第2話 黒髪の幻影と堕ちゆく王
遡ること二十年前――。
ヴァト王は、その年から“千年前に喪った恋”を取り戻すための、国家規模の召喚儀式を開始した。
神聖な王国、メーア・ウント・ベルゲン王国。
異界からの侵略を、古の時代に「山の神の力」と「海の神の加護」によって退けた伝説を持つこの王国は、山と海に守られている。
王都ヴァルトクロンは、雄大なシルバーホーン山脈の麓に位置し、その頂には伝説的な「シルバーホーン城」がそびえ立っていた。
神々が眠り、精霊たちが集うとされるこの王国は、長きにわたりその威光を保ち続けてきたが、近年、その輝きは薄れて久しい。
その城の王の間――「クリスタルスローン」。
無数のオレンジ色のろうそくが揺れる中、詠唱隊から厳かな呪文が聞こえてくる。
その声は時に強く、時に優しく、聴く者の心を掴んだ。
静寂の中に響き渡る呪文は、床に描かれた魔法陣に吸い込まれるように流れ込み、その輝きが正常であることが確認される。
魔法陣の機能確認が側近アイデに伝えられると、ほどなくして彼は王の間に入ってきた。
アイデは王座の隣に立ち、朗々と号令をかける。
「粛に! 王が到着されますぞ!」
厳かな雰囲気の中、パイプオルガンの音色が静かに響き渡る。
重厚な扉がゆっくりと開き、威厳ある足音とともに、張り詰めた静寂が広がった。
玉座にヴァト王が着座する。
今、ある儀式が行われようとしていた。
「おっしゃ。お前ら! ヴァト王のために人肌抜くぞっ。
しょーかぁーん(召喚)、せいこおー(成功)おーーー!」
召喚隊※1が円陣を組んで掛け声を上げる。
やがて円陣は解かれ、それぞれが自分なりの方法で集中力を高めながら、神経を
「陛下、そろそろ準備が整いまする」
「あい、分かった」
「陛下。
先ほどより……お気が乱れておられるように見受けます。
召喚対象とは、何か……深い因縁でも?」
普段なら決して踏み込まぬ問い。
だが、儀式の重さを知るアイデだからこそ、あえて口を開いた。
「……聞くな」
表現するのが苦手なヴァト王は、一瞬だけ口元を緩めた。
それだけで、答えは十分だった。
◆
王の前で、三つの丸い影が地面をランダムに
影はゆらりと伸び、ひらめき、ねじれ、
その中心から“赤い角”が三つ、ニョキ、と突き出た。
ピエロの風貌をした奇妙な顔の三人――
「こんばんは。こんにちは。ごきげん麗しゅう」
ウィリアム(赤・頭脳派)が、静かに丁寧に頭を下げる。
声は低く、妙に落ち着いている。
「どもどもーっ! やっほーっ!」
メリット(黄・機敏派)が跳ねながら現れ、
軽快に手を振り回す。
「……はい、ごきげんよう。床、汚さないでねぇ」
チェイス(黒・マッスル美学派)が、
ぬるりと影から出てくると同時にモップを構えた。
三名がそれぞれ別のテンポで挨拶を投げ、
勝手気ままに小芸を披露する。
赤い衣装のウィリアムは、
口元を手で押さえて頬を膨らませ、鼻をぷうっと風船のように膨らませる。
動きは最小限で、どこか計算され尽くしている。
黄色の衣装のメリットは、
その鼻めがけて瞬間移動したかのように素早く針を突き立て――
「はい、割れたーっ!」
パンッ。
紙吹雪と鳩を派手にまき散らす。
黒衣のチェイスは、
紙吹雪が舞った瞬間にため息をつき、
「……汚すなって言ったでしょうに」
と、鳩を払いのけながら床を掃除し始める。
三人の方向性は、見事にバラバラだった。
「反応なし、ですね」
ウィリアムが淡々と観察する。
「シーンとしてるの、最高やん!」
メリットはケタケタ笑いながら言う。
「静かなのは良いけど……花びら、踏まないでよ?」
チェイスは場の美観だけを気にしている。
「さすがは王宮。空気が重い」
「でも面白みないわよねぇ、ほんと」
「道化が来ないと道化られない……なんて窮屈な場所だこと」
三人は滑稽で無駄な仕草を繰り返しながら、
それぞれ全く違うテンポで声を上げる。
彼らだけが王宮で“無礼講を許された異形”――
虐げられた日々を取り戻すかのように、
この場を好き勝手に楽しんでいた。
(あの頃には戻らない。絶対に、だ)
「チェイス、列挙してみてよ」
ウィリアムが静かに命じる。
「はいはい」
チェイスは退屈そうに髪を払い、
詩を朗読するような調子で並べた。
「豪華、絢爛、権力、富、格式、威厳、壮麗、豪奢、荘厳、雄大、歴史、伝統、防衛、統治、栄華、叫び、恐怖~」
「やっぱ固いねぇ! この城!」
メリットが跳ねながら笑う。
「誰が地下牢に落ちるのかしら……ふふ」
チェイスが口の端だけで不気味に笑う。
「お前たちか。呼んだ覚えはないぞ。時をわきまえよ」
側近アイデが冷ややかに睨む。
「うるさいってぇ~。神出鬼没なんでぇ」
メリットがヘラヘラ返す。
「チェイス、我々を例えてみてよ」
「突然、瞬間移動、謎、変幻自在、予測不能、隠密、不意打ち、幻想、幻影、奇襲」
「いいね。総じて……混沌だ」
三人が三者三様の調子で笑い合った。
――ここでようやく神官たちが列を成し、
厳かな儀式の空気が戻ってくる。
その衣装は白銀の糸で織られ、神聖なる象徴や古代の文様が繊細に刺繍されている。
彼女たちの頭には純白のヴェールが優雅にかかり、神聖なる儀式の尊厳さを一層際立たせていた。
神聖なる祭壇の前に立ち、神官たちの導きに従って、心を清める祈りが捧げられる。
純粋な心が儀式により豊かな恵みをもたらすことを願いながら、彼女たちは神々の加護を乞うていた。
白い法衣に身を包んだ神官が、風に揺れる衣をたなびかせながら、ヴァト王の前――クリスタルスローンに立ち、神聖なる儀式の詠唱を続けていた。
「どうした? 何やら時間がかかっているではないか」
ヴァト王が側近に問う。
「王様、申し訳ございません。准神官を増強させます」
「召喚できれば何でもよい」
「はっ! 直ちに! 准神官※6を神官の外側に配置せよ!」
准神官が加わり、詠唱※7の魔力はさらに強くなる。
「手伝ってやろうかー? 魔力を注げば良いんだろー」
「道化は静かにしておれ!」と側近アイデが制する。
「道化が静かにしてたら、道化じゃねー」
「こいつも、殺すかー?」
「短絡的な殺しはやめなさい」
「
王の間クリスタルスローンの中央には、複雑な幾何学模様で構成された魔法陣が描かれている。
円や三角形、星形などが組み合わされ、その間にはシンボルや文字が配置され、魔法の力を象徴し、エネルギーを集めていた。
神秘的な記号や古代語が魔法陣の内部を埋め、力を補強している。
魔法陣には、赤い薔薇の花びらが敷き詰められ、その周囲を囲うように白い一輪薔薇が並べられていた。
やがて呪文が最終節へと至り、周囲がざわめく。
花びらが宙を舞い、魔法陣の中央に――人影が現れる。
「おお! 成功したぞ!」
ヴァト王の顔が、期待に大きく膨らんだ。
「おお、待ち望んだぞ。この
「……どうしたのだ?」
召喚が成功したかに見えた、その瞬間――。
「ありゃりゃ……これはこれは……」
ウィリアムの声は淡々と。
「退散しよかーっ!」
メリットは気持ちよさそうに弾む。
「そうねぇ。これ以上は汚れるだけだし」
チェイスは冷ややかに肩をすくめた。
三人は影へ沈み込み、消え失せた。
「また来るぜーっ!」
最後にひょい、と影から手を出したのは――
メリットではなく、
ウィリアムの白い手が、静かにひらひらと揺れた。
次の瞬間、三人の影は完全に消えた。
***
その姿は――期待していた女性であった。
彼女は一糸まとわぬ姿だったが、長い黒髪が白い肌を隠していた。
女官が速やかに、柔らかなシルク生地でできた白いローブをかける。
ローブは身体にぴたりと寄り添いながらも、優雅で流れるようなラインを描き、袖口や裾には細かな刺繍や装飾が施されている。
高貴な雰囲気を演出しつつ、女性の肌を適度に隠し、その優美な姿をいっそう引き立てた。
薔薇の花弁が、彼女の存在を際立たせる。
「……すい……」
“翠狐”。
千年前、自分の前から消えた女性。
記憶は完全ではない。
だが、魂が覚えていた。
ヴァト王は、絞り出すようにその名を呼んだ。
その声音は、王と呼ばれる男のものではなく、一人の人間の震える声だった。
感情が胸の奥から込み上げ、王は歌を詠む。
それは、千年前から胸に閉じ込めていた想い。
夢に見し 君の影ぞ 消えずとも
―影になろうとも、君は決して消えぬ。
詠まれた瞬間、彼女はゆっくりと顔を上げる。
花弁が静かに落ちてゆく。
その落ちる速度と同じだけ――彼女は薄れていった。
黒髪が透け、足元が揺らぎ、輪郭が霧のようにほどけていく。
黒髪は淡い光にほどけ、一本一本が夜霧のように消えていく。
彼女は、静かに返歌した。
手に届かぬを 嬉しと知るかな
―千年もの間、触れられぬ距離こそが救いでした。
ヴァト王は手を伸ばす。
だが、届かない。届くはずの距離であるのに、指先が触れたのは空気だけだった。
女は顔を上げたまま静止し、その黒髪の先から舞った花弁が落ちるのと同じ速度で、その身は
残されたのは――妖石ひとつ。
“これが彼女のすべて”だと言わんばかりに、妖石はただ静かに輝いていた。
千年越しの恋は、
“再会”ではなく――“永別”として訪れた。
王は震える手でそれを拾い上げ、かなわぬ想いを胸に抱きしめる。
その瞬間、よろりと身体が揺らぎ、王宮全体が深い沈黙に包まれた。
その夜から、王の寝所には、誰も知らぬ“もうひとつの気配”が住み着くようになった。
以来、王は眠れぬ夜を重ね、目を開けても閉じても、
黒髪の女の“残り香のような影”が視界の端に揺れ続けた。
ある夜、青ざめた神官が震えながら報告に来た。
「王の影が……尾を揺らしておりました。九つには見えませんでしたが……一本だけ、白く長い影が」
誰もが信じなかった。
だが翌朝、王の寝具の上には“白い毛”が一本、落ちていたと言う。
その後、準備期間は効率化されたものの、召喚の失敗が五回、諦めきれず二十年にわたって続いた……。
ヴァト王は、次第に“誰も知らぬ別人”へと変わっていった。
召喚が失敗するたびに、王の魂は過去へ沈み、千年前の影へと引きずり込まれていった。
はじめは疲れが見える程度だったが、ある日を境に、臣下たちはその変化を「呪い」と呼ぶようになった。
王は玉座に微動だにせず座り続けるようになった。
赤い豪奢なローブはなお誇り高く、その身を飾る指輪や宝飾品は眩い光を放っていた。
だが、その中心にいる王だけが、死者のように色を失っていた。
頬杖をつく腕はやせ細り、皮膚は乾き、触れれば崩れ落ちそうにひび割れている。
若き日の清廉な光は失われ、顔には深い皺が刻まれ、髭は無造作に伸び、全身が「時に見放された者」に変わっていた。
そして何よりも恐ろしかったのは――その瞳だった。
黒目は濁り、時折、狐の尾のような“白い影”が映り込む。
臣下が近づくと、王は虚空に向かって微笑みかけ、
「……すい……ここに……?」
と、誰もいない空へ語りかける。
その口元には、うっすらとした笑み。
だが、その笑みには温もりがなく、どこか“災い”の匂いが滲んでいた。
一部の神官は、王の肩に“黒い靄”がまとわりついているのを見たと言う。
また別の者は、王の影が二重になっているのを見たと震えた。
片方の影は王の影、だがもう片方は――
――尾のついた、異様に細長い影であった。
やがて、王は唐突にギョロリと目を動かし、
まるで千年前の亡霊を見つけたかのように視線を泳がせる。
そして何かを悟ったように、ゆっくりと目を閉じた。
その表情は、不気味なほど静かだった。
千年の恋と未練と呪いが一つに溶け合い、
王という器が耐えきれなくなった瞬間だった。
後にこのクーデターは「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます