第45話 旅の終わり

 海月の触手を辿り、傘の横を通り過ぎ、僕と綾見はひたすら海面だろう方角に泳いだ。出発地点がどこだったなんで分からないほど遠くに来てしまった。だけど僕も綾見も大して心配はしていなかった。この世界に飛び込む瞬間、見渡す限りの海面が輝いていた。つまり、海の全てが入口であり出口のはずだ。

「あ」

 僕と綾見が同時に声を上げた。天井が揺らいでいる、僕らの海に通じる境界線に違いない。

「今更だけど、綾見は泳げる?」

「泳げるけど、真夜中の海、おまけに服も着てるから正直自信ない」

 僕も綾見と同じ思いだった。この世界で遥か遠くまで移動しているということは、僕たちの世界でも岸からもだいぶ離れている可能性がある。だからといって勘を頼りに無暗に動いてさらに岸から離れてしまったらどうしようもない。迷った末に僕らはこのまま海面に出ることを決めた。せっかく仕事が上手くいったというのに、帰り道で溺れましたじゃあ洒落にならない。

「とりあえず僕が先に戻って様子をみるよ」

 そう言うと、綾見がジト目で僕を睨む。

「もう忘れたの? 自分だけ格好つけるの禁止」

「今回ばかりはそうも言っていられないだろ?」

「仮に二見くんが先に様子を見るため境界線を抜けたとして、私がいるこの場所に戻れる保証なんてあるの?」

 指摘されると確かにそうだ。

「……ないです」

「でしょ? だったら一緒に戻る。ここまで来たら一蓮托生なんだから」

「綾見の方が肝が据わってるよね」

「今更気付いたの?」

 綾見がふふんと笑う。強がりに違いないが、僕の弱気を押さえつけるには十分すぎる効果があった。

「せーので行くぞ」

 海面が近い。

 横を泳ぐ綾見と目で合図する。せーのっ!

 いきなりずぶ濡れになり一瞬混乱したが、すぐに正気を取り戻して周囲を確認する。綾見がいる、ひとまず安心。次は場所だ。ここ、どこだ? 水滴で眼鏡の視界は最悪だが、大桟橋が見えた。良かった、それほど離れていない。これならたぶん泳ぎきれる。再度綾見を確認すると、彼女も安堵の表情を浮かべている。大丈夫みたいだ。

「あ」

 そんな綾見の表情が驚きに変わった。視線の先は大桟橋。僕が身体の向きを変えたその瞬間、マリアさんが海に向かってジャンプ――水柱があがった。境界線がつながる一分が今経過したんだ。マリアさんはあと一歩間に合わなかったのだ。 

 慌ててマリアさんを目指して泳ぎ大声で呼び掛ける。

「二見くん!? 恭子ちゃん!?」

 呼びかけに気付いたマリアさんが僕らの元にもの凄いスピードで泳いでくる。

「二人とも無事なの!?」

「無事です。依頼品も無事に届けました」

「偉い!」

 マリアさんに抱きしめられても柔らかい感覚を堪能する余裕はあるはずもなく、溺れまいと必死で水を掻く。

「ちょっと! 溺れますって!」

「ごめんね、間に合わなくってごめんなさい。大変だったでしょう? でも本当に良かった。二人に身に何かあったらどうしようって心臓止まるかと思ったわ。私には一瞬だけど、あなたたちはどのくらいあの世界で時間を過ごしたの? 不安で心細かったでしょうに」

 マリアさんはお構いなしに僕に抱き着く。海上でなければそれはもう素敵なご褒美なのだろうけど、今の僕にとっては脳裏に死がちらつく。

「マリアさん、ひとまず海から出てからにしましょう」

 綾見の夜の海よりも冷めた声に我に返ったマリアさんは「ごめんなさい、ちょっと狼狽したわ」と恥ずかしそうにようやく胸に沈めた僕を解放してくれた。

「どこから上がりましょう?」

 僕らが飛び込んだ大桟橋のエプロンは海面から見ると数メートルの高さに位置しており、よじ登るのは無理そうだ。

「そうね……警備員がいつ目覚めるか分からないし、できれば少し離れた場所から上がりたいところね」

 さらりと言った警備員二人を気絶させたことには触れないでおこう。

「体力的に早く上がりたいのが本音なんですけど……」

 僕と綾見の心から出た本音だ。身体が重い、長くは保たない気がする。

「そうね……」

 マリアさんが真剣な表情で思案していると、突然僕らに光線が当てられた。眩しさと警備に見つかったとの思いから咄嗟に顔を隠すと、聞き慣れた声が耳に入ってきた。

「これが本当の助け船ってやつだ」

 まだ怪我が癒えていないというのに、どこから手に入れたのか、小舟に乗った匠さんは「まだまだ俺の力が必要なようだ」と満足そうに僕らを引き上げてくれた。寒さに震え、全身濡れネズミという格好良い終わり方とは決して言えないけど、僕と綾見、新人だけの彼方への旅はこうして幕を閉じた。

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