第一章

 6月中旬になって、私は制作を本格的にスタートさせることになった。あの日にすぐ予定を合わせて、空いている時間でまずは彼女の肖像画を描くことにした。奇跡的に二人の授業時間の空きが揃っていることが多く、逆にどうしていつも水曜一限しか会えないのかと少し悲しくなった気もする。

 ここは芸術学部棟三階の私の作業台があるアトリエ。普段は数人で使うところなのだが、木曜の午後はみんな授業で出払っているか、先に帰っていて誰もいない。

 「お待たせ千明ちゃん、遅くなったよね。前の授業の先生が時計見ずに授業しちゃうんだから遅くなっちゃったよ。というか、ここがアトリエ?すごくきれいなところ!芸術!って感じだね!音楽の人たちもいるんでしょ?」

 「そうだね。十階のうち、下から四階が美術で、上から四階が音楽かな。間の二階部分にはギャラリースペースと小さめのホールがあるけど。普通の大学なのに結構充実してるんだよね。めっちゃ恵まれてる環境だなーって思う。」

 咲来は初めて来た芸術学部棟を見てとても楽しそうだ。そんな顔も可愛いな…。

 …今、自分は何と思った?自然と出てきた感情に少し動揺した。

 「じゃあ、そこの窓際に座って。」

 鉄筋コンクリート打ちっぱなしの空間の窓際、無機質な空間ではあるが、レースカーテンの奥にはある程度の緑が広がっている。本当は青空の下で描きたいが、梅雨の時期であるため、断念。予定を合わせてからずっと画角の事を考えていて、大学内のロケーションの中から散々悩んだ結果、結局自分のアトリエの窓際に収まった。

 咲来を座らせて、私はデッサンを兼ねた鉛筆画を描き始めた。最終的には油絵で仕上げる予定だが、両方描くことに決めた。後々個展を開くことになったとき、デッサンもあると点数が増えて良いという理由もあるが、鉛筆画の素朴さで残しておくことが個人的に大切だと感じたのだ。見て描く、見て描く、をひたすら繰り返す。

 「ねぇ、千明ちゃん。千明ちゃんはどうしてこの大学の、芸術学部の美術専攻に入ったの?」

 咲来が指示した方向を向いたまま聞いてきた。

 「私、とっても飽き性で。一つのことが続けられなくてさ。小さいころから絵画教室に通ったり陶芸教室に通ったり。色々勉強してきたんだけど、性格の通り全然続かなくて。でも絵を描いたり、デザインしたり、美術に関わることが好きだから。ほかの大学は専攻でやることが一つに絞られちゃうから続けられる自信がないし…とか思ってた時に見つけたのがこの大学のこの専攻だよね。美術に関するいろんなことが総合的に学べるなんて、最高だよね。まぁ、大学に入ってまで一つを究めるっていう覚悟がない“甘ちゃん”とか言われてもしょうがないと思うこともあるけど、無理しなくていいからのびのび勉強できて、私は本当に来てよかったなって思うよ。」

 私は自分の話が長くなってしまったと思いながらも優しく相槌をくれる咲来に答えた。

 「そっか、いいね。なんか表せないけど、確かに、いろんなジャンルを結構自由に勉強させてもらえるところだよね。…私、文学部で、主に日本文学が好きで勉強したくてこの大学に来たんだけど、本当にいろんな授業が受けられるから実際に何が勉強したいか見失っちゃう時があるんだよね。沢山の文化を知ることができて、一つを究めたいと思った時に、例えば、1800年代のベートーヴェンは古典派で、同じく活躍したゴヤはロマン主義で、その時の日本では十返舎一九が『東海道中膝栗毛』を出していて…こうやってジャンルとか国を超えて学べるっていうのはそれもそれでほかじゃ当たり前にできる事じゃないだろうし…。私はどちらかといえば『十返舎一九』を勉強しに来たはずなのに、やっぱりベートーヴェンの方が面白そうだな、そっちかじってみようかなとか思う。…なんか話しすぎちゃった気がする。知ることも大事だけど、自分の本来一番知りたいことをうやむやにしちゃいそうになるときがあって焦るんだ。」

 咲来がずっと話してくれていた。確かに、自分は『自由があるからこそ』、色々かいつまんで総合的に勉強できることに魅力を感じるけど、咲来は『自由があるからこそ』、一つを究めたいのに目移りして逆に不自由さを感じることもあるってことなのかな。価値観の違いってこういうことだったのだろうか。やはり新しい視点を知れるってこの大学の自由でいいところだな。

 「そういえば、千明ちゃんにちゃんと聞いてなかったけど、作品集のコンセプトは結局どう伝えたの?」

 私の手が止まった。ずっと伝えるべきか迷って何も伝えていなかったのだ。咲来を彼女役にして咲来を想った作品を制作したい。それをうまくごまかして伝える方法が見つからなくてずっと本来のコンセプトを伝えていなかったのだ。私はあのカフェでの緊張を思い出したかのように手が震え始める。どうしよう。どう伝えよう。

 「えっと…。今のところは、咲来ちゃんをモデルにいろんな角度から芸術作品を創ろうかなって思ってて…。なんだろう、ほかに、あの、夏に海辺で写真作品も制作しようかなとか思ってて、それで…。」

 焦って言葉が切れる。うまく言いたいことが伝えられない。どうして『友達である咲来ちゃんを彼女と見立てて、その想いに関する作品集を制作したい』ってそのまま言えないのか。どうしても本当のことが言えない。もう、気づいてしまっている。

 好きなんだ、咲来のこと。もちろん友達としてじゃない。恋愛感情として、一人の人間として、むしろ愛している。こうやって、会話するときには“ちゃん”を付けて話してるのに、実際心の中では呼び捨てで呼んでるんだ。もっと距離を縮めたくて。どうしよう。きっと伝えてしまった方が絶対に楽なのだ。どうしよう。

 「…千明ちゃん?」

 「何…?」

 いつの間にか咲来が立ち上がって私のそばに来ていた。そして、

 「やっぱり嘘ついてるじゃん。なんか隠してるよね…?…もちろん怒ってるわけじゃないけど、なんか、わからない。今日の千明ちゃんわからない。どうしたの?いつももっと明るいじゃん?珍しいよ。私、なんか変なことした?それとも、ほかの人に何か言われたの?…あれ、ちょっと、千明ちゃん!?なんで…」

 なんで、涙を流しているんだろう。

 気が付いたら目を見開いたまま泣いていて、自分でも感情がわからなかった。嫌われるという心配?伝わらない辛さ?いや、そもそも何も伝えてないのに伝わらないなんて、おかしな話だ。とにかく目の前の咲来を困らせているという状況もだんだん整理がついてきて、情けなくてさらに涙が出そうだ。

 「ご、ごめん、なんか思い出させちゃったかな…?大丈夫なの…?泣かないで…。」

「ご、ごめん…私もわからなくて、びっくりっさせちゃってごめん…。」

 咲来が不安そうに覗いてくる。もうどうしたらいいかわからなくなっていた。感覚がない。だからもう、特に恥ずかしさは、怯えは何も感じない。

私はついに咲来を抱きしめた。咲来は固まって、動かなくなってしまった。きっと頭の回転が追い付いていない。比較的クールだと思っていた女友達が突然泣き出したと思ったら抱きついてきたのだ。私はもう感情が止まらない。止まれなかった。どちらも声を出すことができずに何分経っただろう。何十時間も経ったような気もするくらいだ。先に声を出したのは私の方だった。

「ごめん、騙したみたいになるかもしれないけど、聞いてほしいかも…。どっから話したらいいかわからなくて…。えっと、課題の話をしたらいいのかな。今年の作品集課題のコンセプトは、私が咲来ちゃんを彼女に見立てて、その彼女に因んだものとか、贈り物とかを制作して作品集にしようと思ってて、それもある先輩が、『今夢中なものを題材に作品を創るのがいいよ』ってアドバイスをくれて…。私が今夢中なものって何だろうって、一か月くらい考えた。そしたら、咲来ちゃんの事ばっかり考えてて…。わかんないよね、私もわかんないんだけど。とにかく今一番夢中なものって、咲来の事なんだ。うん…。」

どうしよう、どう伝えよう、どうしたら誤解なくそのままの気持ちを伝えられるだろう。いや、ずっと嘘をついていたようなものだからもう遅い気もするが、頭の中で「どうしたらいいだろう」という言葉だけが空回りしているようだ。何も考えられない。何も進まない。

ずっと考えている間にも咲来は少し離れたものの、私の手を握って、私を見て黙って聞いているようだった。

「変な話かもしれないけど、えっと、咲来ちゃんのことが好きで。これは友情を通り越してしまっていて、私の中ではもう本当に大切で、なくてはならなくて、手放したくなくて、できれば一生一緒に添い遂げたいくらいに好きで。どうしたってずっと咲来ちゃんの事だけを考えてるんだ。」

同じことを何度も繰り返した。もう頭が回らない。沈黙が怖いからなのか、口から滝のようにずっと言葉が流れて話し続けている。何かでごまかそうとしているのかもしれない。

ふと話をやめてしまった。恐れていた沈黙がやってきた。すると咲来が私の手を少し強く握った。

「…なんか、プロポーズみたい。」

咲来はそう言って少し笑ったようだった。私は何も話せなくなってうつむいた。

「千明ちゃん、そう思ってたんだね。私も今なんか経験したことのない気持ちだなって思って正直困惑してるところもあるんだけど、とにかくすごく私のことを想ってくれてる気持ちが伝わったよ。告白ってことでいいのかなぁ?」

―――告白。そう。私は告白してしまった。咲来の言葉によって氷水を浴びせられたようだった。突然冷静になって、頭に血が上り始めた。頭から鼓動の音が聞こえてきて、息が苦しい気がする。私はすこし怯んでしまった。

「えっと…多分…そう?だと思う…。…いや、そう。これは紛れもなく、私から咲来への告白。授業で隣になったその日から私はきっと惹かれてた。」

それでも私は、しっかりと咲来の目を見た。この気持ちは勢いなんかじゃない。確かにこのシチュエーションは勢いかもしれないが、ずっと自分自身にすら隠してきていた気持ちだったのだ。この恋は今のところ重たくて深い。経験なんて幼稚園時代の御遊びでしか経験したことがないし、恋愛ドラマなんて見たらなぜか体調が悪くなる気がしてまともに見たこともなかった。だから恋や愛なんて小さいころに見ていたお姫様と王子様が結ばれるファンタジーや、本屋さんの奥やグッズ店の本棚にずらりと並んでいる漫画でしか知らない。それでも、想ったこの気持ちは「お子様の遊び」にしてはしっかりしている。


やがて、咲来が口を開いた。

「ありがとう。千明ちゃんの気持ち、すごく伝わったよ。私の事をたくさん想ってくれていたのも。そして、ずっとその気持ちに気づいてあげられなくてごめんね。…でも私もわからない。正直、その気持ちをぶつけられて初めての事だからちょっと困ってる。だから、今は返事できない。けど、一度、千明ちゃんについて改めて考えてみようかな。」

「…そっか。そうだよね。もし咲来ちゃんの気が変わったりしたら教えてよ。私はもう吹っ切れた。隠したりしない。好きだって伝え続けてみようかな。」

私はそう言ってまた咲来に元の位置に戻るよう促して、デッサンの続きを描き始めた。なんだろう。一度断られたようなものなのに、さっきのデッサンより生き生きとした線が描ける気がする。

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