砂上の王都の物語~又はその顛末~
色街アゲハ
砂上の王都の物語~又はその顛末~
不毛なる砂漠の遥か続くその地で、さながらその中で唯一つ浮かぶ巨大な船を思わせるその都市は、並ぶ物とて他に無い王都として、知らぬ者の無い栄を見せていた。
その威光は砂漠を遥かに越え、その先に続く遍く国々を従えた後、集められた数々の献上物は、遥か遠方の国への交易品として高値で取引され、更なる繫栄への礎となっていた。
元は砂漠の中に点在するオアシスの一つでしかなかったその地は、周囲の交易点としてこの上なく適した位置にあった事もあり、瞬く間に街が出来、その規模は大きさを増すばかり。遂には贅の限りを尽くした一つの都市として成立する事になった。
各地より集った物珍しい品々の飛び交う中で落として行く膨大な財貨が、その都市の威光を高め続けた結果、一つの都市にして国としての態を為すに至った。
不思議な事に、これだけの規模の都市を支えている豊富な水資源は、並のオアシスなら疾うに尽きていても可笑しくないにも拘らず一向に尽きる事無く、後から後から溢れ出し、砂上に在りながらその地を緑豊かな肥沃な地として生まれ変わらせるにまで至ったのである。
わざわざ遠方より運び込まれた純白の大理石をふんだんに使い建てられた王都の建築物は、訪れる者をしてその眩さに目を細めさせ、眼前に広がる景観に言葉を失わせた末、知らず知らずの内に膝を折り伏して
その中でも中央に位置する王の
その高く伸びた尖塔はまるで天から釣り下がり、地面にそっと置かれたかと見る、想像を遥かに超える高さを誇り、神代の時代より現われ出でたかの様な厳かさと、天から下ったかの様な印象故か、或いはその神々しさ故か、この上なく軽い、今にも天に昇り消えて行くかの様な印象を見る者に抱かせるのだった。
その宮殿より四方に伸びたその優美さから、さながら宙に伸びた浮橋を思わせる通路を伝い、建てられた四つの小宮殿が王宮に付き随うかの様な佇まいで各々個性的な姿を見せていた。
一つ目には、遠方から訪れた貴人たちの為の物であり、それぞれの国のあらゆる美術品、動植物、食料などが所狭しと犇めき、其処に滞在する者は居ながらにして自国に居る様な、否それ以上の憩いを得られるのだった。
二つ目は王の後宮であり、其処には各地より集った美女達が豪奢な、しかし厳重な監視の元に日々を過ごしていた。王は彼女らの慰みとなる当代一流の詩人芸人達を差し向けて、彼女等の微笑を引き出そうとしていた。
三つ目の宮は司祭達の為の物であり、また王都随一の寺院であり、民は日毎其処を訪れ、日々の恵みと安寧を祈願し、王と神々に感謝の祈りを捧げるのだった。
最後の宮、それは学者達の為の物であり、数学、語学、歴史、詩学などあらゆる分野の学問に対する研究が為されていた。
一日の始まり。未だ暗い宵の内に、王宮に据えられた礼拝堂から次々と姿を現わした司祭達が、四方に伸びた通路を通り、天に届けとばかりに伸びた尖塔の立つ小宮殿を経て、外へ出て行く。
耳に妙な音を立てる錫杖を鳴らし、余人の理解出来ない祝詞を唱えながら、王都の隅々にまでその歩みを止める事無く散って行く。
その頃には空は徐々に茜色に染まり、それと共に我先にと目を覚ました群鶏の中から、次々と一日の始まりを告げるけたたましい声が方々から立ち聞こえ、未だ星々の語り掛ける夢の世界にいる人々の眠りを終わらせる。
そして、漸く人々が寝惚け眼を擦りながら身を起こし、通りの其処彼処に姿を現わす頃には司祭達の姿は既に無く、寺院に戻り額を衝き合わせた彼等は、日々の務めである神学の解釈に早くも没入している。
賑わいを見せ始めた王都を余所に、厳かな静寂に包まれた王宮に、ある一人の老いた学者が呼び出された。数ある学問の中で最も重く用いられている占星学。彼はその道の権威と言って良い立場にあった。この国では星々、特に月をその信仰の拠り所としており、王を始めとする人々は皆、神々が月の向こう側から自分達の生を垣間見ていると信じ、満月の夜ともなると人々は決まって窓を開け放ち、この時ばかりは道行く夜盗も彼等の仕事を行う事無く、他の人々と混じり敬虔な祈りを捧げるのであった。
件の学者は、わざわざ自分が名指しで指名された事の重要性を理解していた。朝早くに起き、充分に身を清めてから、王の前でしか纏う事を許されない礼服に袖を通し、暫しの瞑想の後、王の前に罷り越す為に自室を後にしたのであった。
供の者一人付ける事無くたった一人で王宮に赴いた学者であったが、さて、話を進める前にこの王宮について少しばかり文面を割く事を許して貰いたい。
この王宮は正にこの王都を象徴する物と言って良かった。全て純白の大理石で建てられたその佇まいは遠くから見ても一層際立つ物だった。何と形容したら良いか、全てに於いて、その配置が少しでもずれたらその美しさ優美さは忽ち崩れ去ってしまうであろう微妙な物であり、王都の人々が遍く信仰する月を思わせる、冷たく怜悧な、それでいて蕩ける様な妖しさをも持ち合わせていた。
それを構成する石材のその一つ一つに微妙繊細な
王宮への門まで続く一本の長い大理石の橋が、王宮を囲む幅広の堀に波々と湛えられた水を跨いで行くと、その先端に青と緋の華麗な色彩の衣装に身を包んだ彫像めく門番に依って護られた巨大な城門に辿り着く。
その城門には全ての世界の始まりである混沌を現わす巨大な渦が描かれ、重い音を立てて門が開かれると、中へと通ずる数多の異国風に真ん中の膨らんだ柱が延々立ち並ぶ通路が現われる。
それぞれの柱に刻まれた浅浮彫には、原初の混沌から分たれ生み出された様々な事柄が、時系列順に記されていた。訪問者は奥に行くに従って、この世界の推移を自ずから知れる様になっていた。
門を潜り、しばらく歩くとやがて混沌は分かれ、上に空、下に大地、海を為す。それぞれの場所に残る混沌がうねり逆巻いて、その勢いのままに空では雲が立ち昇り雨を降らし、地は盛り上がり落ち窪んで山や谷を為す。海では波が滔々と立ちその下では泡が絶え間なく現れ、やがてその中から自ずから蠢く物、生命の兆しが表れ始める。
それは海だけに留まらず、やがて地を這い、空を飛び、俄かに騒がしくなったその様を空の月の向こう側から神々が興味深そうに覗き込む。
その中で、それ迄地を這うだけであった中から不意に二本の後ろ足で地を踏みしめ、両腕は天に向けて伸び、天と地、その二つとも己が物にせんと云う際限のない衝動に駆られた人と云う存在が此処に現われる事となった。
そこから浮彫は俄かに躍動的になる。人の子の止め処ない衝動により、山は切り崩され平らに均され、その上に数え切れない建物が幾つも林立する。
海には数多の船が浮かび、時に波に浚われながらも次々と未だ見ぬ大地を目指し出港して行く。
未だ空には至らないが、自らを地を這う存在である事に飽き足らず、次々と矢継ぎ早に石を積み上げ高所に至ろうとするその様は、その身を羽を持たずして禁忌の領域へ手を伸ばそうと云う、度し難い衝動の形を如実に表していた。
地表では常に争いが起こり、築かれた無数の屍の上に鬨の声を上げる英雄達の栄光の物語が高らかに歌い讃えられる。それは海の上にまで飛び火し、幾多の船が沈み多くの人々が海の藻屑と消えた。地上と海とで消える事の無い戦火は空にまで届き、星と月とが眺める夜空を真紅に染め上げる。その日その時起きた事を永遠に空に刻み込むかの様に。
切れ目の無い赤い絨毯が王の待つ玉座の間まで延びるその両脇で、通常時は話す事も動く事も許されない衛兵達の無言の視線を浴びながら歩を進めて行くと、やがて現われる謁見の間。
長く続いて来た浅浮彫の物語もそこで終焉を迎える。月に祝福された都の出現に、人々は抜身の剣を収め自分達が祈願して止まなかった理想がそこに表れている事を見い出し、須らく膝を折り首を垂れる。今や月の向こう側から姿を現わした神々が一斉に一所を差し示し、その箇所から清浄な水が止めどなく溢れ出し王都の人々を潤し、やがてそれは周辺に広がり遂には世界を包み込むに至るだろう事が示されてこの永らく続いた物語に終止符が打たれる。その事を裏打ちするかの様に、天球の形に築かれた天井の中心に月を現わす真円に切り取られたその真下、王都の生命その物と言える止む事無く溢れ続ける水脈の源泉の丁度真上に築かれた噴水が繊細華憐な水の華を咲かせ、水盤に浮かぶ紅白の蓮の花と呼応し、この空間に得も言われぬ彩を添えていた。
しかし、その場で佇む王はその光景に目もくれず、背を向けたまま口を真一文字に引き結び、あらぬ方向に視線を注ぎ、それはまるで其処に余人には伺い知れぬ何かが有るかの様に一心に見据えるのだった。
ただならぬ王の様子に、側付きの者も、噴水の水盤の縁に腰掛け頻りに水を掬って戯れる後宮より選りすぐられた美女達も、恐れて声を掛けられず、張り詰めた空気がその場を支配する中、そんな雰囲気を全く意に介する事無く、さながらその辺を気軽に散歩するかの様な気安さで、老いた学者は王の前に進み出ると、恭しく首を垂れ、
「お呼びにより只今罷り越して御座いまする。王よ、本日もご機嫌麗しゅう……。」
と、洩れる言葉はその字面とは裏腹に、行き交う友が交わす親し気さ。その言葉は重苦しい空気の漂うこの場に不意に吹き抜けた微風の様に、水盤の蓮の花を微かに揺らし、噴水の揺らめく水を擽り、気まずさに顔を背けていた側付きの者や手持ちぶたさ気に水盤の水をかき回していた美女達も思わずハッとして一様に顔を向けてしまう程の涼やかさを感じさせた。
その風を感じたのか、王はそれまで憑かれた様に一所を見据えていた視線を切り、かの学者へと向き直った。未だ壮年の、両の頬に輝くばかりの命の花を咲かせ、しかし、その眼差しは空に瞬く遠い星々の光の如く深く底が見えない。
「余計な世辞は要らぬ、要件に入ろう。」
無駄な言葉など不要とばかりにぴしゃりと遮る態度は、王の心を占める事柄の重要性を如実に語っていた。少なくとも王をして他の事には目もくれない態度に出る位には。
王と星読みの学者、共にこの都に潜む神秘に深く通じた二人には、何時しか本来その身分の違いから許されない筈である奇妙な絆が生じていた。今となっては互いにそれを意識するまでになっていたので、先に交わされた挨拶も何処か儀式めいた物、これから為される会話が、王とその臣下と云う立場を越えた物である事の一種の合図の様な物として機能していた。
暫くその事を確認し合うかの様な沈黙が過ぎた後、口火を切ったのは王であった。
「其方を呼び出したのは他でもない。予てから余の、否、この王都全ての者の念願であった暦の作成に取り掛かって貰いたい。」
学者はこれを聞くとピクリと身体を一度震わせたが、変わらず無言を貫いた。まるで王からその内の心情を引き出そうと促がすかの様に。果たして次の瞬間王の口から堰を切った様な言葉が止めどなく流れ始める。
「言うまでも無い事だが、余や其方を始めとする、この都の民は須らく月をその信仰の拠り所としている。月とは我等の世界と神々の世界とを繋ぐ窓であるが為。だからこそ我等は満月の夜を随一の聖夜と定め、恐れ敬う。何時の日か我らが神々の座に向かい入れられ、彼等との完全な合一を果たすが為。そんな我等がな何故に古来より使われていたと云う、ただそれだけの理由で昔ながらの陽の巡りを元にした暦に縛られ続けなければならぬのか。しかもそれは凡そ正確さとは程遠い穴だらけの粗雑極まりない物とくれば、一体何故今までこの事が放置され続けて来たという事が不思議でならぬ。
我等はこの問題に対して余りに無関心で有り過ぎた。聖なる月に守護されしこの王都が斯くなる状況に甘んずるならば、それは月に対する延いては神々に対する我らの怠慢であると受け取られても仕方ない事。我等は最早これ以上斯くの如き屈辱に甘んじる訳にいかぬ。
今こそ我等は我ら自身による独自の正確且つ絶対的な暦を作り上げなければならぬ。それで漸く我等は月との結び付きを完全な物とし、この美しくも永遠なるこの都が神々の世界と地続きな物である事を広く知らしめる事が出来るのだ。余の言わんとする事、其方なら理解出来るであろうな。」
星読みの学者は、王の熱に浮かされた信仰告白にも似た常ならぬ多弁を前にしても微動だにせず、泰然として深々と腰を折り、王の何より期待して止まない言葉を口にするのだった。
「機は熟したのです、王よ。」
「既に我が手元にはこの計画に取り掛かるに適った全ての材料が揃っておりますれば。残すは観測による細部の擦り合わせのみ。
さすれば王よ、後はただ一言命ずるだけで良い。そうすればこの身は直ちに観測所へと取って返し、兼ねてよりの我らの悲願、月に依るより正確でより詳細な暦を作り上げる事に全力を上げましょうぞ。
そして完成の暁には、その時こそ王はこの王宮に刻まれる彫刻の伝承にある通り、月の向こう側におわす神々の秩序に基づいた真に世界を統べる者として讃えられる事になるでありましょう!」
学者が最後に絶叫した際には、王の態度は先程とは打って変わり、むしろ冷ややかな様子を見せていた。まるで二人の間で情熱の炎を受け渡しでもするかの様に。しかし王の目を見る者は、それが表面上の事に過ぎないと理解した事だろう。その奥で彼自身の進行する月の如く冷ややかな中に一種病的とも言える情熱の炎が激しく燃え盛っている事に。しかし王はあくまでそれを態度に示す事無く、静かに背を向け、
「期待している。」
と言うのみであった。
自身の言葉の通り、早々に王の前から辞した学者は、今や彼の住まい同然となっている街外れの観測所へと取って返したのだった。
それからという物、その観測所では、夜毎窓から小さなランプの明かりが洩れ、その光を背後に毎晩の様に天体の観測に勤しむ学者の姿が認められたのであった。彼には王より賜った命を遂行するだけの自信があった。今まで自身の蓄積して来た観測結果と、それに加えて先人の星読み達の残した資料が豊富にあったのだから。そして実際に彼はその膨大な資料の中から確実に新たな法則への道筋を織り成して行ったのである。しかし、或る問題が彼の行く手を阻む事となった。月の正確な位置を知る為には、その周辺の星の位置をも把握する必要があるのだが、老いに伴う目の翳みが星を見定める事を困難にしていたのであった。何度目を擦りながら空を見上げても、彼の目に映るのは二重にぼやけた一等星。三等星に至っては全くその姿を捉える事が出来ない有様なのであった。
彼はこの為、数日間夜空を見上げる事無く考え込んでいたが、自分一人ではこの状況を何とかできる有効な手段を何一つとして用意出来ないと思い知らされるだけであった。
助手を雇うにしても、複雑繊細な観測技術は、代々師匠からその一番弟子に秘術として継承される物であったから、そして彼の弟子は彼の望む域にまでの成長を見込めぬ者ばかりであった。
此処に来て、王都の豊かな生活が、怠惰、と云う名の遅効性の毒となって、人々の心に浸透しているのが仇となっていた。
「師匠、そもそもそんなに躍起になってまで星を観測する事に何の意味が有るのですか?」
彼の弟子達は皆口を揃えてこう彼に尋ねるのだった。こんな心構えでは彼の教えが弟子達に深く伝わるべくも無い。終いにはすっかり愛想が尽きて、相当数に上る弟子達全てに暇を出す事を彼に決意させる位には、この人々の中に染み付いて離れない怠惰の毒は、王都の中に深く蔓延していたのだった。
この様な訳で一時期彼の仕事は全く進める事が出来なくなっていたのであるが、或る時ふと思い立って、王宮の学者塔を訪ねて行った。数ある学者達の中に一人、光に関する研究を行っている者が居た事に思い至ったからである。もしかしたら、と云う淡い期待を込めて尋ねた光の学者は、しかし、かの星読みの学者を前にしてこう言うのだった。
「しかし、残念な事に、私では貴方の期待に副う物を提供出来そうにはありませんな。何故って、私は光の作り出す様々な像や色彩、つまりその現象その物の研究を行っておりましてな。貴方の仰る様な光を支配し、其の理を曲げる様な事となりますと、如何に私と云えども答える事は出来かねる、と云う訳でして。」
星読みの学者はこれを聞いて、肩を落としてその場を去ろうとしたのだが、相手はその時ふと思いついた様に、
「そう言えば、弟子の一人が、この弟子と云うのが実に困ってやつでして、学問もそっちのけで街で遊んでばかりいるのですが、これも奴に言わせると、民衆の中にこそ真理と云う物は宿っているなどと言う始末で。いや、それがですね、貴方。この弟子の言う所によると、何でも最近行商達の集う市場に一つ珍しくも興味深い物を見付けたと言うのです。
何でもそれは、人の目に似せた水晶か玻璃に依る玩具らしいのですが、それを覗き込むと、小さい物を大きく見せたり、逆に大きい物を小さく見せたり出来る様で。いや、私は実際に見た事は無いのですが、なあに、どの道あの弟子めの言う事。話とは裏腹のくだらないガラクタなのでしょうがね。
おや、貴方何処へ行くんです?」
最早、星読みの学者は最後まで話を聞いていなかった。縋れる物なら藁にでも縋り付きたい気分になっていたのだから、彼はこの怪しげな話であってもすぐさま飛び付いたのであった。
この都市の中央で開かれる巨大な市場では、東西南北至る所からの国々から齎される珍しい品々で溢れていた。自身の研究室に閉じ籠り切りで、滅多にこの様な界隈を出歩く事の無い学者は、人いきれに満ちた中でむせ返りそうになりながらも、目的の品を求め彷徨い歩いていた。どうせなら、先の学者の弟子とやらを案内に連れ歩ければよかったのであるが、何しろ取るも取り敢えず慌てて飛び出してしまった後の事。その事に考えを巡らせる余裕も無かったのであった。それに、考えてみれば先の学者の言った通り、全くの出鱈目のインチキなのかも知れない。人ごみの中で探すのに疲れてしまった彼の悲観に傾きかけた彼の意識に、その時飛び込んで来たのは、只でさえ騒がしい此の界隈で更に辺りに響き渡る大声で、一風変わったパフォーマンスを行う異国風の商人の姿であった。
恐らく西方からの商人であろうか、一枚の布を身体に巻き付け、肩を出し、彫刻を思わせる掘りの深い顔立ち。散り散りに巻いた黒髪の下で抜け目無さそうに光る鋭い眼差し。大勢の観客の見守る中で、片方の手に黒く染められた紙を、もう片方には、真ん中の膨らんだ丸い玻璃板。半ば取り留めの無い商人の口上と共に、太陽にかざされた玻璃板の、集められた光の一点に集う箇所に当てられた黒紙に、忽ちに焦げ臭い煙と共に燃え広がる炎。
方々で上がるどよめきの声の中、星読みの学者の頭の中で或る考えが浮かび上がる。太陽の光を一点に集める事が出来るのなら、仮に太陽の側から其の玻璃板を覗き込んだとしたら、その一点の箇所が拡大された像として映るのではないか、と。
彼は人の波が曳くのを待って、その商人に声を掛けてみた。「何だい爺さん、冷やかしならお断りだよ。」 思ったより売り上げの見込めなかった事から、明らかに不機嫌な態の商人を宥めすかしながら聞き出した事柄を纏めるとこうだ。
確かに此の玻璃板は近場の小さな物を大きく見せる事が出来る。いや、それが本来の用途なのであるが、此処まで歪みなく玻璃の塊を磨き上げる手間暇から自然高価にならざるを得ないが故に、中々買い手の付かない事に半ば捨て鉢になった商人の、せめて人目を引こうと立ち上げたのが先の見世物であった。
ならば、遠くの物を、例えば星をさながら目の前に有るかの様に見る事は出来るか、と云う学者の問いに、商人は首を振る。ある程度距離が離れてしまうと、その像は大きくなる所か反対に小さくなってしまうのだと。しかも何故かその写る景色は上下逆様になってしまうのだ、と。
その答えに学者は落胆したが、それでも最近とみに苦痛を感じる様になっていた羊皮紙に書かれた文字を読むのに都合良かろうと思い直し、適当に並べられた中から数個買い求めておく事にした。安い買い物ではなかったが、長い間の一人籠った研究生活による貯蓄、更に経済観念の欠如。老いた学者が此れ等の買い物に戸惑う理由は無かったのだ。
今では半ば住処となっている観測所に帰ってきた学者は、独り椅子に座り、先程買い求めた玻璃板を両手に一つずつ持ち、何気無く弄んでいた。成程、この道具は字を読む上では大いに役に立った。その意味では良い買い物だったと言えたが、当初の目的である、遠くの物を鮮明に見る事は果たされなかった。彼は大きく息を吐き、背を丸め机に突っ伏した。
これでは王の命を果たす事が出来ない。何より星を見る事が出来ないと云う、彼が生涯を掛けて取り組んで来た事を否定される様に思えて、それが彼を苦しめ苛んでいた。物心ついた頃からただひたむきに星に身を捧げて来た彼にとって、それはこうして字で書き表すよりずっと重い意味を持っていた。自分も年貢の納め時かと、ぼんやり考えながら、それは無意識の為せる業か、彼は手に持った二つの玻璃板を目の前で重ね合わせながら、ゆっくりとその距離を引き離して行った。
その瞬間、彼は文字通り椅子から飛び上がっていた。彼の居る観測所の頂点に位置する部屋。その部屋の彼の座っている位置から丁度真向かいの、壁面を覆う星図。それは彼とその先達たちの手に依って幾度も修正を繰り返しながら描かれて来た物であるが、彼の居る位置からは決して近いと云えない所に有るその絵図が、玻璃板を通して突如眼前に大きく迫り出して来たのであった。それは、まるで彼がその星図に向けて飛び込んで行く様な、或いは又、出し抜けに肥大化した星図が、彼を丸ごと呑み込んで行くかの様な、そんな迫力に満ちた衝撃的な出来事なのであった。
思わず手に持った玻璃板を取り落しそうになったのであるが、ふと、窓に目をやると、弾かれた様に窓辺に駆け寄り、先程と同じ様に二枚の玻璃板を通して外の風景を覗いてみるのであった。すると何とした事か、通りを歩く群衆の、俄かに其の一部が、さながら目と鼻の先に居るかの様に大きく映し出され、大口を開けて笑う見知らぬ人の、その歯並びに至るまでもがくっきりと見て取る事が出来、その猥雑な笑い声が今にも此の耳に聞こえて来る様ではないか。
彼は暫く放心した様にその場に佇んでいたが、やがて逸る心と激しく動悸する旨を抑えようと、敢えてゆっくりとした動作で椅子に座り直すと、「落ち着け、落ち着け……。」うわ言の様に呟きつつ自問する。
「落ち着け、まだ全てが解決した訳ではない。問題は依然として目の前に在るぞ。先ず、確かに此の方法で遠くの物を目の前に在るかの如く見る事は出来るが、その代わり目の前に映る物は依然としてさかしまに映った像ではないか。果たしてそれで正確な観測は可能であるか? 恐らく可能であろう。長い年月を星の観測に費やしてきたワシにとってすれば、例え目に映る物が逆さであった所でどうという事があろうか。星を見る事に掛けて、ワシ以上に熟練した者は存在しない。これは驕りではなく、単なる事実だ。つまり、事は出来る出来ないの話ではなく、遣り遂げねばならぬという覚悟の問題だ。観測に伴う計器の扱いや、結果を算出する際の手順、慣れるまで時間は掛かるだろうが、遣り遂げてみせるぞ。」
今一つの問題は、未だ彼の手にある玻璃板の扱いに関する物だった。幾ら何でも観測の間中両の手に持ちっぱなしと云う訳にも行かない。時にはペンに持ち替えねばならない時もあるだろうし、他の計器を使わなければならない時だってある。それに、一旦合わせた正確な位置と、像のブレを調整した状態をその都度やり直す手間は避けたい。観測処ではなくなってしまう。
「ならば、こう云うのはどうだ。幾つもの筒を重ね合わせた伸縮自在の筒の両端に玻璃板を嵌め込み、こうすれば一度合わせた焦点をそのまま維持できる。ならば、一度探り当てた像の位置を維持する方法だが、これはずっと簡単だ。筒の向きを固定出来る機能を備えた台を用意すれば良いだけの事。これで良いか? 良いだろう。今日は冴えているな。おっと喜んでいる場合ではなかった。早速手配するとしよう。」
そして学者は、側付きの小姓にこの思い付きを形に出来る職人の手配させるのだった。簡単な作りだ。そう時間は掛からない事だろう。後は、空の星に、あの遥か遠い空の上に位置する星々に対しても此の玻璃板の恩恵は届き得るのかと云う懸念だけが残った。部屋の向い側、街の遠い処には有効だったこの方法も、あの星々の世界にまで届くとは限らない。いや、理屈では可能であると頭では分かっていても、いざそれを目の当たりにしないと安心出来ない。此処までやってぬか喜びで終わるのは恐らく耐えられない。
夜は、夜はまだか、と、忙しなくウロウロと部屋の中を行ったり来たり。落ち着かない様子の彼に、心配した様子の小姓が、「先生、一旦休んでみてはどうでしょう?」と声を掛けるも、「これが寝てなどいられようか!」などと癇癪を起し、手の付け様が無い。やがて職人が来て、ああでもない、こうでもないと中々進まない作業に業を煮やしながらも、そうしている内に少しずつ落ち着きを取り戻して行き、作業が終わり、その出来栄えに始めの不機嫌は何処へやら、すっかり上機嫌になって、街のあちらこちらへと筒を向けて、子供の様にはしゃぐ姿を見て、小姓も職人も”処置無し”と呆れ顔で互いに顔を見合わせ肩を竦めた物だった。
「ホウ、金歯か。」
しかし、そんな一時の感興も過ぎてしまえば、彼は又しても抑え切れない焦燥に苛まれ、こんな時に限って、何故こんなにも時の経つのは遅いのか、と頭を抱え大声で叫んでいた。幾度となく空を見上げては、まだ明るい、早く、早くとまんじりともせず空を見上げ、地を睨み、幾度もそれを繰り返しては、まるでそうする事で時が早まり、夜を手繰り寄せる事が出来るかの様に飽く事も無く。
しかし、彼がどう念じようと空の巨大な半球は、常の如く常の動きで廻り続け、夜は夜の時間になって漸く訪れるのだった。だからあれ程休んでおけ、と。
「これが寝てなどおれようか!」
夜の黒襦袢の上に、それまで鳴りを潜めていた星々の、小さな明かりが所々、チラチラと瞬きながら灯る空を見上げ、疲れ切り半ばぼんやりとしていた意識の底からその事に気付いた瞬間、文字通り彼は椅子から飛び上がり、窓枠に飛び付いていた。手には件の遠見の筒が。震える手で幾度も取り落しそうになりながらも、それを空に向けてかざしてみるのだった。
暫くの間、彼は棒の様にその場に突っ立っていたが、やがて深いため息と共に、「ホウ!」と一声歓声を上げた。休む事無く空のあちらこちらへと向きを変え、その度に、「ホウ、ホウ!」と洩れ出る声。正しく、正しく、彼の覗き込む筒を通して映った空の星々は、嘗ての様に、否、それ以上の鮮明さを以て彼の目の前に大きく広がったのであったから。
彼の常軌を逸した喜び様も無理のない事であった。一度は諦め掛けた星々の世界。それが再び彼の前に舞い戻って来たのであったから。世界の見取り図としての天空の世界は再び彼の前に展開され、彼は今一度その中で自在に世界を渡る船人となった。
一頻り星々の観測に勤しみ、それ等結果を纏め上げる作業に没頭していた星読みの学者。ふと手を止め、感慨を込め深い溜息を一つ吐くと、暫く気の抜けた様に椅子に背を預けていたが、やがて独りでに言葉がその口から漏れ出していた。
「これで漸く何物にも妨げられる事無く仕事に打ち込める事が出来る。恐らくこれがワシの最後の仕事となるだろう。もう随分と年を取ってしまったからな。この仕事を終えたら、もっと後進の指導に力を入れねばな。王もお許しになる事だろう。もう充分に働いた。後は気儘に星と戯れながら生きて行く事にしよう。きっと楽しい物になるに違いない。月よりこの世界を覗う神々も、きっとこの老骨の成し遂げることに満足される事だろう……。」
そこまで喋って、彼は不意に口を噤んだ。最後の言葉の中に潜む、或る忌わしい考えが脳裏を過ったからであった。それは、この都に住まう物であれば、決して考えてはいけない事であった。彼は何度も頭を振っては、この考えを打ち消そうとした。無駄だった。一度その考えが頭に過ったら決して消し去る事など出来はしない。
おお、人の子よ、何故己の分を超えてまで決して許されぬ領域にまで手を伸ばそうとするのか。それは、人の身には過ぎた物。所詮汝は地を這う獣。そは神々の御座す場所。許されぬ、許されぬ。決して其処に手を伸ばしてはならぬ。嘗て西方の国に於いて、蝋で固めた羽で以て空を駆けた者が、紙の領域である陽に至らんと、要らぬ欲に駆られてしまったが為に、無残にもその身を亡ぼす事となったではないか。引き返せ、引き返せ。それ以上は神々の領域ぞ。
だが、そこまでして己の心に言い聞かせても、自身の内に煮えたぎる衝動を、彼は抑える事が出来なかった。先程とはまた違った慄きを彼はその身に覚えながら、震えの止まらない手を、その手に持つ筒を、ゆっくりと月に向けていた。
それからひと月もの時の過ぎた頃、或る不穏な噂が人々の間で囁かれていた。王を始めとしたこの都全ての人々がその信仰の対象としている月。地上に於いて様々な試練に晒される運命にある人々の、死したる後に神々の座す天井の世界へと至る為の唯一の入り口として知られる月と云う名の空の門。それがあろう事か、空の海に唯一つ、ポツンと浮いた砂と石の巨大な球でしかなく、其処には何も見い出せない死の風が吹き荒れるだけの荒涼の地であるに過ぎないと。人々が信じて止まない神々の姿は何処にも見出せず、ただ空に有るのは死と虚無の成れの果て。
ひと月前に、皆の寝静まる深夜の刻限に突如として響き渡った或る叫び声。
「何と云う事だ! 月は、
死を前にした獣の上げる咆哮にも似たその叫びは、知らず知らずの内に夢の内に在る人々の中にまで入り込み、その夢を忽ちの内に恐ろしくも忌わしい悪夢へと染め上げた。人の手の届かぬ空の果て。際限なく広がる果ての無い天球を埋め尽くし冷たく灯る星々の、僅かな光を一身に集めた月の顔。嚢腫に塗れ病と死の気配の濃厚な、青白く浮かぶその相貌を、疾うに苦悶を通り過ぎ、表情の抜け落ちた虚ろなその相貌を、人々は悪夢の内に目の当たりにした。
各々金切り声と共に目を覚まし、しかし、何故自分が叫び声を上げたのか、目覚めて霧散した夢と共に、その理由は失われた。
しかし、得体の知れない恐怖は残り、それが人々の心に影を落とした。それと共に都の栄華に、確かに翳りを齎す事になったのであった。
其れと分からず、しかし、毎夜繰り返される悪夢、その中で心の底を貫くこの世の真実、夜毎空の上から地上を睨め付ける死と病の、この世全ての死と病のそれ等全ての集う処である月の、その悍ましく怖ろしい相貌を毎夜目の当たりにし続ける人々の記憶の奥底に、幾度忘れようともその消え難い印象は確実に人々の心を蝕んで行き、やがてそれは明確な形となって人々の口から口へと、正に病の如く噂となってこの都中に蔓延して行く。
人々の不安と恐れが頂点に達しよう、正にその時になってそれは起こった。都中の人々の集う中央の広場に滾々と豊かな清水の沸き立つ噴水に、常の如く羽を休めに来る水鳥の、突然苦悶の声を上げ、飛び立ったと見ると、中空で弾け、辺りに乾いた赤い砂を撒き散らした。つい先程まで、王の間に次いでその巨大さを誇る水盤の、なみなみと張った水に浸かり、思う様その腹の内に清らかな水をため込んでいた筈の水鳥のその有様に、人々は言葉も無く唯その場に佇む事しか出来なかった。
その砂を不運にも浴びた人々の、日を跨いだ後にその姿を見た物は皆無であった。彼等の寝床に残された赤い砂。かの水鳥の、その顛末を思い起こすに、それは充分な物だった。
それから時を経ずして、都のあらゆる処で何時の間にか降り積もる砂の山。始めそれ等は部屋の隅、路地裏の袋小路、そう云った目に付かない所に埃の様に堪り、やがては部屋中に、或いは往来の真ん中に山を造り、その間を虚ろな目の人々がふらつく足取りで歩いて行く。彼等は、在りし日の都の、華やかで豊かさを誇った日々を、そのまま生きているのだった。半ば夢と化した薄れた意識の中で。口々に意味の掴めない言葉を呟き、何処に向かうのかも分からずに、ただ行ったり来たりを繰り返して。
嘗て在った都は今では見る影もなく、ほぼ廃虚と化し、人々は有りもしない夢の中に生き、星読みの学者はふらつく足取りで最早道と呼べなくなった道を歩んでいた。これが、これが、世に並ぶ無きと謳われた王都であるのか、と、見回すその目に動揺を隠せずに、これから赴く事になる王宮の有様を予想して、動悸の激しくなるのを抑える事が出来なかった。僅かに残った意識のある衛兵からの言付けにより、王からの呼び出しを受けた学者は、自身の身に待ち受ける運命もさることながら、何よりこの都の繁栄の象徴である豪奢を極めた王宮、並びに人々の栄華を一身に背負った王の、その凋落を目の当たりにする事の、その事を何よりも恐れるのだった。
果たして、近くに寄って見た王宮の、所々が崩れ落ち、嘗ての威容も見る影もなく、既に遠く役目を終えた後の遺物としての印象しか持ち得ない、荒涼とした佇まいに、学者は暫くの間言葉も無く立ち尽くすしかなかった。本当にこの中に今も王が?
出来得る事ならその姿を見る事なく済ませたい物だが、半ば予感めいた確信が彼の内に在った。彼の王は今もこの廃虚と化した王宮の中で自分の訪れを待っている、と。
進む内に自然と目に入る、在りし日の訪問者達の目を楽しませたレリーフの、そのほぼ全てが見るも無残に崩れ落ち、秩序立った壮大な物語の代わりに、欠け落ち、粗いザラザラした砂地の月が露わになったその下で、同じく欠けて、不格好な人の形を不器用に模した、人ならざる何かが、隙間もなく犇めいて無秩序に。それは壮麗な月の都に対する勝利の凱歌にも思えて、思わずその悍ましさに学者は目を慌てて逸らし、足早にその場を抜けるべく王の間へと向かうのだった。少なくともここよりはましであると信じて。
しかし、訪れたその場所は王都の何処よりも凄惨な光景が広がっていた。王都の豊かさの象徴とばかりに尽きる事無く溢れ出たこの国一の規模を誇った噴水は枯れ果て、その代わりに、王の為に集った後宮の美女達の血で溢れ返っていた。今しも、泣き叫ぶ声の響く中、衛士達に次々と首を断たれ、その身体から迸る血が睡蓮の花弁を真紅に染めて行く。
荒事に慣れた衛士達であっても、その光景に顔を歪め、噎せ返る生臭い匂いに
「王よ、これは何のお積りか!? 如何な王であっても、この様な暴挙、決して許される事ではありませぬぞ!」
「黙れ!」
王の言葉は苛烈でありながら、裏返ったか細い物であり、それは嘗ての生命に満ち溢れた声音とは遠く離れて、学者はその声に、目の前にいるのが果たして以前目にした王と同一の人物であるのかを疑う程であった。
「黙れ! 全ての発端の原因である貴様が余の行いを云々するなど烏滸がましいにも程があるわ! 余が知らぬなどと思ったか! 貴様が目にし、辺りも憚らず大声で喚き散らしたこの世の真実……、否、そうではない。そんな積りではなかったのです。おお、神々よ赦したまえ! 決してその様な! かの様な戯言を真実などと……、誤謬、そう、誤謬だ! 貴様の吐いた誤謬の所為で、今こうして神々の怒りを買い、見よ! 我等は国諸共滅びの時を迎えようとしている! かの苦難を乗り越える為には、生中な犠牲では足りぬ。全て、そう、全てだ! 全てを捧げ尽くしてでも神々の怒りを鎮めなくてはならぬのだ! 貴様は其処で指を食わえて見ているが良い! 死ぬことは許さん。貴様の犯した罪の重さは、単に処断する事では収まりが効かぬ。この王国の全て、それ等が神々の贄となり、喰われ尽くされる様を、その両の眼で最後の最後までしかと焼き付けるが良い!」
こう捲し立てると、王は血の並々と溢れる水盤の、そのすぐ傍に立てられた急ごしらえの櫓に、ゼイゼイと、息も絶え絶えになりながら、やっとの思いで這い上がると、こんなにも窶れ切った姿でよくも、と思わずにいられない程の、辺りの空気を引き裂かんばかりの声を張り上げ、
「神々よ、受け取りたまえ! 我が身を捧げ、そうして儀式は完成する! 何卒、何卒怒りを鎮めたまえ! そして、願わくば、この国に再び御身の加護を与えたまえ! 切に、切に願い賜わん! いざ行かん! 神々の身元へ!」
直後、王は身を躍らせ、自らが命で満たした血の池へと飛び込んで行った。如何なる理の発露か、時の巡りが途端ジリジリと、地を這うが如く遅くなる感覚を学者は味わっていた。殆ど止まっているかの様にゆっくりと落ちて行く王の顔は、狂気に満ちた歓喜の笑みに包まれており、嗚呼、しかし、その果てに何を見たのか、王の顔は次第に紙を丸めるが如く縮み、皴だらけのその相貌に絶望の色濃く映る、是非もなし、幼子の泣き顔さながらの悲嘆を讃えた其れへと変わって行くのであった。
”トプン” と、小さな音を立てて、王の身体は血の満たされた池へと飲み込まれ、それきり二度と浮かび上がらなかった。僅かな静寂の後、突如として湧き上がる轟音と共に、大量の砂が血を押し退ける様にして迸る。辺りは忽ちの内に呑み込まれ、その場に居合わせた人々の叫びも悲嘆の声も全て砂に沈み、培われた価値も地位も誇りも妬みも皆等しく、干上がり微細にして差異の見い出せない無価値の名をその身に負った虚無にして忘却を示す砂粒の内。
溢れに溢れ、王宮を外観を飾る麗しき尖塔を吹き飛ばし、そのうねりは忽ちの内に津波となって、未だ幸せな夢の内に酔う都中に彷徨う人々をも、その夢毎全ては一切が虚無の果て。都の至る処で咲き乱れる真紅の華。人々の圧し潰されて飛び散る血煙の、その命の最後に咲かせる華が、白い砂の濁流の中で鮮やかに彩りを添える。
消えて行く、埋もれて行く。この世に並ぶもの無きと謳われた神々に祝福されたかの王都は、日を跨ぐ間も無く、呆気無く周囲の砂の海と見分けが付かないまでに均され、神代の昔より今に至るまで其処には始めから何も存在しなかったとでも言うかの様に、唯、緩やかに波打つ、何処を見渡しても砂、砂、又、砂ばかりが広がっているばかりであった。
夜の内に、唯一人砂上に残された星読みの学者は瞼を開く。身を起こし見渡せど、何処まで言っても変わり映えの無い砂が目に映るばかり。ここに至って、王の残した言葉が過る。死ぬ事の許されぬ、行く末を見据えよ、との呪詛に満ちたあの言葉が。しかして、彼の目に映るは、何一つ、巨大にして華やかさを極めた王都の名残の欠片として其処に見止める事の出来ない、荒涼たる砂の塊のみ。嘗て王都を飾った石の一欠けらですら見当たらず、人の姿はおろか、息衝き動くものとて何処にも見当たらぬ。
これは……、全身が総毛立つ。これではまるで……、と、彼の恐る恐る見上げるその先に映る、其処には、常の姿よりも何倍も拡大された様に見える、ギラギラと青白く、眩く思える程に地上に光を投げ掛ける、真円の月があった。
それを見詰める彼の眼が揺れる。これはまるで、あの月を覆う世界その物ではないか。今もその表面に病と死の、全てを詰め込んだかの様な、月と地上の鏡写し。
おお、人の子よ聞け、これこそが汝らの齎し光景。嘗て在りし月の姿、人の世より以前の、月なる嘗ての存在は、この母なる地より分たれし、やがて新たなる
それが叶わなかったのは、人の子達の、死を恐れ、病を倦み、遠ざけようと自身に降りかかる、ありとあらゆる不幸の種を、空に浮かぶ月の地へ、塵でも捨てるかの様な気安さで、其処で何が起ころうと気にも掛けず、次から次へと際限なく押し付けた、挙げ句月の表面は、ありとあらゆる病と死の嵐が猛威を振るい、其処に息衝く、全ての生けとし生ける者達を、残さず余さず呑み尽くし、哀れ彼等の悉く、苦悶と怒りと悲しみの中に、死に絶えて行ったのだ。
見よ、もし汝がその眼に映る月に、死と病の不吉の影を感じ取ったのだとしたら、それは嘗て月に居た、全ての命の抱きし、怨みと怒りと悲しみの、それ等全てが渦巻いた、今尚こうしてのうのうと此の地にて息衝き、自らの命が何の犠牲の下に有るのかも知らず、こうして、こうして! 在り続ける人の子らに向けられた怨嗟の目が、貴様ら人の子に降り注いでいるからだと知れ!
この地に住まう、全ての人の子の、その最後の一人に至る全てが死に絶えるまで、この怨みが消える事は無い。この地が、空に浮かぶ死の世界と同じ姿になるその日まで、”我等”の復讐が終わる事は無い。見よ、見よ、人の子よ。これは始まりに過ぎぬ。汝ら人の子が、その終わりなき欲望に駆られ、月の秘密に触れようと手を伸ばす度、月は立ち所にその手を掴み、嘗てその身に受け、今もその身を苛む死と病を、この地に齎す事だろう。
さあ、全ての命を奪われし者よ、今こそ鬨の声を上げよ! 遂に、遂に、我らは此の地へと通ずる手段を得た。見よ、人の子よ、見よ! これより起こるは、何れこの地を覆い尽くす、我らが勝利の凱旋なり。しかとその眼に刻み付けよ。その生の終わりに、しかと刻み込むが良い!
辺りを響かす声が止んだ後、常の何倍も肥大化した月の、ギョロリと目を剝き、アーンと嘲る様に開いた口から突き出した舌先の、その先からボトボトと零れ落ちる無数の何かが。
其れ等は、ゆっくりと起き上がると、嗚呼、何とした事か、さながら人間の姿をこれ以上無い程に、それは冒涜的とも行って良い、余りに不格好な似姿なのであった。彼等は手に手に、これまた歪さの極みと云った楽器らしきものを持ち、或るモノは耳障りな弦の音を響かせ、又或るモノは、明らかに調子の外れた金切り声の様な音を吹き鳴らす。ダダン、ダダン、と拍子を無視した打楽器が至る所で鳴り響き、足並みの崩れた彼等はそれに合わせて倒つ転びつ、打ち伏したまま僅かに顔を上げてその様子をただ見守るしかない学者のすぐ横を通り抜けて行くのだった。後から後から際限なく現れる彼等に、学者は、嗚呼、と絶望の声を上げた。終わりだ。この世に並ぶもの無きと謳われたあの王都は、今やどこにも見当たらず、それを嘲り嗤うかの様に延々とこの無の砂漠を練り歩く彼等の姿を見るにつけ、その思いは漸く現実の物として実感される様になって行った。何一つ、何一つ、此処には何も無かった。全ては仮初の、始めから借り物の栄華だったのだ。今、全てを元の持ち主達に返す時が来た。ただそれだけの事だったのだ。
呪われよ、呪われよ、始めから何処にも居ない、不在なる神々よ、呪われてあれ! 自らの愚かさ浅ましさに胡坐を搔き、齎される繁栄を、当然とばかりに享受するだけの人の子らよ、呪われてあれ! 全ては虚構であった! 天にも届けとばかり、己の抱く驕りによって偽りの塔を打ち立てた王都も、衝けば崩れる脆い砂の楼閣に過ぎなかった! 全ては砂に埋もれ、死と病の支配する、あの月の地表と同じく、この地も何れあの様に、砂だけの、それ以外何も見い出せない虚構の世界と化すのだ。そして、その時こそ二つの死の星は、手を携えて、永遠に終わらぬ輪舞を踊り続けるのだ。おお、人の子らよ知れ! 何れ其の時は来る! ゆめ忘れる事なかれ! 今この自分の見ている光景こそ、何れ訪れる事の確定しているこの地全ての姿なのだ!
そこまで言って、学者は事切れた。その上を半透明の、人の姿を模した此の世ならざる者達が無数に通り過ぎて行く。辺りに響き渡る騒々しい、しかし誰の耳にも届かない、勝利の鬨を唱えながら。その光景は遥か東の果てより、燃え立つ日の光が射し、完全にその姿を現すまで続いた。後には何も残らず、ただ絹に寄った皴の様に、何処までも広がる砂の上に、風の描いた文様が広がるばかりであった。
斯くて、この世に並ぶものなし、と謳われた壮麗な王都は、一夜にしてその姿を消した。時と共に人々の内からその記憶は失せ、今では砂漠を渡る民の、夜毎張られる天幕の内で、子供達に語られるお伽の中に、僅かにその名残を残すのみである。
終
砂上の王都の物語~又はその顛末~ 色街アゲハ @iromatiageha
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