十八話


ヴィオラは、はっと口許くちもとに手を当てた。――自分は何を浮かれていたのであろうか。


そもそもヴィルヘルムが自身で千年を渡ろうとしたのは、賢者としての役割を子孫に負わせないためだ。


たとえ転生体がヴィルヘルム自身であり、直接的にその役目を子孫に負わせることはないとしても、彼が転生できるように子孫たちがその血をやさないよう宿命づけられるのは、彼らの自由を奪う行為になりかねないのではないか。


ヴィオラが思索しさくから我に返ると、ヴィルヘルムは、どこか遠い目をして窓の外の夕焼けを眺めていた。


その切なげな表情に、急な理解が胸をよぎる。


――いな、彼の本心は、きっとそれだけではない。


浮かんできた考えを遠ざけるように、ヴィオラはぎゅっと拳を握り込んだ。


「他に手だてはありませんの? ヴィルヘルム様のご親戚とか――」


絞り出された言葉に、困ったように微笑んだ男は首を横に振った。


「僕に兄弟姉妹はいないし、親戚には魔力を持った者がほとんどいないんだ。だから僕の素質を継いだ人間を見繕みつくろうなら、やっぱり僕自身の子孫を残すのが最も確実だ」


子どもたちに迷惑はかけたくなかったけど仕方ないね、と、やはり遠くを見つめてそう呟く賢者を前にして、女は先ほど浮かんだ考えが確信に変わった気がして、どうしようもなく苦しくなった。


――この人は、どうしていつも自分を後回しにするのだろう。どうしていつも自分を犠牲にするようなやり方を選ぼうとするのだろう。どうしていつも自分の気持ちをあざむこうとするのだろう。


そんな思いが次から次へとあふれだしてくる。


(――嘘つき)


とうとうこらえきれず、ヴィオラは口走ってしまった。


「アリス様のことを愛しているくせに、貴方、誰と結婚するっていうの」


その瞬間、ヴィルヘルムは虚を衝かれたように瞠目どうもくして動きを止めた。そして俯いて、苦痛に耐えるようにじっと押し黙る。


(どうして何もおっしゃらないの)


言い知れぬ激しい感情に胸がひりつくような心地がして、ヴィオラの目から涙がこぼれる。


「――想う人がいるのに、お役目のために違う人と結ばれるなんて、どうして貴方だけがそんな目にわないといけないの」


一度思いを口にしてしまえば、それは止めどなく溢れだしてきた。彼女は、わっ、と泣き出すと、叫ぶように言った。


「貴方ばかりを犠牲にする世界なら、いっそ滅びてしまえばいいんだわ」


ヴィルヘルムは思わずヴィオラに駆け寄って、泣きじゃくり震えるその身体を抱き締めた。


「君は――なんてこと言うんだ」


すると女は男の胸を叩きながら抗議する。


「貴方こそ、アリス様のことしか好きになれないくせに、子孫を残すって何よ」


「――僕は、賢者だから。それは仕方のないことで」


聞き分けのない子どものように泣きわめくヴィオラをおろおろとなだめながらヴィルヘルムは言った。


しかしてその言い訳めいた発言が余計に心を掻き乱したので、彼女は怒りまかせに叫んだ。


「賢者、賢者って! 賢者である前に、貴方は一人の人間です。喜びも悲しみも、人並みに感じている、そういう人間でしょう」


放たれたヴィオラの言葉に、込み上げてきた思いを消化しきれず、男はまた口を閉ざしてしまった。


――ずっと、アリスだけを想ってきた。彼女と結ばれる未来を夢見てきた。けれど今生、それは叶わない。ならばせめて、彼女が負ってしまった役目を分かち合うため、この身を捧げようと決心していた。そのためには、あれだけ否定的だった子孫を残すという方法にも、こうするしかないとなった以上、着手すると決めていたのだ。


たとえそうして彼女以外の人と結ばれる結果になるとしても、賢者として、そういう苦しみには目をつむるしかないのだと、ヴィルヘルムは自分に言い聞かせてきた。


だから今回も、自らの心を偽ってでもそれを受け入れるつもりでいた。


けれど彼にはわかっていた。ヴィオラはこの世界や勇者や賢者ではなく、ヴィルヘルム自身を案じている。ヴィオラはずっとそうだ。彼女がヴィルヘルムの命を救ったときから、ずっと彼のことだけを案じてきたのだ。


そんな彼女に真っ直ぐな気持ちをぶつけられて、揺らがずにいられるわけはなかった。


再びうつむいて黙り込んでしまったヴィルヘルムの胸にそっとひたいを預けると、ヴィオラはやさしく抱擁ほうようを返して小さな声で言う。


「貴方はいつも他人のことばかりで、ご自身のことに無頓着むとんちゃくすぎます。ご自分のことを大切にすることをお忘れにならないで。――を、ちゃんといたわってくださいな」


男が目線を合わせると、泣きらした目をうるませながら、ぎこちなく微笑んだ命の恩人がこちらを見上げていた。


(ああ、まただ)


彼女の真摯しんしな言葉は心地よくて、とても報われた気持ちにさせてくれる。そしてその手の温もりは、己の命のありかを、いつだって思い出させてくれるのだ。


(僕の命は、僕一人のものではない)


この命は、誰かに生かされてきた命だ。アリスの願いが、ヴィオラの思いが、自分をこの世界に繋ぎ止めている。


アリス以外の人と結ばれることは、自分の本心を欺く行為かもしれない。


それでも、千年続く未来のために、千年のその先の世界のために、守りたい人々のために、この命をすのは、他でもないヴィルヘルム自身の願いだ。


だとしたら、この選択は決して自分を犠牲にする行いにはならない。


アリスを愛しているからこそ、自分は子孫を残し、転生していく。


――千年先の未来で、再び彼女と生きるために。


ヴィルヘルムはそっと、ヴィオラの額に自らの額を寄せて静かに言葉をつむいだ。


「僕は大丈夫。これは自己犠牲なんかじゃない。僕の人生を思ってくれたアリスや、僕の心を守ってくれた君がいるという事実が、きっとこれからの僕を、千年支えてくれるはずだから」


向かい合う水宝玉アクアマリンの瞳から再びこぼれた涙をぬぐうと、男は女に微笑みかける。


その表情に、もう迷いはなかった。


「だから僕は、やっぱりこの方法を選ぶよ」

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アリスへの手紙 まめ童子 @mameponeartwork

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