#24 川下り


 ラインハルトに連れられて、リーシャは河川敷に下りた。

 河川敷は橋の横から階段で下りられるようになっており、荷揚げや荷下ろし、船に乗り込むための大きな桟橋が整備されていた。


「人が多いから気をつけて」


 リーシャの手を引いて、ラインハルトはぶつからないよう気を配ってくれた。

 大きな荷物を肩に担いだ荷役人から、背の低いリーシャは死角になりがちだった。落ちてきたら潰される大きな木箱が頭上を行き交うのは怖かったが、ラインハルトはリーシャが頭をかばわなくて済むよう、きちんと守ってくれた。


「危ないから抱っこしようか、姫?」

「いりません」

「安全のためなんだから恥ずかしくないよ」

「子供に言い聞かせるみたいに言わないでください」

「大人あつかいして口説いたら怒ったのに」

「当たり前です」


 ラインハルトが向かったのは川下り用の舟が待機する船着き場だった。


「もう乗れるか?」

「あいよ。定員になったら出発する」


 年嵩の船頭に確認すると、ラインハルトは軽々と舟に下り、リーシャに両手を差し出した。


「おいで姫。大丈夫」


 桟橋と舟との間には、大人の膝ほどの高さの段差があった。リーシャにはほとんど飛び降りる高さで、しかも下は不安定な舟の上だ。

 リーシャがためらっていると、ラインハルトは舟の縁に足をかけてリーシャに近づいた。

 いつもは見上げる彼の紅の瞳が、リーシャよりわずかに下の位置にある。


「失礼、姫」

「ひゃ!?」


 腰に手を回されたかと思うと、強い力ですくい上げられて足が浮いた。とっさにラインハルトにしがみついてしまったが、浮遊感は一瞬で、危なげない動きで舟の上に下ろされた。


「座ろう、こっちだ」


 手を引かれて、まだ他に客のいない舟の一番後ろにラインハルトと並んで座る。


「手慣れてるねぇ」


 粗悪な紙巻きタバコを吸う年老いた船頭が、にやにやと笑った。


「素敵な女性に手を貸すのは紳士のたしなみでね」

「色男の常套句だな」

(まったくです……)


 ラインハルトは女慣れしていた。リーシャが初心うぶな令嬢だったらとっくに熱を上げているだろう。

 舟には次々と人が乗り込み始めた。リーシャがそうだったように、女性や高齢者は段差に苦労していた。一緒の男性が手を貸すが、中には女性だけの客もいる。

 助けてくれる相手がおらず困っていた中年女性に、ラインハルトは迷わず手を貸しに行った。荷物を受け取って飛び降りるのを支え、何度も礼を言う女性に笑って恩着せがましくすることもない。


(誰にでもやるんだ)


 ラインハルトは男には容赦がないが、女性には概ね好意的だった。褒めることに躊躇がないし、リーシャのような子供も一人前の女性のように扱う。


(モテるわけだわ……)


 なぜ独身なのか不思議なくらいだ。これで皇子で将軍なのだから、縁談は多いだろう。――血に飢えた獅子と恐れられているとはいえ。

 戻ってきたラインハルトは再びリーシャの隣に座った。


「どうぞ、姫」


 小さなオレンジを渡されてリーシャは困惑した。


「あの?」

「礼だと無理やり渡されたんだ。苦手だと言ったんだが、甘いから大丈夫と」


 中年女性の圧に負けたらしい。リーシャは吹き出してしまった。


「常勝の将軍も女性には弱いんですね」

「勝っても名誉にならないしね」


 したり顔でラインハルトは頷いた。


「あの女性も自分を助けたのが将軍で皇子さまとは思ってないでしょうね」

「思わなくていいよ。バレたら箱いっぱいのオレンジを無理やり渡されそうだ」


 想像したのか酸っぱい顔をするラインハルトに、リーシャはまた笑ってしまった。


 定員がそろうと舟は出発した。

 船頭が長い竿で舟を操り、舟はトランジャ川をゆっくりと下っていく。


(風が気持ちいい……)

「舟は初めて?」


 ラインハルトに聞かれてリーシャは頷いた。


「どこまで行くんですか?」

「一番下流の船着き場まで。それほど時間はかからないよ」


 ならこれは今のうちに食べたほうが良さそうだと、リーシャは膝の上にハンカチを広げると手で小さなオレンジの皮をむいた。


「皮が柔らかい。普通のオレンジとは少し品種が違うみたいですね」

「ふうん?」


 ラインハルトは興味深そうにリーシャの手元を見ている。


「ひとつ食べますか?」

「ううーん。本当に甘かったら」


 中年女性の「甘いから大丈夫よ」という言葉をラインハルトは疑っているようだ。大雑把そうな女性だったので、気持ちはわかる。


「では頂きます」


 みずみずしい橙色の果実を、リーシャは口に運んだ。


「おいしい?」

「はい。ちゃんと甘いです。……食べます?」

「じゃあ一切れだけ」


 ラインハルトは口を開けた。リーシャがオレンジの欠片を放り込むと、カチンと歯が鳴って、慌ててリーシャは手を引っ込めた。危うく一緒にかじられるところだった。


「今、私の指ごと食べようとしました?」

「オレンジより美味しそうだからつい」


 咀嚼しながらラインハルトはニヤリと笑った。大変魅力的な流し目だった。でも息を止めてずっとオレンジを噛んでいる。


「……飲み込めないんですね?」


 さっと目をそらして、ラインハルトは一息で飲み込んだ。詰まらせないか心配になるほどの、丸飲みだった。


「とても美味しいね。残りは姫にあげる」


 一緒に舟に乗っている女性に気を使ったのか、ラインハルトはオレンジを悪く言わなかった。涙目になっているのは見ない振りをするべきだろう。


「ありがたく頂きます」


 礼を言って、リーシャは残りを平らげた。

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