凄涼

 昼だった。俺はまだ5歳くらいで、友達と虫を捕まえたり木の棒を剣に見立てたりして戦っていた。そんなある日のことだ。俺がおやつを食べに家に戻ると…、父がうめいていた。唸っていた。段々と皮膚が毛深くなっていき、動物のような体勢になり、目は赤く染まり、父がおかしくなっていた。


「あなた!目を覚まして!」

「グルルルルッ…!」


 父が狼になってしまった。すぐに母親を振り解き、座っていたソファから降り、こちらを見つめた。ダラダラとよだれを垂らし、こちらを直視していた。あんなの、もう父さんではなかった。『何か』だ。

 母さんはまだ信じられないようで、ゆっくりと狼に近づいた。


「目を覚まして。ね?どうしてそんなことになっちゃったのよ…。ほら、明日はみんなで出かける日でしょ…?コウも怖がってるし…。元に戻って…。」


 ゆっくりと、深い愛情で抱き寄せた。初めて、母さんが泣いているところを見た。これは戻るんじゃないか。そう安心した矢先…狼がそんな期待を噛み切ってしまった。

 狼はその鋭い歯で母さんの腕に噛み付いた。


「うっ……!」


 母さんが苦しそうに顔を歪めた。自分の鼓動しか聞こえなくなった。狼が母さんを食っている。父さんが母さんを食っている。

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 もう狼しか見れずに、後ろのキッチンの流しに置いてあった包丁を手に取った。


「うああああ!!」


 力一杯、狼に刺した。狼は母さんを放して、倒れた。まだピクピクと動いている。まだ生きてる。とどめだ。とどめを刺さないと。

 一回だけ、商店街で見たことが合った。怪物がこうやって死んでいったのを。

 狼の硬い毛皮に触れて、目を閉じる。母さんも、何も言わなかった。


 ズプズプと父さんの中に入っていくような心地がした。最初は気持ち悪かったのが、段々と慣れてくる。そこで、宝石のようなものを見つけた。父さんの宝石は青くて、なんだかサファイアのようだった。それをどうしたらいいのか、頭では分からなかったけど、手はゆっくりとそれを握った。考える前に、体は動いていた。ただ綺麗だ。そう思って、握る力を強めていく。

 パリン。

 その割れる音と同時に、気づけば現実に戻っていた。

 狼はパタリと倒れて死んでいた。

 自分が、父さんを殺してしまった。


「あ…!あ…!」


 この手が信じられなくて、これは夢だ、と頭を殴った。でもここは現実。


「コウ…。大丈夫。大丈夫だから…!」


 腕から血を流している母さんが俺を抱きしめる。でもそれでも信じられなかった。信じたくなかった。

 声を上げて、家を飛び出した。母さんの腕とか、狼はどうしようとか、裸足だとか、全く考えられなかった。ただ走った。途中、友達や近所の人にすれ違っても無視して走り続けた。


 どのくらいの時間、どのくらいの距離走ったのだろう。気づけば夜になっていて、知らない道に来ていた。頭上には星々が瞬いていた。

 うずくまって、ただぼーっとした。俺がやってしまった。そうやって自分を責めた。でも、やらなければ母さんが食い殺されていた。仕方なかった。


「おーおーこんなところで何やってんだ〜?」


 見上げると、そこにはお兄さんが立っていた。俺が一度だけ見たことのある、怪物を殺した人だ。


「俺の名前はゲン。お前は?」

「コウ…。」

「コウ、話、聞かせてくれるか?」


 小さなチョコを渡されて、少し安心した。

 ゲンは缶コーヒーを飲みながら、丁寧に俺の話を聞いてくれた。俺も、チョコの甘さに安心して、洗いざらい話した。


「…すげえじゃん。母さん救ったんだろ?」

「でも、父さんは…。」

「…父さんも、救われたと思うぞ。自分の妻を殺さずに済んだんだからな。偉いな。ふたり救った。ヒーローじゃん。」

「……。」

「泣くなって〜。さ、今日は帰ろう。」

「…歩けない。」

「マジかよ〜。ほら。」


 ゲンにおぶられながら、夜の街を歩いた。家の場所を教えたら、また明日も会いに来てくれると言った。

 家に帰ると、誰もいなかった。すぐにゲンが母さんを見つけてきてくれた。母さんはとても感謝していた。


「また明日、コウ。」

「うん。」


 その後、段々と色々なことをゲンに教えてもらった。よく仕事も見せてもらった。友達より、ゲンといる時間の方が長くなった。母さんも何も言わなかった。

 8歳の頃、ゲンに部下にならないか誘われた。今働いているのは母さんだけだし、少しでも母さんに楽させてあげたくて、首を縦に振った。


 懐かしいなぁ。今思えば、ああやってゲンと会ったんだっけ。あの頃はゲンも俺も若かったな〜。

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