バビロンの旅立ち
透明少女は猫を抱く その1
誰かが走ってきた。
おっとあいつは猫マンだ。俺のことを狙う邪悪な狩人だぜ。
俺は校舎二階の窓から飛び降りて、運動場へと華麗に着地した。元いた廊下には威勢を失った猫マンの姿が取り残されている。筋骨隆々の巨躯と恐ろしく毛深い顔貌は、手の触れられる距離にいれば紛れもない畏怖の対象であるものの、安全圏から眺める分には間抜けな組み合わせに見える。
「フシュゥゥゥウ」
猫マンは喉を鳴らしていた。ふん、今日のところは俺の勝ち、負け惜しみしてろクソめ。
「梓、何してんの?」
着地点のそばに知り合いがいた。
「
目の前の少女『
「私はUFOを呼んでたの。見てみて」
彼女に誘われて到着したサッカーコートには、満面を覆う巨大なミステリーサークルのようなもの。鳥瞰すれば一つの模様になるのだろうが、足元にある断片的な
「宇宙人でも呼んでるのか?」
「そうそう。このSOSに気づく人がいないかなって」
「なるほどにゃ」
「猫?」
「うん猫」
沈黙の猫。そして俺はため息をついた。
「俺が宇宙人ならSOSこそ見て見ぬ振りをするよ」
「ひどい性格」
「あえて危険に踏み込みたくないからね」
「ふーん、じゃあ『welcome天国』のミステリーサークルにする?」
「天国を自称する本当の天国が果たしてどれだけあるんだろうね」
「騙されないかな?」
「彼らの信じる神話によるだろうね。手招きする天国なんて単純な物語を信じられる知的生命体、そんなの俺には信じがたいね」
「はーあ」
彼女もまた項垂れた。俺はしゃがみ込み、ミステリーサークルの
「つまりは東も単純な神を信じてるのさ。宇宙のどこかに俺たちを救い出してくれる謎の神がいないかなって」
「それはダメなことかな?」
「別にいいと思うぜ。……ちょっと待ってろよ」
突如運動場に現れたミステリーサークルに見惚れて、野次馬たちがぞろぞろとやってくる。俺は運動場の入り口に立ち、彼らから鑑賞料のじゃがいもをたらふく受け取った。
大量のじゃがいもも持ち帰った後、俺は彼女に告げた。
「持論からすれば俺らは孤独な生き物だ。神も宇宙人もこの世にはいない。けれどそれを信じるお前が芸術を産み出して、じゃがいもを得た。だからお前の信仰は無駄ではなかったのさ」
「私はじゃがいもが欲しくて書いたんじゃないよ」
「そりゃそうだね。だからこの寓話には報われない者が一人だけいる。東、お前だよ。けれどお前は確かに何かを動かしたのさ」
「……」
彼女は言いくるめられたように押し黙った。救済の不在を認めたく無かったのだろう。俺はそれ以上は何も言わないことにした。彼女が真に宇宙人の存在を信じられなくなった時、彼女がじゃがいもの不在で飢えてしまうと考えたからだ。
芋は旨かった。そんなところだ。
◇
猫マンのクロスチョップが俺の寝床に直撃する。迷い猫か。俺は寝床のシェルターを捨て、起きぬけに臨戦態勢を整え、怪物と向かい合った。校舎裏の林道は鬱蒼とした木の葉の
「フシュゥゥ」
猫マンの双眸はぶっちゃけイッている。その瞳に宿る青は
俺は鞘から刀を抜き出し、袈裟斬りの具合で猫マンに飛び掛かる。
――おっとしまった。足元がお留守だった。猫マンは突如に腰砕けのようにしゃがみ込んで、刀の軌道を大胆に下に避けた。俺の太刀筋は猫マンの俊敏さに勝るものではないらしい。もっとも、訓練の賜物で、袈裟斬りの余韻が致命的な隙を生み出すことは免れた。
俺のバックステップに続いて、猫マンのアッパーカットが虚空を通過する。直前までに俺の立っていた場所だ。that's空振り。間一髪の
俺の闘志は眠気の覚めと共に高まっている。獲物を捉える俺もまた獣。刀は鋭利な爪
しかし娯楽は続かない。俺の予期した鮮烈な
目の前の猫マンの挙動が一切に静止する。目も剥かれ、
それは頸部を貫通する一本の矢によっておおむねの生命活動をやめた。
パプリカの種から咲いた花。何の話か分からない、俺の中にある、一戦を交えた敵へと向ける想起。想起そば。尊敬の念。
「ご苦労様だね、猫警察」
俺はそう呼びかけ、木陰に隠れた警察の輪郭へと視線をやる。それは確かな姿を見せることもなく「対象を殲滅」と呟いて闇に消えた。
俺は眼下に頽れた猫マンだった者を眺め、鳴いた。
「にゃーお」
木陰にはもう一つの気配があることを知っていた。
「東、こっちに来ない方がいい」
その影は暗黒に紛れたまま「うん」と返した。
「猫ちゃん、死んじゃったの?」
「ああ」
「そっか」
彼女の声を震えていた。俺はしゃがみ込み、猫マンの虚ろな目を凝視した。
「……校舎を飛び出た猫マンは害獣に過ぎないからな」
「彼らと分かりあうことはできないのかな?」
「いやできるでしょ、理論上は」
「それなら……」
「理論上って言っただろ。できるのにできないことなんて世の中にはいっぱいある、そういうことだよ」
彼女は押し黙った。安易な現実で妥協をしたくないという思いを感じる。俺もまた思いは同じだ。そしてそれを叶えるための力が無いと知って、何度も嘆いた。
甘えかもしれないが、俺は俺が生きることにまず精一杯なんだ。
「猫マンとの共存は当面は諦めた方がいい。そんな理想で命を落とすよりマシだろ」
彼女はようやく姿を現した。俺が思っていたよりは気丈な態度で俺の言葉に応えた。言葉では何も答えなかったが。
しばらくすると麻袋を抱えた猫警察二名が戻ってきた。彼らは遺体をそれで包んで運んでいった。
彼らの一人がは去り際に俺の目を見て言った。
「こんなところで一人でいると危ないぞ」
俺は彼女と視線を交わした。二人が去ったあと、林道には静寂が張り詰めた。その表現通り、そこは森閑としていたが、やけに緊張感を喚起する空気をしていた。
虚ろのレヴィアタン 山川 湖 @tomoyamkum
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