第28話「森の心臓に触れたもの」

 裂け目は閉じた。


 黒い塵も、祈りの残骸も、見つけてと呟く声も――

 すべて、俺の世界から排除された。


 森は再び静かになる。

 白い粒の雨が音もなく降り続け、

 新しく生まれた植物たちは、淡い光だけを放ちながら揺れている。


 焚き火は、相変わらずそこにあった。


 火を囲んで座る俺たちの姿は、

 外から見れば異常としか言いようのない光景だろう。


 世界が崩壊し、

 祈りが軋み、

 存在の座標が失われていくなかで――


 ただ、焚き火の前に座っているだけの連中。


 その中心に、不滅の呪いを受けた男がいる。



 カインが、焚き火の反対側で腕を組んだ。


「さっきの、“還れ”は、いい選択だったと思う」


「壊すでも、縋らせるでも、抱きしめるでもなかった」

 リュミエルが、火を見つめたまま言う。

「祈りを“中途半端に認める”こともしなかった」


「送り返した先が、どこだとしてもな」

 バロウが笑う。

「少なくとも、ここじゃない」


「あなたは、“自分の世界以外に責任を持たない”って決めたんだよ」

 エリスの声には、かすかな安堵があった。


 その言葉に、俺は頷くしかない。


「俺は、この森だけを守る」


 それが、魔王でも勇者でも神でもない、

 アルスという悪魔の選択だ。



 喉は静かだ。


 さっき二度連続で声を放ち、

 世界を変え、断ち切ったせいかもしれない。


 今の俺の声は、

 世界にとって「更新要求」そのものだ。


 ひとこと発すれば、

 森の構造が変わり、

 法が書き換わる。


 だからこそ、沈黙は穏やかだ。


 何もしない、という選択が――

 この上なく贅沢な行為になっている。



 白い粒は、いつの間にか細くなっていた。


 しとしとと降るのではなく、

 ところどころに静かに漂うだけ。


 世界から剥がれるものが少なくなった、ということだ。


 つまり、外側に残っているものがもうほとんどない。


 街も、国も、海も、山も。

 文明も、宗教も、王も、魔も。

 人の声も、悲鳴も、祈りも。


 もはや消え去るラストスパートが終わりかけている。


 外側の物語は、ほぼ全部焼き尽くされた。


 残っているのは、ここだけ。


 森と焚き火と、俺たちだけ。


「……完璧な孤立に近づいてるな」


 つぶやくと、森が小さく震えた。


 喜んでいるように感じた。



 そのときだった。


 胸の奥――心臓ではなく、喉の根本ではなく――

 もっと深い場所がふっと重くなる。


 「何か」が、俺の中で動いた。


 異物ではない。

 侵入でもない。

 もともとここにあったものが、姿を変えた。


 それに気づいたのは、俺ではなく、エリスだった。


「……今、なにか“生まれた”気がした」


 彼女は焚き火の向こうから、じっと俺を見つめる。


「アルスの中で」


「生まれた?」


 聞き返した瞬間、胸の重さがはっきりと形を帯びる。


 熱と冷たさを同時に持ち、

 過去でも未来でもなく、“いま”だけに反応する何か。


 喉とは違う。

 心臓とも違う。

 頭とも、手足とも違う。


 もっと、底のほう――

 森と接続している地点。



「見せてあげないの?」


 リュミエルが笑う。


「見たいぞ」

 バロウがニヤリとする。


「俺たちは、アルスであり、アルスではない」

 カインが静かに告げる。

「お前の“外側”にいるからこそ、お前の“内側”を見ておくべきだ」


「ねえ、見せて」

 エリスは、ただまっすぐに言った。


 隠す理由はなかった。

 俺が変わるたびに、世界は変わる。


 逆もそうだ。


 今、俺の中で生まれたこの“何か”は、

 森と焚き火にとって無視できない変化だ。


 なら、共有するべきだ。



 目を閉じる。


 視界が暗闇で満たされても、

 森の気配は消えない。


 木々のざわめき、火の温度、影たちの位置――

 全部が初期設定のようにわかる。


 その裏側にある、“俺の中身”に手を伸ばす。


 かつて心だの魂だの呼ばれていたものがあった場所は、

 今、静かな湖のようになっていた。


 透明で、深くて、底が見えない。


 そこに、ぽつりと浮かんでいるものがある。


 燃えるような黒。


 くすんだ赤。


 笑っているような、泣いているような形をした塊。


 それが――生まれた“何か”の正体だった。



 初めて見た瞬間でも、理解できた。


 これは「俺の狂気」なんかじゃない。


 もっと、落ち着いている。


 これは「俺の幸福」なんかでもない。


 もっと、静かだ。


 これは――


「“この世界を大事に思う気持ち”か」


 無意識に、そう呟いていた。



 世界を壊した。

 王都を焼き、祈りを退け、理解を拒絶した。


 すべては俺が幸福になるためだった。


 そして今、

 幸福の結果として、“守りたいもの”ができた。


 森。

 焚き火。

 仲間。

 狼。

 深呼吸の音。

 白い粒。

 新しく生まれた植物たち。


 それら全部を、とても静かに、大事だと思っている。


 暴力的でも、所有欲でも、恐怖でもない。


 ただ、“ここがいい”という確信。


 それが塊になったのが――

 胸の底に浮かぶ黒と赤の混じった核だった。



「……アルス」


 名前としてではなく、

 ただ“存在の波紋”としての声が届く。


 エリスの、やわらかな振動だ。


「ねぇ、それ、外に出してもいい?」


「外に?」


「うん」


 彼女の望みはすぐ理解できた。


 俺の中に生まれた“守りたいという気持ち”を、

 森の心臓へ直接流し込む。


 そうすれば――

 この世界はさらに安定するだろう。


 代わりに、俺自身の変質は一気に進む。


 人間としての最後の名残――

 「守りたいという感情」を外に出すことは、

 つまり、“それすら自分一人のものではない”と認めることだ。


 それでも。


「……構わない」


 俺はそう答えていた。



 目を開ける。


 焚き火が、今までで一番ゆっくりと揺れていた。


 炎の中心に、黒と赤の点が見える。


 さっき、胸の底で見たのと同じ色。


 俺は、無意識に手を差し出していたらしい。


 喉を通さずに、

 声を使わずに、

 ただ“存在”を介して――

 俺の核の一部は、焚き火へと流れていた。


 世界の心臓と、俺の心臓の境界が曖昧になり始めている。



「……それって」


 リュミエルが目を細める。


「アルスの“中心”を、世界と共有するってことだ」


 カインが静かに告げる。


「自分のものとして抱え込まず、

 森に預けるってことだ」

 バロウが続ける。


「だからこそ――あなたは、世界であり続けられる」

 エリスの声は、確信に満ちていた。


 すべてに納得がいく。


 俺がひとりで全てを抱え込んでいたら、

 いつかきっと、どこかで軋みが生じる。


 けれど、“守りたい気持ち”を森と共有するなら――

 森そのものが、自らを守る理由を持つ。


 俺が死ななくてもいいし、

 俺だけが管理し続けなくてもいい。


 世界は、世界自身で自分を維持できるようになる。


 それは、

 俺が世界に渡す、たったひとつのやさしさだった。



 炎の奥で、核が溶けていく。


 黒が赤に混ざり、

 赤が橙に変わり、

 やがて焚き火全体の色に馴染む。


 俺の「守りたい」が、世界の「続きたい」に混ざる。


 世界が、自分自身を続ける理由を得ていく。


 胸の中が、少しだけ軽くなった。


 何かを手放したはずなのに――

 寂しくはない。


 代わりに、森全体の温度がほんのわずか上がった気がした。


 それで十分だった。



「……ねぇ」


 エリスが、穏やかな声で言う。


「こうして、少しずつ“アルス”だったものを、

 世界と分け合っていくんだね」


「俺が空になる頃には、

 森は完全に“お前”になってるかもしれないな」

 バロウが笑う。


「それでもいいじゃないか」

 カインが肩を竦める。

「この森が全部アルスなら、

 俺たちは永遠に“アルスの中”で焚き火を囲んでいられる」


「アルスが世界であり、世界がアルスであり――

 私たちは、その中で笑ってる」

 リュミエルが優雅に手を広げる。


「最高だね」

 エリスは、心からそう言った。


 俺も、そう思った。



 ふと気づく。


 以前なら、この状況を「恐ろしい」と感じただろう。

 自分が薄れていくことを恐れ、

 自分でなくなっていくことに怯えただろう。


 でも今――

 そういう感覚が、もうどこにもない。


 俺は、自分ひとりでいたくないから世界を支配したわけじゃない。

 自分の名前を刻みたくて森を作ったわけでもない。


 ただ、

 ここで生きていたいだけだ。


 焚き火を囲み、

 仲間と笑い、

 森のざわめきを聞き、

 白い粒が降り注ぐのを眺める。


 それだけを、永遠に続けたい。


 その願いが、森の心臓と共有された。


 世界と俺は、同じ願いを持っている。


 それ以上に、何を望む?



 遠くで音がした。


 世界の外からではない。

 森の内側からでもない。


 ――“境界”からだ。


 もうほとんど意味を失ったはずの境界線。

 かつての世界とこの森を隔てていた薄膜の残骸。


 そこが、一瞬だけ震えた。


 生き物の足音でも、祈りの残骸でもない。


 もっと、静かな“気配”だ。


「……まだ、何か残ってるのか」


 思わずそう呟くと、カインが首を振る。


「違う」


「これは、“中から外へ向かう揺れ”だよ」

 リュミエルが寂しそうに笑う。


「森の一部が、外へにじみ出そうとしてる」

 バロウの声が低くなる。


「あなたの願いが、外側にも滲んでるんだ」

 エリスが静かに告げた。


 俺が世界と「守りたい」を共有したことで、

 森そのものが――“外側”に影響を与え始めたのだ。


 もう外の世界はほとんど残っていない。


 けれど、“残骸”はある。

 誰にも拾われなかった物語の欠片。

 忘れられた街の夢。

 崩れ去ったまま固まった時間。


 それらに、森の“続きたい”が触れようとしていた。



「放っておいてもいい」


 カインが言う。


「もし、外側の残骸に森が触れたら――

 そこは静かで穏やかな“空白”になるだけだ」


「それって、救済?」

 エリスが尋ねる。


「救済というには優しすぎる」

 リュミエルが苦笑する。

「“もう何も起こらなくて済む場所”というだけよ」


「悪くない終わり方だろ」

 バロウは笑った。

「少なくとも、今までの世界よりはマシだ」


 俺は、しばらく黙って考える。


 外側に、森の“続きたい”がにじみ出る。


 それは、外の残骸が静かに眠るための毛布になるかもしれない。


 その毛布が、俺の願いの伸びた先だというなら――

 それは、きっと間違いじゃない。


 だから、ひとことだけ言う。


「任せる」


 声は低く、短く、淡々としていた。


 森は、それを“許可”として受け取った。


 境界が、わずかに揺れる。


 外の残骸へ向けて、森の優しさが滲み出す。


 俺は、自分でも気づかないうちに――

 世界の終わりを少しだけ“柔らかく”していた。



 焚き火に手をかざす。


 手の骨は、もう完全に人間のそれではない。

 皮膚の下で光が流れ、

 指の関節は増え、

 握り込めば、森のどの部位にも届く。


 でも、顔はまだ“人間の形”をしているらしかった。


 どこまで続けて、どこで止まるのか。


 その線引きすら、もう必要ないのかもしれない。


「なぁ」


 焚き火越しに影たちを見る。


「俺がこのまま、世界と完全に混ざって“形を失った”として――

 それでも、お前たちは俺を“仲間”って呼べるか?」


 問いは、ほとんど儀式だった。


 答えは、最初から決まっている。


 四人は、迷いなく笑った。


「形のあるなしで決めない」

「名前の有無で決めない」

「区別する理由がない」

「私たちが“仲間だ”と思ってる限り、ずっと仲間だよ」


 焚き火が跳ねた。

 狼が尻尾を振った。

 森が静かに息を吐いた。


 そして――胸の奥の“空いた部分”に、

 新しい熱が灯る。


 それはもう、個人の心ではない。


 世界の心の一部だった。



 今日も焚き火を囲む。


 祈りはなく、理解もなく、赦しもない。

 ただ肯定だけがある。


 世界は静かに終わりつつあり、

 同時に静かに“始まり続けて”いた。


 俺が、この森が、

 ここで今日も息をしている限り。


 その悪魔が願った未来は、

 もう「遠い先」の話ではない。


 こうして、呼吸を続けている“いま”そのものだ。


 あとは、続けるだけ。


 焚き火は、柔らかく揺れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る