かえる
はるむら さき
かえる
「かえりたい」
と、いつも思っている。
朝起きて顔を洗う鏡の前。
通勤途中の交差点、その近くの喫茶店の磨かれたガラスの前で。
雨上がりの不快な水溜りを見下ろして…。
ふとした瞬間、自分と目が合うたびに、どこか遠くにある懐かしい場所に思いを馳せてはため息をつく。
「また、今日が始まる…」
「これは、やっぱり夢じゃないんだな」
こちらに来てから、一月は経っただろうか。
何でもいいから職が欲しい。とにかく金を稼がねば。
このままでは、明日にでも大家から強制退去を命じられてしまう…。
今日も今日とて、急ぎ職業安定所へと乗り込み、壁一杯に張り出された求人票を右の端から、左の端まで目を皿のようにして眺めてみるも…。
「管理職募集」、「普通自動車免許を持っている方大歓迎」、「薬剤師募集」、「笑顔に自信のある方」、「人と接するのが好きな方」…云々。
世の中には、こんなにもたくさんの仕事が溢れているけど、そのどの条件にも当てはまらずに、何にも出来ない自分が一人。
掲示板に張られた紙っペラ達と、にらめっこしては、いつも惨敗して惨めに泣いて逃げ帰る。
「未経験の人でも大歓迎」とか、紙上は調子の良いことばかり唄うけれど、実際に行ってみれば面接さえ受けさせてはもらえない。履歴書を手渡す時点で、苦い顔をされて追い返される。
…ああ、そうだろうな。
ぼくだって逆の立場だったらそうするさ。
けど、好きでこんな風になったわけじゃない。
今生のぼくの姿は、誰がどう見ても「蛙」である。
しかも、雨蛙のような、まだ比較的可愛らしい姿ではなくて、よりにもよって汚泥を油で煮込んだような、あり得ないほどひどい色のガマガエル。
それが人間サイズで服を着て歩いているのだ。四足で、靴も履かずに地面をベタベタと這いながら…。
そんな見た目だというのに、言葉だけは流暢な人間語を話すのだから、気味悪がられても仕方ない。
石を投げられないだけマシだ。もう、そう思うしかないだろう。
でなければ、ぼくはこの世界で生きていけない。
一週間前の夕方だった。
入院した母さんの見舞いの帰り道。
先ほど医師から告げられた母の余命。
三ヵ月。あまりにも時間が無さすぎる。
医師の言葉を思い返しては、目の前が真っ白になる。
それでもやらなければならない手続きや、母の兄弟にどう伝えるか等、色々なことが頭の中を駆け巡っては消えていく。
ああ、でもその前に。
とにかく一度、実家に帰って、母さんから頼まれたものを届けなければ。
シャツと靴下と、それから少し肌寒いから羽織るものが欲しいと言っていたっけ…。
だから、ああ、とにかく、家に帰らなければ…。
その後、どうやって車に乗って、どの道を走ったのかは覚えていないが、脳裏に焼き付いている光景がひとつ。
交差点。信号が青になり、左折した途端、直進してきた乗用車が狂ったようにクラクションを鳴らし、猛スピードで突っ込んでくる。向こうの信号はもちろん赤。
瞬きする間も許されなかった。
表現出来ない衝撃と痛みが全身に走った気がしたけれど、すぐに何も感じなくなった。
視界は白になる。
次の瞬間には、先の見えない霧の中に一人立っていた。
「立っていた」とは言うものの、足下は不安定で、宙に浮くという表現が一番、ふさわしいだろうか。
そうか、ぼくは、死んだのか。これは、あの世というやつか。
へえ、あの世というのはもっと美しい花園か、恐ろしい火の山かと思っていたが、そのどちらでもないんだな。
そうだ、母さんはどうなったのだろうか。
母の病室は北の窓側で、だから「とても冷える」と寂しそうに言っていたっけ。
だから、羽織るものだけでもはやく、届けなければ…。だから、はやくかえらなければ…。ぼくは、かえるんだ。
「了解しました。我々からあなたに今生、与えるサービスは "母親に羽織るものを届けること" 。そして、来世のあなたに私共が提案する生は "カエル" ということで受理いたしました。なお、その事であなたが過度な迫害や虐待を受けることはありません。それでは、よい異世界転生ライフをお過ごしください」
霧の向こう、急に黒い影が現れたかと思ったら、事務的な早口で告げられた。
影が言い終わるがはやいか、そのまま白い世界に消えていく。
何を言っているんだ?何か知っているなら教えてくれ。ここはあの世ではないのか?
影が完全に消えると同時に、足が地面についた感覚があった。
「びたりっ」と。今までとはまったく違う感覚で。
それから。
気がついたら、ここにいた。
魔法使いや魔物なんて、非現実的な者や物は一切存在しない。前にいた世界とほぼ変わらないこの世界に。
違うのは、信号が赤、白、黄色の三色になっていること。空が緑色になっていること。
そして、世界にたった一人。
ぼくだけが「人間語を話す蛙」になったこと。
「異世界転生したらとんでもない姿や立場になったけど、なんとか頑張って幸せになれちゃったぜ」なんて、上手くいくのは物語の中だけらしい。
実際の「異世界転生」というものが、どんなものなのか…。
知らないなら教えてあげるよ。
「あなたは、あなたとして生きてるだけですばらしい!」なんてよく目にする広告の言葉。
ほんとうだね。今ならちゃんと身に沁みて理解できるよ。
人間の世界で、人間の姿をして生きていたということが、どれだけありがたかったのか。こんな姿になって、ようやく気づいた。
ぼくは前世でどんな罪を背負ったというのだろうか。
国を滅ぼしたか?他人を殺したか?物を盗んだか?人を陥れたか?
何も、してないだろう。
ただ毎日を送るために生きて、母さんに元気になって欲しいと思った。それだけだ。
ただ真面目に生きているだけでは駄目だったのか?
確かに、戦争を止めることも、他人の命を救うことも、新しい技術を産み出すことも、他人を正すことも出来なかった。
何も、してなかったからか…。
「よい異世界転生ライフ」だって? ここは地獄だ。こんなにも辛くて苦しい「罰」は他にはないと思う。
それでも、この世界で生きる意味があるかって?
余命わずかの母さんが、もう寒くて悲しい思いをしないように。
ぼくがこの世界での生を諦めれば、その分のペナルティは、母さんに課される仕組みらしい。
『異世界転生者初回講習』というやつで、そう教えられた。
母さんの最後を看取れない代わりに、ぼくはこの地獄をあと少しだけ、生きてみせるよ。
まあ、この世界で一年経っても、もとの世界では五分しか進まないらしいけど…。
親より先に死んでしまったぼくが、残された母さんにしてあげられるのは、それくらいだから…。
かえる はるむら さき @haru61a39
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