ははのひ 4

 晴れた日だった。昼下がりの日差しが降り注ぐ王都市街は、微妙な陰影を帯びていた。

 エンリは護衛を二人だけ連れ城を出ていた。エンリが出資している船が到着したと、港から知らせがあったのだ。王国が国家事業としている貿易の他に、エンリも私財を投じている。自分の商いを持っていることは、エンリの楽しみのひとつだった。

 王都には港が二つある。西側にある商業港と、東側の軍港である。軍港からさらに東へ行けば白塔城に至る。

 西の商業港-プラシベ港-付近まで来ると、王城や軍港がある東とは違う活気があった。露店に挟まれた大路は、そのために幅を狭められている。人通りが多いのに、子どもたちは平気で遊んでいる。だから馬車などが通る時は、馬車の方が子どもを避けるか、馬丁が子どもを脇へ寄せなければならない。

 東に比べると、どこか緩んでいる。僅かな距離でも、権威から離れていれば、民は息がしやすいのだろうか。娼館なども西にしか無く、東に住むものにとっても、楽しみを味わうなら西なのだ。

 だから護衛二人の表情も、東から西へ移ると微妙に変わる。繁華なだけに、西の方がどういう人間が紛れ込んでいるか読めないのだ。

 近衛の中に、月番というものがある。父と祖父が選び、エンリに付けた者たちだ。元からヴィサリア王室の近衛だった者もいるが、祖父に忠誠を誓うランナフル出身の者もいた。

 前を行く月番の二人、レンドローサとイネスは神妙に周囲を警戒していた。レンドローサは近衛の鎧を装備している。イネスはどこへ行くにも、祖父の弟子たちが身に着ける緑のローブで通している。エンリだけが身軽な服装だった。王宮で身に着けるものは、どれも窮屈で動きにくい。

 月番となった者に与えられる至上命令は、守秘である。だから家族以外に唯一、エンリの竜化という秘密を知っており、それを守るために組織された。ヴィサリアでは、五体満足の男子、と暗黙の内に王たる者の資格が定められている。今は嫡出の男子であるエンリが王太子とされているが、竜への変身という異形は、致命的な秘密だった。

 エンリにとっては、傅かれるより、こうして王家の服を着替えて街を歩く方が気が楽だった。ただ、街へ下りた後は疲れる。見えるもの、聴こえるもの、匂い。市井の空気が嫌いではないが、捉えるものが多すぎるのだ。だから、ひとりで空にいることが、本当は一番好きだった。

「殿下、この先は市が開かれております」

 レンドローサが振り返った。この男は、獅子のように屈強な戦士なのだが、すぐに不安げな顔をする。

 今まで歩いてきた通りも両側に露店が開かれていたが、そこを抜ければ広場になっている。区画に沿ってはいるが、所狭しと店が構えられている。食い物を出す店が出ており、油で熱された香辛料や、魚や肉の焼ける匂いに誘われたように、人が蝟集していた。とうに昼を過ぎているのに、人の出入りが衰える気配は無い。

「突っきろう」

 イネスもエンリを振り返った。

「迂回しても大差ございません」

 イネスの目に頑なな光があった。この祖父の弟子は、エンリに”何かがあった”時の抑え役として月番に選ばれた。結界魔法の遣い手としては非常に優秀な女だが、エンリを見る目が、レンドローサのようなヴィサリアの近衛騎士たちとは違った。

「もう決めた」

 エンリが言うと、レンドローサとイネスが顔を見合わせた。イネスが何か言う前に、レンドローサがエンリと視線を合わせてきた。

「 かしこまりました。では、私の後にお続き下さい」

「わかった」

 レンドローサが人波を掻き分けて進む。その後ろをエンリが続く。後ろで、ローブの裾を気にしながら、イネスも付いてきている気配がある。

「おい、あの串焼肉。いい匂いがしないか?」

 右手の店で、火の上の肉に、ちょうど香料が振りかけられているところだった。そこには輪をかけて人が群がっている。焦げた香料と獣脂の匂いが周囲に広がり、エンリの口の中には唾が溜まっていた。

「先に用を済ませてしまいましょう。肉なら、後で私が買ってまいります」

 前を向いたままのレンドローサは、人を掻き分けるのに必死そうだった。人混みの熱気で、頭から湯気が立ち昇っているように見える。だから鎧を脱いでくればよかったのだ、と言いたくなった。

 市場を抜けた。通りの先に、もう海が見えた。

 プラシベ港に着くと、監督官であるフォンサが役人を引き連れて出てきた。

 フォンサがエンリの前に立ち一礼した。

「お待ちしておりました、殿下。もう荷降ろしは済ませてございます。」

「そうだろうと思って、昼を過ぎてから来たのだ。本当なら、港に入るところを見たかった」

 船は昼に着いていた。出資者であるエンリは報せを受け取っていたが、祖父が父から魔法について諮問を受けており、アルファレとともに付き合わされたのだ。アルファレの炎の扱いについてエンリも訊かれ、上達していると答えた。本心からそういったが、アルファレはまた俯いていた。

「今来られた方が賢明ですよ。お待たせしてしまいますからな」

「次は、私も荷降ろしをしてみるかな。艀に乗って」

「とんでもないことでございます」

「私が海へ落ちたら、首が飛ぶか?」

「それで済めば良いのですが」

笑いながら後頭部を手で叩くフォンサに導かれ、桟橋に着くと、荷が並べられていた。

「これは王子殿ではないか」

 船から声が聞こえたと思ったら、すぐにカルカが桟橋へ降りてきた。

「船長、今度の航海はどうだった?」

「セルタナがつくったもんはますます欲しがられるな。どこへ行ってもいい稼ぎになる」

 言って、ガハハと豪快に笑った。カルカは、見た目ではどこの出身なのかわからない。ヴィサリア人やアルマディア人にしては、肌の色が南海からやって来る商人たちに近い。だが、体格はアルマディア帝国北方の民のように、並外れて大柄である。人に訊かれても、海から来たとしか言わなかった。だが、間違いなく優秀な航海者だった。

「王子殿、もっとセルタナに商品を出すよう言ってもらえないか。それか、奴らが求めるものを聞き出してくれりゃ、いくらでも用意するぜ」

 ヴィサリアには何物にも代えがたい商品があった。それが、国境の西に接するセルタナの森の産物だった。森と言っても、ヴィサリア全土の二倍ほどもある半島を丸々覆う大森林である。ランナフル―ヴィサリア―大森林を東から西へ貫く大河リーヴォの流れを、森の出口より僅か5サーフのみ遡り、セルタナはヴィサリアの交易所へ荷を運んでくる。それ以外に、セルタナたちとの交易はできない。ヴィサリアとの国境地帯以外、半島は海に囲まれているが、港どころか人が上陸できる場所のない、標高の高い絶壁が天険として侵入者を阻んでいる。

セルタナとは、大森林のみに存在する種族である。森で暮らすと言っても、未開の蛮族どころか、非常に高度な文明を築いている。見た目は人に近いが、人と比べると非常に長身で、また人間の魔法使いが極端に少ないのに比べ、種族のほとんどが魔法を扱えるという。生き物よりも精霊に近い、と祖父に聞いたことがある。その工芸や精錬の技は人間の技術とは異なり、何よりセルタナのつくったものには魔力が宿る。

 大陸南岸に位置するヴィサリアにおいては、アルマディア帝国と南海の彼方より来る商人たちとの中継を果たすという地理的要因に加え、世界で唯一セルタナの物産の流通を独占していることが起爆剤となり、物流の回流が発生していた。

「無理だな。おそらく、セルタナには森の外に本当に欲しいものなどない」

「じゃ、なんでヴィサリアとは交易してる?」

「知るか。祖父の受け売りだ。交易所で会っても、ほとんど何も話さない連中だしな」

「それはあんたが下手なだけさ。俺を一度連れて行ってくれりゃ、セルタナどもを口説いてやるぜ」

 レンドローサが、我慢できないという顔をしてカルカを睨んだ。

「条件がある。私を船に乗せることだ」

「前々から言ってたな、そういや。連中に会わせてくれるんならいいぜ」

「決まりだ」

 また、カルカがいかにも豪快に笑ったので、つられてエンリも笑った。レンドローサの溜め息が聞こえた。

無論冗談だと分かってカルカも言っている。王家によるセルタナ交易の独占を手放せるはずが無かった。そして、エンリがカルカの船に乗ることもまた、到底叶わいことである。それでも、遠い世界のことを語れることが、エンリには嬉しかった。

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