流れる水は
稲荷田
序:如月
2月も終わりに近づき、雪の心配も要らなくなった頃。夕焼けの差すダイニングでマグカップを手に、一人の女性が座っている。
「おじゃましているよ」
この家の主であるはずの両親よりも、彼女は勝手知れたように過ごしていた。その女性、
もとより家を空けがちな両親は、彼女も時折長く連絡がつかなくなることを知らない。彼女が何を生業にしているかも知らない。だが、俺は知ってる。
今回も、仕事に行くらしい。トレンチコートのポケットから覗く黒いグローブをつければ身支度を終えるといった様相であり、長いアッシュグレーの髪を、いつもの銀糸混じりの紐で、いつもより丁寧に結っている。
「これから1、2ヶ月開けるから。もし何かあったらいつも通りトベの方に行って」
「わかってます」
「あと今回は5月の頭に用事がある。4月の末__そうだな、4月の29までに私と連絡が取れなかったら、
__一つ、保険さ。
そういって、机の上にあった、手軽な大きさの紙袋を示した。中を覗くと包装された薄い箱が入っている。
「それを5月の4日に、私の姪っ子にあげたい。誕生日プレゼントなんだ。直接渡したいのは山々なんだけど、長引きそうな気がする。その時はここに連絡して。私の実家」
数字が並ぶ紙を差し出しながら、目を細めながら言う。慈しむようにも、億劫そうにも見える。
彼女から実家の話が出てくることは、出会ってこのかた十年近く、片手で足りる程度しかない。彼女の姉の葬儀ときでさえ及び腰だった。
正直、今回の話も行きたくないんじゃないか、そう思ってしまった。
「それじゃあ、お願いね」
「了解です」
「これから出るから。私のいない間無茶しないでね。あとすまないけど、これの片付けも任せたよ」
「洸さんも、お気をつけて。まだ寒いですから風邪ひかないように」
「大丈夫、どうせすぐに快適なところに着くから。それじゃあ」
洸さんは、かすかにコーヒーの匂いを纏い、出ていった。
机上には、空のマグカップと知らない相手への贈り物がある。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます