第4話 祭の音が消えるころ
「
バス運転手のアナウンスが入った。
「お客さん、到着しましたよ」
ダミ声ではない、柔らかい女性運転手の声だ。
バス制服の
後ろで髪を束ね、「
(前のおじいちゃん運転手も吉田さんだったよな……顔、似てなくもないし。世代交代ってやつか)
このバスは、地元密着のミニバスだ。
満員になることは滅多になく、町のモールか病院か役場に行く時くらいしか、使う人はいない。
バスは海沿いを通り、森を抜け、町内を二時間おきに一周する。
俺は浜辺を見ていたら、いつものように安心しきって早々と寝落ちしてしまっていた。
乗る時の癖で、運転手さんには行き先を告げてある。
優しい吉田運転手さんは、ちゃんとバスを停めて起こしてくれたわけだ。
都会のバス事情は知らないが、うちのローカルバスは本当に親切だ。運賃も
俺は
十四歳、中学二年生。
今から、勢いよく冒険に出ようとしている。
「吉田運転手! ありがとうございます!」
ズボンのポケットから五十円玉を出して、切符と一緒に運賃箱へ放り込み、バス停へ降りる。
その時――
「お客さん、待って!」
「釣りはいらねーぜ!!」
「いえ、ちょっと足りないんですが……」
「ん?」
バスの運賃表を見ると、貼り紙が目に入った。
『夏休み運賃。小学生~中学生までみんな50円!(五歳以下は無料)なお、犬は50円です』
「ほら」
吉田運転手さんが、俺の後ろを指さした。
「冒険!!!」
「タローにぃ、冒険!」
“An adventure!”
「わん!」
元気よく飛び降りてきた三人と一匹。
「沙織、幸恵、ノア、小太郎(イヌ)! なんでお前らがここにいる!?」
「だって、タローにぃに言おうとしたら、いびきかいて寝ちゃうんだもん!」
* * *
夏休みの宿題も終わり、やることもない。
家に閉じこもるのも飽きていた。
テレビでは、誰も真剣に見ていないのに「森へ行こう!」とキャンプ番組が流れていて、
唐突に「森に行きたい」という衝動に駆られた。
――ただし、キャンプをする気はなかった。そこは重要である。
釜に残っていたご飯をラップでくるんで、適当におにぎりを作り、
母親がおやつ用にストックしてくれていたのり塩ポテチ、冷たい麦茶を入れた水筒、
それから充電し損ねたスマホをリュックに詰めて、近所のバス停へ向かった。
「タロー、どこ行くん?」
道場へ向かう道着姿の母親に見つかった。
それを聞きつけた沙織、幸恵、ノア、小太郎(イヌ)が、ぞろぞろと玄関から出てくる。
「ちょっと冒険にね!」
「タローにぃ、どこ行くの?」沙織(十歳)
「たろー、どこ行く?」幸恵(五歳)
“Taro, where are you going?”ノア(十二歳)
「わん?」小太郎(イヌ)・三年目
人の話を聞かない子らだ、本当に。頭を抱えた。
「タロー、家出か?」
「タロー、家出だよきっと」
“ Taro, you're such a coward.”
「わん?」
家出じゃないし。
しかもノアが何となく悪口を言っているのは分かる。
「Noah, what are you saying?(angry)」
“ Taro, where are you going?”
“ That's not it! The next line!”
だいたいお前、日本語話せるだろ!
「痛い痛い、ぐりぐりしないでぇ~!」
「いやー太郎は本当に愛されているねぇ。そこは母さんの誇りだよ」
俺の母親は、合氣道の師範だ。
ショートカットで姿勢に無駄がなく、雄々しいのに所作は綺麗で、動画サイト――特に海外からのフォロワーが絶えない。
「セイセイトショウブー」と片言で言いながら、異国の人が道場破り(?)に来ることもしばしば。
試合が終われば、冷たい甘酒と塩昆布を振る舞い、なぜか互いにリスペクトし合っている。
夏ともなると、地方から学生や社会人が合宿に来ては、投げ飛ばされて帰っていく。
海外からの客人は、円相場に応じて増減するらしいが、それでも客が途切れないのは、母親が謙虚で礼儀正しく、凛々しいからなのだろう。
道場で人が投げられているのを見て育った結果、
俺の身体には「反抗しても返り討ちにされる」という事実が深く刷り込まれている。
今は反抗期のはずだが、あまり過激に反抗しないのも、そのせいだ。たぶん。
自家製甘酒は好きだが、さすがに飲みすぎた。
「まぁ、行ってくるよ」
「太郎! 悩んでるんだね」
どうしてそうなる?
「戻ったら道場に来なさい。久しぶりに投げ飛ばしてやっから」
「投げとバァす!」
「あははは」
「わん」
バスが来た。
「ははは。バス停までお見送りありがとう!」
「気をつけるんだよ~」
……あれ? 静かだ。
「さぁ。稽古稽古」と言う母親の声が、遠ざかっていった……ような気がしたのだが――
* * *
――ということを思い出しながら、俺はしぶしぶ不足分の百五十円を吉田運転手さんに渡した。町民価格に助けられている。
吉田運転手さんはにこっと笑い、身をかがめて手を差し出した。
「ありがとうございます。またのご利用をお待ちしておりますね。
そうそう、帰りの時刻もちゃんと見ておいてくださいね。いってらっしゃーい」
手を振る吉田運転手さん。
バスはクラクションをひとつ鳴らし、四人と一匹を残して走り去っていく。
バスの後ろには「すいこの里」とラッピングされていて、
ニコッと笑うご当地キャラ「すいこちゃん」が、だんだん小さくなっていった。
「なんで、お前らがついてきてるんだ!!」
「沙織も冒険行くの!」
「幸恵も!」
「Me too!」
「わん!」
数秒間の沈黙。
じりじりと照りつける日差し、蝉の声、滴る汗。
「……はぁ」
着いてきてしまったものは、もうしょうがない。兄として冷静になって現実を受け止めた。
まずはバスの本数を確認――といっても、ほとんどない。
(最終、十八時かぁ……。九月からは十七時になるのか)
「念のため連絡しておくか」
俺はスマホを取り出し、母親に電話をかける。
一コールもしないうちに、母親が出た。
「あ。お母さん? 妹たちが着いてきてたんだけど……」
「ああ。沙織、幸恵、ノア、小太郎(イヌ)いるよ」
「やっぱり~」
『沙織、幸恵、ノア、小太郎(イヌ)見つかった! 太郎とやっぱりいたわ!』
電話の向こうから、そんな声が聞こえてくる。
「悪いけど、今日は一緒に遊んでやって?」
楽しそうに騒いでいる妹たちを見たら、怒る気も失せた。
「……わかった」
「やったー冒険!」
「冒険!」
「ボウケン!」
「わん!」
* * *
『帝の愛妃「
そんな伝説が、九尾の狐の可愛らしいキャラ「すいこちゃん」と共に書かれている。
「そっかぁ~。へぇ~。あるある~」
いつもの、そっけない同意の返事。
「お兄様! そういう白けた言動はおやめください」
「だから若者は! と言われるのですよ」
「誰だよ……」
一度、興味本位で森に入ったことがある。
妖石なんてものは見つからなかった。
(まぁ、物語性があったほうが有り難みが出るしな。地方再生ってやつだろ)
勝手にそう解釈した。
「そうだ! ちょっとしたゲームをしよう!」
「ゲーム?」
妹たちのテンションが、一気に跳ね上がる。
「どんな物でもいいから、赤色を見つけたら――無条件で、その方向に進む!」
思わず大声を出してしまい、慌てて周囲を見る。
……誰もいない。お地蔵さんだけだ。
いつもと同じ道を辿るのは退屈だ。
そこで、この「赤いものルール」が生まれた。
「迷路って、左手の法則とかあったよな……。迷路じゃないけど、こういう時は左から行こう!」
鳥居をくぐらず、左側の細い道を進むことにした。
「左から行こう!」
* * *
赤……赤……赤――。
「赤っ!!」
頭の中で唱えていたつもりが、いつの間にか声に出ていた。
(見つけようと思うと、案外ないもんだな)
かれこれ小一時間は歩き回った気がする。
あかい~ゆうひが~ぱっぱらぱ~♪
あかい~ひでお~♪
あかぎれ~♪
あか(垢)はきたない~♪
アーカンソー州はさすがにここではない~♪
即興で「赤ソング」を歌ってみたが、だんだん雑になってきて、
もはや“あか”が付いていれば何でもいい状態になっていた。
「ちょっと! お兄ちゃん、あれ見て!」
沙織が慌てて俺の服を引っぱる。
「お? あったか?」
俺は「赤」を探し続けて疲れた目をこすりながら、沙織の指さす方を見た。
「熊出没注意」
黄色地に黒文字とクマのイラスト。
「違うな。黄色と黒は、俺にとって単なるノイズさ」
「いや、そうじゃなくって~~~!」
「クマ!?」
“Oh, bear!”
「わん!」
鼻歌が止まる。
「きいろーとくろーは、ふんふんふんふんふうぅん~♪」
二十四時間戦う気には、なれなかった。
* * *
「タローにぃ、モーダメー。疲れたぁー」
「もうだめ~。疲れたー」
「わん!」
小太郎だけは元気だ。
「よし、飴ちゃんだ!」
「わーい、あめちゃん! あめちゃん!」
「木陰でお茶休憩にしよう!」
「はーい、きゅうけいきゅうけい!」
「すぐ見つかると思ったんだけどなぁ。右側から行けば良かったかな……」
「そもそも、森に赤なんてないのかなぁ……」
「……いや。あるんだぜ」
ルールを曲げるのは簡単だが、悔しい。
「くそっ!」
目の前の石を思い切り蹴り飛ばすと――
パーン!
石が倒木にドサッと当たり、続いてバキッと枝が折れる音が、森に響いた。
土と落ち葉が舞い上がり、静かだった空間が一気にざわつく。
「……え?」
森の奥から、ゴソゴソ……と何かの足音が近づいてくる。
妹たちも小太郎も固まり、空気がぴんと張りつめる。
木の陰から、ゆっくりと姿を現したのは――
大きなクマだった。
(マジかよ……!)
クマは、最初は倒木の辺りをじっと見ているだけだった。
だが、こっちの存在にも気づいて、鼻をひくひくさせる。
「ぎゃーーーっ、クマやーーー!!」
“Oh, bear!!”
「わん!」
妹たちと小太郎を抱えるようにして、俺は全力で森の奥へ駆け出した。
うわうわうわうわうあうわうわうあああ!!!!
クマが反応し、こちらを追ってくる気配がする。
(来るなぁ、クマぁ~~~!!)
「タローにぃ!」
「なんだよ!!」
「赤だ! 赤だよ!!」
……赤毛の狐だ!!
一同のテンションが一瞬だけ上がるが、すぐに現実が戻ってくる。
「こんな時にぃ!!」
ふさふさの白い尾を揺らし、五メートルはあろう川を、軽々とひと跳び。
「飛んだ!」
狐は対岸から振り返り、じっと俺たちを見ると、そのまま森の奥へと消えていく。
「来いって言ってるよ!」幸恵が叫んだ。
「わん!」
「こんな時でも、ルールはルールだぁ! ここから入るぞ!」
「え~。川の向こう、草だらけだよ~」
長女の沙織が、泣きそうな顔で言う。
「大丈夫! 小太郎! 川を渡って草を蹂躙せよ!」
小太郎は器用に石伝いで川を渡り、対岸の草むらを駆け回る。
ぺしゃんこになった草の間に、小さな道ができた。
「さすがだ、小太郎! 本当にやるとは思わなかったけど……。とにかく逃げろー!」
俺たちは、小太郎の作った道を一気に駆け抜けた。
追ってきたクマは川の手前で立ち止まり、しばらくこちらを見ていたが、
やがて踵を返し、森の奥へと戻っていった。
* * *
「やった、クマは来ないぞ!」
「やったー!」
「ワン!」
緊張が切れた瞬間、俺はその場に尻もちをついた。
パンッ。
リュックの中で、何かが破裂する音。
「わぁっ!」
「痛ててて……」
「ゆっきーもやるっ!」
幸恵が真似して尻もちをつき、草の上でころころ転がる。
「あははは、いってぇー!」
「今の“パンッ”って何だ?」
リュックを開けると、のり塩ポテチの袋が盛大に破裂し、中身が散乱していた。
「破れてる!」
「あ~あ~……」
みんなでポテチを拾って、ぽりぽりと食べる。
そのまま空を見上げて、地面にごろんと寝転んだ。
風が運んでくる匂いに、思わず笑みがこぼれる。
「のり塩の匂いだぁ……」
「“の~”はのりしおの~の~♪」(ドレミの歌調)
「はははっ」
自分たちで決めた意味不明な“山の掟”に縛られているのが、妙におかしい。
それに、外で食べるポテチはどうしてこんなに美味いのか。
(生きてるって感じがするなぁ)
バリバリバリッ。
「こら、沙織! 一気に食べるなって!」
「私じゃないよ!」
その瞬間だった。
ふさふさの白い尾。
茜色の胴体の狐が、軽やかに跳んで俺のすぐそばに着地し、
散らばったポテチの匂いをくんくん嗅ぎ始めた。
「うわっ、赤い狐だ!」
「食べるか?」
俺が軽い気持ちでポテチをひとつ放ると――
狐はポテチめがけて、俺の手ごと口にぱくり。
「わぁっ!」
噛まれたかと思ったが、ただのよだれまみれだった。
赤毛の狐は構わずリュックに顔を突っ込み、残りのポテチを漁り始める。
「ちょっと~~!! ポテチが~~!!」
ひとしきり食べると、狐はしっぽを揺らして歩き去っていった。
「……あれ? 道がある」
小太郎が踏み倒した草の向こうに、石畳の道が伸びている。
「何だか、行けそうだね」
「ナンダカテンションアガッテキター!!」
ノアと小太郎が興奮して駆け出す。
「待てー!」
俺たちも、石畳の道を進み始めた。
十五分ほど歩くと、あたり一面に霧が立ち込めてきた。
木々の影が白くにじみ、世界の輪郭がぼやけていく。
やがて一陣の風が吹き、霧がさっと晴れた。
目の前には――
鮮やかな緑の草原が広がる、不思議な空間があった。
霧はひんやりと冷たく、音がすっと吸い込まれていく。
「タローにぃ……今、何か見えた?」
沙織が小声で囁く。
振り返ると、そこには何もない。
ただ――木立の奥で、狐の耳が揺れたような気がした。
キュー。
「あの赤い狐だ! 変な鳴き声、“きゅー”だって!」
霧の向こうで、先ほどの赤毛の狐が振り返り、
「こっちへ来い」とでも言いたげに鳴いた。
狐に導かれるように進んでいくと、その先に池があった。
朽ちかけた神社の
池の水面は鏡のように周囲の景色を映し、
底では、こんこんと水が湧いていた。
「わぁ、湧き水だ……」
「こんなところがあったんだ……」
スマホの地図アプリで位置を確認してみるが、
画面には、ざっくりとした位置しか表示されない。
「まぁ、いいや」
「まぁいいやー」
祠に近づくと――
さっきの赤毛の狐の子どもたちが、一斉にこちらを見て、キューキュー鳴きながら四方へ散っていった。
「うわっ、びっくりした。こんなに狐がいたんだ……」
「きつねかわいいいい~。七匹いるよ!」
しばらくすると、子狐たちは危険がないとわかったのか、
また戻ってきて、それぞれ好き勝手に遊び始めた。
「かわいい~~」
妹たちの目は、すっかりとろけている。
そして、祠の前。
茜色の狐がちょこんと座り、じーっと俺を見ていた。
「ん?」
「こんにちは。さっきの赤い狐かな?」
俺はなぜか、普通に挨拶をした。
「僕はタローだよ!」
「私は沙織!」
「私は幸恵!」
「ノア!」
「わん!」
自己紹介したつもりはなかったのだが、妹たちが勝手に続いた。
狐から返事はない。
それでも、「自分たちは怪しい者じゃないですよ」とアピールできた気になっていた。
「そりゃ、返事はしないよな……」
俺は苦笑して、いきなりタコ踊りを始めた。
「うりゃうりゃうりゃうりゃ~~~!!」
驚いた子狐たちが一瞬引くが、
すぐに茜色の狐が甘噛みで俺の手に噛みついてきた。
「あはははは!」
「痛テテテテ!」
「これなにー?」
幸恵が指さした先には、人が座れるくらいの大きさの石があった。
その石は、鮮やかな緑の苔に包まれ、
まるで自分の姿を誇っているかのように、つやつやと光っている。
ただ、不思議なことに――
石の端の、ほんの一部分だけ苔が生えておらず、
そこだけが「膝」のような形をしていた。
(ここに座れってことか?)
けれど、なんだか失礼な気がして、俺は石の“隣”に座った。
自分の行動が妙におかしくて、ひとりで笑ってしまう。
「……あ。おしっこしたい……」
(この石にかけたら……)
そう悪いことを考えて、ちらっと石の横を見た瞬間――
赤毛の狐が疾風のごとく飛びかかり、
俺を池の方へ追い立てた。
「うわぁ~!? なに? やめてよぉー!」
それ以上は追ってこず、狐はさっさと祠へ戻っていった。
「……ここでしろってこと?」
「まさか、あの赤い狐が祠を守ってるとか?」
「まさかね……」
「ふぅ」
用を足して戻ってくると、
例の赤毛の狐が、リュックに首を突っ込んでいるのが見えた。
「あー! 僕ののり塩ポテチ!!」
「ゆっくり食べようと思ってたのになぁ……」
仕方ないので、自分で握ったバカでかい不格好なおにぎりを取り出し、みんなで分け合う。
「ぶかっこぉーー!」
のり塩ポテチは、赤毛の狐が全部つついて食べてしまった。
その日から、俺はこの場所が気に入って、何度も通うようになった。
行くたびに、のり塩ポテチを持っていくが、毎回のように赤毛の狐に奪われる。
「今日からお前はノリシオだ! 今度はコンソメ持ってきてやる!」
嫌味のつもりで、俺はその赤毛の狐に名前をつけた。
ただ、不思議なことに――
祠に“お供え”として置いたポテチだけは、いつも無事のまま残っていた。
水筒の温かいお茶を飲みながら、
俺はあの石の隣に座り、何かあるたびに石へ近づいては、今日の出来事を一人で語り続けた。
そこからは、空の広がりがよく見えた。
遠くの山の稜線と、白い雲の形が、妙に心に沁みる。
「ここは、落ち着くなぁ」
そのうちに、石が「ここが膝だから座れ」とでも言っているように感じ始めた。
苔のない部分こそが“膝”だと勝手に解釈し、そこにそっと腰を下ろす。
話しているうちに――
不思議な温もりが、じんわり背中から伝わってくる気がした。
今日の学校のこと、家のこと、妹たちの話。
とりとめもなく話していると、
石がほんの少しだけ「うん」とうなずいてくれているように思えて、
胸の奥がじわっと熱くなり、涙がこぼれた。
* * *
何度か通っているうちに、俺はひとつのことに気づいた。
この祠の周りの石は、何かのルールに従って並べられている。
なんとなく、線で結んでみた。
――
ただし、石が一つだけ欠けていて、図形は未完成だった。
(これ、あと一個足されたら完成するんだよな……)
尖端同士をぐるりと円で結んでみる。
「おお~! 魔法陣だ!」
「まほーびん?」
「魔法陣ね」
「わん!」
魔法陣を書いたからといって、何か起こるわけ……と思ったその瞬間、
子狐たちが一斉に散っていった。
「わぁ~すごい!」
「すごーい!」
「ウ”ーワンワンワン!!!」
一瞬、祠の脇に――狐耳をもった女性の姿が、ちらりと見えた気がした。
「……あれ? 見間違いかな?」
ぽつ、ぽつ、と雨が落ちてきた。
「お天気雨かな?」
「おーい、雨宿りしよう……?」
返事はない。
森のどこかで――
“聞こえたようで聞こえない声”が、雨音に紛れて揺れた。
去りし君 風にまぎれて 消ゆる声
(あなたが去ったあと、
声だけが風に紛れて消えてゆきます。
この庭に、覚えているのは私ひとり)
「……あれ?」
「誰かと一緒に来てたような……」
帰り道を辿りながら歩いても、
胸のざわざわは消えなかった。
振り返っても、そこにいるのは自分だけ。
風が枝を揺らし、その影が――
ほんの一瞬だけ、狐の尾に見えた。
その違和感だけが、失われた“何か”の名残のように、胸に残った。
* * *
その日も、俺は例の祠へ来ていた。
のり塩ポテチをリュックから出した瞬間、
茜色の狐――ノリシオが、どこからともなく現れて、
いつものように俺の手から奪い、さっさと草むらへ走り去っていく。
「お前、絶対そこに隠れてたよな……」
キューッ。
ノリシオは、知らんぷりの顔で尻尾を振ると、祠の影へ消えた。
俺は苦笑しながら、いつもの苔石の隣に腰を下ろす。
石はひんやりしているのに、座っていると落ち着く不思議な場所だ。
「今日さ、学校でさ……」
ぽつり、ぽつりと話しているうちに、
風の音が、いつもと違うことに気づいた。
――さらり。
苔石の上で、何かが揺れた。
首をかしげて見ていると、
苔が、緑色の髪のようにふわりと揺れた。
「……え?」
瞬きした次の瞬間、
苔の間から、小さな“耳”がぴこっと立ち上がる。
うっすらと翠がかった、狐の耳。
続いて、石の端に、ちいさな影が結ばれた。
手のひらサイズの、子狐の姿。
尾は短く、淡い光をまとっている。輪郭はふわふわと揺れ、光の粒が滲むように溶けていた。
「き、狐……? いや……違う?」
俺がそっと手を伸ばすと――
すっ。
子狐は、石の隙間に吸い込まれるように消えた。
「……今の、何だ?」
石の表面が、ほんの少しだけ温かい。
さっきまでそこに“誰か”がいた気配だけが、静かに残っていた。
そのとき――
風が、声のように耳をくすぐる。
……こわく、ないのかえ?
「え?」
振り返っても、誰もいない。
俺は首をかしげたまま、石をそっと撫でる。
石は黙っている。
けれど、その温もりが、さっきより少しだけ増した気がした。
(姿が見えないのは……ちょっと残念だな。もっとちゃんと会ってみたいのに)
そう心の中で思った時――
背中のほうから、くすくす笑うような気配がした。
……見たらの、そち、びっくりするぞえ。
「え? なに?」
あまりの美しさに、膝が抜けるやもしれぬ。
「そ、そっかぁ……
……やっぱり残念だなぁ」
風が、照れたように揺れた。
まるで“石の中の誰か”が、顔を赤くしているみたいだった。
* * *
翌日も、俺は祠へ来ていた。
のり塩ポテチは、すでにノリシオに半分奪われ、
残りは祠の石の前にお供えしてある。
俺は苔石の隣に座り、そっと声をかけた。
「昨日の……君、またいる?」
風がゆっくりと流れ、苔の上に光が集まる。
す……。
淡い翠色の光をまとった、小さな狐の輪郭が浮かび上がった。
「やっぱり……いるんだ」
胸が弾む。
子狐は、ちょこんと頭を下げるように尾を揺らした。
「昨日さ、君……しゃべってたよね?」
……声、聞こえたのかえ?
「聞こえたよ。風みたいに、ふわって」
子狐は驚いたように耳をぴくりと動かす。
その仕草が、小さくて、やたらと可愛い。
「僕だけに聞こえるの?」
……そちは、“石の声”を恐れぬ子じゃからの。
「石の声?」
名を持たぬ
「……妖怪ってこと?」
子狐は一拍置いて――
こわいかえ?
「ぜんっぜん!」
即答だった。
子狐の光がふわっと膨らむ。
まるで照れているようだ。
……そなた、不思議と馴染むの。
「馴染む?」
うむ。妾の気配を怖がらぬ。そういう子は珍しいのじゃ。
「そっか……じゃあ、僕たち友達だな!」
……ともだち、かえ?
子狐は、こくりと頷く。
胸の奥がじんわり温かくなってくる。
俺はしばらく黙って、それから笑った。
「じゃあ今日から……ううん、今日“こそ”友達だな!」
子狐は目を丸くしたまま固まった。
……ともだち……?
「うん。一緒に話してくれるし」
子狐はそっと尾を揺らし、俺の足元に光の粒を散らす。
それは、笑っているようでもあり、泣いているようでもあった。
……妾のようなものを、友と呼ぶのかえ?
「うん」
消えてしまう、影の欠片じゃぞ……?
「消えたって、また来ればいいじゃん。
僕もまた来るし。何回でも」
子狐は、ゆっくりと石の中へ身を沈めた。
それでも、尾の先だけが、苔の上にちょこんと残っている。
……そちは、不思議な子じゃ。
「君が不思議なんだよ」
その時――
バリッ。
ノリシオが勝手にポテチの袋を破り、
のり塩まみれの顔で現れた。
「お前……絶対それ狙ってただろ……」
キュー!(訳:何が悪い)
子狐の翠の光は、小さく震えた。
それは、確かに“笑っている”ように見えた。
俺は石に向かって言う。
「妖怪でも、影でも、欠片でも……
俺は君が好きだよ。
だから、ちゃんと友達でいような」
風に紛れて、声がした。
……そなたこそ、妾の初めての“友”じゃよ。
胸がぎゅっとなった。
姿は、まだちゃんとは見えない。
それでも――確かに、そこにいる。
帰り際、俺は振り返って手を振った。
「また来るね!」
森の影が、小さく揺れた。
待っておるぞ、そち。
子狐の声は、風より優しく、
雨の匂いのように静かに消えていった。
◆
帰り道
さっきまで後ろで響いていたはずの声――
高い笑い声、幼いはしゃぎ声、そして犬の吠え声が、
風に吸い込まれるように消えた。
「……あれ?」
タローは振り返った。
誰もいない。
けれど“ひとりで来た”感じがしない。
胸の奥が、妙にざわつく。
(……なんだ、これ)
何かが抜け落ちたようで、
でも“何があったのか”分からない。
スマホを取り出す。
写真もメッセージも“最初から自分一人用”として自然に埋まっている。
その自然さが、不自然だ。
「……変だな」
声に出してみても、理由は浮かばない。
タローは歩き出す。
けれど足取りのどこかで、
“誰かと一緒に歩いていた”感覚だけがついてくる。
名も、顔も、呼びかける言葉も出てこない。
ただ――
胸に小さな穴が開いたような、そんな感じ。
風が草を揺らし、
その形が一瞬だけ、手を振る影のように見えた。
「……気のせいか」
タローは苦笑して、前を向いた。
霧の向こうで、世界は何もなかった顔をしていた。
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