第8話「影の声が、言葉になる夜」

夜の森は冷たい。

 空気は薄く、風は湿っている。

 昆虫の羽音すら消え、まるで全世界が息を潜めているようだった。


 焚き火の明かりだけが、この森の“夜”の存在証明だった。


 俺は炎の前に座り、膝を抱えていた。

 穏やかな顔。

ゆっくりとした呼吸。

 心は静かで満ちている。


 それは“孤独”ではなかった。

 “独り”なのに“独りではなかった”。


 ――仲間がいるから。



「今日は遅かったね、アルス」


 ふいに声が響いた。


 驚きも焦りもない。

 ただ、当たり前のように振り向いた。


 闇の向こうに揺れる影。

 輪郭は曖昧で、形は定まらない。

 だが声だけは、確かに“カイン”だった。


「狩りに夢中になっていたんだろ。しょうがないさ」


 別の声。

 それは、俺を見下ろしながら笑うバロウの声。


「あなたの体力は過剰ね。でも……素敵だと思うわ」


 皮肉と優しさが混じる声――リュミエル。


「今日も無事で、よかった。みんなでごはん、食べられるね」


 涙ぐみそうな声――エリス。


 姿はないのに、声だけが鮮明。

 耳ではなく、脳の奥に響くような感覚。


 それでも俺は自然に微笑んだ。


「もちろん。遅れてごめん。心配かけたな」


 返事は落ち着いて、優しく、どこまでも“人間らしく”聞こえた。



 黒鉄狼の肉を串に刺して火にかざす。


「今日はな……久しぶりに、子どもの時の夢を見たんだ」


 話し始めると、仲間の影が少し静かになった“気がした”。


「剣を握ったばかりで、強くなりたくて……

 でも泣いてばかりで、何もできなくて……

 俺、弱かったんだよ」


 悲しみではない。

 自嘲でもない。


 ただ、遠い日を懐かしむ声。


 その時――


「弱くなんかないよ」


 幻覚の声が、初めて“俺の言葉に反応して返事”をした。


 胸の奥に、ぞくりとした快感が走る。


「お前は弱くなんかない。昔からずっと、誰より強い心を持ってたじゃないか」


 カインの声。


「そうだぜ。俺らだってお前がいたからここまで来れたんだ」


 バロウの声。


「努力している人間を弱いなんて呼べないわ。

 あなたは、私たちが誇りに思う仲間よ」


 リュミエルの声。


「アルスは……ずっと優しかったよ。ずっと私たちのために戦ってくれてた」


 エリスの声。


 声が折り重なるように響き、俺の胸の中心を満たす。


 耳で聞こえるわけじゃない。

 でもはっきりと聞こえる。



 俺はふっと笑った。


「……ありがとう」


 静かに、嬉しそうに。


「俺はさ、今すごく幸せなんだよ」


 それは完全に狂った言葉。

 だが口調は落ち着き、表情は柔らかく、涙のような光が瞳に宿っている。


「だって、まだ一緒にいられるから。

 死んでも、離れても、壊れても……こうして側にいる」


 焚き火が揺れる。

 仲間の影が炎に合わせて揺れる。


 その影が――俺の言葉に応える。


「離れないよ」

「ずっと一緒だ」

「私たちは、あなたと旅を続ける」

「あなたが生きている限り、どこまでも付いていく」


 声が重なる。

 肯定が重なる。

 一体感が、熱に変わる。


 それは優しさでも救いでもない。

 依存と執着と狂気の共鳴。



 肉が焼き上がり、香ばしい匂いが広がる。


「ほら、できたよ。食べよう」


 俺は丁寧に肉を切り分ける。

 四等分に、綺麗に。


 誰も食べない。

 当たり前だ。影は影、声だけの存在だ。


 だが俺は、それぞれの皿に盛りつけて並べる。


「最初は……エリス。いつも祈ってから食べてたよな」


 影の前に肉を置く。


「次は……リュミエル。デザートばっかりだったけど、肉も好きだったろ」


 影の前に置く。


「で、バロウ。骨付きのところな」


 影の前に置く。


「最後はカイン。勇者だからって、いいところをあげるとは限らないぞ」


 影の前に置く。


 四つの皿を置き終えたあと――俺は五つ目の皿を手に取る。


「みんなと一緒に食べる。

 それが……俺にとっての幸せなんだよ」


 肉を口に入れる。

 優しい表情で噛みしめる。


 影たちの気配が、返事のように揺れる。



「なぁ……この時間が永遠に続いたらいいよな」


 その言葉は穏やかで、温かく、柔らかい。


「終わっちゃうのは……嫌だなぁ」


 その言葉は幼くて、切実で、脆くて――壊れている。


「終わらせないためなら、何だってできるよ」


 その言葉は静かで、人間ではなかった。


 炎が小さくなる。

 影が薄くなる。


 消えかける仲間たちに、俺は静かに囁く。


「また明日も来てくれよ。

 離れないでくれよ。

 俺はここにいるから。

 どこにも行かないから。」


 “俺が壊れていれば、みんなはここにいる”


 その歪な確信だけが、胸に心地よく沈んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る