第二章:9話 憤怒の領域とチキンソードの限界
恭平がくぐったゲートは、荒涼とした岩肌のトンネルに繋がっていた。空気は乾燥し、強烈な硫黄の臭いが鼻を突く。ここは、日本国内にある暴食のダンジョンが、中国の憤怒のダンジョンへと接続するために開いた「中継地」となるゲート型ダンジョンだ。
周囲には、暴食の粘液や腐敗臭ではなく、高熱に焼かれたような痕跡と、鋭利な爪痕が残っている。
「これが憤怒の領域か。さすがに荒れているな」
恭平は、魔導端末で周囲の環境データを収集しつつ、ドローンを前方に飛ばした。彼の意図はあくまで「逃走と情報収集」。戦闘は最小限に抑える。
ドローンが捉えた映像は、まさに戦場だった。憤怒のマスターの軍勢――全身を鋼鉄の鎧で覆われたオーク型の魔物「ウォーラス」の群れが、暴食のダンジョン側から侵入してきたスライム型モンスターを容赦なく叩き潰している。
「恐ろしいな。効率を度外視した、純粋な『憤怒』による支配だ」
チキンソードが冷静に分析する。
『マスター。ウォーラスは、物理防御と攻撃力に特化しています。彼らとの戦闘は、貴方様の体力を無駄に消耗させます。我々の目標はルートの特定とマーカー設置。最優先は『逃走』です』
「わかっている」
恭平は、ドローンに遠隔操作で小型の魔力マーカーを取り付けさせ、ウォーラスの巡回ルートの死角に設置した。これは、依頼主が求める「開拓」の証拠となる。
しかし、作業の途中で、ドローンが一体のウォーラスに発見されてしまった。ウォーラスは、鋼鉄の斧を振り上げ、一撃でドローンを粉砕する。
「チッ、余計な出費だ」
ドローンを失った恭平は、視界を失った。ルートの深部までは、もう自分自身で進むしかない。彼の「慎重さ」が警鐘を鳴らす。
「後退だ。これ以上のリスクは負えない」
恭平は引き返そうとしたが、その瞬間、背後からもウォーラスの群れが迫ってきている気配を感じた。憤怒のマスターの軍勢は、獲物を見つけると、そのゲート全体を包囲する戦略を取るのだ。
「囲まれた……!」
恭平は、即座にレールガンを構えた。逃走ルートは、ウォーラスの群れの中を強行突破するしかない。
『マスター。この状況で逃走距離を稼ぐのは困難です。しかし、『不敗の免罪符』の力を蓄積すれば、一時的な突破は可能です。戦闘は避けるべきですが、『逃走のための戦闘』は例外です!』
恭平は、チキンソードが持つ「逃走のロジック」に、深く同意した。生きて逃げるためなら、戦う。
彼は、レールガンでウォーラスの関節部分を精密に狙撃した。ウォーラスはひるむが、その鋼鉄の鎧は銃弾を弾く。
「くそっ、効きが悪い!魔力防御ではない、純粋な物理防御だ!」
恭平は、術式ナイフを取り出し、チキンソードの力を込めて、ウォーラスの最も露出している喉元を狙った。
その一撃は、ウォーラスの分厚い首筋を切り裂き、一体のウォーラスを沈黙させた。
『素晴らしい斬撃です! しかし、力の消耗が激しい。残り二体、早く逃走経路を確保してください!』
恭平は、残りの二体に向かって粘着性のゲルと、閃光を放つトラップ(科学技術)を投げつけた。ウォーラスは閃光にひるみ、足元をゲルで滑らせる。
その隙に恭平は、一気にゲートへと続く通路を駆け抜けた。
「……ハァ、ハァ……きつい。本当にきつい」
恭平は、ゲートを飛び出し、地面に倒れ込んだ。全身から力が抜け、汗と硫黄の臭いにまみれている。チキンソードの力が一時的に彼の体力を補ったが、その反動が今、猛烈な疲労として押し寄せている。
『任務達成です、マスター。ルートの特定と、マーカーの設置は完了しました。そして、今回の戦闘と逃走により、私の知性はさらに向上しました』
チキンソードは、恭平の命の危機を前に、まるでビジネスの成功を祝うかのように淡々としている。
「チッ……これが『楽に稼ぐ』ことの代償か。体がボロボロだ」
恭平は、情報屋に連絡を取り、依頼達成の報告と、報酬の傲慢のダンジョンの構造図の受け渡しを指示した。
その時、彼の魔導端末が再び、アザゼルとの特定コードを受信した。
メッセージ:{恭平。憤怒のマスターの軍勢から、君が『怠惰のマスターの協力者』としてマークされた。} {君の逃走術が、彼らの『憤怒』を煽った。}
「チッ……余計なことをしてくれたな、アザゼル」
恭平は、悪魔の契約の穴につかれたことを悟った。アザゼルは、恭平に憤怒のダンジョンへ行かせ、危険を冒させることで、より高額な対価を引き出そうとしているのだ。
メッセージ:{対価:マグネタイトの塊(高品質)。要求:フランス『傲慢のダンジョン』での、傲慢のロードの支配権構造と弱点。} {君の次の逃走先は、もはや安全ではない。}
恭平の目の下の隈が、絶望的に濃くなった。楽な道は、もはや存在しない。彼は、チキンソードと、その裏設定である「怠惰」の悪意に、深く巻き込まれつつあった。彼の次の選択は、命を賭けた「逃走」か、それとも「怠惰」の誘惑に屈することか。
彼は、安アパートの自室に戻り、すぐにアザゼルに再度のコンタクトを取った。
「アザゼル。取引を飲もう。だが、条件がある。傲慢のダンジョンの情報と引き換えに、俺を追っている憤怒の軍勢の正確な動きを伝えろ。そして、今後、俺の『怠惰』を増長させるような情報は、悪魔の契約に基づき、一切与えるな」
アザゼルは、彼の真剣な目に、一瞬、冷たい笑みを消した。
「……面白い契約だ、恭平。君は、君自身の『大罪』と戦うつもりか?」
「戦いじゃない。これは、俺の老後のための、最も安全な生存戦略だ。次の目的地は、フランス、傲慢のダンジョンだ」
恭平は、体力の限界に鞭打ちながら、次なる「逃走」のための準備を開始した。
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