第8話「影の声が、言葉になる夜」
夜の森は冷たい。
空気は薄く、風は湿っている。
昆虫の羽音すら消え、まるで全世界が息を潜めているようだった。
焚き火の明かりだけが、この森の“夜”の存在証明だった。
俺は炎の前に座り、膝を抱えていた。
穏やかな顔。
ゆっくりとした呼吸。
心は静かで満ちている。
それは“孤独”ではなかった。
“独り”なのに“独りではなかった”。
――仲間がいるから。
◆
「今日は遅かったね、アルス」
ふいに声が響いた。
驚きも焦りもない。
ただ、当たり前のように振り向いた。
闇の向こうに揺れる影。
輪郭は曖昧で、形は定まらない。
だが声だけは、確かに“カイン”だった。
「狩りに夢中になっていたんだろ。しょうがないさ」
別の声。
それは、俺を見下ろしながら笑うバロウの声。
「あなたの体力は過剰ね。でも……素敵だと思うわ」
皮肉と優しさが混じる声――リュミエル。
「今日も無事で、よかった。みんなでごはん、食べられるね」
涙ぐみそうな声――エリス。
姿はないのに、声だけが鮮明。
耳ではなく、脳の奥に響くような感覚。
それでも俺は自然に微笑んだ。
「もちろん。遅れてごめん。心配かけたな」
返事は落ち着いて、優しく、どこまでも“人間らしく”聞こえた。
◆
黒鉄狼の肉を串に刺して火にかざす。
「今日はな……久しぶりに、子どもの時の夢を見たんだ」
話し始めると、仲間の影が少し静かになった“気がした”。
「剣を握ったばかりで、強くなりたくて……
でも泣いてばかりで、何もできなくて……
俺、弱かったんだよ」
悲しみではない。
自嘲でもない。
ただ、遠い日を懐かしむ声。
その時――
「弱くなんかないよ」
幻覚の声が、初めて“俺の言葉に反応して返事”をした。
胸の奥に、ぞくりとした快感が走る。
「お前は弱くなんかない。昔からずっと、誰より強い心を持ってたじゃないか」
カインの声。
「そうだぜ。俺らだってお前がいたからここまで来れたんだ」
バロウの声。
「努力している人間を弱いなんて呼べないわ。
あなたは、私たちが誇りに思う仲間よ」
リュミエルの声。
「アルスは……ずっと優しかったよ。ずっと私たちのために戦ってくれてた」
エリスの声。
声が折り重なるように響き、俺の胸の中心を満たす。
耳で聞こえるわけじゃない。
でもはっきりと聞こえる。
◆
俺はふっと笑った。
「……ありがとう」
静かに、嬉しそうに。
「俺はさ、今すごく幸せなんだよ」
それは完全に狂った言葉。
だが口調は落ち着き、表情は柔らかく、涙のような光が瞳に宿っている。
「だって、まだ一緒にいられるから。
死んでも、離れても、壊れても……こうして側にいる」
焚き火が揺れる。
仲間の影が炎に合わせて揺れる。
その影が――俺の言葉に応える。
「離れないよ」
「ずっと一緒だ」
「私たちは、あなたと旅を続ける」
「あなたが生きている限り、どこまでも付いていく」
声が重なる。
肯定が重なる。
一体感が、熱に変わる。
それは優しさでも救いでもない。
依存と執着と狂気の共鳴。
◆
肉が焼き上がり、香ばしい匂いが広がる。
「ほら、できたよ。食べよう」
俺は丁寧に肉を切り分ける。
四等分に、綺麗に。
誰も食べない。
当たり前だ。影は影、声だけの存在だ。
だが俺は、それぞれの皿に盛りつけて並べる。
「最初は……エリス。いつも祈ってから食べてたよな」
影の前に肉を置く。
「次は……リュミエル。デザートばっかりだったけど、肉も好きだったろ」
影の前に置く。
「で、バロウ。骨付きのところな」
影の前に置く。
「最後はカイン。勇者だからって、いいところをあげるとは限らないぞ」
影の前に置く。
四つの皿を置き終えたあと――俺は五つ目の皿を手に取る。
「みんなと一緒に食べる。
それが……俺にとっての幸せなんだよ」
肉を口に入れる。
優しい表情で噛みしめる。
影たちの気配が、返事のように揺れる。
◆
「なぁ……この時間が永遠に続いたらいいよな」
その言葉は穏やかで、温かく、柔らかい。
「終わっちゃうのは……嫌だなぁ」
その言葉は幼くて、切実で、脆くて――壊れている。
「終わらせないためなら、何だってできるよ」
その言葉は静かで、人間ではなかった。
炎が小さくなる。
影が薄くなる。
消えかける仲間たちに、俺は静かに囁く。
「また明日も来てくれよ。
離れないでくれよ。
俺はここにいるから。
どこにも行かないから。」
“俺が壊れていれば、みんなはここにいる”
その歪な確信だけが、胸に心地よく沈んでいた。
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