#53 リーシャとタマルの避難



 リーシャとタマルは手を取り合って丘を下り、漁師小屋にたどり着いた。網などが保管されている小さな小屋で、鍵はないので簡単に中に入ることができた。


「雨が降る前にたどり着けて良かったですね」


 リーシャはロープで入口をきつく結わえ付けた。鍵がないので次善策だが、十分だろう。


「お母様、ここに座ってください」


 木製のベンチの埃を払ってリーシャは疲れた様子のタマルを誘導した。カバンからひざ掛けを取り出してタマルの膝にかけ、ハンカチで包んだビスケットも置く。


「ありがとう。あなたは働き者ね。いいお嫁さんになるわ」

「どうでしょう」


 適当に返事をしてリーシャは小屋の中を物色した。

 魚油のランプを見つけ、油が残っていることを確認してタマルのところに持っていく。魚油は匂いがするが、ないよりはいいだろう。


「寒くなったらこのランプを付けてください。煙が見つかると危ないので、火は焚けません」

「ええ、わかったわ。……待って、あなたどこかに行く気なの?」


 出入り口に向かったリーシャを見て、タマルは慌てて腰を浮かせた。


「ちょっと様子を見てきます。私が出たら、もう一度ロープを結び直してください」

「ダメよ、そんなの!」


 頭ごなしにタマルはリーシャに言い聞かせた。


「外は危ないの。レオが迎えに来てくれるまでここで待ってましょう。そういう約束だったでしょ?」

「そう言わないとレオさんは納得しないので」

「……最初から破る気だったの?」


 とにかくダメ、とタマルはリーシャの手を引いてベンチに一緒に座らせた。


「戦いは男の人に任せておくしかないのよ。……悔しくてもね」


 リーシャの肩を抱いてタマルは言い聞かせた。自分に言い聞かせるようだった。


「でも……レオさんは苦労すると思うんです」

「どうして? 護衛の人がたくさんいるんでしょう?」

「はい。近衛隊は殿下の警護が主要任務です。でもレオさんは今日、暗殺者を仕留めようとしてるんです。防御に優れた近衛隊では苦戦するでしょう」


 タマルは目を瞬いた。


「だからって、あなたが行く気?」

「……無謀ですよね。諦めます」


 肩を落としてリーシャは諦めた振りをした。


「……ランプを付けてもいいですか? ちょっと臭いですが」

「ええ」


 疑うことなくタマルは頷いた。リーシャはランプに火を付け、「そうだ」と思いついた振りでカバンからハーブを出した。


「いい匂いがするので、魚油の臭いを打ち消してくれるかもしれません」


 リーシャは少量のハーブをランプであぶって香りを立たせた。ハーブは乾燥させたバレリアン。強い鎮静効果があり、不眠症にも使われるものだ。

 タマルの足元にあぶったハーブを置くと、リーシャは「レオさんが迎えに来るかも」と窓にはりついて、自分だけ外の空気を吸った。

 しばらくするとタマルは寝息を立て始めた。


(……ごめんなさい、お母様)


 ランプを消して、リーシャはずり落ちかけていたタマルのひざ掛けをかけ直した。

 入口を結わえていたロープを緩めると扉を開けて、隙間から外に出る。ロープの先を外から引っ張ってきつく締めることで、外から扉を塞いだ。


(急がないと、雨が降りそう……)


 灰色の空を見上げて、リーシャは足早にタマルの家へ戻った。

 漁師小屋に人がいることを気づかれるのが一番危険なので、特に周囲を警戒する。上着の中に隠した短剣をいつでも抜けるように握っていると、前世のことを思い出した。


 今から70年以上前、ペルシア地方にはファーティミ朝と呼ばれる王朝があった。

 全盛期には広い版図を誇ったが、次第に幼弱な者を王に就け、宰相が権力を握るようになった。

 それに対抗する勢力の一つがルザール派だった。

 もともとルザール派は正当な王位継承権を持ちながら、宰相によって追放された王子ルザールを支持する勢力だった。

 ルザール派は正当な王の登極を求めて反乱を起こしたが、鎮圧され、王子ルザールも幽閉の末に復権することなく亡くなった。

 権力争いに打ち勝った悪の宰相ハンシャーフに、ルザール派の残党は当然ながら目の敵にされた。

 厳しい弾圧の中でルザール派は耐え抜いた。

 権力者の腐敗が著しい時代だったからだ。

 人々は正義を希求し、希望をルザール派に託していたのだ。隠れて支援をする者は絶えず、声援を杖にルザール派は戦い続けた。


 リーシャが生まれたのはそんな頃だった。ルザール派の指導者を父に、常に危険と隣り合わせで、警戒と移動を繰り返す生活の中で育った。

 その頃、リーシャは絶望していた。

 前の人生で、この世界のどこにも竜がいないことを突きつけられた。竜のいない世界で生きていくことを強いられ、あと幾度繰り返せば呪いから解放されるのか――。

 見通しは何も立たず、受け入れることすら苦しくて、終わりが欲しかった。


 ルザール派を滅ぼそうと躍起になる宰相ハンシャーフの追っ手を殺したのはそのせいだ。

 当時のリーシャの年齢は10歳程度。子供なので警戒されず、小さなナイフで追っ手の頭目の首をかき切った。

 効果は抜群だった。ハンシャーフにおもねり、暴利を貪って民を虐げる権力者を何人か暗殺すると、ルザール派は義賊ともてはやされた。

 父はリーシャを褒めそやし、短剣術と毒薬の作り方をルザール派の他の若者にも教えるよう言った。

 父の言葉にリーシャは従った。から、人殺しに優れた組織を作る有用性に気づいたのだ。

 リーシャが教育した若者たちは短剣一つでどんな敵をも暗殺する、恐るべき短剣使いと呼ばれるようになった。彼らは死を恐れぬ戦士であり、その存在はファーティミ朝の権力者たちを震え上がらせた。

 自ら育てた短剣使いたちに、リーシャは尊敬と畏怖をこめてこう呼ばれた。

 銀の導き――と。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る