9章:最強の友達のつくりかた
愛と習慣は自分から近づいて変えてゆくものだ。実際に悠久の幸福を得るためには、自己からその本質を見つけ出さなければならない。とはいっても、もし個々が全て大切な物事を完璧に見極められるということは、まるで幻想である。――この長い生涯をどれだけ幸福に生きようと思っても全ては幻で不確かな妄想に過ぎない――それは、少し捻くれているだろうか?
■
雲の奥から夕日が覗こうとしている。それを眺めるうちに辺りが暗くなる。そうしていると、ふと自分が今何をしているのか分からなくなる。
そんな気持ちもちょっと楽しい。
夏祭りに行く人たちは、自分がこれからどうなるか知っているのだろうか。
花火を見て、夜空を感じて、それで何も残らないことを知って来ているのだろうか。僕も何回も来ているが、それでどうも起こらないことを知っている。友達と来たり、知人と来たりしても「ああ、またこの人たちと来たいなぁ」なんて思ったことがないのだ。
愛子さんとはどうだろうか。
誘った時、行ってもいいよ、と言ってくれた彼女は何を求めているんだろう。僕は、少し遠くから歩いてきている彼女の姿を視界に収めた。
僕はこれから、夏祭りが終わったあと、愛子さんとどうなっているんだろうかと心をほんのり躍らせた。
「
愛子さんは僕の隣で、周りを眺めながらそう言った。
「そうね…まぁ、どちらかというと」と僕は答えた。
「前来た時は、誰と来た?」
僕は少し考えて「……友達」と答えた。
愛子さんは「ふーん」と言った。
*
「夏って、暑くって少しきらい」愛子さんは手に持ったりんご飴を眺めながらそう言った。
「もう少ししたら涼しくなるよ」
「待てないわ。その時まで」
僕は足元をちょっと眺めてみる。蟻が居ないかさがしてみる。愛子さんの言葉を言ってみる。「待てないわ。その時まで」
「あっ」彼女は射的屋の前で足を止めた。「やる?」
肘を最大限机に密着させて、的を狙った。店主は笑いながら「当たるかな、当たるかな」と言う。僕は的に向かってできるだけの怨念を放った。「倒れろ、倒れろ」
「やったぁ!」二発外したあと、狙っていた小さな(見たことのない)人形を倒した。
それは頭がドロドロに溶けた飴玉みたいな顔をしていて、腰から足にかけて長いソックスを履いていた。マスコット総選挙で二票くらい入りそうな見た目をしていた。
「いる?」彼女は嬉しそうにそう言ってきた。「愛子さんが当てたから」僕は今日一番の笑顔でそう言った。
「そうね。その愛子さんってのやめない?」愛子さんはこちらを見ながら人形の手を引っ張ったり、握ったりした。「前も言ったと思うけど」
そういえば、言っていた気がする。「じゃあなんて言えばいい」彼女は少し黙って「
「じゃあ東雲さん」
「それならいいよ」それから「東雲さん」と笑顔で言った。
東雲さんと僕は花火がよく見える丘の上に登った。
そこは
「ここだったらよく見えそう」
彼女は木が埋め込まれて出来た階段を、一歩々々踏みしめて登っていった。
うっすらと夕焼けが張られた空と雲を眺めながら目の端でそれを僕は眺めた。
「あとちょっとで花火が上がるよ」
僕らは花火の位置を想像で決め、それが見える場所のベンチに座った。
多彩な火の花が舞うのを僕らは待った。
「ちょっと涼しくなってきたわ」
東雲さんは肩にかかった髪を揺らした。
「夜は花火が綺麗だし」と僕は言った。「涼しい方がいいよね」
僕はきめ細やかなベンチの木目に挟まった砂粒を指で取り除いた。彼女が口を開こうとすると同時に木の葉が僕と彼女の間に舞い降りた。
「…多崎くん」
彼女の声は空気より冷たかった。
「なに?」
「……大丈夫?」
彼女の目線は僕の方の、背後を見ているような気がした。その目は空の茜色と彼女の本来の冷たい目…蒼色の瞳。
暖かい反射と冷たい底を飲み込むような深淵。 僕を浅く軽蔑するような感触がした。
「止めてよ…それ」
彼女は戸惑った。「なにが?」僕はそれがひどく不愉快だった。
「そういう…目の色だよ」
彼女はたぶん、僕がこれからどうするかを何となく知っていたんだろう。
だからこんな目をしているのだ。だから、今日はこんなに空が暗いのだ。僕がどうしようと、勝手じゃないか?何でそんなに干渉してくるんだ?
「言いたいことははっきり言わないと伝わらないよ」
彼女は少し、こちらに寄ってきた。
「何でそうやって君は私から離れようとするの?」
「そんなことしてないよ」東雲さんの勘違いじゃないの?と言おうとしたけど、辞めた。それは余りに非常識だったからだ。
「じゃあ…なんで?」
「だから、何でもないったら」
段々と辺りは暗くなっていった。
僕らは何も喋らなかった。花火が上がるまでは、喋らないと決めていた。
彼女もそう思っていただろう。
下の方では、階段の上や木のそばに座り込み、花火を待つ人々が大勢居た。
僕はその間、ずっと花火が終わった後のことを考えていた。
東雲さんには、話さなければならない。
僕のことを。僕の、全てを話さなければ、彼女は僕を許さないだろうし、きっと話しても僕の自殺を絶対に阻止しようとするだろう。
だったら結局、何をしたって無駄なんじゃないだろうか。
でも、だからって
誰かに彼女を伝えなければ彼女の痕跡は息絶えてしまう。
…東雲さんは、どれくらい生きるだろうか。
「ねぇ」
僕は顔を上げた。花火はまだ上がってなかった。僕は彼女の方を向いた。
すると、彼女は僕に口づけをした。
湿ったピンク色の物体が僕の渇いた唇に、ぶつかった。僕が何をされているのか気づいた途端、舌と舌の先が擦れ合った。
そこで僕は彼女から離れた。
反射的に彼女の肩を強く触った。僕の手汗が彼女の白いTシャツに染みついた。
「……な、何?」僕は喉に髪の毛が絡みついたような声を出した。
「フフフ…あははっ。アハハハ!」彼女は、肩を震わせながら涙を浮かべ笑った。
「え…なんで?何で今?」
「あはは、タイミングってそんな重要?」
彼女は背伸びをして、立ち上がり、小さな崖になっているからか設置されている木の柵に凭れかかった。
「私は別にいつだってしたいの。多崎くんに決められるのも、状況に急かされるのもまっぴらごめん。私はしたい時にしたいことをしたいの」
彼女の頬は、気の所為じゃなければ、汗で紅く光っていた。
「私は、そうやって生きることにしたの」
僕はなんだか可笑しくなって、笑いながら立ち上がって彼女の横に立った。そして下を見下ろした。
思っていたよりも、人は少なかった。
静寂があった。変な話だけれど、その瞬間ようやく「自分のことを好きな人間が隣に居るのだ」と理解した。
「君も…多崎くんもしたいことをしたら良いと思うよ。でも…なんで自殺なんてしたいの?」
彼女の声より、僕の体内に響く心臓の鼓動が僕を支配していた。中心から熱い血液が流れて来るとともに、夜風でぬるくなっていた皮膚を薄氷のように砕くような感覚があった。
それと同時に、排水口の生温いドロっとした液体のようなものが滲み出てきていた。
「……別にそれが目的じゃないんだ」
「え?」
彼女の方を向いた。その瞬間に吹いた風によって前髪が流れてゆき、その隙間からやわらかい透明な眼球が覗いてきていた。
「死にたいわけじゃないんだよ」ヒュウウウと空気が裂く音がした。 「死にたくて、自殺したくて、毎日生きているわけ無いじゃないか」
僕の
黄色の明かりが空に球形を描いて、僕と、彼女の顔に光と影をつくった。
彼女は少しの間押し黙って、
ピンク色の口元は徐々に震えていった。言葉の一つ一つを噛み締めているようだった。
「東雲さん…僕は」すると、彼女は僕の言葉を遮って「聴きたくない。ちょっと待って…ごめん」
花火は鳴りつづけている。
連続して閃光を散らす花火や大きな音と光で空を照らす花火が連続して上がっている。
「多崎くんも…そうなの?」
「え?」
彼女は自身の頭を整理するように叩いた。巻いた髪に拳がぶつかって、ぽんと云った音が響く。
「多崎くんも、何か、とんでもないことを…人に言えずに黙っていた後悔があったの?」
それを聴いて、一瞬早川のことが頭によぎった。でもすぐにそれは消えた。やっぱり、駄目だった。彼女のことを誰にも知らせたくなかった。
僕だけが知っていたかったのだ。
「なんでもないよ」僕がそう言うと、東雲さんは顔を落とした。ちょっとの間黙ると、彼女は木の手すりを思いっきり蹴った。
「ふざけないでよ!」
彼女の声は花火の合間の沈黙を、窓ガラスを割ったように音と反響が崩れさり、怒りと哀しみが混じった音で埋めた。
「何であんたは、そうやって、全部を自分に隠しつづけるの!」
「…僕は」
「私のことなんて、ただの舞台装置くらいにしか思ってないんでしょ?多崎くんの想定していた人間じゃなかったから、どう離れてもらおうか考えてるだけなんでしょ?」
いつの間にか彼女の瞳は濡れていた。
「最初っから、私になんて興味なかったんでしょ!ちょっと他の人と比べて暇そうだっただから誘っただけなんでしょ?」
「…何に?」
「あなたの、筋書きに」
綺麗な透明な水分が眼窩から頬にたれていくのを見た。
「そんなことないよ…僕は」
「何も考えてないっていいたいの?」
僕が黙ると、余計に彼女は悲しそうな顔をした。
「もう…うんざり。せっかく好きな人が出来たのに、せっかく私の人生にも…なにか意味があると、思ったのに。ねえ、多崎くん。あなたは今何を考えているの?私には全く分からない。どうして、そんなに苦しそうな顔をしているの。全部…全部話してほしいの。何だっていいから、あなたの言葉が聞きたい」
僕は考えた。
立派な常套句を考えた。もともと用意しておいたものだ。彼女をこれ以上悲しませない為のものだ。
だけど、やっぱり辞めた。普通に本音を話すことにした。もう、疲れた。僕はもう考えることも、死ぬことも、生きることもどうでも良かった。
ただ、彼女だけを見ていた。
「東雲さん。僕は、ずっと求めていたんだ。漠然と渇きだけがあった。毎日生きることに飽きてしまった。僕が中2の頃、友達が自殺したんだ。名前は早川。下の名前は忘れたな…ふつうの女の子みたいな名前だった気がする」
僕は花火が丁度終わったタイミングで、ふらふらと木の柵から離れて、ベンチに座り込んだ。
彼女は黙って僕を見つめてきていた。
「彼女はクラスで嫌われていた…いや、嫌われてすらいなかったのかもしれない。居ないものと扱われていたんだ。それこそ、置物みたいに。僕は、それがなんだか放っておけなくて、毎日挨拶することにしたんだ。そしたら、段々と仲良くなって、友人みたいな関係になった。特に休日二人でどこかへ行く関係でもなかったんだけど、学校へは彼女に会いに行ってた。友達も、2年の時はクラスがバラバラで、彼女以外に親しい人が居なかったんだ」
「……恋人関係だったの?」
彼女が急に話しかけてきた。声は幾分穏やかになっていた。
「別にそういう関係じゃなかったよ。時々話したり、放課後ちょっと寄り道しながら一緒に帰ったり…うん、本当に友人みたいな関係だった」
そう言うと、彼女はこちらに向かってきて、僕の隣に座った。心なしか、さっきより近づいてきていた。
「…3月だったかな。彼女が僕の家に来たんだ。春休みだったから、久しぶりに彼女に会って嬉しかったんだけど…彼女、裸足だったんだ。僕が何で裸足なの?って訊くと、こう言ったんだ。死にに行くんだ一緒に行かない?…笑顔だった。その時の顔は、今でも覚えてる。どこまでも孤独で、疲れ果てて、希望も救いも求めていなかった。ただ淡々と…親に言われてゲームを辞める子供みたいに、"早く辞めないと"って気持ちが顔に溢れていた」
僕がここで少し話すのをやめると、隣で東雲さんがバッグの中からペットボトルの水を取り出して、僕に渡してきた。凍らされていたのか、キンキンに冷たい水が喉に通って、火照った顔を冷やした。
「じゃあ本当にその子…」
「うん、自殺しちゃったんだ。僕の目の前で…廃ビルから飛び降りる早川を、僕は止められなかった。どうやって止めたらいいか判らなかった。ついぞ今に至るまで判らなかった…」
僕がそう言うと、彼女はもう一本ペットボトルを取り出して、それを飲んだ。
「…だから多崎くんも自殺したいの?」
彼女は顔についていた涙を手で拭った。
「僕がなんでしたいかって言うと、自分が大嫌いだからなんだ。ずっと、中2の時から、ずっと僕は僕が嫌いだった。死んだら良いと思っていた。でも、世の中にはもっと多くの自殺者が居て、その人たちと同じ道を歩むのは失礼だと思ったんだ。不思議な話だけれど、死んだら自分が何処へ行くか、明確に判ってるんだ。僕は死んだら、地獄へ征く」
彼女は又、くちびるを怒りで震わせた。
「そこが全然、全く、これっぽっちも理解出来ないのよね。どうしてそうやって、自分を卑下しつづけているの?」
「僕が屑だからだ」
「あなたは、全然屑なんかじゃない」
彼女は僕に近寄った。それと同時に、花火の第2陣が始まった。
「あなたは、優しい人よ。他人に思いやれる人だわ。きっと今は、散々人のために生きてきたから、疲れてるだけなのよ。自殺なんてくだらない。いつでも出来ることじゃないの。あなたのやっていることは…今しか出来ないわ、そうよ、この瞬間にしか存在し得ないものだわ」
「そんなものは
「それこそ、あなたの妄想よ!早川さんも、きっとあなたよりあなたのことを知っている。私もそう、多崎くんがどんな人間か、どんな優しさと強さを持っているか、知っている。それは、多崎くんだけが知らないんだわ!」
「人は孤独だ!他人の世界は他人のものだ!東雲さんから見た僕は、東雲さんの中にしか存在していない。僕が本当に僕である瞬間は、僕自身が存在しているときだけだ!」
彼女と僕は立ち上がった。
疲れてるはずなのに、もう話したくもないのに、何故だが止まらなかった。停滞なんて存在しなかった。
「大体、あなたは勝手すぎるのよ!いろんな人に関わるくせに、あなた自身は、ずっと孤独を感じたまま。人に囲まれて暮らしていても、勝手にあなたはあなたをひとりだと思っている。それだから、自殺なんてくだらない事、真剣に悩んじゃうのよ!堀田さんに何を言われたか知らないけど、あんまり自分の人生を横暴に扱うものじゃないわ」
「堀田さんは関係ないだろ!」
「あるわよ!」
「彼には、夏祭りのこととか…そういう、直近の予定なんかを話してただけだよ!別に自殺のことを堀田さんに打ち明けたわけじゃない!大体、一回二階から飛び降りた人に、そんなことを話せる訳ないでしょ」
「嘘ね。直接的に話してはいないかもしれないけど、絶対堀田さんは判ってるわよ。多崎くんが、自分と似たような悩みを持っているって」
「自分と似たような悩み?堀田さんが自殺未遂をしたのは、母親のせいだ。彼のは、家庭環境の問題だよ。僕とは似ても似つかない」
「本質的な話よ。彼もあなたと同じように、何かから逃れようとしたのよ。将来の不安…過去の失敗…未来への絶望…そういった自己嫌悪の精神が、自殺を自殺たらしめるんだわ。問題が環境にだけあるのだったら、自殺なんてしないわよ」
「僕の問題は、僕にしかない」
「いいえ、あなたの問題はあなただけのものじゃない」
花火はいつの間にか終わっていた。
夜空には真っ黒な空と白い雲、花火の硝煙だけがあった。
僕はいつの間にか、空を見上げながら、無意識のうちに彼女の手を握っていた。熱のせいで彼女の手には彼女の嫌いな夏の感触があった。
「ねぇ」
彼女から話し掛けた。僕は横を向いた。
「死んだら何処へ征くと思う?」
僕は笑った。「さっきも言ったよ」 「地獄だって」
東雲さんは強く僕の手を握り返した。彼女の小さな指が、僕のこれ又小さな手を潰そうとするかのように力を込めた。
「痛い痛い」
彼女はこちらを向いた。 「どうしてわざわざ地獄へ征くために、自殺なんてするのよ」そういった後に「無意味じゃない」と続いた。
「だってこの世は大地獄だもの」
彼は諦めたかのように、笑った。
「私からすれば死ぬことの方が大地獄だわ」
*
次の日の朝、僕は目覚めて最初に何処だここ?と思った。
部屋の四隅に幼い頃の東雲さんの写真が飾られており、一つだけトイプードルのカレンダーが混じっていた。
起き上がってみると、さっきまで体に覆いかぶさっていた毛布も自分のものではなかった。
薄いタオルのような布団だった。綿の抜けたぬいぐるみの外側を伸ばしたかのような感触がした。その毛布を剥いでみると、東雲さんが丸まって寝ていた。
彼女は服を着ていなかった。
驚いてベッドから離れようとすると、毛布が指先に絡みついてはなれなかった。
つま先から膝が靄がかかって見えた。頭痛がして立ち上がれなかった。諦めてベッドに座ると、彼女は起き上がってきて、僕を見て笑顔になった。
夢から覚めるとまず自分の体に巻き付いていた厚い毛布を蹴飛ばした。
出すつもりのないため息が口から漏れ出てしまいそれに対してため息が再度出た。
恥ずかしい夢…。僕は起き上がりカーテンを開けた。
「何やってるの?」
後ろから声がしたので振り向くと、そちらには東雲さんが立っていた。
「そっちこそ…なんで僕の家に居るの」
「あなたが泊まれって言ったんじゃないの」
僕は必死に昨日の記憶を思い出した。そうだ。今日は母親が里帰りしているのだ。
僕が入院したのとほぼ同時に、母方の祖母が持病を悪化させて入院したのだ。母は心配そうにしていたが、僕が「行ったら?」と言うと「息子に心配させるほどのことじゃない」と返してきた。
結局、夏祭りの日に僕が退院したのを見届けるとすぐに車を飛ばして実家に向かった。それを利用して、家に東雲さんを連れ込んだのだ。
「朝ごはん作ったけど…食べる?」
「ありがとう、いただくよ」
階段を降りながら、僕はスマホで母親とのLINEを確認した。昨日の夜から数件ほど来ており、内容は「問題なさそう」「2日3日世話をしたら帰る」というものだった。
顔を洗って、髪をとかすとリビングから声がした。行くと、東雲さんがパンを焼いて目玉焼きを乗せたものをテーブルの上に置いていた。
いただきます、をして僕らは無言で朝食を食べた。目玉焼きに醤油をかけながら、何故か愛子さんとしゃべり始めた当初を思い出した。
「朝はパン派だったね」
僕が言うと、彼女は数秒考えて、ニヤリとした。
「よく覚えてたね。そんなこと」
そこからは話しながら朝ごはんを楽しんだ。昔のことや、昨日話したことを笑いながら喋った。
ごちそうさま、をして僕らは食器を流しに片付けた。家でちゃんと朝食をとったのは久々だった。
彼女は退屈そうに珈琲を嗜みながら外を眺めた。僕もそういう気分だったので、コースターの上にマグカップを置いて湯を沸かした。
「ねぇ多崎くん」と彼女は背を向けながら話しかけた。
「どう、最近楽しい?」
「うん、まぁね」
夏の朝は涼しくて好きだ。夏自体にあまりいい思い出はないけれど、こういうふとした時に夏の良さを感じる。
「ねぇ多崎くん」
彼女は又同じ言葉をかけた。
「ん?」
「将来、結婚しない?」
お湯が沸いた。ボコボコという音が朝の光と共にリビングに充満した。
「東雲さん」
「ん?」
「同じこと思ってた」
珈琲の泡が世界地図のようにまばらに水面上で飽和する。
この日、僕らは初めて恋人になった。
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