第2話 物理学者

     ◇


 高校二年の十一月上旬のことだった。


「なあ、あきら。卵って何もしなくても立つと思うか?」


 学校からの帰り道、晶が友人のゆきと二人で並んで歩いていたときのことである。自転車を引いていた彼がやぶからぼうに質問をしてきた。


ゆきはいつも唐突に質問して来るなぁ」


 晶は上を見上げ、街路樹の桜の葉が紅葉しているのを眺めつつ苦笑する。


「いいから答えてみてよ」


 ゆきに急かされ、晶は自分の考えを口にした。


「そんなの簡単だよ。『卵は先を割らないと立たない』だろう? コロンブスがやった有名な話じゃないか」


 そう言ってゆきのほうを見ると、「やっぱりな」と言ってから小さくため息をつく。


「俺もさっきまでそう思っていたんだ」


「さっき? この短い間で何があったんだよ」


 苦笑する晶の質問に、ゆきは真顔で答える。


「『立春の卵』って随筆ずいひつを読んだからだ。著者は中谷なかや宇吉郎うきちろう


「中谷……?」と晶が言うと、「宇吉郎」とゆきが続けた。

 しかし二度聞いても知らない名である。晶は目をしばたたかせたのち、短く尋ねた。


「……誰?」


 それに対し、ゆきがさらりと答える。


「日本の物理学者。明治から昭和に生きた人なんだ」


「ふぅん。それで?」


 聞いたことのない名前だったので、興味半分で続きを聞く。


「中谷が生きた時代もさ、世界中が『コロンブスの卵』を信じていたみたいでね。『何もせずに卵は立たない』と言われていたんだよ。だけど、昭和二十二年、西暦だと一九四七年だから、今より五十年以上は前の話だ。そのときに『卵は立春の日であれば立つ』と各新聞社が写真付きで発表したというんだ。しかも、これは日本だけじゃなくて、中国の上海シャンハイと、アメリカのニューヨークでもあったというから驚きだろう?」


「卵が何もせずに立ったのはすごいけど、『立春の日』だけっていうのがなぁ。何だか胡散臭うさんくさいね」


 困った顔を浮かべる晶に、ゆきが強く同意した。


「だろう? 中谷もそう思ったらしくて。だから『立春の卵』という随筆には、自分でちゃんと実験をして、『コロンブスの卵』のように殻を割ることもなければ、さらには立春など関係なく『卵は立つ』ことが証明してあった。つまり『卵が立たない』っていうのはうそってことさ」


 ゆきの言い分は分かる。だが、晶は腕組みをして「うーん」とうなった。


「そうはいってもなぁ。『何もしないで卵は立たないから、からを少し割って立たせる』っていうのは、コロンブスの時代からある話だよ? 彼が生きたのは確か……15世紀じゃなかったっけ? 6世紀も前の話だよ。ここまで誰も何も言わないってことは、立たないんだって」


 あまりにも有名な話で、誰もが当然と思っている事柄である。

 今更これを否定する説があるとは思えない。晶の指摘にゆきはしみじみとうなずく。


「そこが不思議なんだよな。物理学者の中谷が証明して見せたのに、いまだに多くの人が『コロンブスの卵』のほうを信じている。晶もその一人だろう?」


 ゆきに聞かれ、晶は妙に納得した。


 それと同時に、何故世間では物理学者の話よりも、「コロンブスの卵」のほうが有名なのだろうかと不思議に思う。


 もし、物理学者の話が世に広がっていたら、子どもに教えるにも「『コロンブスの卵』という話があるけど、実際は何もしなくても卵は立つんだよ」と言っていそうなものだ。


 晶は腕組みをほどくと、小さく笑う。


ゆきの言いたいことは分かった。要するに僕たちの固定概念を打破したいから、自分でもやってみたいってことだろう? 実験に付き合うよ」


 すると彼は嬉しそうに破顔はがんした。


「そうこなくっちゃ。俺の家に着いたら、早速卵が立つか試してみるぞ」


 意気込むゆきに、晶は「また始まったな」と思いながら柔らかくうなずいた。


 ゆきの家は、二人が通う高校から歩いて二十分のところにある。

 そのため晶は、よく学校の帰りに彼の家によって、勉強を一緒にしてから自宅に帰るということをしていた。

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