#48 分かれ道



 煙が上がっているのは村につながる唯一の橋がある方角だった。


「姫?」


 窓から状況を確認するリーシャの後ろから、ラインハルトも外をのぞきこんだ。


「頭を出さないでください。襲撃のようです。橋が落とされました」


 リーシャの状況認識を裏付けるように、外から銃声がした。近衛隊の銃器だろう。襲撃に対抗して彼らも発砲したのだ。

 ラインハルトはリーシャの肩を強く掴んで、窓から離させた。


「伏せて。窓から顔を出しちゃダメだよ。――母上!?」

「なあに? どうしたの?」


 二階に荷物を取りに行っていたタマルを、ラインハルトは大急ぎで連れに行った。

 その間にリーシャは玄関の扉にかんぬきをかけ、1階の窓のカーテンをすべて閉めて回った。


「姫、こっちに来て!」


 正面側に窓のない、キッチンの一角にラインハルトはリーシャとタマルを避難させた。


「何かあったの? この音は何?」

「襲撃です。外で殿下の護衛が、刺客と交戦してるんです」


 リーシャの説明にタマルは絶句した。雰囲気を和らげようと、ラインハルトは軽い口調でうそぶいた。


「モテモテで困ってるんだ。俺は姫にモテればそれでいいのに」

「……私も刺客になれと?」

「姫が刺客になったら、あらゆる手を使って口説き落としてみせるよ」


 色っぽくラインハルトはリーシャに片目をつぶった。

 リーシャは頑張って想像したが、ラインハルトに口説き落とされる自分は思い浮かばなかった。彼の死体の前で暗澹あんたんたる気持ちでいる自分はたやすく想像できるのに。


「……だいぶ頑張らないと厳しいですよ」

「死ぬ気で口説くよ。姫が刺客になったら他に勝ち目がない」


 リーシャはまだ未成年なので、ラインハルトは本気で口説いていない。それはリーシャも感じていた。

 彼に本気で口説かれたら落ちることもあるんだろうか。少し興味深かった。これまでたくさんの人生を生きてきたが、人に口説き落とされたことはないから。

 リーシャがすべて捧げてもいいと思ったのは竜だけだ。


「楽しみにしてて。姫が大人になったら絶対口説き落としてみせるから」


 ラインハルトの言葉に、そんな日は来ないことをリーシャは思い出した。

 彼の人生とリーシャの人生がまじわることはない。あと数年でリーシャはいつものように死ぬ。大人になることはない。何もかも失われ、何も残りはしないのだ。

 もうとっくにすべて諦めたのに、一体今更、何を期待したんだろう。

 いま大事なのは、この場を切り抜けることだ。


「殿下。不安を和らげようとしてるなら、私は平気なのでお母様を口説いてください」


 リーシャを守ろうとぎゅっと抱いていたタマルとラインハルトは顔を見合わせた。

 タマルはリーシャの腹を撫でながら「怖くないの?」と尋ねた。リーシャが平然としているので戸惑っているようだ。


「怖がっても怖がらなくても状況は変わりませんから」

「……こういう人だった。一回怖い思いをすれば、無茶なことしなくなると思ったのが甘かったな」


 過去の判断を悔いてラインハルトは顔を覆った。「道連れにしてやる」と言ったのは怖がらせようとしたらしい。そんな気はしていた。


「ええと、母上」

「口説かなくていいわ。あなたに甘い言葉をささやかれると、嫌そうにするシドの顔が浮かぶから」

「うん、実は俺も」


 タマルがラインハルトの夫人になることはなさそうだった。年齢をのぞけば理想的な人だったのでリーシャとしては残念だった。彼女なら、ラインハルトに辛いことがあったとき支えになってくれると期待できたのに。


(全部いっぺんに解決するのは無理か……)


 欲張りすぎを反省して、リーシャは壁に耳をくっつけた。銃声は止み、怒鳴りあう男たちの声が聞こえた。


「だいぶ混乱しているようです。指揮系統が機能していないのかもしれません」

「だろうね。タシュカルが生きてれば伝令をよこすはずだ。……殺されたかな。まあ俺でも最初に指揮官を狙う」


 腰のサーベルを確かめて、ラインハルトは気負った様子もなく「俺が出ないとどうしようもないな」と結論した。


「本気なの? あなたの命が狙われてるんでしょう?」


 青い顔で、タマルはラインハルトの服を掴んで押し留めた。一人息子を失っても、この人はいまだ母親なのだ。


「……いま出ていくのは私も賛成しかねます。おそらく内通者がいますよ。私達はまだ特定できていません」


 リーシャの進言にラインハルトは目を瞬いた。


「なぜそう思う?」

「刺客は殿下の顔を識別できないからです。前回の襲撃では助かるはずのない毒を使いながら、あなたは生き延びた。同じ手は使えません。今度こそ確実に殿下の命を奪いに来ています。そのための見届人が必要ですから」


 短剣使いたちにとっては今回が最後のチャンスだ。二度も失敗した暗殺者に次の仕事は来ない。そして依頼主は自分の情報が漏れることを恐れ、無能な暗殺者たちを消し去ろうとするだろう。

 短剣使いの名を継ぐ彼らは誇り高い。屈辱は死よりも許しがたいはずだ。


「つまり刺客を返り討ちにして内通者も捕まえられる、無二のチャンスってことだな?」

「……殿下。前向きさはいつも美点になるわけじゃありません」


 リーシャは諌めたが、ラインハルトは笑い飛ばした。危険だから安全を優先するという考えは彼にはないようだった。

 安全を第一に考えるような人なら、そもそもここには来なかっただろう。


「母上、どこか避難できる場所に心当たりはない? 村の人間しか知らない、一晩雨風をしのげるところ」

「そんな急に言われても……」


 タマルは動揺し、うまく頭が働かないようだった。

 リーシャは具体例を出した。


「漁師小屋はどうですか? 海辺に漁船が見えました。網や道具をしまう小屋があるのでは?」

「え、ええ、あるわ」

「よし、移動しよう。寒くなるからしっかり着込んで」


 ラインハルトはタマルに外套を着せ、リーシャも肩掛けカバンからフード付きのケープを羽織った。空いたカバンにはタマルのひざ掛けと、ビスケットの残りをハンカチで包んでしまった。


「母上、漁師小屋までの道は?」

「ええと……裏から出て、丘を下ったらすぐよ」


 ラインハルトが場所を思い出させたのは、タマルに冷静さをうながすためだ。極度の緊張状態では、慣れ親しんだ道でも誤ることがある。


「姫――」

「大丈夫です。場所はなんとなくわかります」


 ラインハルトは膝をつくと、リーシャにささやいた。


「姫が頼りだ。母上を頼むよ」

「はい。任せてください」

「待って、あなたは来ないの?」


 申し訳なさそうにラインハルトはタマルに首を振った。


「俺が一緒に行くとかえって危険だ。俺が正面から出ていって注意を引くから、その間に二人で避難してくれ」

「だ、だめよ、そんなの……っ」


 震える手でタマルはラインハルトを行かせまいとした。


「お母様。私達と一緒にいたら殿下も危険なんです。刺客は足手まといの私たちを狙うでしょうし、殿下の行動も制限されてしまいます」

「だからって……っ、それならここに一緒に隠れていましょう。ね?」


 タマルは必死でラインハルトを守ろうとしたが、彼の意思は固かった。


「橋が落とされた以上、隠れていても刺客の退却はない。全員倒さないとならないんだ。俺は行かないと……指揮官だから」


 ラインハルトは逃げられないのだ。将軍の立場からも、皇子の身分からも――。

 よろめいてタマルはラインハルトから手を離した。彼女を支えて、ラインハルトは明るく言った。


「全部終わったら、とびきり美味しいものをごちそうするよ。羊の丸焼きとか」


 香辛料で風味をつけてじっくりと焼かれた羊の丸焼きは、金持ちの宴席くらいでしか出ない。市民にとっては一生に数回しか食べられないごちそうだった。

 想像したのか、タマルの顔に少し生気が戻った。明るい希望で活力がわくのは良いことだ。

 ラインハルトはリーシャにも微笑んだ。


「姫は? 何が食べたい?」


 食べたいものは特に浮かばず、リーシャはラインハルトを見つめ返した。


「あなたが無事でいてくれたら、それが一番です」


 一瞬、彼は泣きそうな顔をした。膝をついてリーシャを抱きしめ、「約束する」と力強く断言した。


「必ず姫のところに帰るよ。姫が無事を祈ってくれたら百人力だ」


 そしてふっと彼はリーシャに笑った。


「……今まで戦場には何度も行ったし、死にかけたこともたくさんあるけど、誰かのために必ず帰ろうって思ったことはなかった。母が死んでから初めてだよ――帰る場所があると思えるのは。……すごく嬉しい」


 ラインハルトはずっと戦い続けてきた人だ。

 兄弟殺しの皇子の宿命。戦争から逃げられない将軍という地位。死を覚悟しながら彼はずっと一人で生きてきた。

 そんな人が初めて帰る場所と思えたなら喜ばしいと感じる一方で、それが自分であることにリーシャは大きな罪悪感を抱いた。

 リーシャの寿命はあと数年。ずっとラインハルトと生きていくことはできない。それを伝えることすら叶わないのだ。

 リーシャにできるのは、彼が本当に愛して帰る場所だと思える相手を見つけて後押しすることだけだ。それまで彼と彼の大切なものを守る。

 呪われた怪物にできる精一杯の善行だ。


「……クラーレに気をつけてください」

「クラーレ?」

「殿下が死にかけたウズとは違う、即効性の毒です。おそらく吹き矢に塗って運用していると思います。毒が血中に入ると麻痺を引き起こして動けなくなり、ひどいと呼吸困難で死に至ります。吹き矢に刺されたらすぐに引き抜いてください。毒が血流と一緒に全身にまわってしまいますから」

「わかった、気をつける」


 リーシャにどうしてそんな知識があるのか、ラインハルトは問いたださなかった。

 当たり前のように受け入れて、暗殺者たちのいる外で行こうとするラインハルトの服を掴み、思わずリーシャは引き止めた。


「……無茶しないでくださいね」

「大丈夫。今日の俺は100発撃たれたって死ぬ気がしない」

「それを無茶と言うんです」


 ジト目で小言を言うリーシャの頬にキスして、ラインハルトは「お姫様の仰せのとおりに」と笑った。


「母上、俺が表に出て行って注意を引くから、しばらくしたら裏口から姫と出て。片がついたら俺が直接迎えに行くから、それまでは誰が訪ねてこようと避難先から絶対に出ないでくれ」

「大丈夫です、お母様のことは必ず私が守ります」

「リーシャちゃん、それ私の台詞せりふよ」


 タマルとリーシャはお互いに強く手を握りあった。それをまぶしそうに見て、ひとつ頷くと、ラインハルトはもう振り返らず玄関から出ていった。


「……行きましょう。私達の安全が殿下の一番の望みですから」


 リーシャとタマルも荷物を持つと、振り返らず裏口から避難した。


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