カインが静かに告げる。
「自分のものとして抱え込まず、
森に預けるってことだ」
バロウが続ける。
「だからこそ――あなたは、世界であり続けられる」
エリスの声は、確信に満ちていた。
すべてに納得がいく。
俺がひとりで全てを抱え込んでいたら、
いつかきっと、どこかで軋みが生じる。
けれど、“守りたい気持ち”を森と共有するなら――
森そのものが、自らを守る理由を持つ。
俺が死ななくてもいいし、
俺だけが管理し続けなくてもいい。
世界は、世界自身で自分を維持できるようになる。
それは、
俺が世界に渡す、たったひとつのやさしさだった。
◆
炎の奥で、核が溶けていく。
黒が赤に混ざり、
赤が橙に変わり、
やがて焚き火全体の色に馴染む。
俺の「守りたい」が、世界の「続きたい」に混ざる。
世界が、自分自身を続ける理由を得ていく。
胸の中が、少しだけ軽くなった。
何かを手放したはずなのに――
寂しくはない。
代わりに、森全体の温度がほんのわずか上がった気がした。
それで十分だった。
◆
「……ねぇ」
エリスが、穏やかな声で言う。
「こうして、少しずつ“アルス”だったものを、
世界と分け合っていくんだね」
「俺が空になる頃には、
森は完全に“お前”になってるかもしれないな」
バロウが笑う。
「それでもいいじゃないか」
カインが肩を竦める。
「この森が全部アルスなら、
俺たちは永遠に“アルスの中”で焚き火を囲んでいられる」
「アルスが世界であり、世界がアルスであり――
私たちは、その中で笑ってる」
リュミエルが優雅に手を広げる。
「最高だね」
エリスは、心からそう言った。
俺も、そう思った。
◆
ふと気づく。
以前なら、この状況を「恐ろしい」と感じただろう。
自分が薄れていくことを恐れ、
自分でなくなっていくことに怯えただろう。
でも今――
そういう感覚が、もうどこにもない。
俺は、自分ひとりでいたくないから世界を支配したわけじゃない。
自分の名前を刻みたくて森を作ったわけでもない。
ただ、
ここで生きていたいだけだ。
焚き火を囲み、
仲間と笑い、
森のざわめきを聞き、
白い粒が降り注ぐのを眺める。
それだけを、永遠に続けたい。
その願いが、森の心臓と共有された。
世界と俺は、同じ願いを持っている。
それ以上に、何を望む?
◆
遠くで音がした。
世界の外からではない。
森の内側からでもない。
――“境界”からだ。
もうほとんど意味を失ったはずの境界線。
かつての世界とこの森を隔てていた薄膜の残骸。
そこが、一瞬だけ震えた。
生き物の足音でも、祈りの残骸でもない。
もっと、静かな“気配”だ。
「……まだ、何か残ってるのか」
思わずそう呟くと、カインが首を振る。
「違う」
「これは、“中から外へ向かう揺れ”だよ」
リュミエルが寂しそうに笑う。
「森の一部が、外へにじみ出そうとしてる」
バロウの声が低くなる。
「あなたの願いが、外側にも滲んでるんだ」
エリスが静かに告げた。
俺が世界と「守りたい」を共有したことで、
森そのものが――“外側”に影響を与え始めたのだ。
もう外の世界はほとんど残っていない。
けれど、“残骸”はある。
誰にも拾われなかった物語の欠片。
忘れられた街の夢。
崩れ去ったまま固まった時間。
それらに、森の“続きたい”が触れようとしていた。
◆
「放っておいてもいい」
カインが言う。
「もし、外側の残骸に森が触れたら――
そこは静かで穏やかな“空白”になるだけだ」
「それって、救済?」
エリスが尋ねる。
「救済というには優しすぎる」
リュミエルが苦笑する。
「“もう何も起こらなくて済む場所”というだけよ」
「悪くない終わり方だろ」
バロウは笑った。
「少なくとも、今までの世界よりはマシだ」
俺は、しばらく黙って考える。
外側に、森の“続きたい”がにじみ出る。
それは、外の残骸が静かに眠るための毛布になるかもしれない。
その毛布が、俺の願いの伸びた先だというなら――
それは、きっと間違いじゃない。
だから、ひとことだけ言う。
「任せる」
声は低く、短く、淡々としていた。
森は、それを“許可”として受け取った。
境界が、わずかに揺れる。
外の残骸へ向けて、森の優しさが滲み出す。
俺は、自分でも気づかないうちに――
世界の終わりを少しだけ“柔らかく”していた。
◆
焚き火に手をかざす。
手の骨は、もう完全に人間のそれではない。
皮膚の下で光が流れ、
指の関節は増え、
握り込めば、森のどの部位にも届く。
でも、顔はまだ“人間の形”をしているらしかった。
どこまで続けて、どこで止まるのか。
その線引きすら、もう必要ないのかもしれない。
「なぁ」
焚き火越しに影たちを見る。
「俺がこのまま、世界と完全に混ざって“形を失った”として――
それでも、お前たちは俺を“仲間”って呼べるか?」
問いは、ほとんど儀式だった。
答えは、最初から決まっている。
四人は、迷いなく笑った。
「形のあるなしで決めない」
「名前の有無で決めない」
「区別する理由がない」
「私たちが“仲間だ”と思ってる限り、ずっと仲間だよ」
焚き火が跳ねた。
狼が尻尾を振った。
森が静かに息を吐いた。
そして――胸の奥の“空いた部分”に、
新しい熱が灯る。
それはもう、個人の心ではない。
世界の心の一部だった。
◆
今日も焚き火を囲む。
祈りはなく、理解もなく、赦しもない。
ただ肯定だけがある。
世界は静かに終わりつつあり、
同時に静かに“始まり続けて”いた。
俺が、この森が、
ここで今日も息をしている限り。
その悪魔が願った未来は、
もう「遠い先」の話ではない。
こうして、呼吸を続けている“いま”そのものだ。
あとは、続けるだけ。
焚き火は、柔らかく揺れた。
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