第39話 戦いの前夜
昼さがりの陽の下、風に運ばれてきたほのかな花の香に辺りは包まれ、私たちは小さな楽園の中にいた。
私がボールを投げ、それをキャッチした瀧宮がこちらへ投げ返す。
その時、私は相手が取りこぼさないように、できるだけ投げる力を緩めるよう努めた。すると、返ってくるボールもまたゆっくりと小さな弧を描いてきた。
つまり、瀧宮も私の真似をして、優しく投げるようにしたのである。この歩調を合わせるような行動が、私たちの心の距離をグッと縮めたと思う。
そして、しばらくボールの往復が繰り返されると、言葉のキャッチボールも並行して行われた。
私「いつまで、ここにいるつもりだ?」
瀧宮「今、考えてる。」
私「家族は心配するぞ〜。」
瀧宮「分かってるってば。」
いつしか二人の間に、ボールを投げるタイミングで一緒に言葉もかけるという、暗黙のルールが出来上がっていた。
私「俺が親なら、早く帰ってきてほしいと思うけどなぁ〜。」
瀧宮「私のママは…別に心配なんかしてないよ。きっと私のことなんて、どうでもいいと思っている。」
私「何でそう思うんだ?」
瀧宮「うーん…。えっと…。」
私は彼女の遊びに付き合ってあげているように振る舞っていたが、このキャッチボールがいつまでも続いて欲しいと誰よりも強く願っていた。
しかし、瀧宮は時々、ボールを受け取ってすぐに投げ返さず、それを持ったままじっと数秒停止することがあった。
この時、きっと彼女は、会話の返答を考えていたのだろう。
しかし、私にはその
そして、再び彼女が華奢な体を大きく振りかぶった時、まだこの幸せな時間が続くと分かって安心するのだった。
瀧宮「だって、ママはいつも彼氏と一緒にいるし。」
私「へぇ…。じゃ、君も…彼氏作ればいいじゃんか。」
瀧宮「…私は、…ママみたいに簡単に決めない。相手選びは慎重にやるから。」
私「でも…。でも…君、押しに弱そうだけど…。」
瀧宮「そ、そう見えるだけ。ちゃんと芯はあるタイプだからっ。」
彼女は自身たっぷりな表情を作り、ボールをこっちへ投げ込んだ。私は、強い勢いで飛んできたそのボールをとり逃し、慌てて追いかける。
そして、砂が薄く表面についたそれを拾い上げるとき、何か胸が強烈に締め付けられるような気がした。
振り返ると、瀧宮は「早く投げて。」と言わんばかりに、右手をこっちに振ってきた。その表情には、学生特有のあどけなさがある。
私「本当に…帰らなくていいのか?」
瀧宮「…。もし、ママが帰って来て欲しいって言ったら、帰ろうかな。…帰ってあげようかな。こっちから戻るなんて、絶対に言わないから。」
結局はなされるがままだが、言葉だけは強気な彼女。私はそれを滑稽に思った。そして、笑ったせいで危うく落としそうになったボールが、なんとか私の手を離れて再び彼女のところへ渡った。
私「ふぅ…。やれやれ、本当なんだか…。俺には、そう見えないけどね。」
私は、実は押しに弱い彼女の本質を見抜いていることをアピールしたくて、意味深な笑顔を作った。
しかし、この時、突然、幸せな時間の終わりを告げる事が起こったのだ。
私「…え。…あれ…。」
ボールを投げた瞬間に、何の脈絡もなく、私はこれが夢であるということに気づいてしまったのだ。
いや、何かきっかけがあったのだが、覚えていないだけかもしれない。
例えば、私がここへ来た手段が分からないことなど、確かな違和感が頭の片隅に残り続けていたから、もしかするとそれが、真実に気づくきっかけになったのだろうか。
私「え…夢…。」
しかしながら、この幸せな時間が現実ではないということは、到底受け入れられるものではなかった。
だから、夢であると気づいていながら、瀧宮とのキャッチボールを続けた。
私「わ…わかった気がする…。俺は記憶喪失なんかじゃなかった…。」
瀧宮「…もしかして、ここへ来た経緯を思い出したの?」
私「そう…何だけど…。…。あの、…あのさ…、嘘だと言って欲しいんだけど…。
今、ここにある全ては…、俺の夢にすぎないんじゃないかって思うんだ。」
しばらくの静寂が訪れる。そして、その後、「何言ってるの?…やっぱり変なの。ここは現実だよ…。」と彼女の声がした。
私「そ…そうだよな。あれ…、何だか、そんな気がしてきた。
ごめん。キャッチボールの続きを…。」
しかし、それを聞いて顔を上げた私に飛び込んできたのは、先ほどとは一変して、あまりにも恐ろしい光景だった。
私「うわっ!!」
目の前にいる瀧宮の顔が、まるでモザイクがかかったようにぼんやりとしていたのだ。そしてその声も、よく識別できない奇妙なものとなっていた。
瀧宮「&%$##&’!」
私「瀧宮!…瀧宮!?」
そこから彼女の身体も、どんどんぼやけてゆき、やがて形が崩れていった。また、それに留まらず、公園や、遠くに見える山々もぐにゃぐにゃと歪みはじめる。
そしてとうとう、視界に映る全ての色が溶け出し、マーブル模様のように複雑に絡んで混ざり合ったのだ。
私の幸せの空間は、夢だと悟られたことをきっかけに、音もなく崩れてぐちゃぐちゃに溶けていった。
私「待って、待ってくれ…!!行かないで…瀧宮!」
しかし、目覚めを拒んだ私は、その崩壊する景色にしがみつこうとした。
もはや何の原型もとどめておらず、絵の具を無秩序に散りばめたポロックの作品みたいになっている景色の中で、私の眼は必死に瀧宮の姿を探した。
私「…あれは!」
すると、あたりに散りばめられた数々の色の中に、瀧宮のパーカーと同じ白を見つけた。その瞬間、何も考えずただ必死に、私はそこへ向かって手を伸ばすのであった。
私「やった!…届いた!」
そして、宙に浮かぶ白色をがっしりと掴んだ。
しかし、何の感触も得られなかった。間も無く、その白色は指の間から外へ流れ出ると、他の色に溶け込んで消えてしまった。
私「はぁ…はぁ…!待って…待って…!!」
すると、全ての色は流れるように空中を這い、一箇所にどんどん集積されてゆくのだった。
私「え…。今度は…何?」
そして形作られたそれは、液体とも気体ともわからない不定形のもので、東京駅のホームに飾られた電飾看板にあるような賑やかな色を帯びて輝いていた。
これには既視感があった。
そう。絵の具のように溶けてしまった夢の光景は、以前私が見た軻迦羅の姿と全く同じものに姿を変えたのである。
私「お前は…軻迦羅…。」
しかし、今回は様子が違った。不定形のそれは、グネグネと
人型といっても、目、鼻、口などの一切を持たず、輪郭も絶えず動いて定まらない。体色は頭から足先にかけて赤、オレンジ、黄、緑、青、紫が連なって、美しいグラデーションを描いている。
何だか熱病の時に見る夢みたいだった。
これは特撮好きの読者にしかわからないと思うが、「ウルトラマン
それがまた以前と同じように、聴力検査みたいなピーーという音で鳴いた。音は小刻みに途切れ、まるで何かの信号をこちらに伝えてきているみたいだった。
私「か…軻迦羅…。
何者なんだ、お前は。
そして…何で俺にこんな夢を見せるんだ…。瀧宮に…瀧宮にもう一度会わせてくれよ!」
物体は私の言葉に対して何か返答しているみたいだったが、やはりピーーとしか聞こえずに、その意味が理解できなかった。
すると、そのカラフルな身体の軻迦羅は不思議な挙動をした。
左足をまっすぐ地面に立て、右足で地面をリズムよく蹴る。そして、そのままコンパスで地に円を描くように、グルグルと回転し始めた。
私「…え…?」
しばらくそれをやると、今度は膝を胸の高さまであげ、そのまま大股でゆっくりと歩き出した。しかし、前へ進もうとする下半身とは逆に、上半身はそのばに留まろうと踏んばっている様子だ。上下であべこべな動きをするものだから、真ん中にある腹は引っ張られてちぎれそうになっている。
私「な…何を見せられているんだ…。」
次の瞬間、軻迦羅の身体は真っ二つに引き裂かれ、勢いよく四散した虹色の体液が、私の視界にべチャリと被さった。
私「はっ!!」
そして私は、自宅のベッドの上で目覚めた。体は汗でぐっしょりと濡れ、息が上がっている。さらに上の瞼がピクピクと数回震えた。
私「や、やっぱり夢だったのか。そうか…夢だったのか…。」
私は慌てて机へ向かうと、引き出しから日記帳を取り出した。青野での出来事は、もうすでにここへ記録していた。そして、この日見た夢の内容も、できる限り詳細に書き残したのである。
私「…きっと、ここ最近は疲れているのだろう。
また、変な夢を見た。その始まりは、誰もいないタイヤ公園に、いつの間にか自分一人でいて…。」
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