「束の間の枷」







気付くと私はまたベンチに座っており、彼女は相変わらず隣のベンチで本を読んでいた。時刻はおそらく0時を回った頃。


彼女と海へ行ったあの日からかなりの時間が経ち、私と彼女は共に歳を重ねていった。


彼女との静かな時間は変わらず心地が良く、彼女が私の心の拠り所であることは揺るぎないものとなっていた。彼女の笑顔や、小さな仕草、一緒に過ごす日々の何気ない瞬間が私の心を支えていた。


彼女と過ごす時間に退屈は存在せず、時計の針もゆっくりと進み、死すら遠ざけている、そんな気がした。


ある日、いつも通り私はベンチに向かい彼女を待とうと考えていたが、ベンチに腰を掛け本を読む彼女に気付いた。


私は彼女に声をかけ隣のベンチに座ったが彼女の様子がいつもと違っていた。彼女の瞳にはかすかな不安が宿り、私に対する視線がどこか遠い。私はその変化に気付きながらも、恐れて聞けずにいた。やがて彼女は静かに私に語りかけた。


「花が挟まってた。見て。」


その花は私が彼女に贈った花だった。彼女は栞を使おうとはしなかった。そんな彼女に私は、彼女の好きな花を枯れないよう栞にして贈った事があり、それ以来彼女はどこまで読んだかを忘れないようにと、いつも私の顔を伺いながら大袈裟に花を挟んでいた。


微笑みながら本を閉じる彼女の姿がとても暖かかった。


「あなたが挟んでくれたの?私この花好きだな。」


私は彼女に花を挟んでいない事を伝え、彼女は偶然花が挟まってしまったのだろうと、少しの違和感を感じながらも納得した様子で、続けて静かに語った。


「忘れた事を忘れてる。そんな気がするの。」

「そんな事が繰り返し渦を巻いてる。」

「そんな気がするの。」


それから彼女は少しずつ忘れていった。私のこと、私たちが過ごした時間のこと、彼女の記憶が彼女の中から薄れていくのを感じながら、私は何もできない無力感に苛まれた。


数年後、彼女は静かに息を引き取った。


その様子は眠りにつくようだった。とても穏やかで、とても美しかった。


神様は少しずつ彼女の記憶を掬っていきながら、彼女が1人きりにならないように連れていってくれたのだと思った。それから暫く経ち、私は彼女が生前過ごしていた部屋にいた。一つずつ彼女の荷物を段ボールに詰めていった。


全てを詰め終わり玄関先に荷物を運んでいた時、押し入れの奥の方にノートが何冊かあるのに気がついた。なにやら隠していたような、そんな置き方のノートの正体は彼女の日記だった。


日記には、私たちが過ごした日々の詳細が事細かに綴られており、私の様子や、気持ちも書き込まれていた。それに記憶が薄れていくこと、それに対して不安ながらも前向きでいるべきだということ。


最後に、彼女の日記を最後に見る人は私であってほしいという事が綴られていた。繊細ながらも強い気持ちを持った、彼女の大きな優しさが込められており、私は大粒の涙を流した。


それから時が経つにつれ、私もまた彼女のことを忘れ始めていた。確か最後の記憶は彼女の日記に書いてあったあの言葉。


「あれ…。」


ある夜、私は静かに息を引き取った。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る