第1章 天使は都合よく舞い降りる ー 0


 神は死んだ、と言ったのは誰だっただろうか。

 このようなことを言うのは大概ニーチェと決まっているが・・・そうだ、言ったのは彼だ。間違いない。感銘こそ受けなかったが当たり前だと吐き捨てた記憶がある。

 しかしそれを私は酷く後悔している。彼が遺したこの言葉が如何なる状況で言われたにしろ的を得ている。現在の世界情勢がまさにそうだ、この混沌とした世界の中で救いの神などいれば少なくとも世界の何処かに現れて飢餓とか紛争の一つぐらい解決するはずだ。

 だからこそニーチェの言葉は信憑性があるし、否定する理由は出てこないはずだ。

 所詮人の行いは人が解決しなければいけない。温暖化や少子化や貧困・・・掘れば掘るほど過去の罪だと言わんばかりに目の前に溢れかえる。自分も無視していたが、この街、兆羽市の市長になってからは痛いほど今まで目を背けてきたものの重さが分かった。遺された罪は浅く、広く、気が遠くなるほどの愚かさを持っていた。私の代でようやく一割を終えられるかどうか、あと何代費やせば終わると言うのだろうか。

 だが、そんなことなど既にどうでもよくなっていた。


 「神よ・・・」


 幸音は死んだ。

 なんてことはない交通事故で死んだのだ。

 傍から見れば溺愛していたと思われるほどに愛を与え続けた息子が、言いたくもないが、本当に呆気なくその命を散らしたのだ。

 トラックの運転手は悪くない。彼が提出したドライブレコーダーは最新式で車内外両方を撮影出来るし、ドライバーが前方不注意と確認出来たら即座にアラームを鳴らしブレーキをかけるAIが搭載されている。まさに至れり尽くせりだ。

 しかもドライバーの彼は歳こそ30になったばかりだがトラックのドライバー歴は5年と長く、しかも事故当日はタイヤの点検を終えてこれから少し離れた倉庫にある荷物を積みに行こうとしていた。そんな時に起きた事故なのだ、彼からしたら踏んだり蹴ったりだろう。


 「神よ・・・・・・・・・・・・・・」


 つまり幸音に責任があったのだ。子どもに責任をなどと言うものがいるかもしれないが、近くにあった横断歩道を渡らずに、歩道に備え付けられたガードレールを飛び越えて道路を横断したというのだ。承認は丁度横断歩道を渡り始めようとしていた老人で、当日はゲートボールの大会の練習をしようと公園に向かっていた。横断歩道が青から黄色に変わるタイミングで幸音が飛び出した、しかし止めることが出来ず彼は轢かれてしまった。 老人は悲しそうに私に語ってくれた。老人もまた油断をしていたわけではない、逆に彼は幸音の行動に嫌なものを覚えて声をかけたほどだ。これもまた横断歩道の対面にいた人が老人の行動の証人となっている。さらに歩道に接地されていた備え付けの防犯カメラまでその様子の一部始終を残していた。


 「神よ!!!!!!」


 物言わぬ幸音の棺桶が軋みそうになる勢いで叩く。幸音には何度も言ったのだ。気を付けるんだぞ、左右を確認するんだ、飛び出したら車の運転手さんに悪い。もっと強く言えばよかったのだ、そうすれば幸音も少しは考えてくれたはずだ。何度も何度も同じことを考えて、再び棺桶に目を移すとその考え全てを飲み込むかのように悲しみの波が内から押し寄せてくる。


 「何故だ、何故だ、何故だ!!」


 怒りに任せて叩くものの反応などあるわけがない。一縷の望みすらもない。これが現実なのだ。ドライバーを責めようと老人を責めようと幸音は帰ってこない。あの元気いっぱいのただいまをもう聞かせてくれない。死んだ幸音に何を言っても返ってくるのは言った言葉が届いていないという沈黙だけだった。


 「あああああああああ!!ああああああああ!!」


 言葉も捨ててただただ感情に任せて唸る。まるで自分が若返って駄々っ子になったような、そんな気持ちの悪い気分だ。頭の中は雪山から湧き出る水のように非常な現実を直視出来ているのに、身体が、感情が、一緒にいた時間が、太陽のように私の身体を熱している。無いと分かっているはずなのにまだ希望があると信じている。くだらない、と何度も吐き捨てているのに。


 「幸音ぇ・・・・・・・」


 死産に近い形で生まれた幸音、しかし妻はそこで体力を使い果たし力尽きた。妻のため、幸音のため、男で一つで何とか育て上げた。肌の温もりも、苦いものを食べた時にする顔も、運動会で一等を取れた時の顔も、全部知っている。学校から帰ってくる時に笑顔で手を振ってくれたあの顔を思い出す度に心がいつも救われたし、この子の為だったら世界すら救ってみせるとさえ思えた。そんな時に市長の話が来て、受けた。

 今思い出すと虚しい。ただ、ただ虚しい。明るくひらけた世界が暗雲立ち込める混沌に変わっていった。何もかも嫌気がさしてくる、自分の中に無いはずのドス黒い感情が噴火しようとしている。それをひたすら悲しみという感情で中和させる。何度も何度も止めようとして、どちらも飽きで溶けて消えてしまえばと考えるが目の前の棺桶がその考えを霧散させる。ああどうして、どうして幸音は死んでしまったのか・・・。


 「もう一度……もう一度……幸音、お前に会いたい」


 棺桶に抱き着いてひたすら世迷言を漏らす。死んだ者とは二度と会えない。故に世迷言だが分かりたくても分かりたくないのだ。涙が湧き水のように零れ落ちる。もう何度目かも忘れた枯れたはずの涙の中に私は奇跡を見た。




 「生き返りますよ、あなたの息子は」





 溺れかけた私に救いの手が降りてきた。それが藁であることは理解していただろうに。そうであったとしても私はその藁にすがった。情けない、と私を馬鹿にしてくれても構わない。そうしなければ私は二度と立ち上がることが出来なかったのだから。


 天井から差す光の中から出てきた存在は屈託のない笑顔を浮かべていた。

 

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