#46 命をかける理由
「どうぞ、お水です」
一通り取り乱して落ち着いたタマルにリーシャはコップを差し出した。
「ありがとう。……ごめんなさいね、お姫様にこんなこと」
「お役に立てたなら嬉しいです。母の教育のたまものです」
にっこり笑ってリーシャは大嘘をついた。タマルが気に病まないようにだ。
疲れた様子でタマルは水を飲み干し、ラインハルトに促されるまま、力なくソファに座り込んだ。
隣に座ったラインハルトは甘えるように彼女の手を握って、子供のように主張した。
「俺、何度も母上に手紙を出したんだよ」
殿下、と言いにくそうに呼びかけたタマルに、ラインハルトは口をとがらせた。
「もう俺を息子と思ってくれないの?」
「皇子様を息子と思うなんて恐れ多いわ」
「俺を皇子として敬うやつはたくさんいる。でも息子と思ってくれるのは母上だけ。……あと何年かしたら姫の父上がそう呼ぶかもしれないけど、正直嬉しくないし」
リーシャの父に義理の息子扱いされて心底嫌そうな顔をするラインハルトが容易に想像できてしまい、リーシャは笑いを噛み殺した。
「私もお母様と呼べる人がほしいです」
二人で丸め込むと、困ったようにタマルは笑った。
「おばあちゃんは敬語が苦手なの。許してくれる?」
ラインハルトとリーシャはもちろん頷いた。
実際はタマルはとても教養の深い女性だった。平民で文字を書ける女性は極めて少ない。
「将軍からの手紙は確かに来てたわ……てっきり戦死者の遺族に送られる、通り一遍の代筆だと思ったから読まずに送り返したの」
「ちゃんと自分で書いたよ」
努力が認められなかった子供のようにラインハルトは拗ねている。
「私だってレオに何度も手紙を書いたのよ。シドと同じ戦場で戦ってたはずだから、息子の最期を知りたくて」
「レオの名前は皇子に戻るとき……6年前に捨てたんだ。たまに身分を隠して出歩く時に使うけどね。だからこそ基地の奴らには内緒にしてる」
タマルは額を押さえた。
「シドはずっとあなたの話をしてたから軍で一緒に働いていたはずなのに、家まで来てくれた兵隊さんに聞いても『レオなんて人間は知らない』と言われたのよ? そんなはずない、息子の親友のはずだって言っても誰も知らないんだもの……ノイローゼになりそうだったわ」
「全部殿下が悪いです」
タマルの前に膝をついて、リーシャは彼女の手をさすった。気の毒すぎて言葉もない。
「そうだよ。この世の悪いことはだいたい俺のせい」
ラインハルトはすっかりふてくされていた。
「でもこの件で悪いのはシドだろ。俺は6年前から本名を隠してない」
「いつだったか……シドがひどく怒って将軍を罵ってたことがあるの。それで私、叱ったのよ。『皇帝陛下の息子を悪く言うなんて、誰かの耳に入ったらどうするの』って」
「殿下ならまずいですが、レオさんの悪口なら言い放題ですからね……」
罵られるような真似をするラインハルトが悪いのだ。そういう目で彼を見ると、ラインハルトはわめいた。
「別に俺はあいつの恋人を寝取ったわけじゃないよ! あっちが粉をかけてきたから――」
やっぱりそういう話か。それは罵りたくもなる。
「……何回破局させたんですか?」
「黙秘する。でも俺は無実だよ、姫!」
ラインハルトならわざわざ親友の恋人に手を出す必要はないだろう。いくらでも相手がいる。
だが「そうでしょうね」とは言いにくい雰囲気だった。
タマルがため息をついた。
「死んだ夫に似て、あの子は女を見る目がなくてね。美人に言い寄られるとすぐに舞い上がって騙されて」
「素直に母上みたいな女性を選べばいいのにな」
「……お母様を口説かないでくださいね」
リーシャの忠告にラインハルトは顔を輝かせた。
「俺が他の女性を口説いたら嫉妬しちゃうの、姫?」
「いえ、シドさんの気持ちを考えました」
タマルが笑い出した。
自慢げにラインハルトはリーシャをタマルに見せた。
「どうして公爵家のお姫様を連れて来たのかって? ……母上に紹介したかったんだよ。シドにも」
「お会いしたかったです」
そうね、とタマルは頷いた。
「ここにあの子もいてくれたら良かったのに……っ」
嗚咽するタマルの背中を、ラインハルトはずっとさすった。
泣き止んだタマルは、強い意志のこもった声でラインハルトに尋ねた。
「……お願いがあるの。あの子の最期を教えて。家に来てくれた兵隊さんに聞いても『誰よりも勇敢な最期だった』としか言ってくれなかったの」
「お母様。シドさんはもう、痛くも苦しくもありません。自分のことでお母様にこれ以上、苦しんでほしくないと思っているはずです」
お茶を淹れ直したリーシャは、彼女の手に温かなカップを握らせて言い聞かせた。
シドの最期をリーシャはラインハルトから聞いた。彼がどんなに傷ついたか知っているし、話させたくない。聞いたらきっとタマルも余計に傷つくだろう。
「でも想像してしまうの! 最期にあの子は何を思ったのか、何を見たのか。毎晩それを考えるの! せめて何か救いはあったのか、それは息子の人生を引き換えるほどのものだったのか!! 考えない日はないのよ……」
ラインハルトはリーシャを呼んで、自分の隣に座らせた。
「私が話しましょうか……?」
「いや……姫も知らないことがあるんだ」
大きく深呼吸してラインハルトは話し始めた。彼の手がリーシャを求めてソファの上をさまよい、リーシャが握ると強い力で握り返された。
「誰もシドの最期を言えなかったのは俺が
ラインハルトの荒れた口調は、そのことに納得していないことを示していた。
タマルは食い入るようにラインハルトの話を聞いている。
記憶を探るように目を伏せて、ラインハルトは話し続けた。
「ドキア平原での戦いで決着がついたあと、バルカニアの連合軍は壊滅状態だった。敵軍の指揮官だったラシュカ公国のラザル侯は和平の提案を申し立てて来たよ。事実上の降伏だ。……俺はシドと数人の幹部と一緒に、天幕でラザル候と会った」
リーシャの手を握るラインハルトの力が強まった。痛いほどの力に耐えて、リーシャは彼の手を握り返した。
「帝国は勝ったが被害は甚大だった。大勢の負傷者がいるのに薬も包帯も不足して、ろくな手当をしてやれない。あの瞬間まで俺は敵の指揮官より、無能な自国の補給責任者をぶち殺してやりたいと思ってた。ラザル侯は傲慢な男だが、自分の命を危険にさらして戦った。欲にまみれたクソよりマシだと思ってた。……大間違いだった」
皮肉げに笑って、ラインハルトは天井を仰いだ。
「和平の提案は、すぐまとまった。正式な合意は後日になるが、武装解除に同意させて、ラザル公を始めとした有力者の身柄を押さえたら俺の仕事は終わりだ。俺はさっさと戦場から戻って、補給の責任者をぶち殺し、次の仕事を始めなきゃならなかった。それで護衛から一瞬離れて、シドと次の予定について話したんだ。……その瞬間、ラザル候の護衛の騎士ミルドリッチが隠し持っていた短剣を抜いて俺に襲いかかった」
和平合意のあとは双方の気が緩む。それを狙ったのだとしたら、あまりに卑怯な行いだった。
「……俺はミルドリッチに背を向けてたから気づくのが遅れた。シドが先に気づいて俺を突き飛ばしたんだ。何が起きたのか理解できなかったよ。振り返ったらシドの腹に短剣が刺さってた。ミルドリッチは標的を殺しそこねたことに気づいて、シドから短剣を抜くと俺にもう一度襲いかかろうとした。しがみついてシドが止めたんだ。ミルドリッチは興奮して、自分を止めるシドを何度も刺した」
ラインハルトにしがみついてタマルが絶叫した。
「そいつはどうなったの! 私が殺してやる……!!」
「近衛が取り押さえて俺がその場で処刑した。もうこの世にいない。母上が手を汚す必要はないよ」
しがみつくタマルを抱きしめてラインハルトは答えた。
「シドはひどい傷で……誰の目にも助からないのがわかった。たぶん、シドにもわかったんだ。最期に俺を見て『しっかりしろよ』と言った。俺のセリフだよ……。ひどい出血で、すぐ倒れて……意識を失った。母上への伝言を聞いたが、もう口を動かす力もなくて……何も聞き取れなかった。すまない」
泣きじゃくるタマルの背中をラインハルトは撫で続けた。
もしシドの遺言が聞き取れていたら、ラインハルトはもっと早く彼女の元を訪れていただろう。リーシャにはそう思えた。
何も受け取れなかったからこそ、ラインハルトはずっと自分を責めて今まで考え続けていたのだ。親友が最期に何を思ったのか。自分も母親のように思う彼女に、何を伝えたらいいのか――。
リーシャはラインハルトの隣からタマルの隣に移動して、一緒に彼女の背中を撫でた。
そんなリーシャを見てラインハルトは救われたように微笑んだ。
「……ミルドリッチによる暗殺は、ラザル候の指示だったんですか?」
タマルはそのことに考え及んでいないようだった。リーシャは尋ねるべきか悩んだが、タマルがいつか気づく可能性がある以上、疑問は潰しておくべきだろうと考えた。
「本人は否定したよ。信じられるわけがない。少なくとも自分の護衛騎士がやった不始末の責任を取るべきだと、ラザル候もその場で殺してやろうとしたが、皇帝の政務官に止められた。ラザル侯を殺せば和平合意が白紙に戻る。それは皇帝の望みじゃないからと」
歯噛みしてラインハルトは答えた。未だに納得がいっていないのだ。現場ではそうとう暴れただろう。ブチギレたラインハルトを前にして、皇帝の政務官とやらもよく引かなかったものだ。
実際は和平合意のあとも小競り合いはままある。仲間や家族、友人を殺されて、大人しく納得する人間ばかりではない。
敵への恨みは新鮮で燃えやすく、ささいな衝突から殴り合いや殺し合いに発展する。数人程度の犠牲なら「事故」として処理されるのが普通だ。
(とはいえ、殿下が殺されていたら帝国は
ラインハルトは市民からの人気が高く、確固たる地位を築いている。ミルドリッチが暗殺を成功させていたら、歴史が変わっただろう。シドは一人でそれを防いだ。
「あの子はあなたを守ったのね……」
「俺だけじゃない。大勢の命を救ったよ」
タマルにとってそれは救いになっただろうか。少なくとも息子がどんな最期だったかわからないまま想像して苦しむことはなくなった。
このためにラインハルトは命の危険を冒してまで、彼女に会いに来たのだ。
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