第58話 間違い



上司「ああ。…わかった。今日は休め。なんか最近、お前は元気が無いっていうか、誰が見ても具合悪そうだったもんな。」


 休みの申請はあっさり承諾され、私は拍子抜けしてしまった。


私「あ…ありがとうございます。」



 それにしても、誰が見ても具合が悪そう…か。

 確かに精神は消耗しきっている。けど、他人の目から見ても明らかに分かる程だったとは。

 電話を切るやいやなや、フッと体の力が抜け、私は崩れるようにソファへ寝転んだ。






 いつもなら職場へ向かっている時間にもかかわらず、今、部屋で一人ダラリと過ごしている。この非日常感に少しだけワクワクした。



 そして、何気なくテレビをつけると、ほとんどのチャンネルでニュース番組がやっていた。特に面白くは無いけど、これも平日休みでなければ見れない光景である。

 

 ところで、そんな報道番組で埋め尽くされた中に、一つだけ、雰囲気の違うチャンネルがあった。

 



 

私「これ、懐かしいなぁ…。」



 子供向けの教育番組である。画面の中では、着ぐるみのキャラクターと、小学生ぐらいの女の子が踊っていた。


 そう、平日の朝と言えばこれだ。


 昔、私が幼稚園に通っていた時は、毎日のようにこのチャンネルを見ていた。それから十数年以上経過していても、当時と全く雰囲気は変わっていない。

 



 不思議なものだ。

 正直、幼かった私は、これを少しも面白いとは思っていなかったのだが、今、改めて見ると、ノスタルジックさも相まって、とても心地よく感じられる。



 いや、今だからこそ、この番組を最も楽しく見ることができるのではないか。子供時代と今の自分を比較して、十数年の時の流れが、人にもたらす変化を゙感じることができるのだから。




 

 思えば、大人になってから、大きな悩みにぶち当たることが増えた。常に頭は忙しく動き回っており、煩雑はんざつ、難解、奇々怪々な問題の解決に翻弄されてばかりいる。何より、恋というものは、私の性格を、まるで怪物のように醜く変貌させた。


 かつて、純白だった幼き心は、見る影もなくなってしまったと、しみじみ思う。



私「汚れっちまったなぁ…俺の心は。仕事を知り、社会を知り、…そして恋を知り…。

 苦しみ喘いで嘆いて、何で生まれてきたのか、時々考える。

 汚れっちまったなぁ。」


 中原中也なかはらちゅうやの詩、「汚れっちまった悲しみに」のフレーズを紹介している子供番組を見、つられて私も苦しさを漏らした。




 そう。こんな私も昔は、無垢な児童の一人であった。何も分からないまま、白紙を携えてこの人間の世界へやってきただけの、純粋な存在だったのだ。当時は何の悩みも無く、常にワクワクした感情が泉の如く湧いてきて、毎日が楽しく思えていたはずだ。


 あの頃は、それがいつまでも続くと思っていた。まさかこんな生き地獄へと地続きだったとは、知る由もなかった。






 さて、改めて熱を測ってみると36.8°まで落ち着いており、すでに気だるさは気にならないぐらいになっていた。ピークは起床時で、職場に電話を入れたぐらいから、みるみる回復していったのである。


 すると、なんだか会社をズル休みした気になってきて、申し訳ない気持ちになった。


 いや、実のところ、あの熱は本日、私を休ませるために、軻迦羅が不思議な力を使って起こさせた体調不良だったのかもしれない。



 もしそうだとすれば、それは心傷を負った私に同情し、仕事を休ませるという怪物の優しさだったのか。それとも、別の理由があったのか…。


私「…。」



 ふと顔を上げると、昨日着ていたジャケットが、ドアのそばに脱ぎ捨ててある。

 そのポケットをまさぐってみたら、毛利から渡されたボイスレコーダーが出てきた。



私「そういや、こんな依頼を受けていたんだっけか。大崎の、前市長暗殺の証拠をつかむミッション…。はは、まるでスパイみたいだな。」



 スパイ。

 その言葉に、少しだけワクワク感を覚えた。児童番組を観たせいで、ひっそりと蘇った童心がそうさせたのかもしれない。

 とにかく、それは苦しみばかりの現実へ久々に降り立った、僅かとは言えど、貴重な楽しみに違いなかったのだ。



 気がつけば、車に乗って亜広川市の市役所を目指していた。全力で、このスパイ任務を遂行してやろうという気になっていた。






 この日、空は晴れていた。穏やかな気候の中、車は軽快に進んでゆく。


 間もなく、中国山地北西に位置する、亜広川市に入った。

 さて、この長閑な山間部を舞台に、それとは全く不釣り合いな、極秘の隠密行動が行われようとは、いったい誰が想像しているだろう。


 今、車の窓から見える、稲の収穫をしている、老年の男。 

 彼は知らない。まさか、そばを通り過ぎた車の中に、この市の行く末を大きく左右するような任務を負った男が乗っているなんて。


 知らないからこそ、あんな大欠伸おおあくびをしていられるのだ。

 私はますます楽しくなって、アクセルを軽快に吹かして進んだ。


 これから、私の行動はこの市の未来を大きく変えるかもしれない。いや、変えてやろう。

 そう心に誓ったのである。

 

 






 しかし、市役所に到着するも、ここで大崎とは出会えなかった。そもそも、一般人に過ぎない私が、アポイント無しで勤務中の市長と面会するなど、よくよく考えてみれば無理な話である。役所の案内係に行ったところで、相手にしてもらえるわけがなかった。


 よって、館内をうろつき、大崎がいないかを探すことになった。実は、私は彼への連絡手段を持っていないのだ。確かに、インターンシップの時に彼の個人電話番号を教えてもらったが、それが終了すると同時にさっさと電話帳から消してしまったのである。まさか、その行動を後悔する日が来るなんて、夢にも思わなかった。




 途方に暮れた私は、飛車猫を訪ねることにした。

 彼はこの日も、役所に隣接する施設の屋外バスケットボール場で、一人で寂しく玉入れをしていた。



私「…飛車猫。」


 私の声を聞いた背中がぴくりと反応した。


飛車猫「おお。お前か。またやってきたのか。」


 ずっとこの場所にいる彼ならば、大崎の居場所を知っているかもしれない。それを尋ねるためにここへやってきた。

 また、挨拶がわりに、彼が教えてくれた呪術「ヅォン・リン・ムー」がうまくいったことも報告した。



私「聞いて驚くなよ。…成功したぞ、例の呪術。ちゃんと夢で自由になれたし、自分が思いを馳せる人に出会えた。しかも、キスまでしたぞ。」


 すると、彼はわざとらしく目をまんまるにし、「そうか、良かったな。」と小さく言った。


私「その顔は信じていないだろう。…まあいい。ちょっと今日は用事があって、長話をしている暇は無いんだ。

 大崎を探している。どこにいるか知らないか?」



飛車猫「さぁ。残念ながら、俺も分からない。市長と話す機会なんて、ほとんどないからな。でも、職員の話によると、普段あの人は役所にあまりいないらしいぜ。いつも亜広川市のあちこちを忙しく飛び回っているってさ。」



 私はそれを聞いて、思い当たる場所が一つ浮かんだ。



私「…ありがとう、飛車猫。」

 

飛車猫「…あ、ああ。」



 私が行こうとすると、彼の足はぎこちない様子で倉庫に向かおうとした。そこには、かつて儀式に使用したハンドベルとレンチが置かれているはずだ。


私「おいおい。まさか、今度は自分自身にあの儀式をするつもりか?…俺のことが羨ましくなって。」



飛車猫「あ…いや…。」


 彼は図星を突かれた様子で、倉庫の扉に伸ばした手を、慌てて引っ込めた。そんな状況を、私は皮肉な目で彼を見る。



私「どっちみち、あんなの一人じゃできないだろ。今度、俺が付き合ってやるから心配するな。前回やられた分、思いっきり叩いてやるからな!


 でも、今日はこれから、市長を訪ねたいと行けないから。先を急ぐ。すまないな。」




 私は慌ただしく早口で捲し立てると、彼の返答待たずに車へ走って向かった。




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