第三章:19話 怠惰の報酬と、過去の契約の残滓

 パリでの一件から数日後。恭平は、情報屋の手引きで、ヨーロッパの片隅にある静かな隠れ家で、傷ついた体を休めていた。チキンソードの反動による体力の消耗は甚大で、数日間の絶対的な休息が必要だった。

​彼の脳裏には、次の逃走先である南アフリカ、「怠惰」のダンジョンのことが渦巻いていた。アザゼルが言っていた「怠惰のマスター」がチキンソードを生み出したという事実が、恭平の「怠慢」な冒険者人生の根幹に触れる気がしていた。

​「南アフリカか。怠惰のマスターに会うなんて、それこそ『きつい』仕事だ」

​恭平は、体力の回復を促すポーションを飲み干しながら、思考を巡らせた。彼の現在の目標は、怠惰のマスターの真意を探り、チキンソードの力を完全に理解すること。それが、自身の「安全第一」な老後への、最も確実な布石だと直感していた。

​その時、恭平は、ふと過去の記憶の中に沈み込んだ。



​回想:アザゼルとの最初の契約(2020年頃、東京)


​ 恭平が、あの任務で仲間を失って間もない頃だ。彼は、危険な依頼には飛び込まなくなり、手堅く稼ぐための情報収集に明け暮れていた。しかし、普通の情報屋では、ダンジョンの深層や、魔導具の裏の知識までは得られない。

​彼がコンタクトを取ったのは、都市伝説のように語られていた悪魔の使役者だった。そして、その使役者を通して、彼は一人の悪魔と邂逅した。それが、アザゼルだった。

​会合場所は、新宿の雑居ビルの屋上。夜風が吹き荒れる中、恭平は古びたレザージャケットを羽織り、悪魔の出現を待っていた。

​漆黒の煙とともに現れたアザゼルは、恭平の目の下の隈と、その全身から漂う「絶望」と「生存への執着」を見て、満足げに笑った。

​「君が、情報と『契約の対価』を求める人間か。私はアザゼル。さて、君は何を望む?」

​恭平は、当時まだ若く、しかし既に深いトラウマを負っていた。彼は、感情を押し殺し、冷徹なビジネスマンの顔を作った。

​「俺が求めるのは、『安全に稼ぐための情報』だ。無駄な戦闘を避け、確実な収入を得るための、ダンジョンの構造的な弱点、モンスターの習性、そして、俺の持っている科学技術と魔法を組み合わせた、最も効率的な攻略法」

​アザゼルは、恭平の要求を鼻で笑った。

「そんなものは、世間に溢れているだろう?悪魔に頼むほどのものか?」

​「違う。俺が求めるのは、『契約の穴』を突く情報だ。お前たち悪魔が、契約を絶対とするように、ダンジョンや魔導具にも、必ず穴がある。俺は、その『抜け道』を、お前から買う」

​恭平は、当時持っていた、希少なマグネタイトの粉末をテーブルに置いた。

「対価は、常に『君の心に存在する最も強い感情』、もしくは、『君の所有する最も純粋な魔力物質』とする。ただし、俺は『命の安全』を最優先する。契約により、お前は、俺の生存に繋がる情報を、常に提供する義務を負う。もし、お前が意図的に俺を死に追いやる情報を流せば、契約は破綻し、お前は対価を得る権利を失う」

​アザゼルは、恭平の冷静な、しかし内側に激しい生存本能を秘めた瞳を、面白そうに観察した。

​「ふむ……『安全第一』。契約として悪くない。私にとって、人間の『絶望』や『後悔』は、上質なエネルギー源だ。君のその『慎重さ』の裏にある『怠慢』と『後悔』は、長く私を楽しませてくれるだろう」

​アザゼルは、恭平の提示した条件を飲み込んだ。そして、恭平は、その時、胸の奥深くに燻っていた、仲間を失ったことへの『深い後悔』を、最初の対価として悪魔に差し出した。

​「契約成立だ、恭平。私は、君の『安全な老後』を、長く見届けさせてもらおう」

​その時から、恭平とアザゼルとの、ドライなビジネス関係が始まった。アザゼルは、契約の穴を突くように、恭平の求める情報を提供するが、常にその情報によって、恭平がより大きな危険に晒されるよう、誘導し続けた。

​恭平は、回想から現実に引き戻された。

​「アザゼルめ。俺の『怠慢』と『後悔』を餌に、俺を世界の戦争に引きずり込もうとしている」

​チキンソードが、静かに光を放った。

​『マスター。あの悪魔との契約は、貴方様の『安全』を保証する反面、常に貴方様の『大罪』を求める。しかし、契約は守られます。南アフリカへの逃走は、現時点での最高の『安全策』です』

​「ああ、そうだな。怠惰のマスター。彼に会えば、チキンソードの真の目的と、俺のこの『怠惰』の根源がわかるかもしれない」

​恭平は、新たな偽造パスポートと、残りの現金をリュックに詰め込んだ。パリでの一件で、世界中のダンジョンマスターと、憤怒の軍勢から目を付けられた恭平にとって、南アフリカの「怠惰」のダンジョンは、世界の七つの大罪の中でも、最も関心が薄く、安全な隠れ場所となるはずだった。

​彼の次の「逃走」の舞台は、広大なアフリカ大陸へと移る。その目的は、もはや「貯金」だけではない。彼は、自分自身を深く蝕む「怠惰」の根源と、対峙しようとしていた。

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