純潔の悪魔

 ……きっかけは確か、一週間前の夜だったか。この日は雨が降ったので、少しジメジメとした空気が感じられた。

 莉緒は制服のまま、そんな夜道を足早に進む。この日は学校で嫌な事があった。この日はと言うよりは、この日も、ほぼ毎日。


 とにかく色々な事情とストレスが重なり合って、その鬱憤をぶつける存在も、発散する明確な方法もわからない。とりあえず、学校から真っ直ぐ家に帰りたくなかった。


 近場の書店に立ち寄ったり、気晴らしにコーヒーチェーン店で甘いドリンクを飲んだり。散財やら何やらで、とにかく思いつく限りの事をして。上がらない気持ちをどうにかしたかった。

 そうしたら思いのほか時間を使ってしまって、いい加減に帰ろうとしていた所だった。


「――あ、お母さん? ……うん、そろそろ帰るね」

『気を付けなさいよ? 最近物騒だから……。ほら、例の連続殺人とか』

「わかってるよ。お父さんにはテキトーに言っておいてね。それじゃ」


 母への電話を済ませて、口うるさい父への対処も依頼。後は帰路のままに。

 繁華街から少し離れた所の街灯が少なくなった辺りで。建物が高密度で並ぶ通りの横道に入っていくと、少し薄気味悪い雰囲気を感じて、段々と蒸し暑くなるこの季節に少し悪寒がする。


「……こんなに暗いんだもん、それはそうだよね」


 気味の悪さを、曇天で月明かりも差さないせいだと結論付けた。

 そうして、いくつもの裏路地を通り過ぎて行った。瞬間だ。


『――あぁ……ゔうぅ』


 ふと、耳に入ったのはうめくような声だった。野良猫や犬ではない、人間の声。

 何も考えずとも、自動的に足が止まる。ゆっくりと数歩ずつ後退し、体を仰け反って。その声が聞こえた、通り過ぎた路地に目をやった。


 しかしどうにも暗くて、狭苦しい内部の様子は良く見えない。目が明暗に慣れるまで、じっと目を細めて。徐々に浮かび上がる、そのシルエットを見極めた。


 ……人影が一つ。いや、あれは二人いるのか? 影が重なって、日常では見慣れぬ奇妙な動き。それなら、闇夜に紛れた男女のいかがわしい行為かとも思えるが、どうやらそうではなさそうだ。体格的にはどちらも男に見える。


「あ、あの……大丈夫ですか? 何かありました……か?」


 恐る恐る声をかけてみる。ビビり性のくせに、どうしてこんな時ばかり勇気が出るのかは、彼女自身が一番わからない。

 一歩一歩、奥へと足を運んだ。

 もし、この人が病気か何かで苦しんでいたら? という心配と不安感と恐怖心を天秤てんびんにかけながら、進む。


 すると、――視界が微かに開かれる。雲が裂けて月明かりが差し込んだのだ。

 その時、莉緒の予想が一つだけ正しかったことが、その状況を見て裏付けられた。

 男が二人だ。一体、なにをしているんだ。

 とうとう視力が追いつき始めたとき、全てが明らかになった。


「……や、やめ」


 呻きを上げる男に、もう一方の人物が背後から掴みかかっている。

 病気だとか、そんな理由だったらまだマシだった。だってこの状況は……明らかに事件性があるのだから。


「――ひっ⁉」


 硬直した。肉体の、精神の芯から湧き上がってくる震え。走る鳥肌。脳天から爪先つまさきに至るまでの全てが、目の前で起こっている状況に支配されている。


「ぐゔぅ……、ふぅ、ふぅ……っ――」


 の男が、次第に脱力していく。気が付いた時には――ドサッと、アスファルトの上へ崩れ落ちた。

 ふと、ろう人形にんぎょうのようになった莉緒へ向け、彼を放り棄てたが面を向ける。フードを深く被っていて、まだ顔は良く見えない。ふらふらとした足取りが、まるで幽霊のようで気持ち悪い。


「――東雲さん?」


 不意に聞こえた、フードの下からの声に反応する。

 男が自分の名を呼んだ。気が狂ったのではない、確かに聞こえた。


「あー、見ちゃったんだ? 僕の顔」

「……え?」


 そうだ、確かに見た。なら自分は何をされる? きっと、自分も……。

 しかし、男はどうにも様子が変だ。変と言うよりは、想像した感じとは少し違う。目撃者に手を出すような素振りもなく、やけに平静を保っている。


「うーん……見られたからには消すしか、って感じだけど」


 声も出せないその隙に、莉緒はまなこを覗き込まれたような感覚を憶える。


「でも困ったなぁ……君は僕の獲物には見合わない。だって東雲さんは、いい人だもんね!」


 ――いい人ってどういうこと。どうしてこの男は、私の名前を知っているの。……どうして、殺さないの。

 莉緒は思考するが、答えなど浮かぶはずもない。


「まぁいいや。その様子じゃ、君が口を開く可能性は低そうだ。それに、そのままにしても面白そうだし」


 男は凶器らしき物を隠して、踵を返した。するとフードの中の、その顔が振り返って、


「それじゃあ、学校で会おう。たくさんお話ししようね」


 そう言い残して、男は宵闇の中へ去っていく。

 雲が流れ、月明かりは再び消え去った。

 闇を取り戻したこの場に残るのは、呆然と立ち尽くす莉緒。そして、倒れ込む男。


 「――っ! ……今のって」


 一瞬で、詰まっていた呼吸が飛び出る。汗が止まらない。急激な血流によって頭がぼやける。

 その意識の中で、男の声を思い出した。それは、今しがたの記憶ではない。遠い記憶の中に、既に刻まれていた声だった。

 そして口に出す。声の主である、彼の名を。


「桐崎……君?」



 その後の事は、詳しく覚えていない。ただ茫然としていて、ひたすら逃避行を続けていたように感じる。わかることと言えば、気が付けば帰宅していたという事くらいだった。

 翌日、莉緒が見た光景は全国ニュースで大々的に取り上げられることとなった。幾千もの報道が交錯するメディアで、全ての見出しをこの一言が席巻していた。

 『〈純潔の悪魔〉事件』と。


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