■3■ 叙任式
騎士になるための叙任式が翌日に迫った夜。薄暗い礼拝堂の中を、月の光がぼんやりと照らす。ルシアとリムネッタは祭壇の前に立ち、それぞれが持っていた剣を祭壇に祭る。そして、身を清めるために二人で奥の小さな沐浴場に向かった。
「ルシア……」
リムネッタがルシアの手を握る。
「行こう」
ルシアはそう言うと、繋がれた手をぎゅっと握り返した。部屋の中に入り、服を脱ぐと、丁寧に畳んで入り口の籠に入れる。天井に近い窓からは、月の光が浴室の中を青白く照らしていた。
「私が先に入るね」
ルシアがゆっくりと右足のつま先から膝までを浴槽の水に浸していく。ひんやりとした水がルシアの足を伝い、思考も落ち着いた。右足が慣れると、左足もゆっくりと浸していく。浴槽の底に足をつけると、膝より少し上まで水に覆われた。ルシアはそのまま狭い浴槽の中を一歩だけ前へ進む。
「さ、リムネッタ……」
ルシアが手を差し伸べると、リムネッタは割れ物に触れるようにそっとルシアの手をとる。
「ありがとう、ルシア」
リムネッタはゆっくりと足を水に浸していき、半歩分だけルシアに近づく。
「わたし達、明日から、もう騎士なんだよね……」
「うん」
ルシアは頷いてリムネッタの瞳を見る。リムネッタも正面からルシアを見つめる。
「ルシアと出会ってから、本当に、いろいろあったよね」
「うん。あの像の下で出会って、毎日遊んで、騎士になるための訓練もして……そして今、こうして騎士になろうとしてる」
ルシアの脳裏に、今までの出来事が次々と浮かんでくる。楽しかったことも、辛かったことも、嬉しかったことも、大変だったことも。全部、リムネッタがいたからこそ、支え合いながら乗り越えてこられた。
「ここまで頑張れたのは、リムネッタのお陰だよ。ありがとう」
青白い光に照らされたリムネッタの肌は、とても綺麗で神秘的だった。
「ルシア……わたしも、ありがとう」
そこは、世界から切り離された二人だけの空間だった。仄かな月光が二人を包む、静かで沈んだ世界だった。
「ねぇ、リムネッタ。私達、騎士になったら、きっと戦争の最前線で敵と戦うことになると思う」
「うん、そうだね」
「戦争で人を殺してしまうことだって、あるかもしれない……」
「……うん」
ルシアの言葉を、リムネッタはしっかり受け止め、短く頷いて返す。
「剣術だったら、リムネッタ以外の誰にも負ける気はしないよ。それくらい頑張ってきたつもり。でも……」
「でも?」
リムネッタは優しく聞き返す。ルシアはリムネッタから視線を逸らした。
「もし戦争になった時……その時、私は相手の兵を傷つけてもいいのかなって、ふと迷ってしまって……」
「ルシア……」
「無理やり戦争に駆り出されてる人もいるだろうし、その人にも家族や大切に思う人だっていると思うし……」
それまでルシアは一度だって弱音を吐くことはなかった。いつも前しか見てなくて、誰よりもまっすぐな目で前へ前へと進んでいく、そんな子だった。
「ルシアは、優しいね」
リムネッタはルシアの頬に手を当て、ルシアと正面から向き合う。
「リムネッタ……」
「ルシアはとても優しい子……そして素直でまっすぐで、何にでも前向きな子」
「そんなこと……」
「あるよ」
ルシアが謙遜の言葉を言いかけたのを、リムネッタはルシアの唇に人差し指を当てて遮る。そのまま、リムネッタは言葉を続けた。
「確かに、戦争相手の兵士にも家族はいるだろうし、好きで戦ってるわけではない人もいる……その通りだと思う」
リムネッタは人差し指をルシアの唇からそっと離すと、静かに目を閉じた。
「人同士が傷つけ合うこと……何が正しくて、何が間違っているのか……何が正義で、何が悪なのか……この先、迷ってしまうことはたくさんあると思う」
ルシアはリムネッタの言葉に耳を傾ける。リムネッタは目を開けると、ルシアを正面から見つめた。
「でもね、ルシア……今はまだ、迷ってもいいんじゃないかな」
「それって……?」
ルシアの表情に疑問の色が浮かぶ。そんなルシアを見て、リムネッタは優しく微笑みかけた。
「守りたい物、大切にしたい気持ち……たくさん考えて、たくさん悩んで、たくさん迷った中で、それでも浮かび上がってきた考えは、きっとルシアの信念になる」
「私の、信念……」
リムネッタはルシアの胸の真ん中に、そっと指を当てる。
「そう。その信念は、いつか覚悟になる。覚悟が決まれば、行動することができる。行動して間違ってしまったと思ったら、また迷ってもいい」
「……」
ルシアはリムネッタを見つめたまま、静かにその言葉に耳を傾けていた。
「そうして人は悩み迷いながら成長していくんだよ……って、これはじいやの受け売りなんだけどね」
そう言ってリムネッタはクスッと笑った。じいや──リムネッタの家の執事だ。
「わたしも、いつも迷ってばかりだし……」
「リムネッタも、迷うことあるの?」
ルシアは意外そうな表情でリムネッタを見る。
「わたしだって、迷うことくらいあるよ」
「そうなんだ。リムネッタは生まれも育ちも恵まれてるし、悩みや迷いなんて全然ないと思ってた」
「そうだね……ルシアに話したことは無かったかも知れないね」
リムネッタは穏やかな表情で言った。
「ちなみに、リムネッタの迷いって、どんな迷いなの?」
「それは……ルシアと同じだよ」
「私と、同じ?」
「そう……戦争が怖い。誰かと戦わないといけなくなるのが怖い。誰かを傷つけるのも怖いし、自分が死ぬのも怖い。でも、それ以上に……」
そこでリムネッタの言葉が止まる。神妙な面持ちでリムネッタは少し目を伏せた。
「リムネッタ?」
ルシアはリムネッタの顔を覗き込む。
「それ以上に、ルシアが死んでしまうかも知れないと考えると、それが、一番怖い……」
リムネッタは切実な表情で、心の奥底にある気持ちを吐露する。
「リムネッタ……」
いつからリムネッタはそんな不安を抱いていたのか。不安を打ち明けたルシアを励まし、諭し、導いたリムネッタが、不意に見せた心の奥底。きっと昨日今日に抱いた考えではない。何ヶ月も前から──もしかしたら何年も前、騎士を目指すと約束したその日から抱いていた不安だったのかも知れない。
「ご、ごめんね! 明日から騎士になれるおめでたい日なのに、こんな後ろ向きなこと言っちゃダメだよね!」
顔を上げたリムネッタは取り繕うように笑顔を見せたが、その目尻にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「構わないよ」
そう言うと、ルシアはリムネッタの涙を親指で拭う。
「私は、死なない」
ルシアはリムネッタを正面から見つめて言った。
「私は、リムネッタのために、絶対に死なない。リムネッタも、死なせない。リムネッタがピンチになったら、私が絶対、リムネッタを助けに行くから」
「ルシア……」
「ありがとう、リムネッタ。私、自分が何を大切にしたいのか、少し見えてきた気がするよ」
「うふふ、こちらこそありがとう。わたしも、あんまりルシアに心配かけないように、もっともっと強くならなきゃね」
「うん、一緒に頑張ろうね」
ルシアが言うと、リムネッタはルシアの肩に手を回して抱きついた。ルシアもリムネッタの背中に手を回し、優しく、でも強くしっかりと抱き締めた。
それは二人のためだけに用意された時間だった。時には支えて、時には支えられて……そんな二人だけの空間。これから騎士になるにあたっての、大切な区切り。天が、地が、光が、風が、水が、二人を包み込む森羅万象が、二人を祝福する特別な儀式。その光り輝くようなまどろみの世界に、二人はしばらく身を委ねていた。
……
…
月光差し込む礼拝堂に戻ってきたルシアとリムネッタは、華美な装飾の施された儀式用の騎士装備に身を包んでいた。
「……」
「……」
祭壇に置かれた二本の剣。ルシアもリムネッタも、黙って膝をついて指を組み、祈りを捧げる。静かに耳を澄まし、目を閉じて、じっと祈りを捧げる。静かな夜だった。永遠とも思える時間だけが、少しずつ過ぎていく。
長い長い夜が明け、ようやく礼拝堂に朝日が差し込む頃。礼拝堂の扉がゆっくりと開き、司祭服に身を包んだ女が姿を現した。その場でしばらく時間を置いてから、静かにゆっくりした足取りで、祭壇の前まで移動していく。
「汝、ルシア・イルバスター」
「はい」
ルシアは祈りのポーズをとったまま、目を開いて司祭を見上げる。
「汝、リムネッタ・フォン・スタンドーラ」
「はい」
リムネッタも同じく目を開け、司祭を見上げる。
「神々の恩恵を受けし此の剣が、国を守れるように」
司祭が二本の剣を一つずつ丁寧に鞘に収めていく。
「神々の加護を賜りし此の者達が、民を護れるように」
司祭は一本の剣を手にすると、ゆっくりとルシアの前に移動する。
「此の剣を、騎士ルシアへ」
ことり、とルシアの前に剣が置かれる。そしてゆっくりと祭壇へと戻ると、もう一本の剣を手にしてリムネッタの前へ移動する。
「此の剣を、騎士リムネッタへ」
リムネッタの前に剣を置くと、司祭は再び祭壇へ戻っていく。
「ルシア、リムネッタ、両名を騎士に任命する」
ルシアとリムネッタは、再び目を閉じて祈りを捧げる。今、この時、二人揃って騎士になれた瞬間だった──
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